
『俺たちに明日はない』
”Bonnie and Cryde”
監督:アーサー・ペン
脚本:デヴィッド・ニューマン、ロバート・ベントン
1967年・米
いやはや、映画の話をする前に、今夜は紹興酒を一人あたり2本くらい飲まされ、俺自身に明日がない感じだった。
出向した部長たちと、10人くらいで汐留で飲んでたはずなんだけど、20本目の紹興酒をあけたところで意識が薄らぎ、気づいたら東京の端のほうの知らない街に一人でいて、シュトラスというバーのカウンターで飲んでいた。
途中で買ったと思われる、ウェルチの生絞りジュース(1リットルサイズ)を持参してカウンターにどかんと置いてクピクピやっていて、お店の人に笑いながら、
「お客さん、ウェルチはちょっと」
みたいな事を言われてるんだけど、
「いや、これ、アレです。100%のほうです」
みたいな、なにが「100%のほう」だか、会話にならない返事をしていて、最終的にお店の人も、もう、この人はウェルチだからしょうがない、みたいになってきたところで次第に意識がハッキリしてきて、急に
「ここ、どこですか?」
と聞いたので、回りの客たちは完全に俺がふざけていると思って、相当ウケていた。
ウケをとってしまったことで、俺も、本当にここがドコだか知りたいという素振りを見せられなくなり
「どこなんだ、マジで・・・」
という不安に苛まれながら、しばらく、面白い人の体で初対面の若者たちと飲むという、ツライ時間が続いたのだった。
結局、奇跡的に電車やらバスやらある時間であり、45分くらいかければ家に帰れる場所だということが判明し、こうして無事に、古い映画なんか観ているのだが、紹興酒を飲みすぎると、そのうち俺自身に明日がなくなるという事を思い知った一夜だった。
(ウェルチは途中で飲み干した)
で、急に映画の話になるんだけど、結局、若者たちはいつだって退屈している。
あくまで、その退屈さが原点であり、この映画の良いところは、ボニー&クライドに特別な動機づけ(父親を警官に殺されたとか)をしていないところだろう。
それは実在するボニー&クライドがそうだったからだろうが、脚本を書いたニューマンとベントンの、エスクァイヤの編集者上がりという来歴によるところも、大きいだろう。持ち前のセンスとして。
アメリカン・ニューシネマの先駆けとして、あの衝撃のラストシーンや、銀行員射殺の描写、そしてクライドのインポテンツなど、当時としては画期的な仕掛けが各種ある訳だが、個人的にはこの、「理由なき衝動」という部分が、もっとも新しかったんじゃないかと想像する。
そして、主演のウェーレン・ビーティーとフェイ・ダナウェイの、観客のほぼ全員に破滅を予測させながらも、分かってても最後まで見せてしまう魅力。
既にスターだったビーティーはともかく、この映画で成り上がったフェイ・ダナウェイの、あの一種の安っぽさは、ボニーという女をそう解釈して演じたのか、フェイ・ダナウェイが元々そういう女なのか、とにかくこちらを完全に手玉に取る。
あと、アカデミー助演女優賞を獲るだけあって、クライドの兄バックの妻役エステル・パーソンズの、鬱陶しい女っぷりは物凄く、ボニー&クライドのみならず、観ている観客までイライラさせる点で、傑出した演技と言えよう。
これを見た印象は、子供のころ、『イージー・ライダー』を観たとき同様、
「保守的な人たちを本気で怒らせたら、ダメ。ゼッタイ」
というもので、その感覚は一種の警告のように俺の体内に刻まれている。
■所謂、アメリカン・ニューシネマ
・『卒業』(The Graduate/1967)
・『俺たちに明日はない』(Bonnie And Cryde/1967)
・『ワイルドバンチ』(The Wild Bunch/1968)
・『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and Sundance Kid/1969)
・『ダーティーハリー』(Diry Harry/1971)
・『ロング・グッドバイ』(The Long Goodbye/1973)
名作揃いだけど、まあ、本当に一番すごいのはダーティーハリーかも。
個の無常観というアメリカン・ニューシネマの定義から言っても。
いや、ホント。