『夜間飛行』

また靴を履いて出かけるのは何故だろう
未開の地なんて、もう何処にもないのに

『リトル・シスター』 レイモンド・チャンドラー

2011-06-12 | Books(本):愛すべき活字

『リトル・シスター』
レイモンド・チャンドラー(米:1888-1959)
村上春樹訳
"The Little Sister" by Raymond Chandler (1949)
2010年・早川書房


++++

ドクター・ラガーディーはまた親指の血の玉を舐めた。


私はじっと彼を見ていた。

しかしどれだけ見ても、彼の正体は見抜けなかった。

物静かで、暗く、打ちのめされているように見えた。

人生のすべての悲惨さがその目に浮んでいた。

しかしそれでもなお物腰は穏やかだった。


「注射器の話しをしてもいいかな?」

と私は言った。


「もちろんかまわない」

と彼は言って、長くて細いナイフをまた取り上げた。


「それをやめてくれないか」

と私は鋭く言った。


「見ていると気持ちが悪くなる。

蛇を撫でるのをみているみたいだ」


彼はナイフをまたそっと下に置き、微笑んだ。

「話が堂々巡りになっているみたいだ」


++++


昨年12月、35年目突入記念「徹子の部屋 コンサート」が日本武道館で開催された。

今年TVでも放送されたので、勿論、国民のみなさん誰もがご覧になった事と思うが、

このとき、徹子の部屋コンサートの常連である三人娘(伊藤ゆかり、中尾ミエ、園まり)が出てきて、相変わらず「可愛いベイビー」を歌っていた。


歌が終わった途端、徹子は中尾ミエに対し、容赦なく

「『可愛いベイビー』1曲で50年って、どうなの~?」

と突っ込んでいた。

まあ、こんだけ付き合いが長いと、この辺のいじりはお約束なんだろう。


『可愛いベイビー』の原曲は、言うまでもなくコニー・フランシスが1961年にリリースした"Pretty Little Baby"だが、中尾ミエは翌62年にはさっそくこれをカバーし、レコードを100万枚売った。


よく聴くと、サビの

「可愛いベイビー、ハイハイ♪」

の部分は、はっきり言って、本家の

「プリリルベイビー♪」

より、音的にハマッている気がする。

訳詞というのも、意外と結構侮れないもんだね。



前置きが長くなったが(ほんとにな)、チャンドラーの"The Little Sister"である。

我々にとって、この小説は何年もの間、『かわいい女』(清水俊二訳)だった。


しかし、2010年12月、突如、書店に本書が平積みされた。

クリーム色した小憎いアイツ、村上春樹訳『リトル・シスター』だ。


中尾ミエの『可愛いベイビー』で原題の”リトル”がばっさりと切り落とされたのと同様、清水訳『かわいい女』では、原題の”シスター”がばっさり切り落とされていた訳だ。

リトル・シスターはもちろん、この物語のヒロイン、オーファメイ・クエストのこと。

清水さんも熟慮のうえ、こいつは「女」であって、「妹」なんかではない、という結論を下したのだろう。


しかし、今回、本書が『リトル・シスター』として出版された事で、何十年も放置されてきた「妹」という要素が、タイトルの上でも日の目を見たことになる。

この辺は村上さんも色々と考えたようで、訳者あとがきに詳しい。


ともかく、書店で本書を手にした時の感想は

「うわー、とうとう『かわいい女』まで来ちゃったよ・・・」という感じ。

俺と同様、多くのファンが唸ったはずだ。


要するに、村上春樹が訳したチャンドラー作品の前2作 『ロング・グッドバイ』 と 『さよなら、愛しいひと』 に比べると、本作は一段も二段もマイナーなのだ。

日本においては、早川と創元の差もあるかもしれんけど。

んー、まあ、この辺りは、オブ・ザ・イヤーでも書いた気がしてきたから、もういいか。


個人的に、今回の訳でもっとも印象的なのは、物語の後半、スティールグレイブ邸でロサンジェルス市警の警部補、クリスティー・フレンチが演説をぶつシーン。

物語の中では、たいして大事なシーンじゃないんだけど。

印象に残る。


フレンチは、自分たちの平穏な生活を掻き乱すフィリップ・マーロウのような輩に対する怒りと憎しみをとうとうと語って聞かせるのだが、それは自身の生活自体への憎悪でもある。

ここは凄みが効いていて、読んでいて、怖くなる。


まるまる1ページ続くフレンチの演説だが、実はここで、読者にとってそれまでさして重要性の無かったフレンチという男の人物像が、グッと立ち上がる。

チャンドラーの上手さは、マーロウの敵役である警官を、なんともリアルに描くことだろう。

それが結局、光と影のように対照的に、マーロウの生き様を浮き上がらせていく。


鬱積した怒りを滲ませながら語り続けるこの演説シーンは、まさに村上節(自身の長編でも毎回一箇所はこういうシーンが出てくる)炸裂と言っても良いのだが、実際はその逆で、むしろ若き日の村上春樹が、チャンドラーの小説から吸収したものだろう。


要するに、今回、村上春樹はただこの1ページが訳したくて、本書を選んだのではないだろうか。

まあ、そう断言しても、まったく言い過ぎではないだろう。 (←多分言いすぎです、先生)


■チャンドラー 自己中心派
(1)長編
『長いお別れ』 (1976年・ハヤカワ文庫)
『さらば愛しき女よ』 (1976年・ハヤカワ文庫) 
『湖中の女』 (1986年・ハヤカワ文庫) 
『高い窓』 (1988年・ハヤカワ文庫) 
『リトル・シスター』 (2010年・早川書房)  
(2)短篇
『ヌーン街で拾ったもの』 (1961年・ハヤカワミステリ) 
『赤い風』 (1963年・創元推理文庫) 
『チャンドラー短篇全集』 (2007年・ハヤカワ文庫) 
(3)トリビュート/アンソロジー
『プードル・スプリングス物語』 (1997年・ハヤカワ文庫)
『フィリップ・マーロウの事件』 (2007年・ハヤカワ文庫) 
(4)チャンドラー研究
『レイモンド・チャンドラー読本』 (1988年・早川書房)
(5)映画でチャンドラー
『三つ数えろ』 "The Big Sleep"(1946年) 
『ロング・グッドバイ』 "The Long Goodbye"(1973年) 
『さらば愛しき女よ』 "Farewell My Lovely"(1975年) 
(6)ドラマでチャンドラー
『ロング・グッドバイ』 (2013年・NHK・浅野忠信主演) 


<アマアマ>

リトル・シスター
Raymond Chandler,村上 春樹
早川書房
リトル・シスター (ハヤカワ・ミステリ文庫)
Raymond Chandler,村上 春樹
早川書房

 

 


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