誤報の号外が幕開けでした。新しい元号は光文―。1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の死去とともに次の元号を当時の東京日日新聞が公表しました。
「以後を改めて昭和元年と為(な)す」。詔書で公布された元年はわずか1週間で終わり、翌2年には関東大震災後の混乱が続くなかで金融恐慌が発生。不況とともに労働や小作争議が激発し、締めつけは厳しくなり軍部も増長。3年には関東軍による張作霖爆殺事件が起こります。
戦争による破滅へと突き進んでいった時代。石破首相は先の施政方針演説で今年は戦後80年、昭和の元号で100年に当たる節目だとして「これまでの日本の歩みを振り返り、これからの新しい日本を考える年」にしていくと述べました。
政府は内閣官房に「昭和100年」関連施策推進室を設置。これを契機に昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有することは世代を超えた理解・共感を生み、希望あふれる未来を切り開く機会になるとの考えを…。
今年は権力が法の暴力をほしいままにした治安維持法の制定から100年でもあります。侵略戦争と専制政治に抗した日本共産党をはじめ人権や生活向上を求めた人びとを徹底的に弾圧した希代の悪法は、戦争拡大と軌を一にしました。
国を滅ぼした反省もなく昭和に回帰する政府と、天皇支配を権威づけた戦前の「紀元節」を復活させようとする動き。戦後80年に顧みるべきは何なのか。「建国記念の日」、こうした策動を許さないたたかいを新たに。
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