つらつら日暮らし

叢林の水事情について

6月の和名「水無月」には、常に違和感がある。「水が無い」って、雨ばっかりですけど?という感じかな。なお、この辺は以前に【「水無月」一考(令和5年度版)】という記事で検討したので、興味のある方はご一読いただきたい。

さておき「水」に因んで、禅宗叢林の水事情を見ておきたい。現代では、たいがいどこでも水道が引かれているから、一般的な家庭と同じ状況になるのだが、その前はどうであったのか?例えば、「水」について役職があった。

水頭 水頭は、暁き焼湯せぬ寺は、井華を汲て、日日大衆の使用闕乏無きを要とす、類盥には公界の手巾面盆を照管す、開浴日は浴主と和会し、汲水焼湯して、末後に浴主と入浴す、
    面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻5「列職」項


要するに、水を確保する役目だったのが「水頭(すいじゅう)」である。井華とは、丑寅の時刻に汲む井戸水のことで、一日の内で最も清冷とされる。つまり、水頭は毎日、夜中に水を汲む役目だったのである。「焼湯」とは湯を沸かすことで、本来はこの湯を使いながら、洗面などを行った。なお、道元禅師の時代にも、水頭が請される場合があったことが知られる(『知事清規』参照)。

ところで、湯と洗面については以下の一節を参照しておきたい。

・そののち、もし後架ならば、面桶をとりて、かまのほとりにいたりて一桶の湯をとりて、かへりて洗面架のうへにおく。もし余処にては、打湯桶の湯を面桶にいる。
・おほよそ嚼楊枝・洗面、これ古仏の正法なり。道心辨道のともがら、修証すべきなり。あるひは湯をえざるには、水をもちいる、旧例なり、古法なり。湯水すべてえざらんときは、早晨よくよく拭面して、香草・抹香等をぬりてのち、礼仏誦経、焼香坐禅すべし。いまだ洗面せずば、もろもろのつとめ、ともに無礼なり。
    ともに『正法眼蔵』「洗面」巻


以上の通り、洗面(歯磨きと洗面)時には、湯を用いることを基本としている。ただし、湯が無い時には水を用い、更にそれも無い場合は、香草などを顔に塗るという。このように、大衆はただ汲まれ、沸かされた湯を用いるだけだったが、それを準備する役の僧もいたのである。

そのように水を用意することを「運水」とも言う。

 龐居士蘊公は、祖席の偉人なり。江西・石頭の両席に参学せるのみにあらず、有道の宗師におほく相見し、相逢しきたる。あるときいはく、神通并妙用、運水及搬柴。この道理、よくよく参究すべし。
 いはゆる運水とは、水を運載しきたるなり。自作自為あり、他作教他ありて水を運載せしむ。これすなはち神通仏なり。
    『正法眼蔵』「神通」巻


「運水及搬柴」という表現が見られるが、現代であれば水道やガスなどによってそれほど重要では無くなってしまったが、本来は重大な仕事だったのである。このような仕事を行うことを、神通とは言ったが、現代の水道やガスは、当時の観念からすれば、まさに神通力的ではあるな。

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