つらつら日暮らし

無住道曉『沙石集』の紹介(10a)

前回の【(9n)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、今回から新たに紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。

一 嫉妬の心無き人の事
二 愛執に依りて蛇に成る事
三 継女を蛇に合はせんとしたる事
四 蛇の人の妻を犯したる事
五 蛇を害して頓死したる事
六 嫉妬の人の霊の事
七 人を殺して報ひたる事
八 僻事の物の報ひたる事
九 僻事の報ひたる事
一〇 前業の報ひたる事
一一 先生の父の雉になるを殺したる事
一二 慳貪なる百姓の事
一三 鷹飼雉を貪りたる事
一四 鶏の子を殺して報ひたる事
一五 畜類の心有る事
一六 経を焼きたる事
一七 仏の鼻薫じたる事
一八 愚痴の僧牛に成る事
一九 真言の罰ある事
二〇 天狗人に真言を教へたる事
二一 執心の仏法故に解けたる事
二二 貧窮を追出したる事
二三 耳売りたる事
二四 真言の功能の事
二五 先世房の事


ご覧になればお分かりの通り、かなり多くの項目が挙げられています。実際に、全十巻のうち、この巻が最も物語の数が多く、また内容も豊富なのですが、題名をご覧いただければ分かりますように、かなり強く因果応報について論じられているものも少なくなく、その意味で今日的な人権的配慮からは、使うのが憚られるようなものもございます。つきましては、あくまでも拙僧の責任に於いて、そういう人権問題に関わらないような物語を使いたいと思います。そして、今回は最初でありますので、「一 嫉妬の心無き人の事」から、幾つかの短文を訳して記事としてまとめようと思います。この文章は嫉妬心がなかった人に関するお話しですが、鎌倉時代当時の男女関係などが垣間見えますので、ご参照ください。

 或る人の妻が、離縁されてしまい、馬に乗って出て行こうとしたその時に、雨が降ってきてしまった。その夫が「雨が上がってから行ったらどうだ」と言ったところ、妻はこう返事をした。
  降らば降れ 降らずば降らず 降らずとて 湿れで行くべき 袖ならばこそ(雨が降るならば降れ、降らないなら降らなくても良い。どうせ降らなくなって、悲しみの涙で袖は濡れてしまうのだから)
 このように答えたところ、夫は抑え難いほど妻を愛おしく思えたので、引き留めたという。
    拙僧ヘタレ訳


まぁ、背景は分かりませんが、或る家で夫が妻を離縁したようです。そして、妻が家を出て行こうという時の一コマが伝わっています。雨が降ってきたので、夫が出発はもうちょっと後にしたらどうかというと、雨にかこつけて、妻が非常に気の利いた事を和歌にして答えたわけです。しかし、現代的な視点から言うと、こんな和歌1つで離縁を想い留めるとは、なんとも夫も身勝手に見えますが、こういうところで夫婦の愛情が確認できるのなら、すぐに、殺人だとか、家庭内暴力だとか、そういうギスギスした関係にもならず、良いような感じもします。そこで、また、同じところから別の文章を引用します。

 遠江国(現在の静岡県西部)にも、或る人の妻が離縁されて、出て行こうとして馬に乗っていくところであった。(この地域では?)妻が離縁される時には、家の中にある物を、心の思うままに持っていって良いという風習だったので、「何でも持って行きなさい」と夫が申し出ると、「殿ほどの大事な人を捨てていく我が身に、他にどんな物が必要でしょう」と微笑みながら、嫌みもなく(妻が)言ったものだから、夫はその様子がいじらしく、(妻が)愛おしく思えたので、すぐに留めて、死別するまで連れ添ったのだった。
 人に憎まれることも、思いを寄せられることも、前世のことだと言いながら、人の心のありようで決まるのだろう。
    拙僧ヘタレ訳


これまた、背景は分かりませんが、或る家で夫が妻を離縁しようとした状況です。当時が全般的にそうだったのか?それとも、この遠江という地域だけがそうだったのかは分かりませんが、この時期には、今でいうところの「慰謝料」のような感じで、離縁された妻は家財道具を持っていって良いという風習があったようなのです。そこで、夫から何でも持っていって良いといわれた妻でしたが、一番大事なのは夫であるということから、それ以外はいらないというような答え方をしたところ、先ほどの例と同じように、夫との愛情を回復することができたようでございます。

その意味では、今日採り上げた両方の例とも、例えば現在に見るような、何かしらの対立関係になって離婚したというよりも、ちょっとした行き違い、或いは子孫に関するような問題などで、離婚したのかな?なんて思えてしまうわけです。まぁ、無住も男性で、当時の男女観という価値観が色々と混入された結果かもしれませんから、現在の女性からすれば「虫のいい話」になるかもしれませんが、この両方とも離縁されそうになっても、妻は夫を愛していたようです。

なお、後半の引用文ですけど、特に「人に憎まれるか?愛されるか?心のありようで決まる」という無住の説示は、現在でもまったく同じような状況ではないかと思います。どれだけ能力があり、容姿端麗であっても、心のありようが貧しい状況では、人から愛されるということはないでしょう。これは別に、恋愛ということだけではなくて、人間関係全般について同じことがいえるものと思います。まずは、静かに、とにかく静かに、自分の心の動きをよくよく見定めていけば、嫉妬心が起きることもないでしょうし、余計なことで他人を怨みに思うこともないでしょう。最近では、いい歳をした大人が、キレやすくて、すぐ暴力に訴えることが指摘されていますが、そういう人こそ、心のバランスを考えていただきたいですが、それができないから、キレるんでしょうね。心の調整っていうのは、本当に難しい・・・

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

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