若し比丘有りて、能く是の如き師子吼を作す時、破戒の者有りて、是の語を聞き已りて、咸く共に瞋恚し、是の法師を害す。
是の説法者、設い復た命終するとも、故に持戒し、自利利他すると名づく。是の説を以ての故に、我れ国王、群臣、宰相、諸もろの優婆塞、説法人を護ることを聴す。若し、正法を護ることを得んと欲する者有れば、当に是の如く学すべし。
迦葉、是の如く破戒し護法せざる者は、禿居士と名づく。持戒に非ざる者、是の如くの名を得ん。
『大般涅槃経』巻3「金剛身品第二」
まず、訳しながら内容を把握していきたいのだが、比丘がいて、素晴らしい説法をした時に、その言葉に対して怒りを覚え、その法師が殺されてしまったという。だが、世尊は、この説法者は命を終えても、持戒しており、自利利他すると名付けている。この説をもって、国王やその群臣、宰相や優婆夷(在家信者)などは、この説法者を守ることを許すという。これは、物理的な護持になるのだろう。
そこで、世尊は正法を守りたいのならば、このように学ぶべきだという。
そして、迦葉尊者に対して、もし、破戒し、仏法を護持しようと思わない者は、「禿居士」と名付け、更に、持戒をしない者は、そのような名前を得るという。
さて、個人的に気になったのは、この説法者についてである。良い説法を行うものは、当然に仏が説いた道理を把握しており、それを把握するための前提条件に、持戒や自利利他が入っていることになるだろう。自利利他円満する者は、当然に大乗仏教の菩薩でもある。つまり、世間との関わりが強くなるわけだが、その反面、様々な反感を買ったり、命を狙われることになるという。
この辺は、何だろう?嫉妬ということなのだろうか?
此等の事に於いて貪求愛著し、積聚し離れざるを真破戒と名づく。経に云く、此等の比丘、禿居士と名づく。
『緇門警訓』
・・・禿居士は比丘のことなのか。実は、この「経」の典拠は、良く分からないのだが、でも、中国では以上のようにいわれている。つまり、破戒の者は、頭髪を剃った在家者に過ぎないということなのだろう。いや、せっかくなので、「禿居士」だけで記事を書こうと思ったが、用語としては一部の律と、『大般涅槃経』くらいにしか出ないことが分かったので、記事として膨らましようがない。
でも、この辺は機会を見て深掘りしておきたいところではある。
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