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つらつら日暮らし

何故、九拝差定で法語と疏を唱えるのか?

実は、拙僧自身、とても不思議だったことがある。それは、三仏忌などを勤めるための法要、通称(九拝差定)に於いて、導師による拈香法語を唱えた後、やはり導師が書いた(という形になっている)「疏」を、維那が唱えるが、正直、機能的な面からいっても、内容的な面からいっても、両者は被っているのである。こういう無駄なことはしないというのが禅宗ではないか?と信じていたので、とても強い違和感を覚えていた。

そうすると、先日或る資料を読んでいて、心から納得した。やはり、2つ唱える理由があったのだ。

又た進前上香し、菓子・嚫金・上茶、逓伝を待ちて、備え了って三拝。坐具を収め、〈二祖はこの時、特為茶あり。三仏には無し〉衣角を整えて立つ時、侍者、大香を進む。住持、拈香法語。〈三仏会に、粥後、上堂祝香あれば、ここの法語無し〉進みて従香を焼き、位に帰りて揖す。
    面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻四・仏祖会行法


これがその理由であった。江戸時代の曹洞宗が輩出した最大の学僧といって良い、面山瑞方禅師は「法語を唱える理由」について、「粥後」に上堂があれば、それを不要だとしていることが分かり、つまり、「法語」は「上堂の代替」として唱えられていることになる。

「上堂」というのは、最近では晋山式の開堂上堂くらいしか行わないから、現代の我々には実感は無いだろうが、実際には諸仏祖の忌日上堂などは、かなり熱心に勤められてきた。三仏忌もそこに入れてしまって良い。そして、現在、九拝差定で唱えられる法語は、当日に行われる上堂の代替だと考えると、その法語の内容からいっても納得出来る。

そもそも、三仏忌で行われる上堂語は、道元禅師以来の伝統的な構造として、仏陀の生死のありようから、各々の学人に真理を悟らせることに主眼が置かれている。その意味では、今の拈香法語も基本的にはそれを踏襲し、三仏忌の各々の様相を讃歎しつつ、最後には那一事を学人がどう会得すべきかを偈頌でもって示すことになっている。

そして、「疏」は純粋に三仏忌各々の様相の讃歎である。いわば、こちらは読経・諷経を通して功徳を積むことが目的であるから、それに相応しい文言でもって讃歎するのが主眼である。一方では讃歎をしつつ、しかし、学人に真理を悟らせることが目標で、一方では純粋に讃歎を目標にしている。

そうなるとやはり、読経・諷経は純粋に経を読み回向し功徳を積むことが目的であるから、そのような場に「学人を悟らせるための法語」は、本来不要である。では、というので「学人を悟らせることを考慮しない法語」を唱えることで、無駄が解決されるかといえば、それは「疏」と重なり却って無駄である。よって、本来、法語と疏とをお唱えするのは、無理があるというべきなのだ。

では、上堂を行う場合の1日はどうなっているのだろうか?

・暁天坐禅
・大開静
・粥(小食飯台)
・粥罷上堂
・早晨献粥
・禺中仏祖会法要


と、こうなるはずである。そして、上堂時に仏陀の三様相についての何か1つについて、住持より上堂語を通して「公案」を与えられた学人はその後、献粥諷経と禺中諷経を経て、自ら仏陀を讃歎し、功徳を積むということになる。功徳を積むのは当然に、自らの悟りを目指してのことといえるけれども、それは坐禅を中心に諸行を経てのことといえる。というよりも、その可能性を少しでも増やしていくための、諸行であるというべきか。

今は、三仏忌での上堂は再興する環境に無い。よって、今後も「法語」と「疏」とが併用されているのだろうが、しかし、本来的な機能の差異に鑑み、やはりかつての行法に戻した方が良いという提言をもって、この記事を締めくくりたい。

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