迦葉菩薩、偈をもて釈迦牟尼仏をほめたてまつるにいはく、
発心と畢竟と二つながら別無し、是の如くの二心は先の心を難しとす。自未得度先度他(自ら未だ得度せざるに、先ず他を度す)、是の故に、我れ初発心を礼す。初発に已に天人師たり、声聞及び縁覚に勝出せり。是の如くの発心は三界に過えたり、是の故に最無上と名づくることを得。
『正法眼蔵』「発菩提心」巻での引用
要するに、こういうことである。釈迦牟尼仏の見解を、迦葉菩薩が讃歎する偈を唱え、その中に、「自未得度先度他」が見えるわけ、である。だから、釈迦牟尼仏の言葉かどうかも怪しいのだが、まぁ、菩薩が唱えているのだから、大乗仏教的には「可」といえよう。この「自未得度先度他」は、道元禅師も重大な関心を寄せており、まさに、この想いを発して発心することが説かれているのである。
ところで、とても良く似ているのだが、微妙に意味するところが異なっている語句がある。
我れ自ら度することを得已って、当に復た衆生を度すべし。
龍樹菩薩『十住毘婆沙論』「入初地品」
これは、菩薩が自ら唱える「誓願」の一節として述べられている。先ほどの、『大般涅槃経』でも、唱えたのは「迦葉菩薩」であった。まさに、「菩薩の利他行」をどのようにして進めていくかが問われているといえる。前者は、譬え本人が未だ仏法の会得を成就していなくても、それでも衆生を救うと発願しているのに対し、後者は、自分が仏法を得たら、その上で多くの人の苦悩を救うと唱えていることを意味している。
似ているけれども、全く違う。
曹洞宗では、前者の「自未得度先度他」が、道元禅師の文脈に見え、更にそれが『修証義』に引かれたため、こちらが主であるように思われている。しかし、両者、どちらが、より多くの人々を救う可能性を持っているのだろうか?拙僧などは、そこを考えるのである。無論のこと、謙虚に救済を進めるという意味に於いて、或いは「堕落している」とばかり評価を受けている現状を思う時、「自未得度先度他」が色々な意味で、我々僧侶にとっても救済の言葉になることはその通りである。
だが、この言葉を理由に、もし我々が学びを留めておくような言い訳にしてしまったらどうだろう?これは翻って、僧侶による救済を待っている人たちの期待を裏切ることになってしまうのでは無いか?元々、この語の意味は、道元禅師が把握しておられるところに依れば、「衆生をさきにわたして、みづからはつひにほとけにならず」(「発菩提心」巻)という言葉にもなるだろうし、「おろかなる 吾れは仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならん」(『道元禅師和歌集』)という言葉にもなる。要するに、仏として救済するのでは無くて、菩薩として救済活動に生きることを意味していたはずである。
菩薩は広範囲の意味を持つから、そこに凡夫ということも入ってくるわけだが、しかし、凡夫の自覚は、怠惰にもなりかねない。そこを危惧するのである。高い志を誓願に現し、その上で「自未得度先度他」ならば良い。だが、ただ自分の怠惰を肯定するために用いるのは良くない。そして、「自度度他」であっても良いのだ。そういう方向を目指し、日夜仏道を学ぶようにすれば、それはまた、多くの人々を救う手立て・方便も出てこよう。
その辺りはまさに、「菩薩の意楽にしたがふ」(「発菩提心」巻)ということなのかもしれないが、どこまでも、「おほよそ菩提心とは、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり」(同巻)という基本線だけは忘れずにいたいと思う次第である。
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