つらつら日暮らし

「禅戒一如」の成立について

実世界での論文も書いているので、その中でのメモ程度ではあるのだが、とりあえず記事にしておきたい。

それで、現在の曹洞宗の「教義」には、「禅戒一如」という語句が入っている。ところが、この用語については、それほど古くないのである。なお、成立経緯などは既に、【禅戒一如―つらつら日暮らしWiki】を書いているので、そちらを見ていただければと思うのだが、概念の成立については書き切れていない。

そこで、この記事で補おうと思うのである。まずは、現状の「教義」について見ておきたい。

第5条 本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大網とする。
    『曹洞宗宗憲』


以上の通り、「禅戒一如」という言葉が見える。それで、教義にこの語が入った経緯については、特に人権の問題から論じられた報告が存在しているもののここでは省略し、いわゆる「昭和17年度の『曹洞宗宗制』」に初めて見られたことのみ採り上げておきたい。

第五條 本宗ノ教義ハ釈迦牟尼仏並ニ高祖及太祖ノ正法ニ随順シ懺悔滅罪、受戒入位、発願利生、行持報恩ノ四大綱領ニ則リ禅戒一如修証不二ノ大道ヲ実践シ四恩ニ報答スルニ在リ
    「第一章総則」、昭和17年度『曹洞宗宗制』曹洞宗宗務院・1~2頁


以上の内容が、第二次大戦に於ける敗戦後の宗制改定で、先のようになったのである。それで、拙僧的に気になるのはこの「禅戒一如」である。この用語であるが、道元禅師と瑩山禅師、曹洞宗の両祖の御垂示には見られない。なお、関連した概念としてであれば、道元禅師ならば『弁道話』や『正法眼蔵随聞記』があるし、瑩山禅師は『坐禅用心記』に於いて、類する教示が見られる。ただし、そこでも、「禅戒一如」という語句を用いているわけでは無いのである。

それで、むしろ「禅戒一如」という語句の方から調べてみると、秋野孝道禅師(1858~1934、駒澤大学学長や大本山總持寺貫首)による構築が見られるようである。元々、秋野禅師は明治期後半以降の、洞門禅戒論の構築者として非常に重要なご研究をされた祖師であるが、例えば、『通俗曹洞宗の安心』(一喝社・明治45年)などを見てみると、「禅戒一致」という項目があり、その中で両祖の「禅戒一致論」を参照しつつ、江戸時代に於ける卍海宗珊禅師『禅戒訣註解』を引くなどし、以下の如くまとめておられる。

されば禅と云ふも戒と云ふも一物の両面のみ、二即一、一即二、禅中に戒あり戒中に禅ありで、禅戒は全く不二なることが知られるゝのでありませう。
    「一六 禅戒一致」、秋野禅師前掲同著、25~26頁


このように、明確に禅と戒との関係を示しており、その結果、「禅戒不二(禅戒一致)」を説かれるのである。なお、この主張がなされる背景は、やはり明治時代以降の宗門安心論との兼ね合い(よって、本書のタイトルが『通俗曹洞宗の安心』となっているのだろう)、いわゆる『修証義』を巡る論争がある。

さて以上の如くに吾が宗の安心を説くに当つて二方面より見る事が出来るのであります、上達の如く一は坐禅門で一は受戒門であります、然らば吾が宗は坐禅門受戒門何れに依つてもよいのであるか、又此の二門が全然別物であるか、而して其の帰所を別にして居るか怎うかと云うに、元来此の受戒と坐禅とは吾が宗本来の立脚から云ふならば決して別々に見るべきものではない、今日実際の有様を観るに在家化導の場合には戒法本位にして、出家安心の時には坐禅本位にして居るやうな傾きが無いでもありませんが、これも又必らずしも左様と定まつて居る訳では素よりありませぬ、
    「一五 坐禅と受戒」、秋野禅師前掲同著、23頁


つまり、秋野禅師は明治20年代以降に起こった、宗派内の安心論について、一定の結論を導き出そうとしておられるのである。その構造としては、安心を坐禅と受戒という両面から見るというものである。要するに、「禅戒」についての議論は、江戸時代までに存在していたが、明治時代に入り宗派内の安心論の混乱原因が、坐禅と受戒であった時、その両方を対立と見るのではなく、何らかの止揚の手段が模索され、「禅戒一致」が生み出されたという流れである。

そして、この流れは、宗務院から刊行された『曹洞宗宗意綱要』(昭和9年)にも影響し、結果として先に挙げたように、『宗制』の教義になっていくのである。なお、この辺は、教義自体の成立も考えねばならないが、『曹洞宗宗制』は明治18年に成立し、その後、明治39年に大きく改定された。その際、「曹洞宗布教規程」が入り、「第三條 布教ノ標準ハ曹洞教会修証義ニ依淳シ化導ノ画一ヲ紊スヘカラス」とあって、明らかに『修証義』に依拠する様子が見られる。しかも、「化導ノ画一」とある通り、宗派全体の統合された布教理念を必要としたのだろう。

拙僧つらつら鑑みるに、宗派として、布教は『修証義』に依るという大きな流れを推進する方針であった。そのためか、『修証義』から見て矛盾した部分を解消する必要があった。先に挙げた秋野禅師のご見解は、この『宗制』改定からすぐの頃である。つまり、宗派内の碩徳による「禅戒一致(禅戒一如)」の構築は、『修証義』と宗旨たる坐禅との綱引きの結果、出てこざるを得なかったものだと思われる。

「禅戒一致」の構築の中で、鎌倉時代・江戸時代の祖師方の見解もまた参照され、現在に至るような「教義」となった。ただし、それらの祖師方の見解には、「禅戒一如」という語句は直接見られない。つまり、この語句自体は新しいものだ、と認識しておく必要があるだろう。

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