つらつら日暮らし

中国で議論された「直受菩薩戒」

とりあえず以下の一節をご覧いただきたい。

  直受菩薩戒
 予、戒疏発隠を著す中に言く、必ず先づ五戒・十戒・二百五十戒を受け、然る後に菩薩の十重・四十八軽戒を受く、と。
 講師有り、憤然として平らかならずして曰く、何を以てか人をして直に菩薩戒を受けしめずして、而も迂曲なること是の如くなる。仏の記して、末法の中に魔王有りて、吾が法に混入して、而も吾が法を壊す。今、其の人なりと。
 予、答えず。
 講師、卒す。
 其の徒、前語を理として、諸僧・諸宰官・居士等を集めて、大会を設けて、而して弁を作して難ぜんと欲す。
 予、亦た答えず。予に代わりて答えんと云う者有りて曰く、以て為ること無し。彼の引く所の菩薩善戒経を観ずや。経に云く、譬えば重楼四級の如し。下より上に次第すること歴然たり。等を躐ゆべからず。戒を受けること亦た然り。経の語なり。以て為ること無し。其の人、乃ち止む。
    雲棲袾宏『竹窓随筆』


まず、雲棲袾宏(1535~1615)とは中国明末の僧侶で、いわゆる禅浄一致の教学を打ち立てた人であり、戒律関係の著作も数多く残すなどし、陽明学が席巻していた同時代に於ける仏教復興者として名高い。それで、その雲棲が記した随筆集に『竹窓随筆(或いは竹窓三筆)』があるが、その中で上記一節を見出すことが出来る。

いわれていることは、雲棲は「直受菩薩戒」に反対していた、ということである。「直受菩薩戒」とは、通常の中国仏教であれば、いわゆる沙弥戒や比丘戒(声聞戒、いわゆる『四分律』系の二百五十戒)を受けた上で、菩薩戒を受ける。曹洞宗では、道元禅師の時代でも声聞戒は受けないので、この辺は余り共有されない問題意識ではあるが、江戸時代に沙弥戒の有無を回って、「直受菩薩戒」の議論が起きた。

そこで、もしかしたら江戸時代の日本の議論に影響を与えたのかもしれないと思い、今回の記事を書いた次第である。

雲棲の態度としては、『戒疏発隠(梵網経心地品菩薩戒義疏発隠)』巻5に見える通りであり、「答う、在家と出家と体制自ずから別なり。在家は、必ず五戒を受けて方に菩薩戒を受け得る。出家剃染は、必ず比丘戒を受けて、方に菩薩戒を受け得る」とある。そして、この点について或る講師が批判し、迂曲であるとした。そして、最終的に雲棲は自ら答えることはなかったようだが、別の人が代わって答えるというので、そちらを見ると、『菩薩善戒経(優波離問菩薩受戒法)』に見える「重楼四級」のようなもので、明確に「三戒を具せざれば、終に菩薩戒を得ること能わず」とある通りである。この場合の「三戒」とは、「優婆塞戒・沙弥戒・比丘戒」のことであるから、雲棲の主張の通りとなる。

しかし、日本の江戸時代の議論は、特に大乗寺の逆水洞流禅師などは明確に「直受菩薩戒」を主張した。そうなると、中国でも類似の主張をした場合があった可能性があり(現に、上記一節に見える「講師」は誰だったのか?)、その辺も見ておきたい。

 雲棲、直受菩薩戒の非を弁ず。
 但だ法師の語を解せば、即ち直ちに菩薩戒を受く。未だ不可と為さず。但だ法師の語を解せざれば、即ち菩薩戒を受けず。
    今釈澹帰『菩薩戒疏随見録』


今釈澹帰という人について拙僧は良く知らないのだが、色々と見てみると、この人は中国明末から清初の僧侶で、生没年は1614~1680年の人だったようであるから、雲棲よりも後の世代の人といえる。一応、曹洞宗系の人だったようで、丹霞山に住したという。それで、こちらの場合には、直受菩薩戒について肯定している。その根拠は、『梵網経』「第四十摂化漏失戒」になっている。菩薩が他の者に授戒する時には、相手を選んではならない(平等に授けるべき)ということであり、更に、「出家人の法」を論じる中で、「但だ師の語を解するのみ」とあることを受けつつ、今釈澹帰は、師の言葉を理解すれば「直受菩薩戒」に於いて出家が成り立つという立場であったことが分かる。

そこで、現代的な目で両者の立場を見てみると、『梵網経』の場合、「菩薩戒」を授ける際に、相手を選んではならないということはその通りだが、それでは出家(比丘法)にまで立ち入るかというと、実は良く分からない。その意味では、今釈澹帰の見解は根拠として弱いといえよう。つまり、本来「菩薩戒」の授受を通しても、在家から出家、という移動は発生しないのである。このことは理解しておくべきだ。

無論、そうなると曹洞宗における授戒に於いて、どのように出家性(比丘性)を担保するかについては、また別の議論になるが、それは機会を見てまた記事を書きたい。

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