禅林では、この日に偈頌を詠んでいた印象が強い。今日はそのような一首を紹介してみたい。
重陽に兄弟と与に志を言う
去年九月此の中に去、九月今年此自り来る、
憶うことを休みね去来の年月日、叢裏に菊華の開くるを看るのを懽しむ。
『永平広録』巻10-75偈頌
この偈頌であるが、道元禅師が宝治元年(1247)7月~宝治2年3月にかけて行われた鎌倉行化に因む偈頌よりも、前に収められていることから、おそらくは大仏寺が永平寺と改称された頃(寛元4年[1246]9月?)にでも詠まれたものか。なお、「重陽に兄弟と与に志を言う」とあるが、この次の76偈頌でも「冬夜に諸兄弟志を言う、師見て之に和す」とあって、兄弟(弟子達のこと)の間で「志を言う」ということが、しばしば行われていたようなのだが、上記の重陽の場合には道元禅師自身もそれに加わり、冬夜の場合には後から偈頌のみを詠まれたのであろう。
そこで、上記に紹介した重陽の偈頌だが、意味は「去った年の9月はこの重陽から去り、今の年の9月はこの重陽から来るのである。ただ、去来する年月日を思うのを止めれば、よろこんで看るべきである、叢林の中の菊華が開いていることを」とでも出来ようか。ここで問題なのは、「叢裏に菊華の開くるを看るのを懽しむ」の部分で、「菊華」が何を喩えているかである。そもそも「菊」は永遠を象徴する華であった。そうなると、ここでも不壊の仏法などを意味していそうなものだが、ここで「志を言う」という機会であったことに鑑み、素晴らしい志を述べた弟子達が現成せしめている正法を指していると思いたい。
だからこその、「叢裏(良き学人が集まる「叢林のウチ」の意味か)」だったり、「開く」という言葉が用いられ、最後にそれを「看るのを懽(たの)しむ」としているように思うのだ。つまり、弟子達が将来の展望を語り、そのような成長を見守る師としての道元禅師、という一家団欒が見えてくるようではないか。道元禅師の後進指導については、かの玄明首座の一件(何故だか15世紀の記述が採用される)などもあってか、厳しさばかりが喧伝されているように思うのだが、実際の道元禅師は、全くそんなことはなかったと思うのだ。
この見解は、拙僧の勝手な解釈かもしれないが、読者諸大徳はどう感じられたであろうか。今日の重陽の節句、関東は台風の影響や被害が大変だと思うが、心からお見舞い申し上げるのみである。
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