つらつら日暮らし

「長月」一考

旧暦9月の別名を「長月」という。その由来について、以下のような説明が知られている。

◎九月 和名と長月と云は、夜やうやうながきゆへに夜長月といふ略せるよし、奥義抄にしるせり。
    「江府年行事」、三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、50頁


以上である。確かに、かつて夏至は旧暦5月であり、そこから4ヶ月が過ぎつつあるわけで、9月は夜の長さが理解される季節であったため、「夜長月」となり、そこから「長月」が生まれたとされている。ところで、「江府年行事」の作者は、その見解を『奥義抄』という文献から得たとしている。

この『奥義抄(または、奥儀抄)』とは、平安時代後期の歌学書で、藤原清輔の著である。全3巻で、天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立し、崇徳天皇に献上された後も増補されたという(そのため、各地に所蔵された写本は本文の異同が激しいとのこと)。

どこかで本文が読めないかな?と思っていたら、ネット上では複数の写本などを閲覧可能の様子。例えば、以下の1本。

『奥儀抄』(宮内庁書陵部所蔵、国書データベース)

ただし、上記の一節がこの写本のどこに載っているか探すのは大変なので、興味ある方はご自分でどうぞ。

さて、「長月」の呼称については以上の通りとして、そうなると、鎌倉時代には上記の意味が共有されていたはずだ、ということになる。実は道元禅師の和歌(道歌)には、以下の1首が知られている。

長月の 紅葉の上に 雪ふりぬ 見ん人誰か 歌をよまざらん
    『道元禅師和歌集


意訳をすれば、「長月の紅葉の上に雪が降った、これを見た人の誰が、歌を詠まないことがあろうか」、ということになる。それで、一瞬、「長月とは?」と思うのだが、この和歌には題が付いていて「寛元二年九月廿五日、初雪一尺あまりふるに御詠」となっている。つまり、旧暦9月に詠まれた御歌であり、その点から「長月」は「9月」のことだったと分かるのである。

そして、旧暦9月は、今の10月くらいに相当するので、おそらくは越前の永平寺で詠まれたものだと思うのだが、この年はかなり早い初雪だったのだろう。一尺とあるから、30センチくらいである。早い雪にしてはかなり降ったことになるだろう。しかも、まだ紅葉が残る時期の雪である。紅葉の紅と、雪の白、その対比を味わうべきである。

道元禅師が雪を採り上げる場合、その一面の白さを注目する場合が多い。上記は紅葉で、以下に引くのは梅華ではあるが、次のような提唱が残されている。

まことに、老瞿曇の身心光明は、究尽せざる諸法実相の一微塵あるべからず。人天の見、別ありとも、凡聖の情、隔すとも、雪漫漫は大地なり、大地は雪漫漫なり。雪漫漫にあらざれば、尽界に大地あらざるなり。この雪漫漫の表裏団?、これ瞿曇老の眼睛なり。
    『正法眼蔵』「梅華」巻


この中でも見ていただきたいのは「人天の見、別ありとも、凡聖の情、隔すとも、雪漫漫は大地なり、大地は雪漫漫なり」であり、受け取り側が勝手に懐いている様々な相対的な差別見を、大地の雪漫漫で覆っていくのである。いわば、分別を無分別で覆っていく様子なのだが、それを「瞿曇老の眼睛(仏陀の大事なもの)」と表現されている。

これを、先ほどの御歌に適用させれば、紅葉という分別的な紅色を、白色で覆っていくことにより、無分別に転化される様子を示した。いわば、我々自身が普段の生活の中で持ってしまっている分別も、一夜すれば無分別に転ずるのである。いわば、分別と無分別の回互苑転・兼中到である。それを忘れてはならない。先ほどの御歌は、上記の通り味わっておくと、修道上の意義もあるのではなかろうか。

さて、現代の長月は、まだまだ残暑厳しき気候であるから、紅葉と雪を同時に味わうことは難しいが、夜長月の事実には違いないから、月夜を味わいたいものだ。

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