つらつら日暮らし

流布本『普勧坐禅儀』参究4(令和5年度臘八摂心4)

臘八摂心4日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。

夫、参禅は、
静室宜し。飲食節あり。
諸縁を放捨し、万事を休息すべし。
善悪を思わず、是非を管すること莫れ。
心意識の運転を停め、
念想観の測量を止むべし。
作仏を図ること莫れ、豈、坐臥に拘らんや。


今回から、徐々に「坐禅の儀則」の部分に入っていく。「参禅」については、「坐禅儀」巻に見えるように、「参禅は坐禅なり」という理解で良い。師家に公案を問うことを「参禅」といったりするが、曹洞宗ではこの語を坐禅の意味で取る。

そして、続いて環境と、その坐禅に入る際の心構えになる。環境としては、ここでは簡単に、「静かなところが良い」「飲食には節度があるべきだ」と理解されるところだが、指月慧印禅師の『不能語』を拝読すると、前者については「万境の閒なり」とし、後者については「身の健安なり」としている。つまり、「あらゆる対象が暇である、何もしないでいる」という環境に於いて、「身が健安である」ことが、坐禅だということである。なお、この辺については、『正法眼蔵』「坐禅儀」巻の方が余程詳細に説かれている。

坐禅は静処よろし。坐蓐あつくしくべし。風煙をいらしむることなかれ、雨露をもらしむることなかれ。容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。〈中略〉飲食を節量すべし、光陰を護惜すべし。
    「坐禅儀」巻


このようにある。やはり、坐禅の場合、その環境自体が静かであるべきだということになる。これをもって思い出すことがある。

自らの身心、即ち行道綿密・端坐不臥・安閑無事なるは、枯木石頭の如く、主山案山の如くし、法量専要なるは、出息入息の如くし、慈悲深重なるは、大悲千手の如くして、深山幽谷裏に居して、一生、歳月を送るべし。
    峨山韶碩禅師『山雲海月(上)』


これ以外にもあるとは思うが、結局海に近い場所にあった能登總持寺(現在の總持寺祖院)から、全国各地に曹洞宗寺院が展開したわけだが、その中でも山間部に寺院を建てることに躊躇しなかった理由の1つにして良いと思う。「深山幽谷裏に居して、一生、歳月を送るべし」という説示は、まさに、「坐禅は静処よろし」の言い換えと判断して良い。

続く「諸縁を放捨し」云々だが、直訳すれば、「諸縁」「万事」を世務・世事と解釈して、それらを止めて坐禅するように示す言葉だといえる。然るに、瞎道本光禅師『点茶湯』では、「諸縁の全兀兀は放捨なり、全休息のとき全万事なり」と解釈している。ここには、「不染汚(無分別)の修証」に則って、「諸縁」「万事」を会得する意図が見える。それはつまり、諸縁が差別無く諸縁としてあるとき、その実相が放捨ということである。或いは、全休息しているとき、それが全万事である。ここに「全」というありよう、無分別であるとき、諸縁・万事が、真の意味でそうなるのである。

よって、その内容が、「善悪を思わず、是非を管すること莫れ」という、分別の否定・停止である。このことを瞎道師は「これ坐禅の全機なり」(前掲同著)ともいう。やはり「全」である。道元禅師は、「全機」「全道」などと用いる場合には、必ず無分別である。無分別の中に、しかしながら働きなどがある、いや、そのまったき働きをそのまま戴くのが、「坐禅の全機」である。

さて、これから先がかなり難しい。従来の先行訳でも、この辺は曖昧に訳されることが多い。だが、今回は深く考えてみたい。

まず、「心意識の運転を停め」だが、この「心意識」については、面山師『聞解』では、『止観輔行伝弘訣』を用いて、「境に対する覚知、木石と異なるを名づけて心と為す、次に心の籌量を名づけて意と為し、了了別知を識と為す」としている。この理解は、瑩山禅師『伝光録』に通じていく。

子細に見得する時、心と曰ひ、意と曰ひ、識と曰ふ。三種の差別あり。夫れ識と謂ふは、今の憎愛是非の心なり。意と謂ふは、今冷暖を知り、痛痒を覚ゆるなり。心と謂ふは、是非を弁まへず、痛痒を覚へず、牆壁の如く、木石の如し。能く実に寂々なりと思ふ。此心、耳目なきが如し。
    第51祖章


問題は、面山師にせよ瑩山禅師の御提唱であっても、これらはあくまでも「心意識」を分析しただけであって、それがここで問題にしている坐禅の様相を示したものではない。坐禅の様相とはあくまでも、瑩山禅師が重ねて御提唱される通りである。

学道は心意識を離るべしと云ふ。是れ身心と思ふべきに非ず。更に一段の霊光、歴劫長堅なるあり。子細に熟看して必ずや到るべし。若し此心を明らめ得ば、身心の得来るなく、敢て物我の携へ来るなし。故に曰ふ身心も脱け落つと。
    同上


学道は、心意識を離れなくてはならず、そこには「一段の霊光」の働きのみを観じ、その時、身心は脱落する。まさに、これが「坐禅の全機」といわれる事態と同一である。また、瞎道師は非常に分かりやすく「坐の坐なる身心は脱落なるをもて、おのづから停止なり」(前掲同著)と指摘する。結局、我々自身の分別の働きに頼ることを止めて、坐禅にこの身と心を任せてしまうことに他ならないのである。それを「停止」と呼んでいる。

更に、「念想観の測量を止むべし」だが、拙僧は以前、或る先生から、「念・想・観」について、これらは通常の禅定法では、その行中に行われる精神的営為であると聞かされた。つまりは、禅定中の心上に於いて、これらの「念想観」を行うというのである。そして、宗門の坐禅ではそれらを行うべきではないということになる。この辺、面山師は、「また念想観の三字も、測量に付て、麁より細に至る。初念・中想・後観なり」(前掲同著)としている。よって、徐々にその心上に於ける諸現象の立ち現れ方を、詳細にしていく過程を「念想観」としている。そして、ここもまた先と同じく瞎道師は、身心脱落なる坐に於いて、これらは止む。

後は、それほど難しい文脈ではない。まず、「作仏を図ること莫れ」については、詳しくは「坐禅箴」巻を見ていただきたいところであるが、道元禅師は「南岳いはく、坐禅豈得作仏耶」という語について、「あきらかにしりぬ、坐禅の、作仏をまつにあらざる道理あり、作仏の、坐禅にかかはれざる宗旨かくれず」とされた。よって、坐禅は作仏を「待つ」ことはない。ここは、修証一等、「不染汚(無分別)の修証」でもって解釈されるべきである。既に、当連載で申し上げているように、宗乗の坐禅とは、修証一等である。その時、作仏は明らかに作仏であって、その作仏上の坐禅なのだから、「作仏を図る」ようなことは不要である。それをただ思えば良いのである。転ずれば、坐禅している、まさにその事実が作仏である。この様子を、瞎道師は「坐禅のみなるべし。作仏は作仏なるべし、この宗旨を莫図といふなり。仏仏となるためなりとにはあらず。ただ坐の坐なることを参取すべし」(前掲同著)と丁寧に註釈しておられる。

最後に、「豈、坐臥に拘らんや」であるが、この「坐臥」について、坐禅をしているのに、何故「坐臥」に拘ってはならないのか?という話になる。坐禅の「坐」と、坐臥の「坐」との同異について問う場合があると思う。然るに、これもまた、「坐禅箴」巻を見ていただきたいところであるが、道元禅師は「坐禅を道取するにいはく、若学坐禅、禅非坐臥」という語について、「いまいふところは、坐禅は坐禅なり、坐臥にあらず。坐臥にあらずと単伝するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。なんぞ親疎の命脈をたづねん、いかでか迷悟を論ぜん、たれか智断をもとめん」とされた。坐禅は坐禅なのであって、坐臥ではないという。然るに、そのような「坐臥にあらず」と証すとき、それは「自己」そのものであるという。これは、坐禅人としての四威儀は勿論四威儀である。だが、坐禅は坐禅なのである。そして、坐禅が坐禅の時、自己は自己である。

つまり、坐禅の「坐」は、四威儀の「坐」とは天地懸隔ということであり、むしろ前者が後者を包摂していく。これを、瞎道師は「坐禅の正面を非坐臥といふなり。兀坐のあと・さきなしなり。坐禅の坐禅なるときはほかの坐臥はかくるるなり」(前掲同著)としている。こちらも丁寧だといえるが、丁寧さはここの一文の捉え方にまで及び、重ねて「この文を差過して、『坐禅するにおよばぬ』なんど、いへる魔儻もあるべし」(前掲同著)としている。「坐臥」に拘わらないということを、「坐禅の否定」に採る者がいたようなのだが、だといっても「臥」も否定され、であれば、行住のみか?ということになるけれども、それでは坐ることが出来ないので、結構厳しい。

などということを考えていくと、繰り返しになるけれども、本書は「坐禅を行っている」ことを前提に説かれると見て良いのであって、それを否定するような「断章取義」を容れるべきではないといえる。

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