つらつら日暮らし

流布本『普勧坐禅儀』参究9(令和5年度臘八摂心9)

臘八摂心は終わったが、摂心中に解説しきれなかった流布本『普勧坐禅儀』を学んでいきたいと思う。今回が、当ミニ連載の最後の記事である。

 既に
人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ。
仏道の要機を保任す、誰か浪りに石火に楽しまん。
 加以ならず、
形質は草露の如く、運命は電光に似たり。
倏忽として便ち空し、須臾もすれば即ち失す。
冀くは、其れ、参学の高流、
久しく模象に習って、真竜を、怪しむこと勿れ。
直指端的の道に精進し、絶学無為の人に尊貴ならん。
仏々の菩提に合沓し、
祖々の三昧に嫡嗣ならん。
久為恁麼、須是恁麼、
宝蔵自ら開け、受用如意ならん。

普勧坐禅儀      法語 終


拙僧は、あらためて、この冒頭の二節を見ながら、「仏仏祖祖」について考えを新たにしている。宏智禅師/道元禅師『坐禅箴』の冒頭は、次のようになっている。

仏仏の要機、祖祖の機要。

これが今回は、このようになっている。

人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ。
仏道の要機を保任す、誰か浪りに石火に楽しまん。


つまり、要機とは仏のありさまで、機要とは人(祖師)のありさまなのである。面山師は「これ三昧の無上を示さる」(『聞解』)と端的に示しておられるけれども、問題はこの三昧の無上が、この仏祖の感応道交に於いて発していると知ることであろう。それは、人身(祖師の身体)を得ることが機要であるが、それは虚しく光陰を渡るべきではない、時間を惜しんで精進すべきだといえる。また、それはそのような修行の三昧に於いては、仏道の要機を保任していく。その時は、石を打ったときに出る火花の如き虚しさを脱却しなくてはならない。この保任については、瞎道師が「になひかつぐことなり」(『点茶湯』)としているけれども、真実義については、「要機これ仏道なり、仏道保任仏道なり。人身既得人身なり」としている。仏道が保任されるときには、ただ仏道が保任されるのみで、その時、人身は人身を既得している。この両者の関係こそが肝心で、更に瞎道師は「これすなはち機要・要機のぐるりん、ぐるりん、りんぐるりんなる法界一円の究極なり」(同上)としている。畢竟、「要」というべき究極は、一義に決まらず、この「ぐるりん」にあるといえ、それを以て、「法界一円」としているということは、これも平板なる世界を意味しているのではない。

よって、この法界一円の世界に於いては、「形質は草露の如く、運命は電光に似たり」といえ、まさに無常そのものである。草の上にある露や、電光の如く、わずかの間に消え去ってしまうのが、我々の命である。よって、「倏忽として便ち空し、須臾もすれば即ち失す」とも示される。こちらもまた、わずかの間に消え去ってしまう様子を示している。我々の命とは、それほどに儚いものであって、問題は、その間に何をしていくか?である。当然に、世俗の楽しみを願うことなく、一刻でも早い仏道の完成を願うべきだといえる。その説示が、本論の末尾に見える。

まず、「其れ、参学の高流、久しく模象に習って、真竜を、怪しむこと勿れ」とある。詳しいことは、【真龍―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただきたいと思うが、或る龍の愛好家が、多くの模型を集めていたけれども、実際の真龍が出て来たところ、余りに驚きすぎた話である。それを転じて、道元禅師は、仮の仏法や仮の修行にばかり馴染み、真実の仏法に触れないことを諫めている。つまり、真実の仏法に触れるように示しているのだが、それが、「直指端的の道に精進し、絶学無為の人に尊貴ならん」である。余計な教学仏教を否定し、「直指端的」という、仏法そのままに指し示す教えと修行を精進し、その時、最早仏道を学ぶべきことがない(=絶学のこと、仏陀や阿羅漢を示す)状態で、かつ余計な価値分別やとらわれを全て脱した状態に至ること、それが、「無為」である。その無為の人として尊貴になるとしているのである。

さて、その後だが、つまり無為の人であるということは、「仏々の菩提に合沓し、祖々の三昧に嫡嗣」となるのである。これは、我々が仏祖の菩提や三昧に契うことをいう。それは、どのようにして行われるべきなのか?このような勝れた修行のことは、最早「坐禅」ともいえない。つまり、「久為恁麼、須是恁麼」なのである。恁麼が恁麼として恁麼すること、それが真実の仏道であって、もし、そのような無分別なる恁麼の行に徹していくとき、「宝蔵自ら開け、受用如意ならん」とはいわれる。この「宝蔵」とは、先に示した「人身の機要、仏道の要機」であり、或いは冒頭に還れば、「道本円通」「宗乗自在」である。我々には、既にそれとして、仏道の真実が具わっている。いわば、そのような事実をただ暗まさなければいいのであり、むしろ積極的に表現していくべきだといえる。その積極的な表現に、緩くない修行が現成していくのだが、我々は修行をのみ積極的に表現していくのであり、この宝蔵については、我々の思慮分別は容れない方が良い。

自開宝蔵にあらず、宝蔵の自開なることをゑたり。受用如意は自開の珍器雑宝をいふといへども、莫図作仏のゆゑに、無一物なり。
    瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』


自ら宝蔵を開くのではなくて、宝蔵が自づから開いていく。また、受用如意とは、自開した宝蔵の扱いになるわけだが、それは莫図作仏であって、既に一物としても宝などはないといえる。いや、全てが宝であった。いや、全てを宝ならしめる、緩くせざる修行が肝心だという結論にしておかねばならない。緩くせざる修行の中で、我々は深い意味での教化も究め尽くしていく。それは、全員が必ず仏に成ると確信していくことである。尽十方界授記実相である。しかし、全てが授記されたときには、悉皆成仏まで後一歩である。後一歩……この一歩こそが、緩くせざる修行であって、その有無を勘違いしたときに、「天地懸隔」するのである。あくまでも、本論は修行を継続することを前提に説かれているのであり、また、先に挙げた一切の内容については、伝・万安英種禅師が語るように「是れ皆な禅定の徳」(『永平元禅師語録抄(下)』)ということなのである。

今年は、ここまで『普勧坐禅儀』を読んで、臘八摂心に於ける修行を総括しておきたい。ただし、坐禅は続く。

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