つらつら日暮らし

流布本『普勧坐禅儀』参究7(令和5年度臘八摂心7)

臘八摂心7日目。早速に流布本『普勧坐禅儀』を学んでいきたいと思う。

若し坐従り起たんには、徐々として動身し、
安詳として起つべし。卒暴なる応らず。
 嘗観すれば、
超凡越聖、坐脱立亡、此の力に一任す。
 況んや、復、
指竿針槌の転機を拈じ、
払拳棒喝の証契を挙する、
未だ是、思量分別の能く解する所に非ず、
豈、神通修証の能く知る所為らんや。
声色の外の威儀為るべし、那ぞ、知見の前の軌則に非ざらん者や。


坐禅から立ち上がる場合、今はどこか、競うようにして一気に単から下りようとする場合がある。だが、実際にはそうであってはならない。ここで指摘されているように、「徐々として動身し、安詳として起つべし。卒暴なる応らず」となるべきである。つまり、数十分から数時間程度、坐禅の状態であったとき、その身体はかなり固まっている。そして、それから徐々に動かし始めるのである。瑩山禅師『坐禅用心記』になると、坐禅後でも「揺身(道元禅師は左右揺振が始めのみ)」するけれども、それもまた、徐々に動かしていかねばならないという、「徐々に」が肝心である。何故、そうかといえば、これは「禅定」との関わりがある。

つまり、禅定より立ち上がるとき、絶対に急いではならない。無理に禅定を解くことは出来ない。禅定が深ければ深いほど、立ち上がる動きは必ず遅くなる。これは、拙僧自身の経験に照らしても断言できる。無理に立とうとしても、身体は動かない。このことを、指月慧印禅師『普勧坐禅儀不能語』では、適確に「仏世尊及び諸仏子、禅定従り起つ、則ち皆安詳なるが善き也。安詳とは、卒暴・軽挙ならず。〈中略〉凡そ法王、禅従り起つに、安詳ならざる無し」としている。『赴粥飯法』でも「下鉢の法は、挙身安詳として定より起立し」とあるから、「定」からの起立を促している。合わせて、以前から気に入らない文脈がある。それは同じ『赴粥飯法』の末尾なのだが、そこに「一息半歩、出定“人”の歩法なり」とあるのだが、これは字の採り方が間違えていて、「一息半歩、出定“入”歩の法なり」と読まねばならない。つまり、禅定を出て、歩みに入る時の方法が、「一息半歩」だというのである。よって、このことからも、禅定を出る際の歩みのゆっくりさ、まで含め、何故「安詳」でなければならないかを知らねばならない。

ここの解釈は、先の指月師の解釈に基づいて検討すると、例えば、仏典にこのようにある。

・爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく……
    『妙法蓮華経』「方便品第二」
・是の時に世尊、昧より安詳として起つ……
    『大品般若経』「序品第一」
・生まるる時、地、六種に動ず。行至すること七歩、安詳なること象王の如し。
    『大智度論』巻21


そして、この字義については、面山瑞方禅師『普勧坐禅儀聞解』にて、「安詳而起は、安穏保養して起つ」としているが、これ以外に顕著な解釈例はなく、また、この場合も、「卒暴」と対比させて論じておられるので、やはりここも、「安詳而起」「不応卒暴」という両者を、「諸悪莫作」のように理解する必要がある。「安詳」の時、「卒暴」は隠れるが、それは相対分別なのではなくて、各々全機現としてある。

話は長くなったが、ここで「禅定」を長く保つということを前提に話が進んでいると理解していただけたであろう。そして、それが会得されれば、続く文脈である、「嘗観すれば、超凡越聖、坐脱立亡、此の力に一任す」、或いは、「況んや、復、指竿針槌の転機を拈じ、払拳棒喝の証契を挙する、未だ是、思量分別の能く解する所に非ず、豈、神通修証の能く知る所為らんや」ということもまた、自ずと会得できる。

要するに、この部分は、伝・万安英種禅師『永平元禅師語録抄(下)』の解釈によれば、「皆な坐禅の功勲力ぞ」とある通りであり、つまりは禅定が及ぶからこそ、「超凡越聖」という凡聖の超越や、「坐脱立亡」という生死の超越(坐脱も立亡も、我々の死に様を示す)は、「此の力に一任す」とあるのである。これは、禅定の優れた力によって、このような諸の「超越」を可能ならしめることを意味している(超越とは、無分別の裏返しである)。よって、我々の無分別は、禅定の勝れた全機現に依拠し、その上で機能するといえる。だからこそ、それを容易に破棄するような卒暴は莫作でなければならない。

また、「指竿針槌の転機を拈じ、払拳棒喝の証契を挙する」については、これもまた禅定力に基づいている。禅定力によって、それらが明確に、無分別として機能するからこそ、「転機」「証契」が機能するのである。それの有無が、素人のまねごとか、真実の行法かを分ける。素人に留まれば、結局これら、無分別なる禅定の働きを会得できずに、「思量分別の能く解する所に非ず」という道元禅師の批判に耐えうることは出来ず、同じく、「豈、神通修証の能く知る所為らんや」なのである。つまり、神通修証という、超能力か何かだと誤解してしまうようでは、「転機」「証契」をもたらした「真の力」は理解できない。つまり、これらは、禅定力の全機現である。

このように、禅定を前提にしているからこそ、それは無分別であって、だからこそ、「声色の外の威儀為るべし、那ぞ、知見の前の軌則に非ざらん者や」に至る。現実に於ける相対知見の外にある威儀〈威力ある堂々なる姿〉なのであって、それは知見の前の軌則でないことはないのである。つまり、〈知見―前〉の軌則なのである。これもまた、無分別なる軌則であり、その実態はまさに、『弁道法』で指摘される通りの「所以に大衆もし坐すれば衆に随って坐し、大衆もし臥せば衆に随って臥す。動静大衆に一如し、死生叢林を離れず」である。私見・恣意としての軌則ではない。この軌則は、叢林の運営そのものである。

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