つらつら日暮らし

仏教に於ける「懺悔滅罪」の話

仏教には「懺悔滅罪」という概念がある。例えば、以下のような文章が参照可能である。

かの三時の悪業報、かならず感ずべしといへども、懺悔するがごときは、重を転じて軽受せしむ、また滅罪清浄ならしむるなり。
    道元禅師『正法眼蔵』「(六十巻本系)三時業」巻


懺悔されれば、重罪も軽受となり、更に、滅罪清浄になるというのである。そこで、今日は、この「懺悔滅罪」について、詳しく論じられた文章を学んでみたい。

  十三 懺悔に罪のほろぶる事
問云、懺悔に罪のほろぶるとは、いかやうなる事ぞや、
答云、懺悔に二つ候、
 一つには、朝暮十悪を作り候、其十悪と申すは、
 ものゝ命をころし、物をぬすみ、男は女を思ひ女は男を思ひ候、これ身に三つのとがあり、
 そら事をいひ言ふまじき事を云ひ、たはぶれ、人をあしく云ひ、なか事を云ふ、是れ口に四つのとがあり、
 生れつきたる分際に随ひて、満足と思ふべきこととなるをあきだりもなく慾ふかく、いかりはら立ち、智慧なく愚かなる、是れ心に三つのとがあり、
 又身のうちに六つのぬす人有と云ふも、眼耳鼻舌身意の事にて候、目にみゆるもの、耳に聞ゆる物、はなにかゞるゝ物、舌に味ふる物、身にふるゝもの、意に思ふもの、此六つそひ候へば十二の盗とも鬼ともなり候、此十二によりて地獄・餓鬼・畜生におち候、外に鬼のありて地獄にいるゝにてはなく候、
 箇様の罪とがをおそれて、
 身にらいはいし、花香を備ふれば、身に三つのとがなし、
 経を読み仏の御名を唱ふれば、口に四つのとがなし、
 信心ふかく、まへに作りし罪科とあらはし、後悔すれば、心に三つの科なし、
 是を懺悔と申候、
 二つには、身とも口とも意とも、分別をなさず、唯心一つなくなり候へば、眼耳鼻舌身のつみとがも主なく、跡なく流るゝ水のごとく、心とゞまる所なく、何の念もおこさず、静かなる所に膝をくみ、心をしづめ、聊かとりつく事もなく、何事も思ふまじき共思はず、身も心も大空とひとしくなり候へば、十悪も十二のつみも、根本なきものにて候へば、煩悩もやがて菩提となり、此懺悔をなす人は、つまはぢきする間に、百万億業のつみをのぞきて、作り居れるとがは、日に露霜のきゆるがごとしといへり、
    夢窓国師『二十三問答』、『禅門法語全集』第四篇(貝葉書院・明治29年)、17~19頁


以上は、南北朝期に活躍された夢窓疎石国師(1275~1351)の仮名法語『二十三問答』から引用してみた。なお、上記のタイトルの通りで、これは第十三問答となっている。別の機会に読むつもりだが、次の第十四問答も懺悔に関する内容となっている。

夢窓国師では「懺悔滅罪」について、2つの見解を出しておられる。一般的には「事懺」「理懺」に該当するが、内容を踏まえて敢えて拙僧が名称を付けるとすれば、第一が「分別懺悔」、第二が「通懺悔」とでもいうべきである。そこで、前者は何を論じているかというと、まず罪を作る条件として、十悪があるとしている。いわゆる身口意の三業によって犯される罪である。

それから、もう一つ、「身の内に潜む六つの盗人」についても指摘されているが、これは、我々が持つ器官である六根、そしてその器官が感じ取る対象としての六境、この二つを足して「十二の盗」としている。何故「盗み」かといえば、この感覚器官による感じ取りを通して、我々自身が外界の様々な事象に対して、煩悩の心を起こすからである。

しかしそれらは、具体的な方法による懺悔、つまり礼拝、読経や仏名読誦、信心による発露、という三種の行によって、身口意の三業が清らかになるとしている。

また、二つ目の懺悔は、分別せずにただ一心をもって懺悔することという。そうなると、先ほどの十悪や十二の盗についても、そもそも起きずに、煩悩は菩提となるという。そうすれば、一心に懺悔を行う人は、つまはぢき(爪弾き)をする間に、全ての罪科が消えるとしているのである。

結局、非常に素朴に捉えれば、夢窓国師は懺悔の力に大いに期待している様子が分かるのである。

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