その「基準」となると、多くの場合には、友達の数の問題であるとか、恋人(家族)がいるかどうかとか、仕事(年収)とか、そういうことになるのか。ただ、結局、そういう「基準」を出してみたところで、「オレは充実していない」と思っている限り、充実はしないようで、しかも、他者に対して「あいつはリア充」だと思う場合が多そう。
常に自分自身何か面白くなくて、でも、他に面白くしている人をリアルで見ると、その途端に本人にとっての関係性が成立してしまい、嫉妬心が起こり、相手が「リア充」に見える。となると、おそらくこれは、自覚的に本人が「リア充」だという人はいないのかもしれない。他の人から、そうだと指摘されることによって成立するだけかもしれないからだ。
つまり、「リア充」というのは、それ自身としての基準があるわけではなく、あくまでも他者との関係性に於いて、一時的に発現してしまうだけの、無住的事象・縁起的事象だといえる。仏教だとこのような無住的・縁起的事象というのは、いわゆる「空」ということである。
夫れ無住をば名づけて虚空と曰う。
又、無住をば金剛三昧と名づく。
又、無住をば則ち名づけて幻と為す。
又、無住をば無始終と名づく。
又、無住をば無辺法界と名づく。
又、無住をば首楞厳三昧と名づく。
又、無住をば処非処力と名づく。
又、無住をば檀波羅蜜と名づく。
『大般涅槃経』巻30の要約
無住で空とはいうが、だからこそ様々な事象に成ることも出来、変化することもある。だからこそ、「リア充」もまた、特定の定義を持つわけではなく、基準を持つわけではなく、様々な事象になり、変化する。その根本を挙げれば、「私よりも幸せな他者」という事である。だからこそ、その本人もいつまで経っても、「リア充」にはならない。
なんともまた、微笑ましい現実である。いや、これは莫迦にしているのではない。ただ、理解するのが難しいといいたいのだ。理解というのは、自分では基準を定められず、他者の中に良さを見出してしまうという、その本人の心のあり方が難しいというのだ。古来より「隣の芝はよく見える」という。「他山の石」ともいう。しかし、その本人が素晴らしい芝を持っていることはないのだろうか。或いは自山には石はないのだろうか。
「リア充」を眺める人も千差万別であって、その状況を異とするだろうから、安易に決定は出来ないだろうが、しかし、ここには自分への自信の無さがあるようにも思う。いくら持っていても、他人への羨望にのみ、良さがあるのならばそうだ。一部の、他力を頼む仏教でもない限り、基本的に仏教とは自らを頼み修行するものだ。その時、頼みとする成仏への可能性を、仏性ともいう。せっかく生きるのなら、わずかでも自信を持ちたい、目標の成就の可能性を信じたい、そこまでするものだ。その意味では、他人の「リア充」など、余り関係ないかもしれない。そのような他人ばかりを羨望で見る者を、我々は「日夜、他の宝を数えて自らには半銭の分無し」(『学道用心集』)ともいうのである。
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