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10年の時を経て(その3)

2005-03-31 19:51:00 | 10年の時を経て
 1995年3月20日の朝のことは今でもよく覚えている。

 目が覚めたのは8時半。大慌てで布団から飛び起きた。今の私ならむしろ早起きに属するぐらいの時間だが、当時はまだ会社勤めをしており、自宅最寄りの新中野駅(地下鉄丸ノ内線)を8時20分頃の電車に乗り、45分には南青山の会社に着くのが通常のパターンだった。

 何で寝坊したかというと、この頃同居していた妹が、たまたま前日から静岡の実家に帰省していて不在だったからだ。当時、妹は私より毎朝30分ほど早く起き、寝ほすけの兄貴を出掛けに叩き起こした後、丸ノ内線と日比谷線を乗り継いで神谷町駅近くの会社に通っていた。つまり普段であれば朝8時過ぎには霞ヶ関駅の地下構内を歩いているはずの人間だったのだ。この日に休みをとっていたのは、あるいは運命を左右する判断だったかもしれない。

 1月17日のブログにも書いた通り、この時、私はもうじき会社を辞めることになっていた。
 前年末の大阪転勤の件で会社(宣伝会議)と揉め、1ヶ月住んだだけの大阪から東京に戻されたのが1月17日。その日の朝に起こった阪神・淡路大震災によって、喧嘩の原因となった『宣伝会議』の別冊大阪特集号がウヤムヤのうちに潰れて以来、私は転勤前と同じ『宣伝会議』の編集部員として結構マイペースで仕事ができるようになっていた。

 そんな私に対して明らかにムカツキながらも内心バツが悪かったのか、社長と、その腰巾着のような上司は、たまに下らんことでイチャモンをつけてくる以外、すっかり頬っかむりを決め込んでいた。私も「先に話すことがあんのはてめーらだろーが」と露骨に踏ん反り返りながら知らん顔で仕事をしていた。何しろ自己陶酔癖のある社長が自室で恐竜の卵をなでながら(本当にそういう趣味があったんだ、この人は)机上で考えた人事異動のおかげで編集部は人手不足に陥っており、他の部員からはむしろ歓迎されたようだった。

「辞めるの止めちゃえば?」などと、時おり小声で言われた。“お山の大将”的なワンマン社長が君臨していたこの会社では、私のような反抗的な性格の人間は短期間でどんどん辞めていくらしくて、社員の多くは去勢されたように大人しい者ばかりだった。学校のクラスに例えれば、成績が飛びぬけて良くない代わりに悪くもなく、特に素行に問題もなければ積極的に手を挙げて発言するわけでもない--そういうタイプしか最終的には残らない会社だったのだ。

 だから、会社の経営に関することでも社員どうしが表立って議論をするような場面などおよそありえず、私の処遇についても上から何も情報が降りてこないまま、こうして時々横目を気にしながら小声で囁き合うのみという、実に不健全な環境がそこにはあった。その一方で、出版社には珍しく毎朝9時からは全社員による朝礼(および「社是」の唱和!)が必ず行われるのだが、ここでも一人で演説に酔いしれる社長の前で、そんな金太郎飴のごとき社員たちがうつむき加減に、気弱な笑みを浮かべつつ黙って話を聞くという、何とも不毛な光景が毎朝展開されていたのだった。

 で、その朝は寝坊したおかげで、そんなかったるい朝礼に出ずにすんだわけだが、なにぶん退社間際だ。嫌みぐらいは言われるかなと思いつつ、会社に「遅れる」と電話したうえで家を出た。新中野駅からて乗った電車は、いつもより混み合って慌ただしく感じられたが「やっぱり遅い時間に乗ると混み合うな」と思った程度で、最初は気にもとめなかった。

 だが、電車が一駅隣りの中野坂上についた時にはもう「何かあったのかな」と思ったことは覚えている。ホームの上を駅員が慌ただしく走っていくなど、普段にないざわつきがそこにはあったからだ。今思えば、その時すでに同駅の駅事務室には、銀座方面からやってきた電車の車内でサリンを吸って倒れた乗客が担ぎ込まれていたのだ。そう、確か中野坂上駅でも死者が1人出たはずだ。

 その後も駅に着くごとに、ホームからは異常を感じさせる空気が伝わってきた。もっとも、乗客は騒ぐでもなく、いつも通りみな座って居眠りをしたり、黙って吊革につかまっていた。四ッ谷駅を出る頃「霞ヶ関駅で異臭が発生しましたので、同駅を通過します」と、およそ普段ならありえない事態が車内放送で伝えられた時も、それは変わりなかった。乗り換え駅の赤坂見附で電車を降りると、駅員が後ろからダーッと走っていき、立ち止まったホームの先端で霞ヶ関の方向を凝視していた。

 会社に着くと、私の遅刻の件は全く不問に付されていた。というよりも、それどころではなかったのだ。ある女性社員の旦那さんが事故に巻き込まれて病院に担ぎ込まれていたほか(結局、大事には至らなかったようだが)、社員の家族からの安否を尋ねる電話も次々とかかってきていた。営業の連中も、とにかく地下鉄がそんな具合では満足に外回りにも出られないということで、もはや仕事にならないという状況だった。この朝は東京じゅうのオフィスで似たような光景が展開されていたに違いない。

 その日は残業もそこそこに家路についたわけだが、帰り道にふと思いついて、丸ノ内線を銀座まで逆送してみることにした。
 霞ヶ関駅は依然として通過扱いになっていた。普段の丸ノ内線は各駅停車ばかりだから、駅を通過する光景は珍しい。しかも、いつもなら大勢の客でにぎわう霞ヶ関駅である。明かりがついたままのホームにはロープが張られ、当然人影はまったく見られなかった。そんな異様な光景が流れる車窓を見ながら「明日からどんなことになっていくんだろう・・・・・・」とぼんやり考えた。

 2日後、今度はいつも通りの時刻に妹から起こされ、何気にテレビをつけると、富士山麓にあるオウム真理教団施設に警察の強制捜査が入ったというニュースが慌ただしく伝えられていた。「そういうことか」と、再びぼんやりと考えた。

「TさんやN君たちが『岩本君を許してやってください』と言ってくるんだ・・・・・・」
 さらにその8日後、部屋に呼び出した私を前に社長は言った。「私が君を許さないと思ってるんだ」
 その通りじゃないかよ、と内心思った。はっきり言って、私は社長以外の誰と揉めたわけでもなかった。社員に対して別に恨みはない。ただ「こういう馬鹿な経営者のいる会社はさっさと見限ったほうがいい」と思い、こっちから三行半を突きつけ、それに社長がキレちゃった結果として、そういう宙ぶらりんの状態になってしまっているのだ。
「・・・・・・反省してるか?」と、珍しく神妙な顔で社長は言った。
「反省してます」と私は答えた。無論、彼が言う意味での「反省」ではなかったけど。
「そうか。だったら・・・・・・まだ、この会社にいたっていいんだよ?」
「もう決めたことですから」とニベもなく私は言った。「明日で辞めさせていただきます」

 翌日、私は実にせいせいした思いで同僚たちに別れを告げ、1年半勤めた会社を辞めた。1995年3月31日。そう、ちょうど10年前の今日だ。

 翌朝からは妹に起こされることもなく、8時半頃にのろのろ起き出しては、テレビを見ながら一人で朝飯を食べる日々になった。
 テレビをつけると、どのチャンネルもほとんどオウムの話題しかやっていなかった。一応見はするものの、5分と経たないうちにいつもスイッチを切った。麻原彰晃のドアップを見ているだけで朝飯が不味くなるというのもあったけど、オウム教団や信者たちの様子、さらにはそれを伝えるテレビ局の連中のメンタリティに対しても生理的な嫌悪感が拭えなかったのだ。

「異常な集団」だって? 何を言ってるんだ。俺なんかつい先日まで似たような集団にいたんだよ・・・・・・。実際、そこに描かれる集団としてのオウムの姿を見ながら「これって、こないだまで俺がいた会社と同じじゃん」と何度となく思ったものだ。そして、それをさも正義感面して伝えるお前等だって所詮は似たようなもんだろ、と。

 会社を辞めると決意した時点で、「次はフリーライターだな」と内心ほぼ自動的に決めていた。もう組織の中に入るのはこりごりだった。もちろん経済的に苦しくなるのは見えていたけど、とはいえ自分の思いと無関係のところで自分の居場所を決められたり、納得のいかない仕事を悶々とした思いのままにやらされる日々はもうまっぴらだった。それよりは、たとえ貧乏になったとしても、それが自分の思うように生きた結果であるなら、まだ納得できるじゃないか(親に面倒や心配をかけそうなのが心苦しいけど・・・・・・)。だったらこれからは、組織に属さないで一人で自由に生きていこう--。

 大震災とサリン事件という、二つの未曾有の出来事に見舞われ、すっかりパニック状態になってしまった世の中を横目に、ぼんやりとそんなことを考えながら、私はひっそりとフリーライターになった。あの日々からもう10年。
 そう、もう10年も経ったんだよ。

10年の時を経て(その2)

2005-03-20 15:28:00 | 10年の時を経て
 ということで書こうと思ったら--また大地震だ。少なくともニュース的には“10周年”はすっかり飛んでしまった格好だ。
(と、言いつつ私も叔父と叔母が福岡にいるので、そちらのほうが気になっている。ここ数年、仕事や何やらで九州には行く機会が多かったし、見知った人々の顔も脳裏に浮かび、気がかりだ)

 時は止まってくれない。しかも、前に向かってしか進んでくれない。
「ちょっと待ってくれ」と声をかけ、降り積もったホコリを払おうとする間もなく、次から次へとどんどん新たに降り込んできては、過去の記憶をたちまち古い地層の奥へと葬り去ってしまう。

 前夜祭(?)にあたる昨日は、内幸町のプレスセンターホールで「『あれから10年』~地下鉄サリン事件の被害者は今~」という集会があった。原稿も抱えていたし、私が今さらノコノコ顔を出すのもどうかなとの思いもあったが、とはいえまるっきりスルーするのも逆によくないなという気もしたので、まずは足を運ぶことにした。

 詳しい内容については新聞などにも出ているので省略。基本的に今回は高橋シズヱさんがある意味“主役”で、壇上には木村晋介さんや滝本太郎さん、私と割に近い席には江川紹子さん(あくまで一取材者として参加してるというスタンスなのか会場の一番後方の席に座っていた)、「家族の会」の永岡弘行さん、そして河野義行さん--という具合に、この問題絡みで著名な関係者は(当の教団関係者以外は)ほぼ顔を揃えていた。

 もっとも、開始時刻に数分遅れて汗をかきながら会場に入った私は、プレスセンター10階の広いホールに、むしろ空席のほうが目立つような聴衆の入りを見るにつけ、複雑な思いを覚えざるを得なかった。さすがにテレビ局の取材チームはひと通り来ていて、会場の後ろにズラリと三脚が並んだりはしていたのだが、途中の休憩時間が終わって第二部が始まる頃になると、彼らは忽然と姿を消してしまっていた。

 確かに「9.11」被害者支援にあたっている関係者を呼んでの第一部も興味深い内容が多々あったけど、主催者とすれば「今、サリン被害者に必要なこと」と題された第二部のほうこそメディアの人間にもきっちり取材してもらいたかったんじゃないかと思う。このへんに問題の当事者とメディアの側のズレがあるような気はした。

 たぶん多くのメディアの人間にとって、ニュースの話題としてのオウム問題を扱ううえで「今、サリン被害者に必要なこと」はそんなに重要ではないのだ。彼らにとっては「獄中の麻原は今どうしてるか」とか「上祐失脚後の教団内の権力構造はどうなっているか」とか「逃走中の菊地直子や平田悟は今どこにいるのか」というのが「オウム問題」なんであって、この日の集会などは一つのお約束行事といった感じでしかとらえていないのだろう。だから、一通り会場の風景を撮り、休憩中のロビーで関係者のインタビューをいくつか抑えるや、夕方や夜のニュースの編集もあるんで・・・てなことでさっさと帰ってしまったんではなかろうか。

 集会は、もっぱら国に対してサリン被害者への補償やケアなどの施策の充実を求めるというトーンで進められた。これもマスコミ的にはあんまり話題として面白くなかったのかもしれない。オウム関連の集会といえば、少し前ならば「オウム反対!」をみんなで一致団結して叫ぶといった絵柄がお約束としてあったからだ。

 とはいえ、被害者側の方々からすれば今なお教団が残っていることには腸が煮えくり返る思いはありこそすれ、なおも続く苦しみへの償いがまるで期待できない現在の教団などを相手にアレコレ言っているよりは、国に対してしっかりとした補償を求めたいというのが切実な思いであるに違いない。

 そんなわけで集会は静かに、穏やかな雰囲気の中で終わった。少し離れた席にいた磯貝さんには目であいさつはしたけれど、それ以外はほとんど誰にもあいさつせず、終わった後にはすぐに帰った。オウム問題関係者はそれぞれの間で、みな結構複雑な事情を抱えている。こういう席で下手に動き回って、座を乱すようなことはしたくないし、この日は参加者の一人としておとなしく話を聞くにとどめた次第だ。
(この項つづく、かな?)

10年の時を経て(その1?)

2005-01-17 22:45:00 | 10年の時を経て
 なんかいきなりトラックバックが貼られているな。北海道の苫小牧の方らしいけど、できて2週間しか経ってないこんな小さなブログを見つけていただいて誠にありがとうございます!

 が、実をいうとまだ私は「トラックバック」ってどういうことなのかをよく理解していないのだった。Uちゃんから「はじめよう! みんなのブログ」とか「ウェブログ超入門!」という本を送ってもらったので、勉強しなければと思う。

 それにしても本当に何もわからない状況で始まってしまっているわけですが、どうかこのゾウリムシみたいな単細胞メディアがだんだんと多細胞生物へと進化していく過程暖かく見守っていただければと存じます。って、んなこといったらマトモなレベルまで到達するのに何万年かかるというのだ!

 何万年はともかく、10年目の1月17日だ。「何周年」っていう節目にどれだけ意味があるのかという気もするけれど、やはり個人的には感慨を覚えずにいられない。

 あの日も今と同じ中野のこのアパートにいて、朝7時のテレビニュースで地震の発生を知った。というか、当時はこの狭いアパートに妹と同居していて(Uちゃんの奥さんになったほうとは別。私には妹が2人=双子がいる)、先に起きてテレビをつけた妹が「関西地方で大地震だって」と教えてくれたのだ。
 布団の中にいた私は一瞬、まだ眠りの中にいて夢を見ているのかと思った。なぜならつい2日前まで私は大阪に約1ヶ月間住んでおり、静岡の実家に立ち寄った後で前日に東京へ戻ってきたばかりだったからだ。

 94年の11月、私は当時務めていた『宣伝会議』の社長から、新たに開設した大阪本部の編集担当として転勤するよう、突如命じられた。私はちょうどその1年前ほど前に『宣伝会議』の編集者として中途入社していたのだが、はっきり言ってワンマンの社長とは、スターリニストとトロツキストの衝突みたいな感じでまるっきしソリが合わず、異動は明らかにテイのいい厄介払いみたいなものだった。

 営業担当の若手社員との2人だけで大阪へと向かったのだが、堂島浜のガランとしたオフィスで毎朝、東京本社でやってたのと同じ朝礼と社是の唱和(「私たちは宣伝広告業界の発展に貢献します!」)を2人でやりながら、何バカなことやってんだろうなと内心ウンザリしていたものである。

 真面目な相棒がさっそうと外回りに出ていった後は東京から頻繁にかかってくる電話をほとんど無視して、椅子に引っくり返って漫画本を読んでいた。だいたい大阪で別の雑誌を出すわけでもなく、編集実務は引き続き東京で行うことになっていたから、大阪にわざわざ編集者を置いておく必要なんか本来はないのだ。

 とはいえ、少しは真面目に取り組もうとしていた仕事もあった。大阪本部開設記念に『宣伝会議』の大阪特集別冊を出そうという話になり、転勤間際には上司を通じてその具体的な企画案も出したし、大阪に来てからも地元のマスコミ関係者に独自に会って話を聞いたりもしていた。

ところが、その後東京から出てきた企画が、タイアップ広告で大阪の広告業界から一気に銭をふんだくろうといったロクでもないものだったことから「こりゃだめだ」と、会社に見切りをつけることを決意。年末納会のために戻った東京本社の社長室で三行半をつきつけたわけだが、ヒステリックな社長はわめきながら机を「パーン!」と叩いていたものだ。

 で、年が明けるや一旦大阪に戻ったものの、「やる気のない男をおいておくわけにはいかない」ということで、ほどなく東京に戻され、3月末までに東京で大阪別冊の進行業務を一通り済ませたうえで退社することになった。

 一方で、宣伝会議の関連会社(富士テックとかいう出版とは全然関係のない会社)の大阪支社も同じ場所に開設することになり、私は当時住んでいた大阪市内のアパートを新たにやってくる社員のために早々に明け渡すようにいわれた。

もともと転勤の前に「大阪のアパートぐらい自分で探しに行きますよ」と言っていたのを、会社が「なぜ会社と一緒に選びにいかない?」と言って、営業担当と一緒のところに借りさせていたのだ(とにかく社員を拘束したがる会社であった)。

 しかも帰路の引っ越し費用とか交通費は支給してくんないというんだからヒデー話であった。残りの仕事と引っ越し準備のためには東京-大阪間を2往復ぐらいしなければならず、仕方なく「青春18きっぷ」を使って土日に片道9時間をかけて行ったり来たりするはめになった。さすがにこの時は疲れがたまって体調を崩した.(--のだが、その割にどういうわけか今も「青春18メディア紀行」なんていって取材に行くのにおんなじことをやっていたりするのだから不思議だ。意思とは別に身体のほうは実はこれで味をしめて病み付きになったのかもしれない)。

 1ヶ月住んだだけの大阪のアパートで、まだ一部梱包も解いてなかった荷物を運送屋のトラックに積み込んだのは1月15日の午後だっただろうか。覚えているのは、作業がすべて終わり、伝票を記入しながら配達人が言った次のひとことだけだ。

「今日が1995年の1月15日で・・・・・・東京にお届けするのが1月17日、と」

 その日付が、この国の歴史において永久に残るものになろうとは、もちろんこの時はまったく予想だにしていなかった。

 2日後、騒然とする会社を「引っ越し荷物の受け取りがあるんで」と露骨にケロリと言ってやりながら早抜けして自宅に戻った。大阪に行った後も、中野のアパートは妹に又貸ししていたのだ。それにしても2人分の荷物が詰め込まれた6畳一間のアパートはほとんどジャングルのごとき様相となり、5ヶ月後に妹が別のアパートへと引っ越していくまでずいぶんと窮屈な状況が続いた。

 その妹の転入・転出を含め、この時期は半年間で4回も引っ越し作業をやったことになる。これにはさすがに懲りたのか、10年後の今も私はまだ当時と同じアパートにいる。

 こんな具合に、誰しもそれぞれが抱えるいろんな状況の中で「あの日」を迎えたんだろうなと思う。よくアメリカ人は「ケネディが暗殺された時、あなたはどこで何をしていた?」といってあの事件を振り返るそうだけど(最近なら「9.11」だろうか)、歴史上の重大な事件や事故は、こうして人々の記憶に深く刻まれていく。そこには、いくら語られても語り尽くされることのない、無数の物語がある。

 宣伝会議が出そうとしたバチ当たりな大阪別冊は、この混乱のどさくさの中で結局、ウヤムヤにされたまま消えた。ざまーみろである。会社からは別冊中止について正式な発表は何もなく、さすがにバツが悪かったのか、社長も上司(ナンバー2の腰巾着)もしばらくは私には声が掛けづらかったようで、3月末の正式退社までの間、以前と同じ雑誌編集の現場で私はずいぶんのびのびと仕事をさせてもらえたのであった。

 ただ、正直言うと、たった1ヶ月だけいて、満足な付き合いもできなかった大阪の街には、今でも何となく申し訳ないというか、変な後ろめたさのようなものも覚えていたりする。別に何か自分のせいで迷惑をかけたというわけでもないんだけど、あの直前に街を離れてしまったということが、どこか・・・・・・。

 んで、いよいよ3月末の退社日が近づいてきた頃になって、今度は通勤に使っていた地下鉄の路線で例の大事件が起こるわけだが--まあこれは今度の3月のその頃にでも改めて書くこ、とにしましょ(笑)。そうです、こちらもいよいよ10周年だ。