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A級戦犯たちが眠る場所②

2007-01-11 01:17:52 | “スガモプリズン”取材記
 まあ、興亜観音については既にいろんな人がウェブ上でも紹介しているようだし、驚いたことに公式サイト(これについては後述)もあるので、関心のある方はそれぞれ調べていただければと思う。ただし、実際に訪ねてみた私の印象でいえば、門外漢がふらりと通常のお寺参り感覚で訪ねていけるほどにツーリスティックな場所でもなかった。

 その日も三が日中だったというのに初詣客らしき人の姿は皆無。というか、それも無理のない話で、何しろ県道脇の標柱からして既に述べた通り、うっかりすると見過ごしてしまうような感じだったのだ(よりによってすぐ前の路上に消防栓の柱が立てられ、その影に隠れる格好になっていた)。

 しかも、そこから斜面を登っていく参道の状態たるや、はっきりいってボロボロだ。中腹に設けられた山門の前までは一応クルマで入れるだけの道幅が確保されているものの、全体にかなりの急斜面で、荒れたコンクリート舗装の路面は階段になっていないぶん、やたら歩きにくい。空模様がおぼつかない日だったし、雨が落ちてこなかったのは本当に幸いだった。

「飯田(進)さんに来ていただくのは無理かなあ……」と、息を切らしつつ参道を登りながら考えた。実は若尾さん(TVカメラマン。現在、飯田さんについてのドキュメンタリーを制作中で、私もそこに参画中。ここここを参照のこと)が一足先に先月ここを訪れていて、「行ってみるといいですよ」という報告ももらっていたのだ。いずれ再びやってくることになるとは思うが、今年で84歳の飯田さんはもちろん、お年寄りや体調の悪い方々にはお薦めできないロケーションだ。

 山門をくぐったところの東屋で、こんなものを見つけた。



 さらに細い参道を上がっていくと、行く手に比較的新しい風情の民家が見えた。不審者の接近を感じ取ったのか、犬の吠える声が聞こえてくる。

 と、その民家から犬ではなく、丸坊主頭に紺の作務衣をまとった初老の女性が駆け出してきた。私を見るや合掌し、「ようこそおいでくださいました。本堂はこちらです」と坂道の上のほうを指し、そのまま私の後ろからついて歩いてきた。ここを管理している尼僧さんのようだ。本堂下の観音像や「七士之碑」(これが松井大将ら処刑者を弔う碑。吉田茂の書による碑文が刻まれている)を見ている間に、彼女は本堂へと上がっていき、突然の参観者を受け入れる準備をする。

 本堂は山腹の見晴らしの良い場所にあった。本堂前のステージからは相模灘に面した熱海の海岸線、さらには伊豆半島の山々が見渡せる。









 本堂を訪ねた後、すぐ脇の鄙びた休憩所で、尼僧さんからお茶菓子をいただきながらお話をうかがう。伊丹妙徳さんという方だった。若尾さんが先日訪ねた時には会わなかったそうだが、「その時は妹が応対したようで、いずれまた別の方がお見えになるらしいというお話は聞いていました」と、にこやかな表情で言う。親御さんの代から引き継ぎ、現在は妹さんと一緒に下の庫裏(先刻の民家風の建物)に詰めながら管理にあたっているようだった。「私も今で60歳ですから、昔のことは聞いた話としてしかわからないんですよ」と、静かに笑う。

 そう、東條英機や松井石根ら、ここでは「七士」とされる戦犯7人が「スガモプリズン」で絞首刑にされたのは、伊丹さんがまだ幼少だった1948(昭和23)年12月23日のことだった。「後の天皇の誕生日を狙い、敢えてその日をアメリカが選んだ」いう人もいる。

 ともあれ、処刑後に7つの遺体は横浜の久保山にあった火葬場まで運ばれ、そこで荼毘に伏された。日本側は遺骨を7人別々に分けた形で運び出そうとしたらしい。だが、

「線香の香りでわかっちゃったみたいです」と伊丹さん。つまりそこでアメリカ側に見つかり、一悶着起こったらしいのだ。あげくに遺骨はゴチャゴチャにされ、多くはアメリカ側に持ち去られた(東京湾に捨てられた?)らしいのだが、偶然残った一部が日本側の手にわたり、やがて熱海にあった松井石根の自宅まで運ばれた。

「知り合いの方の遺骨だが、然るべき時期がくるまで誰にもわからないよう保存しておいてください」と、運んできた人は言った。それ以上の細かい経緯は説明されなかったが、松井が建立した興亜観音を守っていた伊丹家の先代は、それだけで事情を察したという。

「ですから昭和34(1959)年(上記「七士之碑」が建てられた年)までは遺骨の(埋葬)場所をあっちこっちに移し変えながら守っていたんです」と伊丹さんは説明した。そうでもしないと、いつ暴かれてしまうかということだったらしい。

 現在、興亜観音は「宗教法人礼拝山興亜観音」によって運営され、有志による「興亜観音を守る会」が施設老朽化にともなう改築事業の費用を支援しているのだという。最近では本堂前のステージ(以前は京都の清水寺のような木製だったが現在では鉄製に)や、先刻伊丹さんが出てきた庫裏の改築などを行ったほか、上記の公式サイトも「守る会」で開設しているのだとか。もっとも、御他聞に漏れず会員の高齢化が進むなど、運営面ではいろいろと課題も抱えているようだ。

 休憩所の中には、いろいろなものが飾られていた。日中戦争当時の南京市内を俯瞰した絵図や、松井石根が収監中のスガモプリズンの中から興亜観音にあてて送った書面、教育勅語等々。「難しいことはわかりませんから」という伊丹さんだが、さすがに個々の展示品についての説明は立て板に水を流すがごとくだった。











 写真を撮ってもいいですか? との申し出にも、伊丹さんは「どうぞどうぞ!」と実に屈託がない。本堂の前からの見事な眺望に「デートコースになっちゃいそうですね」などとアホな感想を漏らした私にも、ひたすらにこにこ応じるのみだ。

「あらためてまた仲間と一緒にうかがいますよ」と言ってその場を辞す私に、伊丹さんは合掌しながら「ぜひまたお越しください」と、深々と頭を下げた。もと来た参道を降り出すと、頭上から独特な調子の太鼓の音が響いてきた。

 その太鼓の音に送られ、急な坂道をとぼとぼと降りながら、やはり複雑な思いが胸の中に去来した。
 半年前、スガモプリズン跡の石碑の前で、湧き起こってくる不愉快な疑念を飯田さんに向かって思わずぶつけた時のこと。あるいはかつてオウム問題を取材していた頃、信者と住民側の双方のもとに行って話を聞きながら、どちらの言説に対してもザラリと感じた違和感。そして、それと裏腹の、彼らがそれぞれ抱える日々の営みや、自らにとって大切なものを守りたいと願う心象への愛おしさ……。

 まあ、このへんの思いはもうちょっと整理しなおし、なおかつ勉強し直してから改めて書こうと思う。

 ただ一つだけ、そんな中で今のうちに書き記しておくと、数日前の年末に処刑されたサダム・フセインのことも帰り道では考えた。彼の遺体は、一応故郷へと移送され、一族の墓地に埋葬されたという。

 彼の墓所を、イラクの人々はこれから先、どのように処遇していくのだろうか。自分たちを強権の下に支配した独裁者として唾を吐きかけるのだろうか。それともアメリカによって殺された自国の指導者として、人目を偲ぶかのように密かに悼み続けていくことになるのか。

 というか、もしイラク人から「日本では過去にどうしたんだ? たとえばトージョーたちの時などは……」と聞かれたら、我々はどう答えればいいのだろうか。靖国神社や、スガモプリズンの処刑場跡の石碑や、この興亜観音などに案内して「こうなってます」と、ありのままを見せればよいのだろうか。見せたとして、彼は納得してくれるのだろうか……。

 いずれにせよ、ここには近々またやってくることになると思う。また、戦犯たちの遺骨を祀った場所は、実はここ以外にも愛知県内にもう一ヶ所存在する。そちらも早いうちに訪ねてみたいと思っているところだ。

A級戦犯たちが眠る場所①

2007-01-07 01:42:00 | “スガモプリズン”取材記
 帰省したついでに訪ねてみた。場所は熱海にある。

 正月の観光客で賑わう熱海駅前から、客足も疎らな路線バスに乗り込む。どんよりとした雨雲の下、海岸の急斜面沿いに右へ左へ曲がりくねりつつ延びる県道上を、沖合いはるかに霞む初島を眺めながら揺られること約20分。バスの終点「伊豆山」まで乗り通した少ない客のほとんどは、バス停のすぐ上の「身代不動尊」への初詣へと向かっていく。

 一方の私は独り、さらに続く羊腸の海岸道を先へ向かって歩き出す。が、ほどなく目的地への入口に行き当たった。というか、下手すると目印に気づかず行過ぎてしまったかもしれない。歩きながら何気なしに踵を返した途端、その石柱は向こうから視界に飛び込んできた。



「興亜観音」。そして、写真だと見づらいかもしれないが、その横には「陸軍大将 松井石根 書」とある。

 松井石根といえば、かつての大日本帝国陸軍大将であり、日中戦争時には上海派遣軍・中支那方面軍の司令官。というより、今の日本人にとってはむしろ戦後の「東京裁判」(極東軍事裁判)において、あの「南京大虐殺」の責任を問われて死刑判決を受け、絞首刑にされた「戦争犯罪人」としてもっぱら記憶されている人物である。

 で、この興亜観音は1940(昭和15)年の春、その松井が、熱海にあった自分の家にほど近いこの場所に「日中両国の戦没者を弔いたい」との目的から建立したものだ。

 そして、松井が処刑された後には、松井とともに処刑された東條英機などの「A級戦犯」7人の遺骨が、実はここに埋葬されていたのである(松井は厳密には「A級」で処刑されたわけではないとの説もあるようだが)。

 昨今の「靖国問題」をめぐる論争の中で、しばし「別に靖国神社にA級戦犯たちの遺骨が埋葬されているわけじゃないんだから……」といった話を耳にすることがある。では、処刑された東條英機たちの遺体はその後どうなったのだろう? 

 日本人が故人を悼む行為において「遺体」の処遇は最大かつ重要なポイントだ。

 ハワイ沖の「えひめ丸」事件において、犠牲者の遺体収容を執拗に求めてくる日本人たちの精神構造を、真珠湾攻撃で海中に撃沈された艦船や乗組員の骸を今も近くの海域に眠らせたままのアメリカ人は理解できなかったという。中国では死者の骨は遺族が近所の野山に埋めて終わりだそうだ。モンゴルの遊牧民族は「死者を埋めた場所は誰からも侵されないようにする」のが鉄則で、チンギス・ハーンの埋葬地が永年未解明だったのはそのせいらしい。インドのヒンドゥー教徒は荼毘にふした死者の遺灰をガンジス川とかに流してしまうし、ゾロアスター教徒はムンバイ(ボンベイ)の「沈黙の塔」で、遺体を鳥に食わせる(鳥葬)という方法で始末する。

 その点、日本人ってやつは今度の幡ヶ谷の事件はもとより、かの佐川一政さんや宮崎勤さんなどの例を見るまでもなく「遺体をどうするか」ってのが「死」を自分なりに納得するうえでの大きなポイントになるのだ(そんなヤツと一緒にするなって声が飛んできそうだと思ったから、敢えて一緒にした)。

 そんな日本人が、戦争犯罪人を祀るの祀らないので大騒ぎしているわけだ。そうしたことから考えてみるに、その遺体や遺骨の在りかが、まるで問題にならなかったことのほうが不自然だともいえる。

 東條や松井ら7人の処刑は、1948(昭和23)年の12月23日(つまり今の天皇誕生日)に執行された。遺体はその日のうちに横浜の久保山にあった火葬場で荼毘に伏されたという。遺骨はそのまま東京湾かそこらに撒かれる手はずになっていたらしい。

 しかし、遺骨は密かに持ち出され、それぞれ遠く離れた2つの場所に埋葬された。そのうちの一つが、この興亜観音なのだ――というわけなのだが、とりあえず続きはまた明日以降に。
(つづく)

『記念誌』完成

2006-10-15 00:06:30 | “スガモプリズン”取材記
 先月まで足掛け2~3ヶ月にわたって編集作業に追われた「記念誌」がついに完成。


 非売品であるため、本ブログをご覧のみなさんの大半には閲覧いただけないのが残念。ただ医療関係のライブラリーなどには入るんじゃないかと思われるので、見かけた時にはよろしくお願い申し上げます。飯田さんも珍しく「破顔一笑!」という感じの顔写真を載っけてるし。


 それにしても飯田さんが、巻頭言の末尾(私がインタビューした)で語っていた「『福祉』とは『戦争』の対極にあるものだ」という言葉には、思わず深く考え込んでしまう。

「国が人々に対して、国家のために命を投げうつことを要求するのが戦争であるならば、福祉とはまさにその逆で、国や社会がそこに暮らす人々が長く幸せに生きていけるようにする行いだと信じるからだ」

 なるほどなあ……と思うんだけど、その発言の主がかつてニューギニアの悲惨な戦場で死にかけた挙げ句にスガモプリズンに戦犯として服役を余儀なくされ、出所後に社会生活へと復帰してまもなく、お子さんがサリドマイド禍に見舞われたことから、巻き込まれるように医療の世界へ……という84歳の男性の言葉だと聞けば、誰しも上の台詞の背後にある含蓄を感じずにいられないだろう。



 で、上はこの2~3ヶ月ほど通い詰めた横浜市西神奈川の「小児療育相談センター」。上記両法人の本部機能を担いつつ、地道に小児医療に取り組んでいる。

 横浜市内の東横線は最近地下化されたが、上のビルは渋谷からの電車が東白楽駅を通過してほどなく、電車が地下のトンネルに入る直前、進行方向左手の車窓にちらりと見える。記念誌の仕事は終わったけど、たぶん私はもうしばらく、この建物に出入りすることになりそうだ。

畑違いな日々

2006-09-07 12:03:58 | “スガモプリズン”取材記
 気がつけば8月はとっくに終わり、9月も既に1週間が経ってしまっている。それにしても、このところ慌しい日々が続いている。いや、仕事量自体はそれほどでもないと思うし、睡眠もきっちりとっているのだけれども、なんというか、いろんなことに首を突っ込みすぎていて、しかもそれらが切れ目なく次々に押し寄せてくるような感じなのだ。

 本業の文章仕事にしても、どういうわけか、今までとはまるっきり「畑違い」の分野からの話が舞い込むようになっている。例えば先週はずっと、横浜の西神奈川にある「小児療育相談センター」というところに毎日通って、事務室の一角で編集・執筆・校正・校閲などの作業に携わっていた。ここは本ブログで最近たびたび紹介している飯田進さん(元日本兵)が理事長を務めている財団法人神奈川県児童医療福祉財団の施設で、同財団と、関連団体の「社会福祉法人青い鳥」が創立から今年でそれぞれ40周年・20周年を迎えるのに際して記念誌を出すことになり、たまたま飯田さん個人へのインタビューを続けていた私に仕事のお鉢がまわってきたのだ。

 私自身は医療に関してはド素人である。もちろん、記念誌に掲載される文章の大半は財団の方々が自ら執筆し、私はもっぱらそれをまとめる作業を担っているわけだが、正直なところ、そこに書かれている内容についてはほぼわからない。何しろ普段からおよそ縁の無い小児医療の専門用語がそこには頻出しているのだから、わからないほうが当然なのである。したがって私の役回りは執筆仕事に関して言うと、各年代ごとに社会で起こっていた出来事の年譜作成や飯田理事長へのインタビュー程度。あとはひたすら文章が日本語的に正しいかどうかチェックしたり、ページ割を決めたり……というものになる。

 ただ一方でもう一つ大変なのは、私が医療の素人であるのと同様、あちらの方々も編集作業や原稿書きに関しては素人だということだ。実際、当初はそれぞれの方々が6月頃までに原稿を書き上げ、それを私がリライトのうえで印刷所に入稿する――という話だったのが、やはり原稿が遅れに遅れ、結局上がってきたものから先に印刷所にぶちこむことになった。なので、当然文章は書き手の方によって書き方やまとめ方がバラバラ。しかも一般の雑誌や書籍などでは作業の前段階として必須の「台割」すらもなかったため、後から私が大慌てでこしらえた。
 ちなみに場所は医療センターの一角にある事務室で、館内には診察に訪れた子供たちや親御さんの声が終始響き渡っている。自閉症で子供の頃からここに通って、診察がてらお手伝いに来ているという男性も同じ事務室の中にいて、しゃべりだすとなかなか止らなくなったりするなど、普段やっているのと同じ編集や校正の作業なのに、その中身と周囲の仕事場環境だけがいつもとずいぶん違う。

 で、こちらのほうがようやく終わりが見えてきたと思ったら、またまた仰天するような仕事が舞い込んできた。なんと「宝塚と日劇とSKDの歴史について書け」というのだ。

 依頼してきたのは旧知の編集者であるTさんだが、最初に電話で話を聞いた時には受話器を握り締めながら「何でまた」と思わず絶句した。さっそく新宿の喫茶店まで行って打ち合わせをしたのだが、何でもパンフレットのようなところに掲載する短い文章らしい。宝塚にしてもSKDにしても日劇にしても、それぞれについて根強いファンや専門家がいるわけだが、逆にそうした人たちに頼むのは、ある種その分野内での政治的な絡みにもひっかかってくるところがあり、文章もその筋向けのコテコテのものになってしまいがちである。君が宝塚や日劇などを見るわけがないというのはよく知っているが、だからこそ違う分野の目から見たレビューということでお願いしたいのだ――ということだった。

「つまり『現代思想』や『ユリイカ』あたりの雑誌でそういう分野を特集する時のような感じで書け、ということですね?」
「そうそう。あるいはあなたが『GALAC』でやってる『青春18メディア紀行』みたいな」
「…………それだとまたずいぶん違うような気がしますが。まあでも、わかりました。Tさんからのお話とあっては断れませんが、締切はいつまで?」
「2週間後」
「―――――――――っ!」

 てなわけで滅茶苦茶タイトなスケジュールで仕事を引き受けてから既に1週間が経過してしまい、はたして大丈夫かと思いながら関連文献をいそいろと読み込んだりしているところだ。その傍ら、実は今日はこれから再び前記の財団の仕事で横浜へ。なお、明日から週末の三日間も横浜に通うが、これはこれでまた全然別の案件であったりする。それにしても、いったい何なんだろうこの状況は。なんだか本当に切れ目というものがないし、気の休まるところがないよ。

防衛庁市ヶ谷台ツアー

2006-08-04 18:57:05 | “スガモプリズン”取材記
 もう昨日になっちゃったけど、8月3日付の朝日新聞朝刊オピニオン欄「私の視点」に、このところ本ブログでも何度か紹介している飯田進さん(神奈川県児童医療福祉財団理事長:元海軍ニューギニア民政府資源調査隊員)が「靖国参拝 歴史の暗部見据えて議論を」というタイトルで寄稿されていますので、是非お読みください。それにしても、紙面の見開き反対側がワシントンのアーリントン国立墓地についてのルポだというのも上手い組み合わせだね。

 で、一昨日(2日)は午後から、その飯田さんについての映像取材を目下一緒にやっている若尾恭之さんからのお誘いで、都内市ヶ谷にある防衛庁施設(通称「市ヶ谷台」)を見学。構内の「市ヶ谷記念館」に残る旧陸軍士官学校大講堂――あの東京裁判の法廷として使われた場所だ――をいずれ撮影したいと考えた若尾さんが、ロケハンがてらあらかじめ現場を見に行きたいと言い出したのだ。私のほかに、アワプラで顔なじみの大学生・後藤由耶くんも参加。

 さて、割と多くの人はここで「防衛庁の中なんかへそんな簡単に入れるの?」と思うことだろうが、実は防衛庁は一般市民向けの市ヶ谷台見学ツアーというのを毎日(土日祝日を除く)午前・午後の2回開催しているのだ(詳細はこちら)。私も若尾さんから聞くまではそんなのがあるとは全然知らなかったのだが、その若尾さんも少し前に都営新宿線の車内吊り広告で見て初めて知ったんだとか。
 
 1時過ぎに若尾さんと正門前で待ち合わせ。ほどなく、なんと国分寺から自転車でやって来たという後藤くんも到着。


 写真のように、靖国通りに面した正門周辺の佇まいは何ともいかめしい。門をくぐるや、そこら中に立つ警備スタッフが警戒の目線を向けてくる。

 とはいえ、一般見学客に威圧感を与えたくないということなんだろうか、受付での手続きは実に簡単なものだし(少なくとも私が取材で訪ねる日テレとか朝日新聞とか電通とか講談社とかの大手マスコミに比べたら全然ユルユルだった)、警備員もみな民間警備会社のスタッフらしく、制服姿の防衛庁職員や迷彩服姿の自衛隊員が立っているわけでもない。

 受付裏のスペースで見学コースの開始を待つうち、ハンドマイクを手にした女性ガイドさんがやってきて出発。後で聞いたらこの人も防衛庁職員ではなく、民間からの派遣とのことだった。「はとバスのガイドさんみたいですね~」と言ったら「よく言われますー」と笑っていた。


 この日のツアー参加者は我々3人のほかに初老の御夫婦、そして夏休みに入ったせいか子ども4人を連れたお母さんが2人の計11名。多い日は団体客などで100人を超えることもあり、ガイドさんも案内するのが大変だそうだ。


 まず最初は正門前から見学者用エスカレーターで一つ高台にある儀杖広場へ。かつてはここに白亜の旧1号館が建っており、三島由紀夫がそこのバルコニーから演説をぶったシーンはあまりにも有名だ。6年前に防衛庁が六本木から移転してきた際に建てられたヘリポート付き新庁舎が跡地にそびえたつ。折りしも白い制服姿の隊員たちが何やら整列のうえ訓練中。その向こうには市ヶ谷台のメルクマールともいうべき巨大な通信塔(高さ約175m)が。「あの通信塔は今じゃ光ファイバーにすっかり役目を奪られちゃって使われてないって噂は本当ですか?」と余計な質問をしようとして、やめる。


 歩きながら結構バシバシ写真を撮りまくる。写真撮影は原則OKなのだ(ただし統合幕僚監部などが入る庁舎A棟のロビーを通る時はさすがに不可。また展示物へのフラッシュ撮影は禁止)。予想通り、ソリッドな外観を持つ重厚なビル群が立ち並ぶが、非番なのか昼休みなのか職員がジョギングしていたり、グラウンド脇の木陰のベンチでは涼を求めて一息つく人たちの姿も。市ヶ谷駅前から高台を一つ上がったところにもう一つ街があったという感じだ。

 そしてお目当ての「記念館」へ。前述の旧一号館が取り壊された際、歴史あるバルコニーや大講堂などの一部を、通信塔わきの場所に移築したものだ。



 ここでは講堂内に置かれた展示物の見学のほか、市ヶ谷台のこれまでの歴史を解説したビデオの上映が行われる。15分程度のものだが、東京裁判についてのくだりになると、やはりというか説明が細かくなり、途中でいったんガイドさんがビデオを止め「みなさまが現在座っておられますあたりが被告席のあった場所で――」などと解説する。一方で、三島由紀夫事件については新聞記事(バルコニーで演説中の三島の写真入り)が数秒間映し出されたのみ。

 ただまあ、防衛庁としてもさすがに過度な脚色や自己主張をするわけにもいかないってことなのか、全体的には過去の史実についての淡々とした解説に終始。その代わりか、ビデオもガイドさんの説明もとにかくディティールへの解説に力が入っており、「この床の30㎝角のナラ材は旧1号館時代から使われてた7200枚のうち、ゆがみのでた399枚以外は順番もそのまま移設のうえ並べました」とか「この玉座(ステージ中央の天皇専用席)への階段は、陛下が足を降ろされた際、御足に上手くフィットするよう、段のこの部分を膨らませて(あるいは凹ませて)作ってあります」とか何とか……まあ「ようそこまでやるわい」と聞きながら感心したものであった。三島由紀夫が突入時に柱に斬りつけた刀傷も教えてもらったが、うっかりフラッシュをオフにしたまま撮ったためにピンぼけ(泣)。

 その後は厚生棟に移り、小さなホールで再びビデオ上映(今度はイラクPKOにおける自衛隊の活動を紹介)、陸・海・空各自衛隊についての簡単な展示などを見たところで実質的にツアーは終了。目を引いたことに、厚生棟の1階にあったコーヒースタンドはスターバックスだった(笑)。別にそこまでアメリカに魂を売り渡したのかとか何とか目くじらを立てるものでもないけど(マクドナルドの入った生協のお店だって特に珍しくもなかろうし)、なんか可笑しかったな。



 ――とまあ、全体的にはほとんどテーマパーク気分というか、実に気楽なノリで緊張感を覚えることもなく、結構楽しみながら見てきてしまった次第だ。基本的に市ヶ谷台は背広組中心の場所ということでセキュリティにもそんなに気を遣う必要がないのだろうし、防衛庁や自衛隊としても、とにかく対外向けイメージの向上に努めたいというのは本音なんだろう。ちなみに上の写真の「防衛庁を省に」と訴える小冊子のQ&Aには「防衛施設庁の不祥事にきちんと対応していますか?」という質問&回答も入っていた(笑)。

 ともあれ、市ヶ谷台にはいずれまた若尾さんの撮影にくっついて行く機会があるかもしれないけど、あそこは二回行ってもそこそこ退屈しないのではないかと思います。ただ、これを機に今度は横田とか厚木とかの見学にも行ってみたいなという気もしてきたのだけど、ああいうところの見学はいろいろとまた大変なのかもしれないですね。

 ……と、そういえばいきなり思い出したけど、名古屋に住んでいた小学生の頃、近所の子供会の主催行事で、守山自衛隊の見学に行ったことがあったな。ヘルメット被った隊員さんに戦車や戦闘機の脇でいろいろ説明してもらったような微かな記憶しかないのだけれど、今度自衛隊を訪ねるとしたらその時以来だな。しかし、ああいう見学ツアー(何しろ父兄同伴だった)って今やったら結構ややこしい問題になっちゃうんだろうな……。