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Xenoblade2の結月ゆかり実況を上げ終えての感想とかテーマ解説

2019-12-13 10:32:00 | ゼノブレイドシリーズ

まだ予定分を完全には上げ切っていませんが、『Xenoblade2』本編&『黄金の国イーラ』の結月ゆかり実況が完結しました。

ゲームのほうの魅力を伝えたい故に実況成分を薄めにしていました。
それもほぼ解説方面に傾倒していたので、単調な編集になってしまいユーモアに欠けていたのが反省点でしょうか。

それと「結月ゆかり」というキャラクターに引っ張られていた感があり、過激なネタを言わせずらいという点もありました。(言わせる場面があったかはともかく)
ゲームや相方次第でははっちゃけた実況もできそうなんですが、このタイトルではそういうのは難しいというのもありましたね。

まだ『黄金の国』以外のDLC分でもちょっとしたストーリーが語られるコンテンツがあるので、少し間を開けて番外編として投稿する予定です。

ご視聴ありがとうございました。


以下は実況を通して思いついたりした『Xenoblade2』のテーマ考察などのお話。



◇『Xenoblade2』のテーマは「二面性」

この作品において様々なキャラクターが「善と悪」、「表と裏」の要素を持っています。
劇中において起こったメツが中心となった戦いはこれに起因します。

まず「ブレイド」をおさらいすると、「人類進化の監視システムであると同時に人の映し鏡」。
世界に深い絶望や諦めを持っていたマルベーニのブレイドとなったメツは、その精神を強く反映し世界を破壊しようとします。

しかし人の感情はそんなにシンプルなものではなく、マルベーニも人に対しての希望を僅かに持っていたことが伺えます。
つまり、メツとの闘いは「人の心の負の部分」との闘いであり、「神の意志」でも何でもなかったのです。


実はマルベーニだけではなく、様々なキャラクターが二面性を有しています。


◆:理論上同一人物でありながら性格は異なるホムラとヒカリ

これが一番わかりやすい形での二面性の表現だと思います。
性格は正反対で、得意なことも真逆。
ホムラはヒカリが創り出した人格なので二面性とは厳密には異なると思いますが、テーマの入り口として視覚化してあるのだと考えます。


◆:レックスたちが抱えている恐怖

クラウスによって見せられた己の恐怖を反映した幻覚。
レックスですら心のどこかしらで闇を抱えていることが表現されます。
ジークが言っていた「純粋故に危うい時もある」というのは、世界の残酷さや辛辣な事実を突き付けられたときに心がつぶされたり、マルベーニのようになる可能性もあるということでしょう。
これも世界や人の「裏」に触れた場合の話なのでテーマに沿っていると思います。

◆:ヒカリのようなホムラとホムラのようなヒカリ

上記の幻覚内での一幕。
いくら性格が別々の人物だと言っても、内面にはその正反対の要素も含んでいる、
ホムラとヒカリは元は同一だという表現と、
側面や内面、無意識まで含んだ心の本質は誰にもわからない、それもそのはず、本人ですら気づいていない場合すらあるという心の複雑さの表現だと考えます。事実、本編における戦いはそれが原因でぶつかり合っています。

◆:シンの行動

「神を殺して世界を滅ぼす」と言っているシンですが、
ラウラの遺体を擁していたり、超回復能力を持つニアを擁していた理由など、まだラウラのことを諦めておらず希望を持っている節が垣間見えます。

「この道を行けば再びあの笑顔に会える日が来ると、そう信じて」。
『黄金の国』エピローグにて。この時点ではまだラウラを諦めていない意思を感じます。
それとも、感づいていたけどそう信じないと保たなかったのか…。

「あれは戒めだ。神に対して愚かな希望を持った俺自身への」。
本編、メツとの会話にてラウラの遺体のことに触れて。500年の間に人類の闇を見たのか、神の意思とされるメツを見て悟ったのかこの時点で「神を殺す」に目的はシフトしていることがわかります。
「希望」が何を指した言葉なのかわかりません。人類の救済かラウラの復活か、どちらにしてもそれを諦めているセリフですね。

シンは500年前と現在で善と悪が反転しているキャラクターです。

◆:穏やかなクラウスと傲慢なザンザ

クラウスの半身は新たに誕生した「巨神と機神の世界」に飛ばされていたことが明らかになりますが、
こちらのクラウスが穏やかな性格で諦観していたとはいえ比較的慈悲深い性格なのに対し、
向こうに飛ばされたクラウス半身=ザンザは非常に傲慢で身勝手な性格をしています。


ここまで、「善と悪」という言葉を使いましたが、
これは便宜上レックス視点側から見て使っているだけで、それぞれのキャラクターの立場によって何が善で悪かは変化します。
ヴァンダムさんも言っていましたが、大局的に見て善も悪もないのです。
それぞれの思想のぶつかり合いこそが戦なのです。

それぞれの心に光と闇が混在し、世界に表と裏があり、人生には良いことも悪いこともある。
人類の持つ多様性こそが文明を繁栄させ、時にはぶつかり合うということですね。


レックス「シンに言われたよ。あんたを頼むって」

レックス「シンは消えたかったんじゃない。あんたに命を繋げたかったんだ」

レックス「自分に道を示してくれた、あんたに!」

メツ「それで何人が死んだと思ってる!」

メツ「許せるのか? お前は!」

レックス「許せるわけないだろ!でもそれがオレたちのいるこの世界だ

レックス「ならその中で前に進むしかないんだ!

レックス「あんただって――」

レックス「そうやって進んできたんだろうに!」


レックスの出した答えがこちら。
闇もありどんな酷い現状でも、それが人でありこの世界であるならその中で前に進むしかない。
この作品を代表する名言だと思います。

この時のメツも、一人のブレイドとして人類のためにあえて壁として立ち塞がっていたように思えます。





◇『Xenoblade2』とグノーシス主義

本作は物語に「グノーシス主義」をベースとしていることがわかります。
上記で触れた「二面性」はこのグノーシス主義とつながるファクターの一つであると考えます。


◆:グノーシス主義とは

1~2世紀頃に広がった、キリスト教と反対の思想を持った主義。
ざっくり説明すると、「この世に悪が蔓延っているのはそもそもこの世を創った神が善の神ではなく悪神(偽の神)だから」、「この宇宙は善の宇宙ではなく悪の宇宙だ」とする主張、および神話のこと。


世界の惨状を見て闇に染まった当時のマルベーニの思想そのものです。
更に自分から誕生したメツを見て「神の意思」と思い込み、この思想は確固たるものとなります。

マルベーニ「アーケディアには地獄を描いた多くの絵画が収蔵されている」

マルベーニ「だが、実際は案外こんなものなのかもしれないな」

そしてやがて増長し、神の意思は私の意思だと思い込むようになります。

しかし、あながち間違っていない部分もあります。

マルベーニがトリニティ・プロセッサを持ち帰ったあたりから、メツが暴れてもクラウスはこの世界を放置していますし、
クラウスも自身を神だとは言っていません。むしろクラウス自身が自分を罰した神がいるという旨の発言をしています。
つまり「偽の神」に該当するとも言えます。

ゲートを用いた実験を行う前のクラウスもマルベーニと同じような思想でした。
心の光だろうと闇だろうと、そこから出る行動「渇望し追い求める人本来の姿」を、
醜い存在で酷い世界だと切り捨てたクラウスは、ゲートを用いて解決を「外の宇宙」へと求めます。
この外の宇宙はグノーシス主義における「善の宇宙」であるともとれます。

世界を再生し新たな人類が誕生しずっと観ていたクラウスですが、かつての自分たちと同じ歴史をたどる人類に絶望し諦観していました。

「渇望し追い求めるのが人本来の姿」ですから変わるわけがないのです。

しかし人の悪い部分しか見ていなかったクラウスはレックスとの出会いで変わっていきます。

レックス「クラウスさん!」

レックス「この世界のこと、まだ諦めてる?」

クラウス「今は――」

クラウス「お前たちに出会えて良かったと思っているよ」

レックス「そっか――ならオレの答えとおんなじだね」

レックス「ありがとう。オレたちを生んでくれて


クラウス「私は――再び君に向き会えるだろうか」

クラウス「ガラテア――」


永い永い時を観てきてかつ諦めていたクラウスへ救いの一言。
愚かな我々と同じ人類が誕生したと思いこんでいたのクラウスの中だけで、
「人の持つ闇」が再現されてしまったということは希望も持ち合わせており、
人類の再生は間違っていなかったのです。クラウスは実験を止めに入ってくれたガラテアと向き合う視覚があるだろうか、とこれで自分の罪が濯がれたと感じています。
「ありがとう」のシーンでカメラが引いてメンバー全員が映るのが、レックス個人の感想じゃなくてそういう人間も大勢いるという描写になっているのが細かい。



悪の根源を神や宇宙に見出しているグノーシス主義ですが、これに対して反論もあり、
「この世に悪が蔓延っているというのならば善もあるはず。善が存在しなければ悪も存在しえない。なのでこの世界は悪の宇宙ではない」
確かに悪という概念は善がないと存在しえない相対的なものです。

巨神獣界は神の意思で唾棄すべき酷いものに創られたのではなく、そのように見えるのは神のせいではなく人の業であり、
善も悪も両方を内包しているという部分はレックスがたどり着いた思想と同じで、その中でそれぞれの意思がブレイドともに誰かに受け継がれていくというのがレックスの出した答えです。
事実レックスは自身から見た「誰か」であるアデルから受け継いでいます。

グノーシス主義には要約すると「物質は悪の宇宙特有のもので、善の宇宙には霊体のみが存在する」という記述がありますが、
これを見ると、シンの目的「人類の抹殺」はテーマに照らし合わせれば「肉体からの解放」であり、神を殺すのは「この悪の世界の神を殺すことで悪の宇宙を終わらせる」、
つまり自暴自棄などではなくシンなりの大局的な正義であったことが覗えます。
意味は異なりますが、これを踏まえるとカスミを殺した場面での「解き放とう。その軛から」も意味深に聞こえますね。
メツも神を討とうとしていましたし、最期は人類の壁としてブレイドとの役割を全うしました。
ヴァンダムさんの言っていた「奴らには奴らの正義がある」の通りでした。


グノーシス主義は3世紀ごろにはもう退廃していた過去の考えのため言ってしまいますが、
身も蓋もない言い方をしてしまえばグノーシス主義とは「神や世界そのものに人の罪を擦り付けた」ものと言えます。(これも一つの救済である側面もあったのかもしれません)

本作においてはグノーシス主義をベースとしつつも、結論は「神ではなく人の業であった」というアンチグノーシス主義でもあるのです。



ちなみに、グノーシス神話において登場する至高神の名前が「アイオーン」です。
本作のラスボスも「アイオーン・デバイス」と同名です。

グノーシス神話におけるアイオーンは原初の世界を創りだし、その過程でヤルダバオトと呼ばれる神が誕生、
ヤルダバオトこそが「悪の宇宙」を創造した神であると描かれています。

つまり、神にも等しいゲートと繋がる、至高神の同名のアイオーン・デバイスが存在する本作の世界は悪の宇宙ではなく善も内包する世界メッセージがここでも伺えます。

本作の世界の正体が地球であること、この世界での実験により『Xenoblade』の宇宙が誕生したことを鑑みれば、
「原初の世界」が本作の世界であることにも合点がいきます。

更に、『Xenoblade』にはヤルダバオトというフェイス(機体のこと)が登場しますが。
巨神と機神の世界における「偽の神」としての「役割」なので、シリーズ全体を指した場合の神性を持った者ではありません。


仮に『2』が原初の世界での物語、『1』がヤルダバオトの名前関連で悪の宇宙で繰り広げられた戦いであるなら、
「善の宇宙」は存在するのでしょうか。

残る1作品として『XenobladeX』が考えられますが、善の宇宙と言うには上記の二作品以上に残酷で悲哀な描写が目立っている作品です。
もしくは善の宇宙をモチーフだった世界に、別宇宙から人類の始祖たるサマールの民が移住し、それをグロウスが癌細胞と呼び駆除しようとしている…など想像が広がりますが、今後の情報に期待ですね。

ちなみにグノーシス主義にの「グノーシス」は『Xenosaga』シリーズに登場する敵生体と同名で、
こちらもグノーシス主義における善の宇宙の霊体をモチーフとしています。

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