出会い・・・・香港
スネイクは、生暖かい香港特有の、澱んだカビ臭い風をゆっくり吸いながら、北京道を横切ってスターフェリーターミナルの方向に向かった。
今度の計画で、高垣三郎、鄭調教師と中環(セントラル)の中華料理店で、八時に待ち合わせていた。
ちょうど尖沙咀の交差点を渡ろうとした時、観光客らしい日本人女性の声に振り返った。
「ワア!危ないじゃない! 急に押して… アアッ、 ストップ。何するんですか!」
ーーしかし、遅かったーー
香港人の押し屋と、もう一人の若いTシャツの男が、ショルダーバッグをひったくると、赤信号を突っ切って、オーシャンターミナルの方向に、飛ぶように走り去った。
「大丈夫ですか。背中をひどく突かれたようでしたが」
花柄ワンピースの女は、走り去った男を追うのをあきらめた。振り返り、男を見た。
細い不気味な眼だ。動転した眼は警戒している。
「ええ、でもバッグに貴重品がなかったから。少しお金は入っていたけど、パスポートと航空券はホテルに置いて来たし……カードは別に持っているから」
パニックにもならず、落ち着いて話す女性にスネイクは興味を感じた。
やや大柄で、すっきりした細顔の女からは、シャンプーの香りがした。
「日本からでしょう。いつお帰りですか」
「一ケ月のフリーチケットで来て、こちらに仕事がないか捜しているんだけど……来週には帰るつもり」
依然警戒しながら、冨士子はスネイクを改めて見た。
蛇のような眼だけでなく、何か得体の知れない雰囲気を感じた。
「パスポートとチケットが残って不幸中の幸でしたね。
今日は早めに帰った方がいいでしょう、お役に立てませんでしたが気をつけて」スネイクは交差点を渡りはじめた。
「あのう、よろしかったら……」
ーーなぜ自分から声をかけたのかしらーー
偶然の出会いとはいえ、何かこの男に惹かれる所があった。
彼女には単刀直入に切り出す方が良さそうだ。
計画全体を、明確に伝える。多分彼女は聞き入れる。
スネイクは冨士子に対する直感にかけた。
「面白い計画があってね。急にこんな話しで戸惑うかも知れないけど、ゾクゾクする金儲け計画なんだ。どう、興味ある?」冨士子はフッと目を上げた。
飲茶の店は、こういう話がやりやすい。友達連れや、会社仲間、子供を連れた家族が、ゴチャゴチャ話す喧騒は、警戒という雰囲気にはほど遠い。
蝦焼賣(エビシューマイ)を食べる手を止めて、冨士子はスネイクを見た。切れ長の目の奥に凄味が駆けた。この女とは共有出来る。スネイクは、直感が当たりそうだなと感じた。今は、一気に話すにかぎる。
「キイワードは馬。舞台は競馬。時間は三、四年がかり。日本と海外で同時進行させたい。時間と手間の掛かる冒険だ。見返りは全体で二十億円以上。仲間四人として、一人五億円強と言うところかな」冨士子はスネイクから目を反らさずに聞いている。
スネイクも冷静に話し、冨士子の様子を観察した。迷っている。
冨士子はゆっくり烏龍茶に手をのばしながらつぶやいた。曖昧なまなざしではない。
「でも、それって犯罪でしょ」
スネイクが冒険といった内容を見抜いている。当然だ。
「そういうこと。細心の注意と分担が重要で、徐々に進行させて、目標に到達したら、そこで完了。解散ということさ。計画の各々を分担する仲間は、時間と忍耐が必要で、冒険と言ったのは、そういう意味さ。鋭利であるよりも、時間の中で自分をおし通せるメンバーを必要としているんだ」
今度は冨士子が真剣に質問した。
「うまく行くと思う? 失敗の確率と、その時の保証は考えてあるの」なかなか慎重だ。
「君は、競馬のルールを知っているかい」
「知らないわ。ルールって?」
「順番。オーダー順ということさ」
「それがどうしたの?」
「強い馬が順番に勝利して、クラスを上げて王者が決まる。どこの国の競馬も、そうなっている」
「だから?」
「それを利用するのさ。下のクラスから勝った馬が一流なら、計画通りに使ってくる。時間とタイミングが読めるんだ。これが一番重要な事だ。順番に試して様子を見る。計画の未熟な点を修正していく。そして王者のクラスで最後の勝負だ」
「はじめのクラスで失敗したらどうするの?」
「致命的欠陥のある計画は解散。そのリスクはメンバー均等以上にリーダーが負う」
スネイクは、肝心な所だと感じながら、タバコを吸いたいが、数分我慢しようと思った。
「修正出来るミスなら、続行するってことさ」
「ストップ、ゴーは、誰が決めるの?」
「それはリーダーだ」
「あなたなの……」
「計画全体は俺が考えている」話しは峠を越えたと感じた。マールボーロライトを一本口にして、火を付けた。
一応話した、後は富士子の決断だ。
二人用テーブルで深く煙を吐いた。
回りのさざめきが一挙に耳に入って来た。
冨士子はずっと遠くの、家族連れの騒がしさを見ていた。
迷い考えているな。
スネイクは黙って待つことにした。
数分がすぎただろうか。
「面白そうね。冒険して見ようかしら」
特徴のあるデザインの、チソットの時計に手をやる。大きく開いた胸元から魅惑的な白い谷が見えた。
上体を乗り出して、真剣な口調だ。
「それで、何からどうやるの?私はどんな役割を分担するのかしら」「君には日本で三、四年がかりの仕事をしてもらう」
スネイクは、計画の概要と、スケジュールを示した。
富士子には先ずは競馬を勉強してもらう。
全体の構想は見えているが、細部の詰めと、信頼出来る仲間は、これから補強することも、素直に話した。
「ずいぶん時間がかかるのね。成功の保証もないけど、自分を試すいい機会かも知れないわ。このまま年を取りたくないし……」中国復帰一年前の香港九龍の五月はまだ過ごしやすかった。
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