よろず戯言

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宇都宮鎮房

2014-08-06 01:07:59 | 旅行・まち歩き

※本記事では戦国時代に豊前国数郡を支配していた武将、

宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)について書いています。

鎮房以外にも宇都宮氏は一帯に居り、鎮房一族は領地の地名に由来して、

姓を城井(きい)とし、城井鎮房と名乗ります。

歴史書などでは、この城井鎮房で表記されていることも多いですが、

本記事では最も知名度の高い、宇都宮鎮房表記にしています。

 

歴史に興味のない方にはとても退屈な記事です。

 

 

今年のNHK大河ドラマ、軍師官兵衛を一話から欠かさず観ている。

大河ドラマを観るのは、1987年に渡辺謙主演で放送された、

独眼竜政宗以来、実に27年振りだ。

 

一昨年あたりから、軍師官兵衛のゆかりの地として、

福岡県と隣の大分県では、自治体や地元企業を中心に、大々的に官兵衛ブームが起きている。

とはいえ本当のところ、「黒田官兵衛って誰・・・?」っていうのが自分の最初の思いだった。

福岡県民なので、福岡藩初代藩主の黒田長政くらいは知っていた。

それに博多に黒田節という、槍と杯を持って唄い舞う、伝統芸?が存在するのも知っていた。

 

実をいうと、黒田官兵衛を最初に知ったのは、

ハドソンから発売されたWiiのゲーム、

桃太郎電鉄2010 戦国・維新のヒーロー大集合の巻”だったりする。

信長の野望でも太閤立志伝でも戦国無双でもなく、桃鉄なのだ。

桃太郎電鉄、略して“桃鉄”、このブログにもカテゴライズされているが、

小学校のときからプレイしているスゴロクのようなゲーム。

鉄道会社の社長となってサイコロで全国を駆けめぐり、

各県の物件を買いながら、資産を増やしてゆき、

最終的に総資産の一番高いプレイヤーが優勝というゲーム。

 

このゲームの上記、戦国・維新のヒーロー大集合の巻で、

ある都市の物件を買い占めると、そこに縁のある戦国武将や偉人らが、

買い占めたプレイヤーを加勢してくれるというシステムが導入された。

たとえば仙台だと伊達政宗,岐阜だと織田信長,大阪だと豊臣秀吉,

広島だと毛利元就,高知だと坂本竜馬,鹿児島だと西郷隆盛&大久保利通など。

それで博多を買い占めたとき、さっそうと現れるのが、黒田官兵衛だった。

味方になると、調略を駆使して物件を高額,低額のも関係なく、

タダで複数件こちらの物にしてしまうという、チート性能を発揮してくれる。

そんな性能から、参謀的な立場な人物であったことは理解できた。

 

桃太郎電鉄2010~戦国・維新のヒーロー大集合の巻~に登場する黒田官兵衛。

博多を独占すると現れ、プレイヤーの手助けをしてくれる。

調略を駆使して物件をタダで手に入れてくる。

 

それから数年後、大河ドラマの主人公として、この黒田官兵衛が持ち上がった!

ああ、あの桃鉄に出てたジイさんか!(桃鉄でのグラフィックがしわくちゃジジイだった)

これまでさほど歴史に興味がなく、大河を観ることはなかったのだが、

地元ゆかりの人物ということもあり、なんとなく関心が生じてきて、

年はじめの第一回放送から、録画しながら観はじめた。

 

放映開始と同時に、官兵衛に関する書籍なども買って読むようになった。

多くは歴史系の雑誌なのだが、こうなるとハマりだして止まらない。

また官兵衛が信長,秀吉,家康の三英傑と関わりがあったこともあり、

戦国時代、とりわけ安土・桃山時代と言われる信長~秀吉の群雄割拠の時代の、

全国各地の諸大名の勢力分布やその変遷が面白い。

上杉謙信,武田信玄,明智光秀,石田三成,大友宗鱗など、

これまで教科書に載っていた人物くらいしか知らなかったのが、

まだまだ官兵衛と関わりのある範囲のみではあるが、

地方のマイナーな武将もたくさん知ることができた。

 

そんなマイナー武将のなかのひとり、

自分の住んでいる、ここ田川、いや豊前国にもっとも縁があった武将に注目している。

戦国時代に豊前国の数郡を支配していた、武将・宇都宮鎮房(しげふさ)だ。

残念ながら我が田川は、鎮房の支配していた地域から若干はずれるが、

それでもすぐ隣の京都郡(みやこぐん)を支配していたので、

地元を支配していた武将と思って、この宇都宮鎮房に興味を抱きだした。

 

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中津市教育委員会が発行しているマンガ、“黒田官兵衛と宇都宮鎮房”。

黒田びいきのはずの中津市が、史実に基づいて双方を立てたマンガを発行していた。

中津市,築上町で購入できる。

 

“宇都宮”の名が示すとおり、元は下野国(現在の栃木県)出身の名門。

鎌倉時代に源頼朝の命で、平家の残党討伐のため、はるばる九州は豊前国へ渡ってきた。

以来、この地を領地として土着し、宇都宮家は代々この地を治めてきた。

その16代目当主、鎮房は家臣や領民からの信頼厚く、

屈強な大男で剛弓の使い手として名を馳せ、勇将として名高い武将だった。

 

戦国時代に突入し、九州でも群雄割拠の時代に突入する。

特に勢力を伸ばしたのが、豊後の大友宗麟,肥前の龍造寺隆信,薩摩の島津義久、

さらには本州からは毛利元就も攻め寄せてきた。

各地の小大名は領地を守るため、各勢力のパワーバランスを窺いながら強い者に従い、

その命で果てなき戦いを繰り広げた。

宇都宮鎮房も、大内氏や大友氏,島津氏、毛利氏の間で揺れ動き、戦乱の世を渡り歩いていた。

 

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福岡県の行橋市,田川市,京都郡,田川郡内の郵便局で販売されている、

オリジナルフレーム切手、“黒田官兵衛VS宇都宮鎮房”。

ゆくはし官兵衛くん、かわいくないな・・・。

 

本能寺の変後、羽柴秀吉が天下統一に乗り出す。

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、小牧・長久手の戦いで徳川家康と和睦し、

四国征伐で長宗我部元親を降伏させ、ついに九州平定に乗り出してくる。

毛利・大友を傘下に納めた豊臣秀吉の勢いは圧倒的で、

最後まで抵抗した島津義久もついには降伏し、九州を平定する。

このとき鎮房は本領安堵を信じて秀吉側に着いていた。

 

九州平定後、秀吉によって国割り(領地配分)が行われた。

本領安堵の約束のはずが、筑前,筑後,肥前,肥後,そして豊前・・・、

ほとんどの領地が秀吉配下の武将に分配される。

鎮房の領地を含む豊前国6郡12万石は、

九州平定でもっとも功のあった秀吉の軍師、黒田官兵衛に与えられた。

鎮房は代わりに、伊予国(現在の愛媛県)12万石へと移封となった。

加増になったとはいえ、先祖代々の土地をよそ者に丸ごと盗られたうえ、

よその地へと追い出される格好となってしまった宇都宮氏。

到底飲むことはできず、鎮房は秀吉からの朱印状を突き返した。

 

多くの小大名も同じ不満を抱えていた。

新たに領主となった秀吉の家臣らによって太閤検地が始まり、

元の領主だった国人衆や、地侍達はどんどん凌ぎを削られる。

そしてとうとう、肥後国(現在の熊本県)で、不満が爆発。

新たな領主、佐々成政に対して一揆が起こる。

肥後国人衆一揆だ。

佐々成政は自力でこれを抑えることができず、

その責任を負わされて秀吉から切腹させられる。

 

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築上町の産品に貼られていたシール。

鎮房いちおしのピーマンだ!

 

肥後国の一揆に呼応して、豊前国でも国人衆が蜂起する。

それに鎮房も加わり、秀吉・官兵衛に対して反旗を翻す。

天然岩と険しい谷に囲まれた要害、城井谷城で黒田長政の猛攻を跳ね返し、

長政軍を壊滅させて敗走させる。

黒田軍が大敗を喫した唯一の戦い、岩丸山の戦い

宇都宮鎮房は黒田軍を撃退した唯一無二の武将だ。

 

黒田軍は吉川広家の援軍1万を加え、総数1万2千の大群で城井谷城攻略を試みるが、

谷に囲まれた地での鎮房のゲリラ戦法に攻めあぐね、

とうとう官兵衛は謀を用いてこれを鎮める。

鎮房の嫡男、朝房(ともふさ)を人質として黒田へ差し出し、

また娘の鶴姫を、和睦の証として長政に嫁がせるという条件で、

鎮房に豊前国の本領安堵を約束して和睦した。

 

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築上町にある物産館、メタセの森。

その入口の上に、大河ドラマ軍師官兵衛に宇都宮鎮房が登場。

配役は村田雄浩氏に決定したという幕が掲げられていた。

 

長政と鶴姫の結婚の宴を開くということで、

鎮房は官兵衛の居城、中津城へ招待される。

だが、宴というのはウソであり、そもそも和睦自体が、

鎮房を討つために官兵衛の謀った虚偽のものであり、

中津城内にて鎮房は長政により謀殺されてしまう。

 

鎮房に付き添っていた家臣達も城下のにてひとり残らず討ち取られ、

鎮房の居城で留守を守っていた、父・長房と家臣も皆殺しにされ、

更に鶴姫も侍女たちと共に、磔(はりつけ)に処される。

官兵衛に付き添って肥後国に来ていた息子の朝房も、

官兵衛と加藤清正によって謀殺される。

こうして鎌倉以来続いた、豊前国 宇都宮氏は滅びることとなる。

 

先祖代々の土地を守るため、強大な権力に楯突き、勝てない戦に臨み、

最後まで武士の誇りを持って意地を貫いた宇都宮鎮房。

一地方のマイナーな武将ではあるが、その生き様にとても惚れてしまったのだった。

 

鎮房ゆかりの地が、京都郡築上町(ちくじょうまち)。

墓所と城井ノ上城址を見てみたい。

車で1時間たらずで行くことができるので、休みを利用していざ築上町へ―。

 

201号線を行橋方面へと車を走らせる。

香春町(かわらまち)の仲哀(ちゅうあい)トンネルを抜けて、みやこ町(旧:勝山町)へ―。

そこから、有料の椎田道路へと続く、県道58号線を通る。

ここで椎田道路を利用して一気に築上まで行こうと思ったら、

なんか工事で、築上ICが閉鎖されている!

仕方がないので、ひたすら58号線を南下して途中で237号線へ。

 

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県道58号線、“宇都宮街道”と名付けられていた。

 

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しばらく進むと、“宇都宮氏終焉の地”というデカイ柱。

“寒田”と書いて「さわだ」と読む。

  

両脇を山に囲まれた、のどかな田園地帯が続く。

この一帯が、城井谷と呼ばれる谷なのだろうか。

この谷をどんどん突き進み、一番の目的地である、城井ノ上城址(きいのこじょう)まで向かう。

谷が閉ざされ、だんだんと狭い山道になる。

キャンプ場を過ぎて間もなく、その最深部に到着。

たくさんの幟と、案内看板があった。

ここが城井ノ上城址の入口だ。

ここからは徒歩で城門まで向かわなければならない。

 

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城井ノ上城址登山口の脇にある、宇都宮一族之碑。

 

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その手前には、宇都宮氏と城井ノ上城址にまつわる説明看板。

 

だがこの日・・・沖縄に台風が接近していて朝から小雨が降っていた。

そしてちょうどここへ到着したとき、傘も役に立たないようなどしゃ降り。

ちょっと雨足が弱くなるまで待っていよう・・・そう思ってしばらく車内に留まった。

だが雨は一向に弱くなる気配がない。

仕方なく傘をさして外へ出た。

案内看板を見ると、ここから城の表門まで数百mとなっていた。

さらに裏門までは1km、ちょっとした登山だ。

 

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豪雨のため、ここから先に進むのは諦めた・・・。

 

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添田町(そえだまち)の英彦山(ひこさん)から、

みやこ町犀川(さいがわ)を経由してくるルートの方が近いか?

 

せめて天然岩の表門と三丁弓の岩だけでも拝みたかったが、

豪雨はますます激しさを増し、案内看板の先は重機が作業をして道を塞いでいた。

土砂崩れか何かか?

けっきょく、城井ノ上城址は入口まできてこの日はあきらめることにした。

そんな遠くないのだし、天気のいい日にまた来よう。

 

気を取り直して、鎮房や朝房の墓のある、天徳寺に行くことにした。

宇都宮氏の菩提寺で、同じ築上町の城井ノ上城から数キロ離れた場所にある。

県道から少し逸れて、いくつか道を右左折しなければならない場所にあったが、

細やかな案内標識によって、迷うことなくたどり着くことができた。

 

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天徳寺の入口と、駐車場にあった案内看板。

 

わりと急勾配な階段と坂道を登って、ようやっと天徳寺本堂にたどり着く。

だが、本堂に行く前に、まずは鎮房のお墓を拝もうと、

案内看板に従って、駐車場から脇に伸びている山道に歩を進めた。

この山道、“宇都宮公墓参道”と名付けられており、この先が墓所になっているようだ。

この頃には、さっきのどしゃ降りがウソのように、すっかり小雨になっていた。

 

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比較的新しい参道の標識。

脇には幟もはためく。

町内のあちこちでこの幟を目にする。

 

駐車場から登ることほんの数十メートル、ヒノキ林の裾に、

木々の枝葉をすり抜けて降ってくる雨粒を浴びながら、

苔むしたたくさんの古い墓石が並んでいた。

その中央最前列に、その墓はあった。

真ん中に、中津城にて黒田長政に謀殺された、当主・宇都宮鎮房の墓。

向かって右に、肥後で加藤清正に謀殺された、嫡男の宇都宮朝房の墓。

そして向かって左に、城で留守を守っていた際に黒田軍に攻め込まれ討たれた、

父親で前当主の宇都宮長房の墓。

 

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林の裾野に立ち並ぶ古い墓石群。

 

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宇都宮鎮房の墓(中央)

嫡男・朝房の墓(右)

父・長房の墓(左)

 

古く、そして重々しさを感じる墓に手を合わせた。

それぞれの墓石の脇には、最近添えられたのであろう、

説明文の書かれたプレートが設置されていた。

そしてこの三つの墓石、全てに横一文字にひびが入っている。

この宇都宮氏の墓、“胴切れ墓”と呼ばれており、

ひびの位置が、斬られた場所と一致しているとかなんとか。

なんとも狡猾な手段によって謀殺された三者。

その無念さを考慮すれば、このような謂われが付くのも頷ける。

後に中津城内に鎮房の怨霊が出没するようになり、

恐れおののいた長政は、城内に神社を建立し鎮房を祀ったという。

 

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鎮房の墓、墓石に横一文字に亀裂が入っている。

 

墓を拝み、今登ってきた山道をいったん下りて、

天徳寺の本堂の方へ進む。

駐車場からは、鎮房の墓よりも距離があった。

足場のあまりよろしくない石段を登って、お寺の門をくぐる。

別段、特別な作りでもない、本堂が姿を現した。

脇にはおみくじ販売機が(お寺にもあるのね)あった。

そういえば今年はまだおみくじを引いていない!

財布を出そうとしたら・・・財布、車の中に置いてきた!

おみくじのためだけに、また今登って来た道を往復するのも・・・。

おみくじはあきらめた。

 

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宇都宮氏菩提寺、天徳寺・本堂。

鎮房の兜や肖像画なども保管されている。

まったく人気がなかった。

 

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本堂脇にあった、宇都宮氏の説明文。

 

本堂でお参りする。

お賽銭を入れようと思ったが、財布忘れていたのだった。

車に乗り込み、汗を拭って、天徳寺を後にする。

すぐそばの民家の前で、老婆が腰掛けてこちらを見ていた。

過去に激戦が繰り広げられたこの地、

今現在は、とてものどかでいつもの喧噪を忘れさせてくれる。

 

帰りに、築上町の物産館、メタセの森に立ち寄る。

ここは航空自衛隊の築城(ついき)基地の隣ということもあり、

そのグッズが販売されていて、空自マニア必寄の買い物スポットでもある。

敷地内には、戦闘機のレプリカ?も鎮座している。

ここで有名なのが、“隊員食堂カレー”。

築城基地の食堂で、自衛隊員が食べているカレーを、

試行錯誤を繰り返し、レトルト食品としてその味を再現した商品。

で、その隊員食堂カレーの隣に、すごい商品を見つけた。

その名も、“迎撃カレー”!

 

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航空機のパッケージの隊員食堂カレー。

そのすぐ隣に“迎撃”って・・・。

 

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パッケージ裏面には、宇都宮鎮房の説明文と、

城井ノ上城址など、ゆかりの地の紹介が載っていた。

 

宇都宮鎮房をテーマに、レトルトカレーの新商品を開発したようだ。

「迎撃」とは、岩丸山の戦いで黒田長政を迎え撃ち、

完膚無きまでに叩きのめし敗退させたことでネーミングされたようだ。

また鎮房が鋼弓の使い手であったことも、「迎撃」に繋がっているのだろう。

 

さっそくこれを購入して食べてみた。

パッケージには、派手に「辛口」と記されていた。

ふふん・・・辛口って書かれていようが、激辛って書かれていようが、

こういった商品は、たいてい大したことないんだよな。

湯煎で温めて、ご飯にかける。

 

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色は普通のカレー色。

匂いもふつうのカレー。

いたって平凡なビーフカレー、そんな辛そうな雰囲気はない。

スプーンですくって食べてみた。

これは辛いっ!!

今まで食べたレトルトカレーのなかで二番目に辛いっ!

そう、グリコのLEE 20倍の次に辛く感じた。

これは完全に侮っていた。

ヒーヒー言いながら汗だらだらになって完食。

見事に迎撃された。

 

歴史にあまり興味がなかったが、

ここ数年前から、こういうのが好きになり、

地味だけど、こういった史跡をめぐるのが楽しくてしょうがない。

歳をとると、不思議とこうなるもんなのだな。

次こそは城井ノ上城址を探索するぞ!

 

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こんなのも見つけたので買ってみた。

だが、焼酎は飲めないんだよな・・・。

また義弟にやることになるのだろう。

 



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
よく調べられ、驚きました。 (副 潤一郎)
2020-07-11 07:13:01
とても興味深く拝読いたしました。
ありがとうございます。
今後の探求を楽しみにいたします。
返信する
歴史探訪は楽しいです ()
2020-07-16 23:34:15
 
>副 潤一郎さん
 
コメントありがとうございます。
 
この記事をお読みになられたということは、
宇都宮鎮房、もしくは黒田官兵衛にご興味があったのでしょうか?
 
この記事の後に、宇都宮鎮房の最後の砦となった、
城井ノ上城址や、黒田官兵衛,長政に謀殺される中津城、
そして付き添いの家臣たちが討ち取られた合元寺(赤壁寺)などにも行き、
それらも記事にしております。
 
もしご興味ありましたら、これら記事もぜひお読みになってみてください。
 
合元寺
(宇都宮鎮房が中津城にて謀殺された際、待機していた家臣らが討ち取られた寺) 
https://blog.goo.ne.jp/takeo_1213/e/e9331bf51d511335defc00396a6924eb
 
城井ノ上城址
(宇都宮鎮房の最後の砦、城井谷の最深部にある天然の要害)
https://blog.goo.ne.jp/takeo_1213/e/e0708fba1da005fad52e52a3acc763a4
 
馬ヶ岳城址
(黒田官兵衛が豊前国入国の際、最初に与えられた城)
https://blog.goo.ne.jp/takeo_1213/e/d24ce4d0f9d5b082053e68327afd4259
 
中津城
(黒田官兵衛が豊前国の要所として新たに築城した水城)
https://blog.goo.ne.jp/takeo_1213/e/4e5a322113cda0abdadd51f5172bf2f6
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