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函館の歴史  その 5

2015-01-14 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

    安東政季らの渡海       「函館市史」  通説編第1巻第2編 P329            NO  5

 盛季が南部氏に破れて十三湊を放棄した時、盛季の弟安東四郎道貞の子、潮潟四郎重季(しげすえ)の嫡男政季(まさすえ)は、いまだ弱年であったので南部氏に捕われて、糠部八戸に人質となっていた。それがその後成人して名も安東太郎政季と改め、田名部を給せられていたが、享徳3年武田若狭守信広、相原周防守政胤(まさたね)河野加賀右衛門尉(又は加賀守)政通(まさみち)らが、ひそかに計って政季を擁し、大畑から船出して蝦夷島に渡った。


 この政季らの蝦夷地入りについては、「機を見てその覊絆(きはん)を脱したか、もしくは竊(ひそか)に恢復を謀り、事露われて逃鼠(とうざん)したものと考えられる」(『新撰北海道史』)といい、あるいはまた、「田名部の豪族蠣崎蔵人が南部氏に攻められて松前にのがれたという事件と関係があるのではないか」(『新北海道史』)ともいわれ、その真相は明らかにしないが、しかし一方、時あたかも下国安東氏が断絶した翌年のことでもあり、見方によってはこの宗家継承のためもあったと考えることができる。

こうして政季は蝦夷地にあること2年、津軽西浜で故地回復を図っていた出羽檜山安東の正系が敗戦によって絶えたので、康正2(1456)年迎えられてその地に至り、籌策をめぐらして秋田郡を奪いとり、檜山の城主となった。そののち子孫が秋田において勢力を維持し、松前藩が独立するまで蝦夷島の支配を続けた(『新羅之記録』『能代市史稿』)。


 政季が蝦夷地を去るにあたり、弟の下国八郎式部太輔家政を茂別館(上磯町茂辺地)に置き、蝦夷島支配の地位を預け、宇須岸館(本市弥生町)の河野加賀右衛門尉政通を補佐役とし、また、大館(松前町西館)には、同族下国山城守定季を置き、相原周防守政胤をしてこれを助けさせ、武田若狭守信広を上ノ国に置いて、花沢館の蠣崎修理太夫季繁とともにこの地を守らせた。このほか当時いまの渡島半島沿岸には、志海苔館(函館市志海苔町)、中野館(木古内町中野)、脇本館(知内町涌元)、穏内(おんない)館(福島町吉岡)、覃部(およべ)館(松前町東山)、禰保田(ねぼた)館(松前町館浜)、原口館(松前町原口)、比石(ひいし)館(上ノ国町石崎)等が点在して、いずれも安東氏に隷(れい)属していた。

 

 館主(たてぬし)とその性格   P330-P331

      河野政通築城館跡の図 「函館沿革史」より


 

 従って今日の函館市には、河野加賀右衛門尉政通の箱館と、小林太郎左衛門尉良景の拠る志海苔館の両館があった。両者の来歴については、あまりつまびらかにされていないが、河野政通は伊予の越智氏から出た河野氏の後裔とされ、加賀国江沼郡の出身で、のち流浪して南部の田名部に至り、前述のごとく安東政季に従って渡海し、宇須岸に館を築いたといい(『新羅之記録』『蝦夷島奇観』)、小林良景は家系図によれば、その祖先は万里小路藤房に仕え、祖父次郎重弘の時に蝦夷島に渡った(『蝦夷実地検考録』)とある。万里小路家と安東氏との関係は古く、すなわち、「正平十二(一三五七)年万里小路中納言藤房は都落ちして安東氏を頼り、官軍挙兵を企てたるも成らず、子息景房を津軽飯積(いいずみ)なる高楯に安東より分領なし、是に住はせて後、秋田に帰りて補陀寺の開基として入道し」(『亀像山補陀寺誌』)と伝えているから、あるいは小林氏もこれに従属して津軽に至り、次いで安東氏の系列に連なり、その役割を担ってこの地に渡り、志海苔に館を設けて在住するようになったとみることができる。


 前述のように当時安東氏は、北条得宗領の御内人として幕府権力と結びつき、蝦夷を支配し、日本海沿岸部を結ぶ商品流通の活発な役割を果たしていた。しかもこの時代の蝦夷地は、農業を主体とする本土と比較するならば、極めて異質なものであり、ここに住む住民といえば漁労・狩猟民族であるアイヌと、これに雑居する和人であったが、その和人も史料に見られる範囲では、京から流刑された夜討・強盗・海賊のたぐいや、奥羽の戦乱に破れて流れついた武士、あるいは航海中難破した海民や山民といった、いわばそのころの本土の社会概念からすれば、非農民的集団であった。そして彼らは、いずれもアイヌと同じく原始的な漁労や狩猟を主とし、またはそれらの交易をもって再生産を支えていた。

もちろん、当初は和人の集団も少なく、直援アイヌ社会を侵害する状態ではなかったが、交易自体においては両者の社会的発展の格差から、ともすれば略奪的な交易となる危険性は充分に考えられることであった。
 それがため館主は、安東氏の出先機関として、従来から渡来していた和人や土着のアイヌが、生産の地域としている拠点を選んでそこに君臨し、彼我の争乱に備えるとともに、産物や交易の一部を役(やく、税)として徴収し、その得分のうちから何がしかの金銭または特産物を、安東氏(後には檜山安東氏)に貢進して、自らの職権や地位を確保してきたものと思われる。 

注::  河野政通築城館跡の図「函館沿革史」より                                                                              圖解東西三十五間(63,63m)南北二十八間(約50,91m)   980坪(3,240㎡)                                  1間を六尺(約1,818m)    1坪は3,306㎡                                                  

イ  旧八幡宮鎮座ノ箇所幕府政廳ヲ此處ニ創ム則チ方今ノ支廳所在地                                                            ロ   旧松前藩御長屋跡                                                                                                                       ハ   方今取引所上部                                                                                                                           ニ   函館毎日新聞社前                                                                                                                                     ホ  深瀬病院                                                        へ    凡テ土壘                                                                                                                                                          ト    凡テ空濠深サ十五六尺以上維新前迄ニノ丸土壘ノ松樹及ビ空濠淨玄寺脇(即チ今ノ警察署脇)ニ在セリ其他同土壘ノ古木當時尚ホ函   館病院脇ニ残ス  

注:: 「函館沿革史」 著者:福岡竹次郎、佐藤慶吉 著;出版社:旭堂:出版年月日:明32.9;292P   「目次」表題氏 目次 総叙 官衙 神社 寺院 学事 / 111~119商/131~133雑事 函館三大事業 戦争 寄送古記 / 274~292

 

 


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