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函館の歴史  その 4

2015-01-14 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

  

  安東氏の勃興       「函館市史」  通説編第1巻第2編   P324-P326           NO  4

 古代国家の形成という歴史的な背景のなかで、北海道に和人の政治的な触手が伸ばされてくるのは、実に12世紀末からである。
 すなわち、文治5(1189)年平泉の藤原氏が滅亡すると、奥州一円は全国を掌握した鎌倉幕府の治下に属し、鎌倉御家人(ごけにん)の手によって分轄統治されるようになった。

しかし津軽および南部の北端は、漁猟を主とする蝦夷によって占拠されていたため、同じ統治形式をとることができず、安倍貞任の後裔「東夷の酋長」をもって自任する安東氏によって統治されていた。
 この安東氏の出自については、必ずしもつまびらかにしないが、『安東家系図』その他によれば、安倍貞任の滅亡後、その子高星(たかあき)が3歳にして乳母に抱かれて津軽にのがれ、成長するに及んで津軽の藤崎に城を築き、ここを根拠とした。
 

 そして、その子孫安東堯秀(安東五郎)の代に至り、藤崎は、北条氏の嫡流の直轄する得宗領の一つになったものと思われ、時の執権北条義時から蝦夷の代官に任ぜられ、奥羽ならびに渡島の蝦夷を管轄し、その守護にあたるとともに、貢税の徴収と反乱にそなえた。以後北条執権家のいわゆる御内人(みうちぴと、近臣)として、一族のうちから幾人かを鎌倉におくり、北条氏の側近として活躍した。愛秀(よしひで)の代になって、十三湊(とさみなと)に移り、盛季に至る4代の間、ここを本拠地とした。

  

   安東氏系図      このブログは図形が出来ない為、線を描けません。


      良宗       千代寿丸 (十三歳にて戦死)

 頼時   貞任       女子

      宗任       高星(たかあき)(三歳のとき津軽にのがれのち藤崎城主となる)   堯恒(たかつね)(安東太郎)


  (この間五十余年不詳)

    堯秀(たかひで)(安東五郎・平義時の代官となり津軽に住す)    


 (この間七十余年不詳)

愛秀(よしひで)(安東太郎・この時より十三湊に住す)  堯勢(たかせい)(安東太郎)  貞季(さだすえ)(安東太郎)                 

                                          能季


季(もりすえ)(下国家安東太郎)        教季

                        康季(下国安東太郎)   義季(よしすえ)(下国安東太郎)


    庶季(もろすえ)(湊家又は鹿季あるいは廣季)

    豊国(横木安東三郎)

    道貞(潮潟安東四朗) 重季(しげすえ)(潮潟安東四朗)    季(まさすえ)(下国家安東太郎・重季の子に    

                                    して義季の跡を継ぐ)   

   家季(矢沢安東五郎)                       家政(下国家安東八郎式部大輔茂別館主)                                                  

    

 

  

   十三湊   P326

 この十三湊は岩木川の下流十三潟口に位する湊で、当時、津軽の産物をはじめ蝦夷地の産物もここに集まるところから、諸国の船もここに来て交易した。すなわち、南北朝のころの作といわれる『十三往来』という書によれば、「西は滄海漫々、而して夷船、京船群集、艫先を並べ舳を調え、湊市と成し」、という景況であったと伝える。そのため安東氏は「関東御免」の交易船を、同じ得宗領である若狭の小浜湊との間に運航させ、京都と結んで文物を交流し、しだいにその勢力を陸奥湾沿岸から蝦夷島沿岸に及ぼしたのである。
 こうして安東氏は十三湊に福島城を築いて居城とし、愛秀の孫貞季(さだすえ)に至って、その長子盛季は下国家を称し、また次男の庶季(もろすえ)は応永年間、秋田の湯河港(土崎港)を攻略して湊家(上国家)を興し、4男道貞(みちさだ)は潮潟家を立て、南北朝時代には、東の南部氏と奥羽地方を二分する勢力であったが、十三湊に移って4代目の盛季の時に至り、南部義政との戦いに破れ、ついに蝦夷島に逃避した。

安東盛季の渡来   P326-P328

 しかるに安東盛季の十三湊放棄の時点については、永享4(1432)年説と嘉吉3(1443)年説の2説があり、前者は″黒衣の宰相″と呼ばれ、幕府の政治顧問だった僧満済の『満済准后日記(まんさいじゆごうにっき)』にみえるところとしてすこぶる有力であるが、それによると、(永享4年)

十月二十一日、雨。今日於二小松谷一被レ仰条々事。奥の下国与二南部一弓矢事に付て、下国弓矢に取負、えぞが島へ没落云々。仍和睦事、連々申間、先度被二仰遣一候処、南部不二承引一申也。重可レ被二仰遣一条、可レ為二何様一哉、各意見可二申入一旨、畠山、山名、赤松に可二相尋一云々。仍三人に相尋処、畠山重可二申入一云々。山名、赤松は重可レ被二仰遣一条、尤宜存云々

 とあって、この年、安東氏が蝦夷島へのがれ、足利幕府に和睦を依頼したが、南部氏は承知しないので、幕府は重ねて諸将にその取扱いを議したところ、いずれも再び和睦を仰せ遣わすべきを答えている。
 しかしその後の情勢を安東氏関係の所伝によって見ると、後者の嘉吉3年説にも捨てがたい根拠がある。すなわち、『若州羽賀寺縁起』によれば、それから3年を経た、「永享七(一四三五)年三月、火災により羽賀寺の七堂伽藍がことごとく焼失し、ときに御花園帝いたく御心をなやませられ、再興を幕府に勅請したが何等の請答なく、いたずらに歳月を重ねるのみなので、ここに奥州十三湊の安東盛季に勅宣された。盛季はこれに応え教季と協議して、その弟康季を聖勅奉仕者とし伽藍再建に当らせている」ことや、また松前家の最古の記録とされる『新羅之記録』によれば、永享12年南部義政に、安東盛季の娘が嫁すという縁組のことなどもあるから、いったん両者の間に和睦が成立したふしも考えられる。
 その後の経過について『新羅之記録』は、次のように記録している。それによれば南部義政は、

 同(永享)十二年十三之湊の盛季朝臣の息女を娶(めと)って、後義政糠部(ぬかぶ)より十三之湊に行き舅盛季に対面し、還る途中にて津軽は聞きしに増したる善き所なりと度々云えり。時に同朋蓮阿弥近く差し寄り、度々津軽を褒美し御(たま)う事、如(も)し彼を望ましめば籌策(ちゅうさく)を廻(めぐ)らすべしと云へり。帰りて後時々義政の簾中に参り、密かに十三之湊の家老其余の侍共、何の故ありてか向後は義政を頼み入るべきの旨頻りに申す。実に奇怪の事なりと云う。又形を弊(やつ)し粧を替え十三之湊に忍び行き、計策の文をしたためて之を落す。義政の簾中よりは文を親父盛季に遣し、家老諸侍等の叛逆の由を告げ給う間、縡(こと)已に符合せしむ。盛季朝臣家運尽きて家老を始め其外善き侍数十人を誅伐す。此節義政出張して嘉吉二年秋十三之湊を攻め破りて津軽を乗取り、盛季没落して左右に館籠ると雖も、無勢たるを以て防ぎ戦うこと克(かな)わず、追出されて小泊の柴館に去る。同三年十二月十日狄の島に北(にげ)渡らんと欲するの処、冬天たれば順風吹かず難儀に及べり、粤(ここ)に道明法師天を仰ぎ地に俯し、肝胆を砕くに、忽ち天の加護あり巽(たつみ)風吹いて出船す。(以下略)

とあり、南部義政の謀略によって破れ、嘉吉3年に蝦夷島に逃れたというのである。
 更にまた、康季の奉仕によって羽賀寺の再建をみるに至り、後花園帝は安東一族の布施心に大いに感銘し、その賞として太刀一振を下賜されたが、康季はこれを上納し奉り、改めて南部義政の津軽侵領を、朝賊とする宣命書を請奏し、次の不可侵宣命書を賜っている。

       宣命
安倍一族之処領不レ可レ侵、東日流(つがる)外三郡ハ皇領也。依リテ皇領ノ守護職ヲ任ズル二安倍一族ノ当主ニ一者也。茲ニ犯ス二皇土ヲ一者ハ朝敵ノ輩也。安倍一族ハ代リ二天朝二一是ヲ討伐永代ニ任ズル者也。
     嘉吉三年正月
                                      押桐紋印
                                           花押
                                      菊華印

 右の宣命書と日月の皇旗を賜って、康季は一刻をも惜しんで帰郷したが、南部勢は十三湊をことごとく攻略し、すでに唐川の城も焼失して戦雲はいよいよ暗く、わずかに小泊の柴崎城(柴館)の攻防を最後に、嘉吉3年安倍一族は渡嶋や阿北(あきた)に退いて、故地十三浦を涙をふるって離れた(補陀寺蔵書『小浜往来記』『羽賀寺讃否書』)。なお羽賀寺の落慶は文安4(1447)年である。
 かくて蝦夷地にのがれた盛季は津軽の失地回復を図ったが成らず、次子康季もその衣鉢を継いで、文安3年から津軽外根城に拠ったが病死し、その子義季(よしすえ)も宝徳3(1451)年鼻和郡大浦郷に兵を挙げたけれども、享徳2(1453)年南部氏に攻められて敗死するに至り、ここに下国安東氏の宗家は断絶した(『北海道史』)


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