気ままな風来人のたわごと

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二股口古戦場跡の台場山塹壕を見に行く・その2

2013-03-05 | 箱館戦争史蹟めぐり
2013-03-04-荒れ模様だった天気も回復した様なので台場山へ向かう。 前回同様積雪は深く重たい感じがする。 雪崩に注意である。 江差山道案内板のある山頂を50M程過ぎた辺りから右側の沢に取り付くこと暫しピンクの目印を頼りに尾根へ出る。なかなかの急峻な沢渡りである。頂上のピンクの目印を確認しF-5を目指すが、あいにくの積雪で一面平坦になっている . . . 本文を読む

二股口古戦場跡の台場山塹壕を見に行く・その1

2013-03-04 | 箱館戦争史蹟めぐり
2013-02-02-北斗市公民館で行われた郷土資料館・歴史講座があり「戦将・土方歳三の台場山の陣容をさぐる~台場山を踏査して~」と題して毛利 剛さんの講演に参加させていただいた。 気ままな風来人にとって非常に興味のある演題でもあり以前にも数回こうした講演を聞いているので自分としてはお友達のつもりである・・・・・・・・ . . . 本文を読む

柳川熊吉翁の墓(案内板)

2012-01-29 | 箱館戦争史蹟めぐり
柳川熊吉は、安政3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には労働者の供給に貢献した。明治2(1869)年、箱館戦争が終結すると敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。  新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧日隆と一緒に子分600人を動員し遺体を戸板にのせ実行寺・称名寺・淨玄寺の三つの寺に運び仮埋葬した . . . 本文を読む

佐藤安之助の墓

2012-01-26 | 箱館戦争史蹟めぐり
佐藤安之助者の墓案内板 箱館戦争の台場山を中心とした戦いは、明治2年(1869)4月3日から18日間にわたり乙部に上陸した新政府軍約6000人と榎本軍約3000人が、この台場山周辺で大激戦となり、新政府軍軍監駒井正五朗が戦死した。 この墓はその激戦で戦死した佐藤安之助のものである。 墓には「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治2年4月24日」と刻まれているが「発前藩記事・戦死履歴」には「文政10年8月18 . . . 本文を読む

谷地頭町に建つ碧血碑(案内板)と三重塔

2012-01-26 | 箱館戦争史蹟めぐり
 戊辰戦争で亡くなった816名の賊軍と言われた旧幕府軍を祀った慰霊碑。箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。 石碑は、7回忌に当たる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。碑の台座裏に、碑建立の由来を . . . 本文を読む

史蹟 稲倉石古戦場 (案内板)

2012-01-24 | 箱館戦争史蹟めぐり
          史蹟 稲倉石古戦場案内板 箱館戦争当時、この付近を稲倉石とよび、北と南から断崖絶壁が迫り、その渓谷に山道と鶉川の急流がありました。  未完成で無防備といってよい松前藩館城にとっては、この場所は重要な砦でした。 そのため松前藩は今井興之丞を隊長に100名余りの兵と4門の砲座を構え、自然の要塞に加え20メートル余りに丸太の柵を築き、網で宙吊りにした丸太を落下して攻撃をくいとめる仕掛けも作り守備を固めていました。  11月12日(新暦12月26日)の交戦には幕府脱走軍隊長松岡四郎次郎隊200名余りの兵は正面隊と左方の山をよじ登った隊に分かれ、山頂から塞門を真下に銃撃する奇襲作戦をとったため不意を突かれた松前軍(今井隊長不在であった)は立木、柵木を盾に4時間余りにわたって奮戦するも弾薬も無くなり、陣屋に火を放って退却したのです。  この敗戦が、館城の運命を救いがたいものにしたと言われています。  福山城陥落史には、最も熾烈を極めた激戦地はこの地と記されており、大正8年8月松前出身の蠣崎知次郎ほか有志が、この古戦場に碧血碑を建立して、戦没者藩士らの英霊を弔いました。 . . . 本文を読む

箱館戦争史蹟めぐり  初めてのブログ

2012-01-24 | 箱館戦争史蹟めぐり
幕末の歴史跡を記した建造物や石碑や墓碑、記念碑・木柱碑・案内板は数多くある。これらは史実に基づき直接歴史に関わった人物や各団体のほか、市長村の教育委員会や自治体等で設置されたものが多い。史跡を後世に残すためにどんな思いで建立されたのか。時間が経つにつれ風化されてゆく思いをいかに刻もうとしたのか, . . . 本文を読む