平らな深み、緩やかな時間

141.エリック・ホッファーのこと、『大友一世 展』(トキ・アートスペース)について

最近の、菅首相による「学術会議」の任命拒否のことや、コロナ禍対策「専門家会議」と政府との軋轢のニュースを読むと、学者、専門家と言われる人たちの存在をいかに私たちが軽く見ているのか、とあらためて考えさせられます。さらに、未来の学問や研究を担う大学生や大学院生が困難な状況にあることもたびたび報じられていますが、そのことについても私たちはどれほど深刻な問題として共有できているのか、とても気になります。
もう少し世代を広げると、感染症対策も絡めて文部科学省が30人学級を提案したところ、35人学級に押し戻されたところでどうやら落ち着きそうですが、これもまさか人数の減が本当に認められるとは、という驚きを持って報道されているのが現実です。そして少しさかのぼると、春先に緊急事態宣言に先立って、全国一斉に学校を休校にしてしまったこともありましたが、これは経済を止める前に、まずは当り障りのなさそうな学校を止めてしまおう、という魂胆が見え見えでした。こんなことを見るにつけ、私たちの国は学問や教養、芸術などの文化的な側面について、あるいはそれを育てることについての認識があまりに低い、と再認識をさせられます。
そんなことよりも人間が生きていくうえでは経済の方が大事だ、と政治家から言われると、たぶん90パーセント以上の人が納得してしまうのでしょう。しかし、いまの政府は医療よりも経済が大事だ、という本末転倒ぶりで、さすがに何かおかしい、とみんなが気づき始めているのではないでしょうか。
コロナ禍以前にも、例えば政府は日本人がノーベル賞を受賞するたびに大喜びしていますが、そのノーベル賞受賞者たちが基礎研究の大切さをいくら訴えても、実利優先の教育方針は一向に変わりません。ましてや芸術に関わる人間などは、よほど時流に乗った表現をしていないかぎり、まったく社会から必要とされていない、と感じることが多々あります。
そんなときに、ふと昔読んだエリック・ホッファー(Eric Hoffer, 1902 - 1983)という、アメリカの哲学者のことを思い出しました。
ホッファーは変わった経歴の人で、幼い頃に母と死別し、視力も失ってしまいます。その後、15歳で視力を回復すると、正規の教育を受けないままに読書に没頭しました。しかし18歳の頃に父親とも死別すると天涯孤独の身となり、ロサンゼルスの貧民窟でその日暮らしの生活をしていたのだそうです。
そして28歳の時に自殺を試みますが失敗し、その後はカリフォルニアで季節労働者として農園で働き、図書館で勉強しながら物理学や数学、植物学をマスターしたのだそうです。そんなときに、たまたま大学教授と知り合い、その能力を評価されて大学に職を得ますが、再び放浪生活に戻ってしまいます。
最終的にホッファーは沖仲仕(おきなかし)と呼ばれる港湾労働者として落ち着き、晩年にカリフォルニア大学バークレー校の教授になったあとも、65歳になるまで沖仲仕の仕事はやめなかった、というのは有名な話です。その結果「沖仲仕の哲学者」と呼ばれることになるのですが、なぜ私がこの哲学者のことを知ったのかと言えば、柄谷行人(1941 - )がホッファーのことを評価していて、ホッファーの『現代という時代の気質』を翻訳していたからです。
なぜ、いまこの哲学者のことを思い出したのかと言えば、ホッファーが市井の哲学者であったことから、しばしば彼が専門的な学問よりも巷間の知恵に重きを置いた人の好例として取り上げられるからです。どうせ専門的な学問をやっている人間は世間を知らない、狭い領域で勉強しているだけで、彼らの意見を実際の社会や政治に生かそう、などと考えるのが浅はかだ、というような意見が、教養人に対する反発や羨望とあいまって、まことしやかに言われることがあります。政治による「学術会議」への攻撃は、まさにそんな庶民感情を見越したうえでのずるい戦略で、残念ながら政治家の思い通りに現実は進行しているように見えます。しかし、ホッファーという哲学者の存在は、本当にそうなのでしょうか。
柄谷行人は『現代という時代の気質』の文庫版での解説に、次のように書いています。

私がこの本を(故冥王まさ子と共に)訳出しようとしたのは、1970年代初頭、新左翼の運動が世界的に隆盛を極めた時代である。その頃、ホッファーの認識と生き方が切実で意味深く思われた。では、現在、それはどう見えるだろうか。当時のように、知識人が権威をもった時代では、もうなくなっている。今やはびこっているのは“反知性主義”である。であれば、ホッファーのような知識人批判は特に意味がない。むしろ、現状を肯定することにしかならないのではないか。この本を文庫版で出したいという依頼を受けたとき、私は一瞬そう考えた。
しかし、同時に、かつては目立たなかったホッファーの側面が急に新鮮に見えてきた。彼は政治的に群れ集うことを批判したが、別に孤立して生きていたのではない。たとえば、彼は沖仲士(港湾労働者)の労働組合のリーダーであった。また、彼は知識人を批判したが、反知性主義ではまったくなかった。その逆に、知性によってしか権力と対抗できないことを説いたのである。彼は沖仲士らにも本を読むように勧めた。
(『現代という時代の気質』「ちくま学芸文庫版への解説」柄谷行人)

この文庫版が出版されたのが2015年のことです。すでにその頃には「反知性主義」がはびこっていて、それが先進的な社会運動や労働運動の行き先を阻んでいたことは否めないと思います。その機運に乗って、お金持ちと政治家が結託して利益誘導をした結果、コロナ禍での医療崩壊、教育の窮状などが起こっているのではないか、と私は疑っています。
しかしホッファーという人を見て、彼がいかに市井の人たちの暮らしや知恵を尊重したとしても、そこに高い教養が介在していたことは疑いようがありません。例えば、つぎの彼の社会分析を読んでみてください。

間断のない変化の一世紀が過ぎたのちも、変化の道が平坦にも平易にもならなかったことは注目すべきことである。それどころか、われわれの世界は変化をこうむる人々にとってはますます住みにくくなっているようである。少年期から成年期への移行がこれほど苦痛にみち、これほど爆発をともなったことはかつてなかった。19世紀には自然過程のようにみえた後進性から近代性への移行は、今や世界の大半を極端に追いつめている。貧困から豊かさへ、隷従から自由へ、仕事からレジャーへの待望された変化は、社会の安定度を高めるどころか、社会への崩壊の危険をもたらしたのである。変化の先鞭をつける者たちの意図がいかに高邁で、努力がいかに誠意にみちたものであろうと、その結果はしばしば裏目に出る。社会についての化学はみごとに失敗してしまったのだ。どんな原料を蒸留器に入れようと、しばしばその最終的生産物は爆発性のものになってしまう。
われわれの時代の気質を特徴づけるおもな特性をあげるなら、それは気短さであろう。明日というのはうす汚れた言葉になってしまった。未来は現在になり、希望は欲望に変わってしまったのである。青年は、自分が国の内外の問題の処理に関して発言権をもつようになるのに、なぜ大人になるまで待たねばならないのか納得できない。途上国もまた、明日にはわれわれの昨日に追いつこうと熱望して、人類の先頭に立つ開拓者の役を演じたがっている。いたるところで国々が一挙に躍進しているのが見られる。順を追って成熟する暇はない。新興国は芽を出すか出さぬかのうちに花を咲かせ実を結びたがり、多くは人工の花や実でみずからを飾りたてたのである。
(『現代という時代の気質』「Ⅵ 現在についての考察」E.ホッファー著 柄谷行人訳)

この『現代という時代の気質(The Temper of Our Time)』がアメリカで出版されたのが1967年のことのようです。このホッファーの言葉の中には、時代的な制約もある一方で、現代にもつながる透徹した視点も含まれているように見えます。いずれにしろ、広範な知識と市井の人としての生活実感があいまって、普通の学者にも、もちろん庶民にも書けない文章になっているのだろう、と思います。
私は優れた人物の本を読んだり、あるいは芸術作品に触れたりすると、その人が自分なりの感度の良いアンテナを持ち、その感受したものに対して誠実に対応し、生きていることを感じます。そのアンテナは人それぞれであり、仮にその人が学者として狭い領域で研究活動をしていようと、アンテナの感度が良ければその人の書いたものは決して蛸壺的な知識に収まらないものになると思います。
芸術家においてはさらに事情が複雑で、その人の表現が理論的な鍛錬によって研ぎ澄まされる、ということもあれば、そんなこととは無頓着であっても、自らの感覚が呼び覚ます優れたアンテナを持っていて、その指し示す方向に誠実に歩いて行くことによって未来を打開する人もいます。私は残念ながら、そんな好感度のアンテナを持ち合わせていませんし、それを自覚して理論的な鍛錬にいそしんではいるものの、知的な水準の低さは隠しようもありません。
その一方で、今回取り上げる作家、大友一世さんはアンテナの感度がとても良い人なのだろうと思います。もしかしたら、彼女は理論的な鍛錬にも余念がないのかもしれませんが、際立って見えるのは彼女が自らの感覚が指し示す方向に対して誠実に反応しているということです。そのことによって、変化を恐れずに前進を続けていく、という彼女の前向きな表現者としての姿勢が保たれていることは、疑いようのない事実です。
ホッファーの話が思いがけず長くなってしまいましたが、大友一世さんはホッファーがこだわった生活者として生きていく実感を大切にした、そんな作家であるということを私は感じています。そのことを頭の隅にとどめながら、この後の文章を読んでいただけると幸いです。

さて、ここからが本題です。
東京・神宮前の「トキ・アートスペース」で、12月27日(日)まで『大友一世 展』が開催されています。画廊のホームページを見ると、次のような言葉がはじめに書かれています。

2020年トキ・アートスペース企画シリーズ
“Realization"vol.7
情報に与することなく、実感をもって絵画という形式と向き合い、その先に現れる世界に出会う。
一年を通して7人の個展。
http://tokiart.life.coocan.jp/2020/201214.html

画廊が上記のように謳うシリーズの「vol.7」ですから、今年の企画の最終回ということになるのでしょう。トキさんの企画への強い思いを感じさせる展覧会です。
昨日、実際に見に行って、大友さんのお話も聞かせていただきました。
以下、その報告と、私の拙い感想です。前回、blogに記載した橘田さんの展覧会と同様に、年末のあわただしい時期ですが、ぜひ足を運んでみてください。橘田さんが日本の現代美術において、大きな達成を成し遂げてなお、「モダニズム」の再検討に挑んでいる作家であるとしたら、大友さんも十分なキャリアがあるとはいえ、その歩みはまだまだ、未知数の作家だと言えると思います。しかしだからこそ、いまから彼女の作品を見ておく価値があるのです。
私が興味深く思うのは、私たちの世代が年を追うごとに肌で感じてきた「モダニズム」の行き詰まりが、私よりも若い世代にとっては、すでにそれが当たり前の風景になっている、ということです。そのなかで、例えば日本の美術の特質は「アニメ」や「オタク」である、というような情報に踊らされていく若い方もいると思うのですが、そうではなく、自分の実感できるもの、興味のもてるものをしっかりと見つめている人たちもいます。彼らにとっては「モダニズム」がもたらしたものは、行き詰まりであるよりも、そのさまざまな方法論であり、それらをとくに意識することもなく、自由自在に駆使できる立ち位置にいるのだと、とくに大友さんのような作家を見ると強く感じます。
画廊がこの企画シリーズで謳う「情報に与することなく、実感をもって絵画という形式と向き合い」というのは、まさに「情報」に踊らされない、それでいて現在の状況を感じとりながら絵を描いている人たちを集めた企画、という意味なのだと思います。
このシリーズでは、例えば私が「117.『阿部 隆 新作展』(トキ・アートスペース)から絵画について考える」で取り上げた阿部隆さんのようなベテランの作家もいらっしゃいますが、大友さんはこれからの絵画の可能性を担うという意味で、この企画に適う作家なのだとトキさんが判断されたのだと思います。

さて、その大友一世の作品ですが、今回の展覧会の中でもその作風は微妙に揺れています。
大きく分けると、奥の壁に掛けられた暗い色調の大きな作品群と、入り口付近の明るいスケッチ風の作品、その中間に位置する明暗のコントラストの強い作品、の三つぐらいに整理できます。画廊のホームページで見ることができるのは、入り口付近に展示されている明るいスケッチ風の作品です。
ふつうに考えると、シンプルなスケッチ風の作品がはじめにあり、その作品に暗い色調が入りはじめ、やがてその色調が画面全体を覆うようになる、という順番に制作されたのだろう、と予想されます。しかし、大友が実際に描いたのは、その逆の順番なのだそうです。そこが興味深いところです。
その、大きな暗い色調の作品ですが、これらはその地の部分に京都と東京の風景が描かれていたのだそうです。つまり彼女とかかわりのある二つの都市の風景が、対比されるように描かれているのですが、その別々の風景が一つの画面のなかで融合されているのです。融合の方法としては、はじめの画面構成の時点である程度の工夫がなされていたのだとは思いますが、最終的には暗い青と赤、それが重ねられた暗い色調によって両方の風景が覆われていくのです。
このように明度を落とし、色相を合わせていくことで画面の融合を図る方法は、モダニズム絵画においてはピカソ(Pablo Picasso, 1881 - 1973)やブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)の分析的キュビスムに端を発します。彼らは画面全体を茶褐色に統一することによって、形体を自由に分解し、絵画を再構築したのです。それは絵画の平面性を際立たせることにもなりました。
そして、画面の色調を暗く落としていくことによって絵画の平面性を獲得し、やがてその微妙な差異だけによって画面構成をする作品も現れます。アド・ラインハート(Ad Reinhardt, 1913 – 1969)の「黒の絵画」と呼ばれるシリーズがそれに当たります。彼は抽象表現主義の画家の一人でしたが、後年の作品はミニマル・アートの絵画と言ってもよいでしょう。ラインハートは、暗い色調への統合が画面の平面性を引き寄せることを体現し、さらにその平面性の中でいかに絵画的な表現を作動させるのか、という後の絵画に繋がる問題に取り組んだ画家でした。
そしてさらに例を引けば、ラインハートと同じ年に生まれた日本の麻生三郎(1913 - 2000)が、暗い色調の中の微妙なニュアンスで形を表現する、という絵画に到達しました。彼の初期の、肉感的とも言えるような強烈なリアリズムは、その後半生において暗い画面上の平面性のなかで継続されることになるのです。
このように、画面の明度を落とすことによってその構成的な要素の融合を図り、併せてその平面性の強調によって画面全体の一体化を図る方法が、モダニズムの絵画の方法として試行錯誤されてきた歴史があります。私はなにも、大友の作品が彼らの作品と似ているとか、影響を受けているとかいうのではありません。むしろ、そのような直接的な参照はいっさいなされていないように見えるのです。しかし、それでいながら、大友はこのような方法論を自然に、自分の感性で行っているのです。ここに私は、モダニズムの方法論が血肉化され、なおかつ自然体でそれを体現できる世代の特色を見る思いがしたのです。
しかし正直に言って、この絵画の描き方は、方法論としてすでに成立しています。画廊の奥の壁面に飾られた大友の作品を見る限り、大友自身がこの方法論で作品を仕上げてしまう技量を持っていることも明らかです。ですから、この方法論で推し進めるとするなら、ここから先はいかにそれをうまくやるのか、あるいはいかにそこに独自の感性を表現するのか、という点に興味が絞られるように思います。しかし、私の個人的な見方になりますが、それは自分の表現を狭い領域に追いやることにもなります。ミニマル・アートの絵画から発展しようとした作家たちが、しばしば退屈な仕事の繰り返しに陥る例を、私は何人も知っています。もっと大胆なことを言うと、私はラインハートの「黒の絵画」ならば数点見れば十分だと思っていますし、麻生三郎の後半生の作品も、できればもっと明瞭な色彩での表現にも挑んでほしかった、と思っているのです。
大友が私と同じように考えたとは思いませんが、今回の作品で言うと、大友は暗い画面に白を導入し、さらに部分的に新たに風景を描き起こすことを試みています。それが明るい絵画と暗い絵画の間に置かれた大きな作品です。このような絵画の制作においては、どこで筆を止めるのかが難しいところです。それは単なるタイミングの問題ではなくて、作者がどのような絵を描きたかったのか、ということを表明することにもなるからです。その点で言えば、今回展示されていた作品は、その明と暗のバランス、前に描いたところと新たに描いたところの両立に成功していて、作者の試行錯誤の後が感受できるよい塩梅で完成させていると思います。
また、この絵画の平面性の問題とは別に、大友のこれらの作品ではモダニズムの絵画における大きな問題、方法論が提起されています。それは、大友の大きな作品が複数の絵の組み合わせによって成立していることです。そしてそれらの絵はつねに並べられて、組み合わされた状態で制作されたのではなく、部分ごとに描かれたこともあるようなのです。
このように作品を全体として見ることができると同時に、部分としてもある程度成立するという方法は、アメリカの美術評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)が抽象表現主義の絵画を導いたときに提唱した概念である「オールオーヴァー」な絵画から始まっています。グリーンバーグの『イーゼル絵画の危機』という論文を見てみましょう。

この(モネの絵画のような)傾向は、オールオーヴァーで「非中心的な」「多声的な」絵に現れている。それは際立った変化を伴わずに、絵の一方の端から他方の端へと反復する同一の、あるいは極めて近似した要素が密接に結びついた表面に依拠している。これは明らかに、始まり、中間、終わりを不要とする類の絵である。この「オールオーヴァーな」絵は、成功すればやはり演劇的に壁に掛けられようが、装飾―無限に反復できる壁紙模様に見られるようなもの―に甚だ近づくことになる。また、この「オールオーヴァーな」絵はイーゼル画であり続ける限り、どうにかそうなってはいるのだが、そのジャンルの概念を根底から曖昧なものへと変えていく。
(『グリーンバーグ批評選集』「イーゼル絵画の危機」グリーンバーグ著 藤枝晃雄編訳)

「オールオーヴァーな」画家は、十二音の作曲家のようにその芸術作品を緊密な網目状の織物に仕立て、その単体の配列は織り目の接点ごとに繰り返されるのである。ポロックのような画家が導入した等価における変化は、時にすこぶる控えめであるために結果としては一見、等価ではなくて、ある幻覚的な斉一性に見えるかもしれないという事実も、その結果を強めるにすぎない。
この斉一性の概念はまさに、反美学的である。しかしながら、多くの「オールオーヴァーな」絵は、実はそれらの斉一性、その単調さそのものによって成功しているように思われる。肌理そのもの、明らかに感覚そのもの、反復の累積、それらと絵画的なものとの溶解は同時代の感性における深層を代弁し、それに応じているように見える。文学ではジョイスとガートリュード・スタインとの、またおそらくはパウンドの詩の韻律とディラン・トーマスの凝集された甲高ささえとの類似を示す。「オールオーヴァーな」ものとは、あらゆる階層的な区別が文字通り使い果たされ、無効になったという感触に応じているのかもしれない。すなわち、いかなる経験の領域や秩序も、本来、可知の究極の段階においては他の経験の領域や秩序に勝ることはない、と。それは万事、始めも終わりもなく、ただ直接と非・直接との間にのみ究極的な区別が認められる一元論的な自然主義を表しているのかもしれない。しかし、さしあたり我々が結論できるのは、ただ野心的な芸術の媒体として、イーゼル画の未来が疑わしくなっているということである。ポロックのような芸術家たちがなすように、彼らはこの因襲を用いながら―もっとも用いざるを得ないのだが―それを破壊しつつある。
(『グリーンバーグ批評選集』「イーゼル絵画の危機」グリーンバーグ著 藤枝晃雄編訳)

『イーゼル絵画の危機』という論文のはじめの方と、終わりの部分を引用してみました。1948年に書かれたこの論文は、その後の絵画の方向性を示すものではありますが、グリーンバーグが予想したように絵画が進まなかった面もあることを、いまの私たちは知っています。グリーンバーグ自身が、その晩年には現代絵画の状況に興味を示さなくなってしまう、などということは、もちろん、この時点ではわかっていません。
そして、イーゼル絵画の超越、ということを、文字通りに実践したのは、もしかしたらミニマル・アートの絵画から表現主義的な絵画の時代を駆け抜けたフランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )であったのかもしれません。しかし、そのステラをグリーンバーグは評価していなかったようです。そのあたりのことを、次回のblogで追究出来たら、と思っていますが、とにかくここでは、一枚の絵をイーゼルの上に立てて、画面全体を俯瞰しながら描くような絵画が危機的な状況にあったということが語られています。それは美術に限らず、音楽や文学においても同様の改革が同時的に起こっているのだ、とグリーンバーグは言っているのです。
少し横道にそれますが、文学者のジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882 – 1941)、ガートルード・スタイン( Gertrude Stein、1874 - 1946)、エズラ・パウンド (Ezra Weston Loomis Pound、 1885 - 1972 )、ディラン・トーマス(Dylan Marlais Thomas, 1914 - 1953)らの名前が出てくるところも興味深いです。エズラ・パウンドは1960年代のビート・ジェネレーションの始祖みたいな人だと思っていたのですが、この1948年の論文においても名前が出てくるのですから、長生きした分だけ、ずいぶんと影響関係が広かった人なのですね、もっと勉強しなくてはなりません。
このように「オールオーヴァー」な絵画は、モダニズムの絵画を特徴づける重要な要素でもあるのですが、大友の今回の絵画においては、奥の暗い絵画が「オールオーヴァー」な絵画に最も近く、それ以外の作品は「オールオーヴァー」であるとは言えません。それにも関わらず、すべての作品が部分としても成立し、全体としてもつながりがあるように見えるのは、「オールオーヴァー」な絵画の感覚が、すでに大友の中で、内面化されているということなのでしょう。それが俯瞰的に見るような旧套的な絵画の構成から、大友の作品を自由にしているのだと思います。それは画廊のホームページに掲載されている二点の作品を見ても分かるのではないでしょうか。一点に集中するような透視図法的な構図ではなく、左右に流れていくような、まるで散歩しながら眺める風景のような、動的で自然な視点を感じます。
このような感覚が自然に出てくるところに、大友の中にはきわめて感度の良いアンテナがあることを予想させます。そして、はじめに私が書いたように、風景のスケッチ風の絵画から「オールオーヴァー」な色彩の暗い絵画に至ったのではなく、その逆の筋道を大野が経過していることを思い出してください。彼女にとって、おそらくこれから課題となっていくのは、明度や色相を限定したモダニズムの方法論ではなく、それと同等の表現をいかに自由な色彩と構成の中で成し得ていくのか、ということなのだと私は思います。
理詰めで考えてしまえば、モダニズムの絵画の方法論によらずに普通に風景を描いてしまえば、モダニズム以前の旧套的な絵画に先祖帰りしてしまうはずです。しかし、大友の絵画を見てみれば、自由な色彩と構成を用いながらも、大野の絵画がモダニズム以前の絵画に退化することなく、むしろモダニズム以降の絵画の感覚を有していることに気がつくはずです。
それはたぶん、大友が日々の生活の中で実感している風景を、そのまま表現しようとしていることと関連しているのではないか、と私は思います。ここで、今回の展覧会に寄せた彼女の文章を見てみましょう。

手入れされず生い茂った街路樹、見頃が終わり枯れたまま放置された植木鉢や紫陽花など、 人の手が掛けられているにもかかわらず、野放しにされている植物の逞しく生き続ける姿に刺激を受ける。
描く速度と風景を見るリズムが重なる瞬間がある。
自然への憧憬を保ちながら、奥からじわりと滲み出てくるような風景を描いていきたい。
(「トキ・アートスペース」ホームページより 大野一世)

このなかで、とくに「描く速度と風景を見るリズムが重なる瞬間がある」という部分が示唆的です。絵を描くからといって、定位置にイーゼルを立て、動きを止めて、感覚を視覚に集中して、というのではなくて、動きながら、五感を開いたままに絵画を描こうとしている大友の姿勢が読み取れるからです。これはホッファーが大切にした市井の感覚、生活の実感に基づいた思考と重なるのではないでしょうか。
さらにこの文章からは、ナイーヴでイノセントな表現を模索している彼女の姿勢が感じ取れますが、しかし、いざ絵と向き合えば、その表現はモダニズムの絵画の方法論をかいくぐり、自分の中で内面化したのちに表出する、ということが自然体で行われているのです。理屈ではなくて、感覚としてそういうことができることによって、彼女はモダニズム以降の絵画を志向できる可能性を持っているのだと私は思います。
何よりも、今回の作品群で言えば、暗い作品において何かを達成した感触を持ちながらも、それでは何かが充足できずに次の表現へと向かってしまう、ということが制作の途上で起こっている点が注目に値します。私の場合、そういう制作上の変更をする場合には、理論的な言い訳が欲しくなります。しかし、頭の悪い人間が理詰めでものごとを進めようとしても、だいたいろくなことにはなりません。それだけに、大友が持っている感度の良いアンテナが、彼女の作品の変遷を支えているのだということが、今回、よくわかりました。
目先の作品の出来栄えに拘泥するのではなく、ましてやよけいな「情報に与することなく」、自分の生きている実感に近いところで制作を続けている大友の作品を、継続して見ていく必要があります。生活者としてのナイーヴな視点を持ちながら、モダニズムの方法論を感覚的に受容した世代が、これからどのように変わっていくのでしょうか、興味が尽きません。

そこでとりあえず、現在の大友の作品を見ておきませんか?
コロナ禍ですので、くれぐれも注意して出かけてください。しかし、たどり着いてしまえば、美術館や画廊は、自粛しなければならないような危険な場所ではありません。
それにしても、もしも今後、自粛要請があるのだとすれば、前回とは違って、美術館や博物館は一番最後に回してほしいものです。図書館だって、工夫次第で開けることができるはずです。芸術や文化を、みんなで大切にしていきましょう。

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