平らな深み、緩やかな時間

325.野見山暁治死去と森有正のこと

画家の野見山暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉 - 2023年〈令和5年〉 )さんが亡くなりました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230626/k10014109111000.html

「現代日本を代表する洋画家の野見山暁治さん死去 102歳」

 

生年を見ると、野見山さんは私の亡くなった父親よりも年上だったのですね、大往生と言って良い年齢でした。

上記のネットの記事のように、野見山さんは具象絵画から抽象絵画へとスタイルを変えながら意欲的に制作活動を続けました。また晩年には「戦没した画学生の遺作を収集し、保存するための美術館を設立した功績から平成17年には菊池寛賞を受賞し平成26年には文化勲章を受章しました」とありますように、戦争で犠牲になった画家たちにも目を向けて、精力的に活動しました。野見山さんは画家としてだけでなく、この活動に関することでも、たびたびテレビで紹介されていました。

野見山さんという人は、画家として優秀で、社会的な活動にも貢献し、さらには文章が達者でエッセイストとしても有名で・・・と、どの死亡記事を読んでもその素晴らしい人物像が浮かんできます。しかし、これだけの特徴を持った方ならば、見方によって評価が分かれる面があるのも当然です。私はここで、あえてその評価の分かれ目のところに焦点を当ててみたいと思います。一人の芸術家を尊敬するあまり、聖人のように扱ってはいけません。そこからは、何も学ぶことができないからです。ですから、なるべく客観的な視点で野見山さんの残した絵や文章を見ていくことにしたいと思います。

 

まず、野見山さんの絵画について見ていきましょう。

野見山さんの絵の特徴ですが、その油絵の具の大胆なマチエールにも関わらず、実はイラスト的なビジュアル感覚の良さにあると私は思います。良くも悪くも彼が描く形象は厚みがなく、コンピュータ・グラフィックの層(layer)を重ねて制作したような、そんな潔さがあります。

野見山さんの作品を、初期から辿ってみていきましょう。

『廃坑(A)』は第二次世界大戦後、まだフランスに行く前の故郷の炭鉱の群像だと思われます。

https://jmapps.ne.jp/fma/det.html?data_id=9481

ここでは、一つ一つの形象について、暗い影のようなものがまとわりついています。それが、形象の微妙な位置を探る筆致のようにも見えます。このころは、まだ野見山さんは、画面の奥行きや深さについて、あるいは形象の厚みについて探るような意志がありました。

次は、野見山さんの出世作、『岩上の人』です。これはフランスに滞在時に、具象絵画の最大の賞である安井賞を受賞しました。

https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=4405

こちらの作品では、『廃坑(A)』の影のようなトーンが整理され、画面はより張りのあるものとなっています。構成もダイナミックで、明らかに『廃坑(A)』よりも進歩が見られます。しかし、現代絵画の平面性を推し進めた結果、初期の微妙なトーンがなくなってしまいました。野見山さんは、フランスに行かれご自身の絵画の特質を明快にされたのだと思います。

つぎは『あしたの場所』という作品で、2008年に描かれたものです。

https://www.artizon.museum/collection/art/21805

左側の竜巻のような明確な形は、コンピュータ・グラフィックの例で言うと、一番手前の奥行きに位置するlayerに置かれた形象になると思います。逆に右側の黒いぼんやりとした形は、一番奥に位置するlayerに置かれたように見えます。その周囲のスペースは、ホワイトを重ね塗りすることで、中間に位置するlayerとして凸凹のあった奥行きがひとつの位相として整えられているように見えます。このように、曖昧な位相を整理することで、作品全体としては平面的な強さと広がりを獲得することになったのです。

この野見山さんの、明快なlayerの積み重ねのような表現の対極にあるのが、私はセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の絵だと思っています。筆致の一つ一つが微妙な位置を持ち、それが透視図法的な遠近法では表現できない奥行きを表現しているのです。

https://www.artizon.museum/collection/art/19335

セザンヌの筆致の触感は、手前から奥へと連続的に続いていくので、明快なlayerとして整理することが不可能なのです。それに比べて野見山さんの絵画は、奥行き表現としては明快かつシンプルで、わかりやすいものです。彼の絵は、同じ平面上の位相にある色や形が上下左右に生き生きと躍動しているところに特徴があります。これはビジュアル・デザイナーに近い特質だと思います。ですから、野見山さんの絵が本の装丁やデザインとして人気があることも頷けます。

 

さて、ここからは野見山さんが1978年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した『四百字のデッサン』の文章と内容から、野見山さんの魅力を多角的に見ていきましょう。先ほど、野見山さんの絵画はシンプルな奥行き表現と伸びやかな広がりに特徴があることを指摘しましたが、どうして野見山さんの絵画にはこのような広がりがあるのでしょうか。

これは絵描きとして野見山さんが努力を続けた結果ではあるのですが、しかし誰でも努力すればこのような絵が描けるわけではありません。野見山さんご自身も、ご自分の持ち味は先天的なものだと考えていたようです。そのことを野見山さんは、野見山さんと親しかった日本を代表する版画家、駒井 哲郎(こまい てつろう、1920 - 1976)さんに関するエッセイの中でこのように表現しています。

 

ノミヤマは同級だよな。酔っ払うと駒井は大きな声で親愛の情をしめす。私たちは50歳を過ぎた。おい、ノミヤマ、飲めよ、そうしているうちに駒井はもっと酔っぱらう。ノミヤマはオレの一級下だ、こいつは落第したんだぞ。私は三年生のおりに胸をわずらい、それまでかなりサボっていたのも祟って落第した。駒井が私の落第を喚きだしたらもう危ない。そばに女が居れば力まかせに抱きつき、男だったら悪口雑言、あたりかまわずオシッコを撒きちらう。ああ、その目つきだけはやめてくれ。そんな無惨な駒井であってはいけない。気高く痩せてタンレイなもの腰の、そうした一切を支えていた糸がプツリと切れて、手足がバラバラのあやつり人形のようにくずれおちる、髪をみだし、虚ろにものを見据え、叫んでいる言葉は誰にも聞かせたくない。

ダレ?駒井は私の顔をたしかめると抱きつく。お前の絵、だれよりいいぞ。本当にそう思うか、ほかの奴の絵をよく見たのか。見なくったって解っている、お前のが一番いいよ。どうして?ノミヤマだからさ。私は急に泣きたくなる。長いあいだ胸につかえていた駒井への気後れみたいなものが一気に解けて、私は懸命に、もたれかかってくる体を、信頼を、友情を受けとめる。この一瞬のために、いつも素知らぬ顔をして二人は通りすごしているようだ。

(『四百字のデッサン』「同級生ー駒井哲郎」野見山暁治)

 

ちなみに、野見山さんが気後れするほど都会的で端正な駒井さんの作品は、例えば次のような作品です。

https://yokohama.art.museum/special/2018/TetsuroKomai/

この野見山さんの文章の、いかにも昭和的な男の友情物語は、いまの若い方から見るとちょっと奇妙にみえるのではないでしょうか?酒を飲んだときに思わず本音で友情や尊敬を語るけれども、それ以外のときは「素知らぬ顔をして」通り過ぎる、というのは良くないですね。もっと普通に、ちゃんとお互いの作品を語り合おうよ、と思わず言いたくなります。

それはともかくとして、「ノミヤマだからさ」という駒井さんの言葉の中に、野見山さんの絵画に関する一般的な評価が表れているように思います。野見山さんは飄々として、自作について語るときの言葉もきわめて感覚的な方でした。計画的に作品を作ることは苦手で、というかそのつもりもなく、つねにその時々の局面での判断を優先するタイプの作家だと思います。その実直さが野見山さんの魅力であり、そのうえに「ノミヤマだからさ」と言いたくなるような独特の資質があって、その資質を表現するのに彼の実直な制作方法がマッチしていたのです。

そして野見山さんにしても、駒井さんにしても、その昭和的な男性のイメージとは裏腹に、その作品は視覚的なデザイン・センスを兼ね備えていて、現代美術的な装いを持ちながらもポピュラリティーを得るだけの親しみやすさがあったのです。

それから、日本人は「天才」神話が大好きです。野見山さんにしても駒井さんにしても、論理的に考えるととくに斬新なことはしていないのですが、そんな見方よりも「ノミヤマ」、「コマイ」という天才的な油彩画家、版画家が戦後の日本に存在した、という言い方をした方が受け入れやすいのでしょう。

私はこの二人の表現者がなし得たこと、なし得なかったことをもっと冷静に、論理的に振り返った方が彼らの足跡を今後に生かす意味でも、意義があると思います。野見山さんも、そういうことをされたからといって、気分を害するような方ではないでしょう。またなにかの機会に、そういうことも論じてみたいと思います。

 

さて、今回はもうひとつ読んでみたい話があります。

野見山さんは『四百字のデッサン』のなかで、森有正(もり ありまさ、1911 - 1976)さんという哲学者、フランス文学者について書いているのですが、野見山さんの文章から読み取れる森有正さんのイメージと、哲学者としての森有正さんとはいささかギャップがあるような気がしています。野見山さんが文章の「デッサン」として描き出した森さんと、森さん自身の書いた文章を読み比べながら、野見山さんの文章の巧みさと、そのイメージがもたらす弊害(?)について、私と一緒に考えていただきたいと思います。

例えば、次の文章を読んでみてください。ちなみに文中の「椎名さん」とは椎名其二(シイナソノジ、1887 – 1962)さんというフランス文学の研究者で、『ファーブル昆虫記』を翻訳したことで有名な人のようです。野見山さんは椎名さんとフランスで出会ったのですが、エッセイの中の椎名さんは手作業の製本、装丁を生業とする、偏屈だけれど知的で魅力的な老人です。

https://www.city.semboku.akita.jp/file/7722.pdf

https://www.akitakeizai.or.jp/journal/data/201905_column.pdf



森さんとは椎名さんのところでよく逢った。というより椎名さんを切り離して私は森さんを語ることは出来ない。森さんも私同様、この老人の家のスープがおいしくて、夕方になると落ち着かなかったのかも知れない。森さんが小さな目を真っ赤にして人目もあらずベソをかいているのを、ある夜訪ねた椎名さんのところで見たことがある。椎名さんは不機嫌な顔をしていた。ご覧なさい、これでもちゃんとした大人なのか。日本はよくよくおかしな国だ。人に相談しなきゃ自分の身の振り方ひとつ出来ないなんて。森さんはどんなに老人から言われても耐えていた。身辺の女性問題で森さんはかなり追いつめられているようだった。それじゃ何ですかい、と椎名さんが言った。あなたは私がこうしろと言ったらその通りにするのか、人は自分以外のことについては何ひとつ言えるものではない。ただあるサディシオンを与えることは出来る、しかし決定するのは本人でしかないんだ。そうして椎名さんは、もう帰ってくれ、と言った。森さんは相変わらずの慇懃さでベソをかいたまま坐っていた。

(『四百字のデッサン』「椎名さんの借金ー森有正」野見山暁治)

 

これはどうやら、女性問題で森さんが椎名さんに相談に行った時のエピソードのようです。あるいは森さんが、自分の進路について相談に行った時の話もあります。

 

森さんがひどく叱られているのに出っくわした事がある。東大に帰って来るように、と先輩がパリで森さんを訪ねてすすめたらしい。だいたい椎名さんに相談に行けば愚か者扱いされるだけだし、答えは決まっている。教師ほどの偽善者はこの世にないとつねづね公言している人なのだ。森さんとしては日本に帰るべきか、このままフランスに踏みとどまるか、これが最後の決定をしなければならない機会だっただろう。わざわざこの地下の部屋を訪ねてきたのは、パリで貧乏しつづける勇気を椎名さんから与えてもらいたかったに違いない。椎名さんは以前にもましてケンもホロロだった。見給え、これが日本で大学教育まで受けた人なんだ。森さんはパリに留まった。

(『四百字のデッサン』「椎名さんの借金ー森有正」野見山暁治)

 

このようにフランスに滞在し続けた森さんですが、一体どういう人なのでしょうか?野見山さんは次のように説明しています。

 

森有礼を祖父にもち、ようやく言葉をならいおぼえる幼児の頃からフランス語をしこまれた森さんの生育は、私にはよく解らないがかなりに人為的な、観念で固めた世界だったのではないか。土台をしっかりと造り、その上に煉瓦を一枚一枚おいていって、高い建物を構築してゆくように、森さんは論理の塔を建てていったに違いない。そうして高いその部屋の窓から外を見渡した或る日、奇妙な建物をたてて住んでいる男を見たのだ。この住人は煉瓦とは違った、つぎはぎだらけの棒ぎれで上へ上へと積みあげている。力学を無視したこの建物の素材は、森さんが今まで見たことのない「経験」ではなかったのか。誰かがそんなふうに私に話してくれた。どうも森さんは、椎名さんの世界へ一歩を踏みいれた時から、或いは自分が実際にヨーロッパに住んでみた時から、ぐらつき出したように思う。ゆるぎないバベルの塔が急にこわれて、どぎまぎしている印象を、私はその後の森さんの書いたものから受けるのだ。

(『四百字のデッサン』「椎名さんの借金ー森有正」野見山暁治)

 

文中の「祖父」の「森有礼」(もり ありのり、1847 - 1889)さんですが、第1次伊藤内閣で初代文部大臣となった政治家だそうです。そういう家柄に育った森さんを、野見山さんは

「人為的な、観念で固めた世界」に育った人として見ていたのです。そのような森さんの書く文章は「ゆるぎないバベルの塔が急にこわれて、どぎまぎしている印象」を受けると野見山さんは評価しています。それでは、その森さんの文章を読んでみましょう。これは『経験について』という1970年に青山学院で行った講演の結びの部分になります。

 

日本には本当の思想家がいないと言いますけれども、それは一人一人のなかに本当の思想が生きていないからです。そういう意味で私は、私の経験とか思想とか言うー私の言葉はどうでもいいのですけれどもーこの問題を深く考えてみたい。結局、敗戦後いろいろな問題が起こってきた。日本の民主化の問題でも、あるいは対アメリカの問題でも、対中国の問題でも、対社会の問題でも、すべて私どもは経験を本当に自分の経験として忠実に生きていないことから派生的に出て来る。それがしまいにどうすることもできないほどの混乱したものになってくる。その時に私どもがすべきことは、まず自分の経験というものを本当につかんで、それをあくまで普遍化するように努力することです。それがどういうふうな道をたどるか、それは一人一人違うのですから、皆さんにこういうことだと説明することはできません。

それから一つ言い残したことは、一番最初に言った内的促しということですね。私どもの中に経験の結晶が始まる前に内的促しというものが起こる。内的促しというのは何かと言うと、このままじっとしていてはいけない、なにかしなければいけないということです。何をしていいか分からないのだけれども何かしなければいけない。自分は結局はこういうことをしてみたい。始めはただ非常に抽象的に考えているわけです。いろいろな選択の可能性がある。それがある段階から、つまり経験の結晶が始まった瞬間からその人の道が決まってくるわけです。

ある内的促しということは、つまり自分の外に出たいという考えです。これはよく若い人に誤解されるのですが、若い人は親から監督されるのをいやがる。先生の言うことをきくのをいやがって自分かってなことをする。というのはそれだけで行儀が悪いようにみえるけれども、本当はみんな一人一人が内的促しに満ちているから、若い人は、それで自分を試そうとするわけですね。これはあまり止めてはいけないと思います。止めたら隠れてそれをやりますよ。

あるところまでいって間違っていればその人が罰せられるか、あるいは引き返してやり直すわけです。時間はかかりますが、それだけの手数をかけてでも、あまり押さえないで私どもは見守っていかなければならないと思うわけです。

そういう一種の内的促しによって、私どもは右にも左にも動く。その一番大事なことは、日本という国は昔から内的促しを殺しに殺し続けてきたのです。内的促しとはつまり、一人の人間が個人になるということ、その人になるということ。それはなぜかと言いますと、さきほどの二項方式の問題になるわけです。その人が本当の個人になれば、その人は社会にとっても、天皇にとっても親にとっても他人になりますから、それを日本人は恐れるのです。それを恐れてはいけない。一人一人の人が、私の友達が、あるいは親が、兄弟が、恋人が他人になることを恐れてはだめです。他人になるということはその人が自分になるということなのです。そのことを十分に皆さんに理解していただきたいと思います。

(『思索と経験をめぐって』「経験について」森有正)

 

この「経験」と「内的促し」という考え方が、森さんがフランスで身をもって学んだことなのでしょう。それほど大したことを言っているわけではなさそうですが、その一方で「どぎまぎ」しているとも思いません。日本では、欧米の教養人が考えるような「個人」というものが確立していない、ということは事実でしょうし、それは1970年代も今もあまり変わらないような気がします。今ならば、森さんが問題としていることは、日本の「同調圧力」という言葉で表現できるのかもしれません。

今、森さんの文章を読んで感じる事があるとすると、そのことについてこのような精神論的な警鐘の鳴らし方をしても、あまり有効ではないだろうなあ、ということです。「若い人には勝手なことをさせてみましょう」というだけでは、何とも心許ないのです。戦後から1970年代までの間で、森さんのような学者がヨーロッパに滞在してこれだけのことを学んだのですから、本来ならば私たちはもっとその先に進んでいなくてはなりませんでした。しかし現実には、日本の社会はインターネットなどの普及によって、以前よりも「同調圧力」の強い、息苦しい社会になっているようです。私たちは「個人」と「社会」との関係について、より具体的に考察し、より良い方向性を持たなければなりません。

ところで、野見山さんの文章の中で、「教師ほどの偽善者はこの世にない」と書いてありましたが、その発話者であった椎名さんは早大で教鞭をとっていたようですし、野見山さんは東京芸大の教授になりました。私のような下々の者から見ると、彼らはみな特権的な立場に立っていた人たちなのではないか、というふうに見えます。野見山さんは文章が巧みで、飄々と書いているので、そのことを私たちはしばしば忘れがちですが、野見山さんご自身が高みにいた人でもあったのです。そのことによって、彼は日本の芸術教育の最高機関である東京芸大の教授として意見を発信することができましたし、気の向くままにアトリエを各地に建てて制作することができましたし、戦争で亡くなった画家たちの作品を集めて美術館に飾るという活動ができたのです。

しかし、そのことがまた、野見山さんの視点を限定するものになり、彼の限界にもなったと思います。野見山さんの後に生まれた私たちは、社会的な地位の高い人たちだけが独占している特権についてもっと敏感にならなければなりませんし、野見山さんの世代の男の人たちがほとんど意識していなかったジェンダーの問題など、彼が見過ごしていたことについても考えていかなくてはなりません。

繰り返しになりますが、一人の表現者を聖人化してはいけません。批判されるべきところのない人間などいないはずですから、一人の人に対して敬意を評しながらもそのことを忘れないようにしましょう。例えば、森有正さんという学者の人物像について考えてみてください。森さんが青山学院で語った講演の内容は、戦後の日本社会が抱えていた大きな問題です。しかし、野見山さんの文章を読むと、それが森さんという学者の生い立ちに起因する個人的な問題に矮小化されてしまっているのを感じます。一人の学者が、自分の人生から思想を積み上げていくのは当然ですが、問題なのはそこに普遍的な課題が見通されているかどうか、ということです。私は、森さんの文章から彼個人の抱えていた課題よりも、それを社会的な視点から考察しようとした学問的な意志を感じます。皆さんは、どうお感じになるでしょうか?

よかったら、これを機会に野見山さんの作品、文章、そして森さんの本を実際に見返して見てください。私は野見山さんの作品や文章に親しんできた人間ですが、そこで少し食い足りないものがあり、今回はその点についてなるべく客観的に書いてみたつもりです。しかしこれも、私という個人の見方にすぎません。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事