平らな深み、緩やかな時間

330.『HAKOBUNE 放射されるアート』はどこへ向かうのか? ②

2023年6月3日(土)ー7月9日(日)の期間に開催されていた、三浦市の諸磯青少年センターの『HAKOBUNE』という展覧会の情報です。専用のホームページが開設されました。次のリンクをご覧いただいて、できればお知り合いの方へも教えてあげてください。

https://hakobune23.com/

また、この展覧会のパンフレットのpdfファイルが私のHPからご覧いただけます。そして私のHPからも、私の作品と展示風景の画像がご覧いただけます。次のリンクを覗いてみてください。

http://ishimura.html.xdomain.jp/work/2023hakobune%20etc..html

 

ところで展覧会のタイトルは、なぜ『HAKOBUNE』なのでしょうか?

会場となる「諸磯青少年センター」は2階の窓から磯の風景が広がる海沿いの建物ですが、もちろん「船」ではありません。『HAKOBUNE』は何かの比喩表現、つまりメタファーだと思いますが、展覧会を企画された倉重さんのパンフレットの文章には、そのことについて触れていません。しかし、私は展覧会のタイトルを聞いた時から、何となく企画の意図を感じ取ることができました。

この展覧会については、詳細なカタログができるそうです。それぞれの作品についてはその中で語られたり、あるいは写真を見たりすることができるようですので、私はここで『HAKOBUNE』がイメージするものについて書いてみたいと思います。

今回のblogは前回の①の続きです。よかったら前回から続けて読んでいただけるとわかりやすいと思います。

 

前回は、『HAKOBUNE』という展覧会のタイトルから、動力のない船をメタファーとして考察してきました。そのひとつ目として1969年のウッドストック・フェスティバルで歌われた『Wooden Ships』を、二つ目として1977年の庄司薫さんの小説『ぼくの大好きな青髭』を取り上げました。その二つの作品から、「動力のない船」が現代文明を批判する若者たちが集う共同体を表現するメタファーであったことを確認しました。

しかし、1960年代から70年代にかけての若者たちの動向には、限界がありました。彼らが「物質的な豊かさ」を追求する社会に対して、疑問や違和感を抱いたとしても、やがて彼らも大人になり、彼ら自身が「物質的な豊かさ」を追求する立場になってしまったのです。『ぼくの大好きな青髭』は、そんな若者たちの現実と、その運動の限界を描いた作品だということができます。

そして21世紀になりました。「物質的な豊かさ」を追求する社会が矛盾だらけであることが露わとなり、もはや現代文明批判は一部の若者や知識人だけが唱えていればよいものではありません。地球温暖化や地域紛争、核戦争の脅威など、この数年間を見ていても、それらがより現実的な問題として、私たちに迫ってくるようになりました。

そこで私が、これから三つ目に考察したい「船」のメタファーは、1984年に安部公房(あべ こうぼう、1924 - 1993)さんが書いた小説、『方舟さくら丸』(はこぶねさくらまる)です。とうとう、展覧会のタイトルである『HAKOBUNE』という言葉がそのまま使われている小説を取り上げることになりました。しかしそうは言っても、実はこの小説には「船」はまったく登場しません。「方舟」は完全なるメタファーであって、小説の舞台となっているのは核戦争後の世界を生き延びるための、広大な「核シェルター」なのです。

この小説の広報文を書き写しておきます。

 

地下採石場跡の巨大な洞窟に、核シェルターの設備を造り上げた元カメラマン「モグラ」。[生きのびるための切符]を手に入れた三人の男女とモグラとの奇跡の共同生活が始まった。だが、洞窟に侵入者が現れた時、モグラの計画は崩れ始める。その上、便器に片足を吸い込まれ、身動きがとれなくなってしまったモグラは――。核時代の方舟に乗ることができる者は、誰なのか。現代文学の金字塔。

(書店の広報文より)

 

短く要約された文章ですが、ちょっと誤解を生みそうなところがあります。「モグラ」と「サクラ」と「昆虫屋」と「女」との共同生活は、それが始まろうとしたときに既に侵入者が現れていて、結果的に「モグラ」が方舟の乗員を見つけたと思った時から崩壊へと一気に物語は流れていきます。したがって、「共同生活が始まった」とも言えないのです。

もう少し補足しておきましょう。「モグラ」と自称する人物は、人々から忘れられた地下採石場の広大な跡地を、核シェルターとして整備していきます。そしてその乗員を探そうとデパート地下の即売会場を見に行ったときに、「ユープケッチャ」という怪しげな虫を売っている昆虫屋を見つけます。「ユープケッチャ」は甲類の一種で、自分の糞を餌にして生きていて、動き回る必要がないので脚が退化してなくなり、同じところを時計みたいにぐるぐる回り続けるという(偽物の?)虫なのです。「モグラ」はその「ユープケッチャ」を気に入って二万円で購入しました。彼の言い分は次のとおりです。

 

多少もったいをつけて言うと、ユープケッチャはある哲学、もしくは思想をあらわす記号だと思う。いくら移動を重ねても、ただ動きまわるだけでは本当に動いたことにはならないのだ。肝心なのは静止の心である。いずれユープケッチャを図案化して、グループの旗にしてもいいくらいだ。図案化するなら腹より背中だろう。腹は節だらけでシャコの干物みたいだ。背中は楕円を二つ並べるだけで表象化できる。BMWのラジエータ・グリルみたいで悪くない。BMWは世界一運転性能のいい車だそうだ。ユープケッチャの置き場も決まったようなものである。作業場の便器の上の棚以外にない。旅行関係の荷物はすべてあそこにまとめて置いてある。独り笑い。ユープケッチャを旅行用品にたとえたことで気をよくしたのだ。

(『方舟さくら丸』「2」安部公房)

 

この物語の主人公の哲学は、「移動」よりも「静止」を重視すること、そして「性能のよさ」よりも「愚鈍であること」を好んでもいるようです。これはスピード重視、機能性を尊重する近代文明の逆を行く哲学です。どうやら「モグラ」は、かつてのヒッピーたちがファッションとして身につけたカルチャーを、まったく逆の引きこもり的な思考から育んでいったようなのです。

話を進めましょう。

「モグラ」は自分のシェルターを「船」になぞらえ、その「乗船券」を「昆虫屋」に渡そうとしますが、意図しない成り行きからその「乗船券」を、「ユープケッチャ」をサクラとして(つまりインチキで)買った一組の男女に渡してしまいます。この偶然の乗員がそれぞれ曲者で、昆虫屋はもと自衛隊員で、徐々にその能力を発揮し始めます。販売促進員を名乗る「サクラ」は、かつてのサラ金の取立て屋でした。「サクラ」のガールフレンドである謎の美女は結婚詐欺経歴のある女で名前はわかりません。彼らは奇妙に気が合い、シェルターで暮らすことを決め、「モグラ」は彼らの「船長」となるのです。

この4人だけの閉鎖空間だと思っていたシェルターですが、実は以前から外部の人間たちに共有されていて、「モグラ」と同様にシェルターの密かな利用をもくろむ高齢者の清掃ボランティア団体「ほうき隊」と、彼らと対立していて、シェルターをその隠れ家にしようとする不良少年グループ「ルート猪鍋」などが登場します。そして「モグラ」の憎しみの対象である「モグラ」の父親、「モグラ」の協力者であったスイート・ポテトを販売する「千石屋」など、ちょっと気を抜くと筋書きがわからなくなりそうなほどの目まぐるしく新しい何かが登場し、それらが動き回っていきます。

そのような成り行きで「モグラ」の計画は狂い始め、彼はすべてを飲み込む強力な便器に片足を吸い込まれ、身動きが取れなくなってしまいます。このあたりまで読むと、この小説が何を訴えているのか、などという理屈はどうでもよくなって、とにかく「モグラ」の足はどうなるのか、どんな結末になるのか、が知りたくて急いでページをめくりたくなります。安部公房さんは思想的な作家であると同時に、劇団を運営するほどの娯楽作家でもあったのです。ですから、物語のネタバレはこのくらいにしておいた方が良いでしょう。

それでは気分を変えて、この小説の問いかけるものについて考えてみましょう。

ヒッピー・ムーヴメントや、それに触発された若者の運動は、いずれ挫折していきます。当時の若者にとっては、それは夢の挫折であり、彼らには我慢さえすれば帰るべき場所があったように思います。しかし、1980年代に安部公房さんが書いた『方舟さくら丸』には、帰るべき場所がありません。最終的に方舟を去る「モグラ」にも、方舟に残る他の三人にも、帰るべき場所はないのです。どこに行っても核戦争の可能性はなくなりませんし、環境破壊は続いていくのです。

そのような絶望的な未来を前にして、私たちは何をすべきなのでしょう?自分だけのシェルターを作って、気の合う乗員を探して、自分たちだけが生き延びることを模索することでしょうか?安部公房さんは、それではだめだと言っているのです。それは道徳的に自分勝手で許せないとか、倫理的にだめだとかいうことではないのです。そういう閉鎖的な思考はいずれ崩壊し、外部と接することを余儀なくされると、この小説は教えています。そもそも世界はそういう構造をしていて閉鎖的になっては生きていけない、安部さんは小説のはじめに「ユープケッチャ」という怪しげな虫を登場させて、その自閉的な環境で生きている虫を方舟の旗にしようとした「モグラ」の運命を予告していたのかもしれません。

この本(文庫版)の「解説」で同志社女子大学の助教授(当時)だったJ. W. Carpenterさんは次のように書いています。

 

旧約聖書の記載を信じるなら、破滅に瀕した世界から脱出をこころみた第一方舟丸の船長はノアという人物だったらしい。さすがに神から「選ばれた」者だけのことはあり、洪水からの脱出に見事成功したようだ。それにしても、まだ羅針盤も発明されていなかった時代、地球が死滅するほどの暴風雨のなかで、その大航海はさぞかし難儀なものだったにちがいない。現代人であるわれわれは、なによりその過程に興味をそそられてしまいがちだが、おおらかな創世記時代の人々には成功したという結果だけでじゅうぶんだったのだろうか。たとえばノアが同乗させた動物たちの共食い防止にどんな気配りをしたか、などについてはまったく触れられていないのである。

その点、現代作家である安部公房の『方舟さくら丸』となると、おもむきが一変してしまう。ひたすら出航前の準備に手間をくうばかりで、航海日誌の一頁も書かれないまま、破局を迎えてしまうのだ。しかし読み終わってみれば、それが必然だったことに気づくはずである。現代の方舟は、もともと出航不能なものとして運命付けられていたのだ。安部はその証明のために、この複雑で精緻な模様を織り上げてみせたのだろう。

「モグラ」を自認する小心者の主人公は、おずおずと、いかにも不器用な仕種で、乗組員の選別を開始する。一度はこれと見込んで乗船切符を手渡してみても、完全には相手を信用しきれず、その不信が次から次へと事件を生み展開することになる。考えてみれば当然なことだろう。ノアの時代とは違って、「選別者」の免許証を自分で自分に発行できる「神」という例外者が、すでにその資格を剥奪されてしまったのだ。いまさら「選別者」などもう結構。数度にわたる世界規模での戦争を経験し、他者を排除する「選別」の思想こそ、ファシズムをひきあいに出すまでもなくあらゆる悲劇の根源であることを、誰もが嫌というほど思い知らされたはずである。

(『方舟さくら丸』「解説」J.W.カーペンター)

 

その「誰もが嫌というほど思い知らされたはず」の愚行、その壮大な失敗を最近、矢継ぎ早に見てきたような気がします。ひとつひとつをここで例示することはしませんが、外部や他者といったものを、まるでなかったもののように「排除」してしまう為政者が何と多いことでしょうか!

このように、これからの世界はさまざまな危機の荒波にもまれる方舟のようなものです。私たちは、いずれどこかの方舟の乗員になってしまうかもしれませんし、すでにもうなっているのかもしれません。そしてもしもその方舟の船長になったなら、あるいは乗組員となったなら、私たちはどのように振る舞えばよいのでしょうか?ならず者の為政者のようにならないために、どうしたらよいのでしょう?

言うまでもなく、他者を尊重し、その声に耳を傾けることが必要です。それは言うほど簡単なことではないかもしれません。たとえばどんな時に耳をそばだてなくてはならないのか、どんな他者の声に注意を向けなければならないのか、自分で判断する必要があるのです。その判断を過たないためには、どのように振る舞えばよいのでしょうか?

私は方舟の乗員となるためには、ときに論理的に、ときに自分の嗅覚を存分に働かせて、未来を切り開いていく気持ちを持つことが必要だと考えます。既成の価値観だけにとらわれていては、動力のない方舟を操作することはできません。そしてその方舟の乗員は、「物質的な豊かさ」よりも大事なものがあることを身にしみて知っていなければなりません。

 

ここまでの三つの船の事例から、皆さんは何を考えてくださるでしょうか?

私は前回も言ったように、このような状況で芸術が果たす役割は小さくないと考えています。もしもあなたが本当に芸術を愛する人であるならば、「物質的な豊かさ」よりも大切なものがあることを体験的に知っているでしょうし、創造的な仕事を持続させるためには自分の内面を深く探ると同時に他者との関わりが欠かせないこともわかっているでしょう。何よりもあなたは、既成の価値観にとらわれることがいかに世界を息苦しいものにしてしまうのかを知っています。既成の価値観から外れることは若者だけの特権のように思われてきましたが、このままでは世界は死に絶えてしまうことが明らかになった現在、持続可能な形で創造的に世界を変えていくことが必要なのです。現実の社会でそれを実現するには時間がかかりますが、芸術においてはそれを目に見える形で表現することができるのです。

さて、ここで最後に展覧会『HAKOBUNE』について考察しましょう。

展覧会を企画した倉重光則さんの「発生の現場(体験、現象)」という文章を読んでみましょう。もちろん、皆さんは冒頭にお示ししたホームページから、原文を読むことができます。

 

私自身も50年位作品を作り続けています。

痛んだこの建物に自分と重なるような奇妙な時の流れを感じて、

このような場所に作品を置いて作ったらどんな反応が起きるのだろうと….。

美術館や画廊のような白い空間ではないこの場所で….。

そのような時空の中で参加者の美術といえるようなもの、

或いはいえないものが生まれる発生の現場に立ち合いたいという思いから始まりました。

 

そこは事件の起こるべき構図の中といったものが欠けている場所、

次の日もこの場所は飽きもせずに反復されているに違いない。

風景のカラッポ、オイディプスの悲しい目、主体の不在、入り口の扉に塗られたペンキは乾燥した皮膚のように浮き上がり、

剥がれているのだ。深く打ち込まれたボルトもだらしなく露呈し、ボロボロに崩れている。

剥がれたコンクリートから現れる内部の骨組は、ゆっくりと時間をかけて腐食され、

茶褐色に錆び付き、風化の一途を辿っている。海水は上ってきた。

過ぎていくものを思い出す。

壊れたボートが中ば地上に溺れ、泥の中に埋もれている。

放置されたエアコンの残骸、ゴミや汚物の山、泥のある箇所が散在する。いかに泥は柔らかくあり、同時に乾いているのか、

干されているのか、褐色、黄、黒、灰色、黒ずんだ色をしている。

その匂いが求めているものは、或いは草か。

いまそれに触れ、手にとった指の間で湿ってくっ付き、捉えどころのなかったこれら何本かの草。

上部が斜めに撃ち込まれた杭は、やや傾き、割れて、縦にヒビが入り、白っぽくなっている。

所々に頭の欠けた茶色の錆びた釘は、そこに残っていた、何か他のもの、名づけられない他のもの、

もはや何か分からないものの一部であったのか。唯一確かなことはこの場所は、光によって放射されている。

微細に交感するもののただなかに晒されている。

反復されている。

わたしは光のなかで、構築物の前に立ち、ある一文を想起する。

「ムクドリは数千羽、数万羽という群れを作って大空を群舞する。

その動きは自由自在に離合集散を繰り返しつつ、一糸乱れぬフォーメーションで、ある秩序を保ちながら(…)

群れ全体として―つの集合的な意識をもった生命体のような動きである。まさに「シンクロニシティ」である」

(シンクロニシティ ポール・ハルパーン著『シンクロニシティ科学と非科学の間に』に寄せられた福岡伸一(生物学者)の推薦文より)。

わたしの目はもとめる。生あるものだけでなく、現在ここに存在するものがいかに交感しているのか。

空を飛翔する数千羽の翼のように、そこでシンク口は起きているのか。

わたしは風景に、光に、思考に、交感に晒されている。風は無かった色彩は確かに与えられていた。

防波堤の壁に描かれた落書きにも、風に吹き寄せられた色の褪せた紙切れにも、

正確には判別の難しいビニール製品、ペンキの付着した木片、形を失ったプラスチック、打ち寄せる波の中にも、

ガラスの破片がゆっくりと旋回し、光輝を発しながら流れていた。

それらは至る所で確実に死の薫りを噴射し、分裂と生成を絶えず起こしながら化粧している。

(「発生の現場(体験、現象)」倉重光則)

 

はじめの一節はきわめて論理的な文章です。美術館や画廊といった、いかにも美術作品を展示しますよ、という空間ではない場所から何かを始めてみたい、という欲求について書かれていますが、芸術表現に携わるものなら、誰もがこの気持ちを共有できることでしょう。作品が設置されて、感動すべきことが予定調和的に決まっている場所、意地悪く言えば美術館や画廊はそういう場所です。私たちが継続的に美術表現を続けるためには、そのような場所の確保も必要ですが、そうではない奇妙な場所から発生するものも時には必要なのです。

そして次の一節からは、倉重さんの感覚がとらえたものについて書かれています。さらにその次には、感覚と論理が奇妙に出会う場所について、ここでは「シンクロニシティ」という現象について書かれています。論理ではすべてが説明できないのですが、しかしそこには論理を超えた何かがあると確かにイメージできるものが世界には存在します。倉重さんはその一つの例である「シンクロニシティ」について注目し、魅力的な動画もアップされているのです。

考えてみると、倉重さんはずーっとそういうものを追い求めてきた人でした。

倉重さんは、私が現代美術に興味を持つようになった頃には、すでに著名な作家でした。私は学生時代に、倉重さんが名古屋市博物館で地元の作家たちのグループ展に招かれた時に、知り合いのつてで倉重さんの作品の設置を手伝うことができたのです。当時の倉重さんは、大きな布に直線と円によるドローイングを施し、そのところどころにネオン管を設置して発光させる、という作品を発表していました。倉重さんが布を広げて、手製の木の定規を取り出して器用に線を引いたり、円を描いたりする様子がいかにもひょうひょうとしていて、楽しそうだったのを憶えています。しかし、その色褪せた布を壁にかけて、ネオン管を設置して明かりをつけた途端に視界が一気に変わりました。作品が呼吸を始め、息づき、まるで作品自身が生きているように繰り返し眼の中で再生しているようだったのです。なぜ、このようなことが倉重さんの作品に可能だったのでしょうか?

この時の倉重さんの作品では、ネオン管で表現されたラインは、ごく一部です。ネオン管とチョークのようなもので引かれたラインが互いに補いつつ、不完全なままに展示されていたのです。そのせいで、私たちの目は所々にイメージ上のネオン管を補い、あるいは白いラインを引いて作品を見てしまうのです。ネオン管の配置に規則性のようなものがあるようでないのです。おそらく倉重さんは作品が鑑賞者の目の中で完成するように、独特の嗅覚を働かせてネオン管の設置場所を決めているのです。

このように、倉重さんの作品ではおおむね一部のネオン管(あるいは他の素材)が欠落し、それを鑑賞者が眼の中で想像して補い、それが倉重さんの作品を永遠に生成し続けるもののように見せているのです。このような光の使い方は、いわゆるライト・アートの作家たちには縁のないものです。倉重さん以外に、私はこのようなユニークな使い方を見たことがありません。

倉重さんはそれ以降も、変わらずに同様のことを試みています。それはときに論理的な装いをし、ときに陳腐に見えるほど論理を逸脱してもいながら、作品そのものは常に生きているように見えるのです。『HAKOBUNE』という展覧会について書きながら、このように倉重さんの作品のありようについて長々と書いたことをお許しください。しかし、この『HAKOBUNE』という展覧会のありようも、まさにこのように、ときに論理的であり、ときに感覚的なものではなかったでしょうか?どういう基準で作家たちが選ばれたのかは私にはわかりません。もしかしたら、倉重さんや勝又さんにも説明できないのかもしれません。それでも作品たちは勝手に寄り添い、勝手にばらばらで、それでいて何か同じものを求めて表現しているように見えました。はっきりしていることは「物質的な豊かさ」のみを追い求めている人は一人もいないということ、そして何かもっと大事なものを希求することをやめない人、しぶとい人、そういう人たちが『HAKOBUNE』の乗員として選ばれたのだと思います。

私はこの船の乗員になるには、いささか作品様式がフォーマルにすぎたのかもしれませんが、それでも三浦半島の風景が眺められる窓際に作品を置かせてもらったことを、本当に光栄に思っています。あるいは階段上のドアの脇にも一点、さりげなく作品を置いていただいたことも、ここでしかできない一回限りの体験として貴重なものでした。

 

最後に、ここでもう一度、倉重さんの営みの継続性について考えてみましょう。

倉重さんは、もう40年以上前にふらっと名古屋の展覧会に参加しました。そして21世紀になって今回は諸磯青少年センターにも現れたのです。倉重さんに限らず、私たちはときに他の人の方舟の乗員になり、ときに自分が船長となって展覧会を組織します。もちろん、それぞれの作家の個展による発表などが基盤にあると思いますが、しかし私たちはずーっとこのような方舟に揺られてきたのではないでしょうか?動力のある船はいかにも売れそうな作家を乗せて、世界的な市場へと彼らを連れて行きます。倉重さんにも乗船資格はあったのでしょうが、彼はそのような船には乗船しなかったようです。私はもともとそういう大きな船には縁がなかった人間ですが、倉重さんや勝又さんはあえて方舟を選んでここまで来たのではないか、と推察します。別に売れることは悪いことではありませんが、面白そうなことを選んで仕事をしていると、結局、方舟を選んでしまうのかなあ、と倉重さんや勝又さんを見ているとそう感じます。



今回は三つの「船」のメタファーを取り上げて、考察を進めてみました。若者の夢と挫折は歌になり、物語にもなって私たちに届けられてきました。しかし、かつての若者たちの「夢」は、現在では夢で終わらせるわけにはいかないものです。「物質的な豊かさ」のみを追求し、あるいは他者を「排除」した世界には未来がありません。それほど世界は行き詰まり、「夢」の「挫折」は世界の終わりを意味するのかも知れないのです。動力のない「船」のメタファーは流行らなくなり、やがて消えていく・・、で済めばよいのですが、そういうわけにはいかないのです。

私たちは「夢」をあきらめない仲間たちとゆるやかにつながって、ときに乗員を替え、ときに場所を変えて継続的に『HAKOBUNE』を走らせなくてはなりません。外部の風を取り入れて、ときに論理的に、ときに自分の嗅覚を信じて、柔軟に振る舞うことが求められています。そんな「船」がどんな姿をしているのか、それはいっときのことでしたが三浦半島の先端の、海沿いの磯に面した丘に現れました。その建物は再び空虚さを取り戻してしまいましたが、幸いなことにアーカイブの記録を立ち上げた仲間(中前寛文さん)がいました。私たちは、何回でもそれを確認することができるのです。

 

展覧会は終わりましたが、一人でも多くの方にその記録を見ていただければ・・、と願いながら二回に分けて文章を書いてみました。

新しい世界のために、それぞれの場所で『HAKOBUNE』を動かしていきましょう。

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