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「わたしは持久戦には強いので頑張ります」永田洋子死刑囚死亡

2011年02月06日 | ヒトゴロシ



永田洋子(1945年2月8日 - 2011年2月5日)

山岳ベース事件1971年~1972年

連合赤軍1971年~1972年


連合赤軍 永田洋子死刑囚死亡

連合赤軍の元幹部で、昭和40年代に多数の仲間を殺害した事件などで死刑が確定した永田洋子死刑囚が、5日夜、東京拘置所で死亡しました。

連合赤軍の元幹部の永田洋子死刑囚(65)は、昭和46年に組織を抜けた仲間2人を殺害したほか、翌年にかけて群馬県の榛名山などのアジトで仲間12人を死亡させた殺人などの罪に問われ、平成5年に死刑が確定しました。永田死刑囚は、昭和59年に脳に出来た腫瘍の手術を受け、その後は収容されている東京拘置所の医療施設で治療を受けていました。関係者によりますと、永田死刑囚は、ここ数年は病気の悪化で寝たきりの状態だったということで、5日夜、死亡しました。裁判で、永田死刑囚は責任を認めて謝罪し、手術のあと出版した手記では「生活のすばらしさ、生きることの大切さを知り、そのゆえに14名の同志が決して生き返ることはないという事実が重くのしかかってくる」と心境を明かしていました。その一方で、事件の真相が正しく理解されていないとして、死刑の判決を受け入れない考えも明らかにし、「わたしは持久戦には強いので頑張ります」と述べていました。連合赤軍は、永田死刑囚が関わったリンチ殺人事件や、昭和47年2月に長野県軽井沢町で起きたあさま山荘事件などで16人が起訴され、永田死刑囚など2人の死刑が確定しています。
(NHKニュース)


永田死刑囚が病死=元連合赤軍の最高幹部-脳腫瘍で寝たきり・東京拘置所
 
 1971年から72年に起きた一連の連合赤軍事件のうち、山岳アジトで仲間を次々と殺害したなどとして殺人や死体遺棄などの罪に問われ、93年に最高裁で死刑が確定した元連合赤軍最高幹部永田洋子死刑囚(65)が5日午後10時6分、多臓器不全のため東京拘置所で死亡した。法務省が6日、発表した。
 永田死刑囚は脳腫瘍と診断され、脳萎縮と誤嚥(ごえん)性肺炎の治療中だった。弁護士によると、寝たきりの状態だったという。
 確定判決によると、永田死刑囚は71年8月、元連合赤軍幹部の坂口弘死刑囚(64)らと共謀し、組織を離脱した2人を絞殺して、千葉県・印旛沼付近の山林に遺棄(印旛沼殺人事件)。同年12月から翌年2月にかけては、群馬県・榛名山などの山岳アジトで「総括」と称し、仲間を暴行して11人を殺害、1人を死亡させ、遺体を山中に埋める(山岳ベース大量リンチ殺人事件)などした。
 連合赤軍は71年、過激な武装革命路線を掲げた共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘が統合して結成。山岳ベース事件やあさま山荘銃撃事件を起こし、一連の事件でメンバー14人と警官2人、民間人1人が犠牲となった。
 永田死刑囚は、あさま山荘事件が起こる前の72年2月に逮捕された。
 一審東京地裁は82年6月、「共産主義社会の実現を、憲法の許さない銃と爆弾で貫徹しようとした独善的、反社会的な犯行」として死刑を言い渡し、二審東京高裁は86年9月に控訴を棄却。93年に最高裁で確定した。
 2001年7月には再審を申し立てたが、東京地裁が06年11月、棄却を決定。永田死刑囚が東京高裁に即時抗告していた。
(時事通信)


元連合赤軍幹部・永田洋子死刑囚が病死 東京拘置所

1971~72年に起きた「連合赤軍事件」で、新左翼運動の仲間を殺害した罪などに問われ、93年に死刑が確定した元連合赤軍幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚が5日午後10時6分、東京・小菅の東京拘置所で病気のため死去した。65歳だった。法務検察関係者によると、死因は脳腫瘍(しゅよう)による多臓器不全とみられる。

 永田死刑囚は東京都出身。連合赤軍の実質的なリーダーの1人だった。内部抗争の末、71年8月に仲間2人を殺害した「印旛沼殺人事件」、71年12月から72年2月にかけて「総括」や「処刑」と称して群馬県の榛名山などで12人を死なせた「山岳ベース事件」などにかかわり、72年2月に逮捕された。同月下旬に警察官ら3人が殺害された「あさま山荘事件」には関与していない。

 同じく連合赤軍幹部だった坂口弘死刑囚(64)らとともに裁判を受け、82年に東京地裁で死刑判決。86年に東京高裁が控訴を棄却し、93年に最高裁が上告を棄却して死刑が確定した。

 その後、両死刑囚の弁護人は刑事訴訟法の規定に従い、共犯者とされて一審途中に超法規的措置で国外に脱出したままになっている坂東国男被告(64)の判決が確定するまで、死刑を執行しないよう法務省に申し入れていた。また、永田死刑囚は01年に再審を請求したが、東京地裁は06年に棄却し、東京高裁に即時抗告していた。

 公判中には自らの生い立ちやリンチ殺人に至る過程をつづった「十六の墓標」などの著作を発表。一方、84年には脳腫瘍の手術を受け、その後も病院への移送などを求め、国などを相手取った訴訟を起こしたが、認められなかった。その後も頭痛や目の痛みを訴え、寝たきり状態が続いていたという。
(朝日新聞)


永田洋子死刑囚が死亡 連合赤軍事件で大量リンチ

 死亡した永田洋子死刑囚
 1971~72年の一連の連合赤軍事件で殺人や死体遺棄罪などに問われ、93年に死刑が確定した元連合赤軍幹部の永田洋子死刑囚(65)が5日夜、死亡した。複数の関係者が明らかにした。

 永田死刑囚は84年に脳腫瘍の手術を受け、寝たきりの状態が続いていたという。

 確定判決によると、永田死刑囚は元連合赤軍幹部の坂口弘死刑囚(64)=93年確定=らと共謀し、71年8月、組織から逃走した仲間2人を絞殺、死体を千葉県印旛沼付近に埋めた。さらに同年12月~翌72年2月、群馬県・榛名山など山岳アジトでの「総括」と称するリンチで仲間11人を殺害、1人を傷害で死亡させ、死体を遺棄した。

 72年2月、下山してからアジトに戻る途中に逮捕され、一、二審で死刑を言い渡された。最高裁も93年2月、永田死刑囚の上告を棄却した。事実誤認があったとして再審請求したが、東京地裁は2006年に棄却する決定をした。

 永田死刑囚は獄中で事件をめぐる人々を振り返る手記を執筆。一方、「拘置所で適切な治療を受けられず、病状が悪化した」として国などに損害賠償を求める訴訟を起こしたこともあった。
(共同通信)



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十六の墓標 下―炎と死の青春
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永田洋子さんへの手紙―十六の墓標を読む
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