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2006年5月からの記録
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附属池田小事件から22年

2023年06月08日 | ヒトゴロシ
附属池田小事件から22年
「救える命も救えなかった」
当時1年の担任が悔やむ惨状での対応 “思考が停止した”

 2001年6月8日。大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校に、刃物を持った男が侵入した。2時間目の授業が終わりに近づいた、午前10時過ぎのことだった。男は刃物で児童を次々と襲い、1年生と2年生の児童8人が死亡し、教師2人を含む15人が重軽傷を負った。 



当時1年西組の担任をしていた小林弘典さん(54)。体育館での授業を終えて子どもたちを整列させていたところ、教師2人がものすごい形相で入ってきたという。 
 「『子どもたちを避難させろ』とただならぬ雰囲気で話していて。何か聞くわけでもなく、一瞬のうちにこれはすごいことが起きたと感覚的に察知したので、一刻も早く避難させなければと状況を判断して動きました」 
1年西組の子どもたちを全員運動場の奥に避難させた後、「現場の手が足りない」という情報を受けて、小林さんは校舎に向かった。 
 「校舎に上がると、倒れている女の子と先生が見えて。その向こうに1年南組の先生が倒れていて、誰もついていなかったので私は先生のところに駆けつけました。当時は刺されていたという状況も把握できていなかったですが、出血がすごかったので。扉を外して担架代わりにして、搬送されるところに連れて行ったと思います。当時私は思考ができていなくて、目の前の状況で、勝手に自分の判断で対応していました」 

事件では、被害の全容を教師たちが把握することに時間がかかった。組織的に対処ができず、目の前にいる児童の救護に集中した結果、複数の児童が20分前後にわたって救護を受けられず放置され、死亡した。 

 「(現場で)どんな会話がされたというのが、なかなか思い出せないんです。他の教員も言っていたんですが、結局感覚の中で何ができるかを判断しながら、(運動場に)残る人、校舎に行く人に分かれ、それぞれが動いた形です。(教員同士が)バラバラで統率がとれなくて、組織として動けていなかったことが悔やんでも悔やみきれない。一番ずっと、心の中に残っているんです。結果的に救える命も救えなかった。たくさんの子どもたちにけがをさせてしまいました」

 (2023年6月8日 関西テレビ)



事件前日の2001年(平成13年)6月7日夜、宅間は自宅マンションで過去に思いを巡らせ、「何をやっても裏目に出る」と考えていた。復縁しようとしてもますます離れていくばかりだった3人目の元妻について、小学校へ勤務していたときに薬物混入事件を起し免職になったのも彼女と別れて苛々していたためだと考え、「彼女と知り合っていなければ、こんなことにはならなかった」と全ての責任を押し付けて恨みを募らせた。消費者金融からの借金が300万円以上ある上に家賃も請求され、将来の見通しが全く立たないとの絶望感に駆られ、このような原因を作った元妻の勤務先がわかったときに殺しておけばよかったと後悔すると同時に、生活に行き詰まっても自殺もできない自分が情けなく、苛立たしく思った。だが次第に「自殺しても元妻らが喜ぶだけだ。あほらしい」「大量に人を殺害すれば、元妻は自分と知り合ったことを後悔するだろうし、世間の多くの人も絶望的な苦しみを味わうだろう」という考えに変化していった。大阪市内の繁華街へダンプカーで突っ込むことも考えたが、小学生を襲うのが簡単だと考え、小さい頃に憧れて同時に嫉ましくも思っていた、エリート校の附属池田小を襲うことに決めたという。
午後9時45分頃に、宅間は104番の電話番号案内で附属池田小の電話番号を聞き、メモしている。だが宅間も、以前から考えていた元妻の殺害を諦めきれず、日付が変わった午前2時になって、出会いパーティーで知り合った女性との電話で、興信所の調査費用50万円の借金を申し込んだが断られ、附属池田小の児童を無差別に殺害する決意を改めて固めた

6月8日、宅間は午前8時頃に起床し、以前から快く思っていなかったアパートの賃貸人にもアパートを焼損させて復讐しようとの考えから、火の付いた煙草を布団の上に置き、午前9時30分頃に部屋を出た。この煙草の火は間もなく自然に消えており、火災には至っていない。

午前9時40分頃(事件の40分前)、宅間とみられる男が、白い乗用車を運転し猛スピードで駐車場から出ていった様子が目撃された。目撃した人物は「何かやるぞと感じた」という。

宅間は午前10時前に刃物店を訪れると「丈夫なやつ」と告げ、ケース入りの出刃包丁1本(刃体の長さ約15.8 cm)を7480円で購入。車内でケースから包丁を取り出してビニール袋に入れると、前日にメモしていた附属池田小の電話番号をカーナビゲーションに入力し、同校へと向かった。

附属池田小に着く直前に思ったのは「よく考えると僕死んどったんじゃないか。たまたま助かっただけやないか、と思ったのを覚えているんです。(病院から)飛び降りたときに。あの時死んどったんや。おまけ(の人生)やないか、と」ということであったという。車内には、元妻を殺そうとの目的で以前から準備していた文化包丁もあった。

宅間は大阪教育大学附属池田小学校東門の前に車を停めると、約100メートル離れた南校舎へ向かい、午前10時10分過ぎ、1階にある2年生の3教室に次々と侵入し犯行に及んだ。時間は2時間目の授業が終わった休憩時間で、2年南組担任の教諭は、数人の児童と共に花壇の世話のため外へ出ていたが、児童の悲鳴を聞いて校舎へ近づき、2年東組担任と1年南組担任の教諭が宅間を追いかけているのを目にした。1年南組担任は、宅間の振り回した包丁で背中を刺されている。2年南組担任がテラスに出ていた児童にグラウンドへ逃げるよう指示すると、宅間は一瞬児童らを追う素振りを見せたが、方向を変えて1年南組教室へと飛び込んだ。

午前10時20分、1年南組の児童たちはちょうど音楽の授業から教室へ戻ってきたところで、一足早く音楽室から戻ってきていた男児が、ここで刺され犠牲となった。宅間は他の児童にも次々と切りつけ、教室の後ろにいた女児らは泣きながら廊下へと逃げ出した。駆け付けた副校長と2年南組担任が宅間と格闘になり、2年南組担任は包丁を持った手を押さえようとして顔を切られた。しかし手を押さえられると宅間はおとなしくなり、二人により取り押さえられた。15分に及んだ犯行の間、宅間は終始無言だった。

児童8名(1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名が傷害を負った。その後、宅間は駆けつけた池田警察署の署員により、殺人未遂容疑で現行犯逮捕されたが、左手指に怪我をしていたため、まず病院で手当てを受けた。

その後、大阪府警察(捜査一課・少年課)が池田署に設置した捜査本部により、容疑を殺人容疑に切り替えられ、取り調べを受けた。

その後、同月10日には1年南組の児童4人に対する殺人および殺人未遂(男児1人を刺殺し、同級生3人を負傷させた)容疑で、大阪地方検察庁へ送検された。残る2年生の女児7人への殺人容疑と、児童および教師計12人への殺人未遂容疑、そして銃刀法違反容疑でも、同月29日に再逮捕された。

宅間は7月8日から刑事責任能力を調べるため、大阪地検によって大阪拘置所に鑑定留置され、翌日(7月9日)から本格的な精神鑑定を受けた。当初の留置期限は10月7日まで(3か月間)だったが、同年9月6日には鑑定人が大阪地検に「完全責任能力があった」とする鑑定結果を報告した。これを受け、大阪地検は早期起訴を目指し、鑑定留置期間の短縮を大阪地方裁判所に申請。それが認められたことから、鑑定留置は同月13日午前をもって終了し、宅間は翌日(9月14日)に大阪地検によって、児童8人への殺人罪や、児童および教師15人に対する殺人未遂などの罪で、大阪地方裁判所へ起訴された。また、同月25日には余罪(傷害・暴行・器物損壊)の罪でも追起訴され、一連の捜査は終結した。



宅間守  (1963年〈昭和38年〉11月23日 - 2004年〈平成16年〉9月14日)


宅間は最終意見陳述で
「死ぬことには全くびびっていない」
「今まで、散々不愉快な思いをさせられて生きてきた」
「しょうもない貧乏たれの人生やったら今回のパターンの方が良かった」
「幼稚園ならもっと殺せたと、今でもこんなことばかり考えてしまう」
などと話し、謝罪の言葉は述べなかった

 2003年8月28日に判決公判が開かれ、大阪地裁刑事第二部(川合昌幸裁判長)は、求刑通り宅間を死刑に処す判決を言い渡した。午前10時2分、宅間は刑務官に囲まれて法廷へ姿を現したが、裁判長の「主文を言い渡します」という言葉を遮るように「最後にちょっと言わせてえな」と叫んだ。
裁判長は「今日は発言を認めません」と制したが、
「どうせ死刑になるんやったら、言わせてくれ。たったメモ3枚や」
「今までおとなしくしとったんや、それぐらいあってもええやないか」と、
右手のメモを繰り返し突き出しながら矢継ぎ早に叫んだ。
「発言をやめなさい」と厳しい口調で繰り返されてもやめなかったため、
10時4分に退廷を命じられ、刑務官に両脇を抱えられて連れ出された。
その際、怒りを露わにして傍聴席を振り返り、遺族1名の実名を挙げて大声で罵った。
10時5分、裁判長は刑事訴訟法に基づいてそのまま判決を言い渡す旨を告げ、「被告人を死刑に処する」という主文を2度読み上げた。
死刑判決の際は通常、主文を後回しにして判決理由から朗読し始める場合が多いが、同日は冒頭で死刑の主文が言い渡される異例の展開となった。

 死刑確定から1年足らずの2004年(平成16年)9月14日、宅間守(吉岡守)死刑囚は野沢太三法務大臣の発した死刑執行命令により、収監先の大阪拘置所で処刑された(40歳没)




宅間の母は妊娠を喜ぶ父に対して「あかんわ,これ,おろしたいねん私。あかんねん絶対」と言った

宅間「わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!!
でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!」

・・・どよめく室内。裁判長が退廷を命じる・・・

宅間(引きづられなから)「おい、くそガキの親!おまえらのガキの8人分の命はワシ一人を殺して終わりの程度の価値やったんやぞ!エエ学校に行かせて偉そうにしとったから死んだんや!
ガキどもが死んだ原因はおまえらあるんや!せいぜい一生反省せいよ!あの世でもおまえらの子供しばき倒したるからな!あははははは!あははは!こらおもろい!」

「金髪で背の高いおっちゃんが突然、へらへら笑いながら教室のベランダから入ってきてん。左の手にビニール袋持ってたけど、その中に包丁が入っていた。みんな『キャー』と叫んで逃げようとしたけど、おっちゃんは包丁を取り出して次々にクラスの友達をブスブスと刺していってん。血がビューと飛び出るのが見えたけど、その後、どうやって逃げたのかは覚えてへん…」


宅間には実兄が一人いたが、破綻した実弟の存在に心を病み、40歳代前半のときに首吊り自殺している。

宅間の母親も長期に渡って心を病み、精神病院に数十年以上入院生活し、2016年(平成28年)末にその生涯を閉じた。

父親は事件後酒乱となり入院していたが、獄中の宅間は「宮崎勤の父のように自殺して欲しかった」と語っている。その後宅間の父は2020年(令和2年)4月に88歳でその生涯を終えた。




宅間守より19歳年上の二回目の結婚相手は、
小説家の故小松左京さんの実妹で宅間守の小学校時代の担任教諭だった

1990年(平成2年)3月、宅間は看護婦と肉体関係を持とうと考え、看護婦試験合格者名簿の名前から調べた番号に電話を掛けることを繰り返す内に、19歳年上の女性と知り合った。そこで泌尿器科の医師であると噓をついて接近し、肉体関係を結んだのち、6月14日に強引に結婚(1回目の結婚)。しかし直後に医師でないことが露見し、26日には離婚。
10月12日には19歳年上の女性と結婚するが(2回目の結婚)、1993年(平成5年)9月に再度の強姦事件を起すなどしたため、翌1994年(平成6年)9月21日に離婚した。
また、1995年(平成7年)11月27日には、バス運転手をしていて知り合った44歳年上の女性と財産目当ての養子縁組をしたが、宅間が暴力を振るい金を取るなどしたため、1997年(平成9年)1月7日に協議離縁している。
一方、1996年(平成8年)12月15日にはお見合いパーティーで2歳年上の女性と知り合っており、離婚歴を隠した上で執拗に結婚を迫った。この女性は乗り気ではなかったが、「結婚しなければ、お前を殺して私も死ぬ」などと言われたり、実家の住所を調べ上げられたりしていたため、周囲への迷惑を考えて1997年(平成9年)3月30日に結婚(3回目の結婚)。しかし妻は、宅間の粗暴な振る舞いや暴力を受けたり、周囲とトラブルを起こす宅間の姿を見るなどした上、過去の養子縁組の件を知ったため、離婚を決意した。
1998年(平成10年)10月18日には、お見合いパーティーで3歳年下の女性と知り合い、その後結婚(4回目の結婚)。しかし1999年(平成11年)に後述の薬物混入事件を起したため、同年3月31日に離婚した


 

 
 
 
 
 
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