NAVERまとめのうんこ置き場 NAVERまとめさんがサービス終了したので、記事をここに置いています

こんなの観ても時間の無駄です。観ないことをおすすめします。

【炎の画家】フィンセント・ファン・ゴッホ名言集 人生は全てを描くには余りにも短い

2017-02-10 08:50:56 | 芸術


フィンセント・ファン・ゴッホ名言集

 

1853~1890 画家『ひまわり』『星月夜』 地上に打ち捨てられた孤独な男の娘があるというのはどういうことなのか?

 

彼らが世界を破壊する
彼らが世界を穢す
彼らが調和を乱す
彼らが全ての命を殺す
全ての命が救われる
永遠の平和が訪れる
一つの命を殺すことによって
一つの種の命を殺すことによって
何も間違っていない
何一つ間違っていない
真理 正義だ


私が常に憂慮しているのは、いつかはついに、人間を殺すのに最も手っ取り早い方法がとれる、何らかの秘密が発見され、諸民族、諸国民全体が滅ぼされてしまうのではないかということです。

 

二人は幸せな接吻をして終了

 

日本の女優・アイドル・グラビアアイドル・ファッションモデル・声優

 

日本の男優・俳優・アイドル・ファッションモデル・声優

 

 

 


出典 www.amazon.co.jp

 


出典 www.amazon.co.jp

 

僕らは互いに熱心に手紙を書かねばならない

 

僕の若い時代は陰鬱で冷たく不毛だった

 

僕は自分の持っているミシュレの本などを全部破ろうとしている。最近の僕には、この世には牧師と教師以外に職業はないように思われてきた。

フランスの歴史家ジュール・ミシュレ

 

この手を焔に入れていられる間、彼女を連れて会わせてくれ

 

すぐにではないが程なく、僕の内部で愛情が枯死するのが感じられた。そしてそのかわりに一種の空虚、計り知れない空虚が訪れた。

 

しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いておいた鉛筆を取り直し絵に戻るのだ、と自分に言い聞かせた

 

きっと人々を真に傾聴せしむるに足るだけのものを、携えて帰って来るに違いない

 

僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う

 

作品の中に思想を表現しようとすることは、画家のつとめであると僕には思える

 

自分の目の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う

 

その農民たちの絵から、ベーコンの匂いや煙やじゃがいもの湯気が感じとれたら成功だ

 

この絵は手の労働を語っているのであり、いかに彼らが自分達の糧を稼いだかを語っている

 

僕は農民が畑を耕すように、自分の絵を耕しているのです

 

僕は大聖堂よりは、人間の眼を描きたい。大聖堂がどれほど荘厳で堂々としていようとも、そこにはない何かが、眼の中にあるからだ。

 

ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ

 

自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから

 

僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。

ウジェーヌ・ドラクロワ、レンブラント・ファン・レイン

 

「ミレーの農奴は、自分が種を蒔いているその大地の土で描かれているかのようだ」これはアルフレッド・サンシエの言葉だが、まさに真を衝いた名言だ

ジャン=フランソワ・ミレー

 

例えば、ミレーの『種まく人』は畑にいるただの種まく人ではなく、むしろその魂なのだ

 

その花が太陽に顔を向け続けるように、信心深い人はキリストに関心を向け続ける

 

君と同様、あれから何日かは、いつものような仕事はできなかった。この日々は忘れることはあるまい。

 

結局のところ、本当にそう思うのだが、僕は色彩の音楽家であるよりも、靴屋でありたいのだ

 

気がふれ病気になりながら、それでも自然を愛する人間がいる、それが画家というものだ

 

神の言葉を種まく人に、僕はなりたいと願っている

 

福音書だけでなく聖書全体の根底または基本的真理の一つは、暗闇の中に差し昇る光だ

 

この光を最も必要とし、受け入れる心が強いのは誰なのか、経験によれば暗闇を歩く人々

 

教会へ入ったら最後、人は固まった石と化してしまう。これは驚くに値しない。僕は自分自身の経験で知っている。

 

現実のそして架空の教会の壁のために、骨の髄魂の髄まで、悪寒を感じ続けていた

 

暗闇に光を投げかけてくれるような本

 

どれほど強固に基盤を持っていようとも、信仰や宗教が朽ち果てたことを、だがまたいかに農民の生と死が永劫に変わらぬものであるかを

 

朝目覚めた時、一人ぼっちでなく、明け方の薄明かりの中で傍らに伴侶がいるとすれば、世の中ははるかに楽しいものになる

 

ここでは日本人のように自然に没入して生活している。僕らは日本の絵画を愛しその影響を受けている。まるでもう、日本人の画家達が描いた雪景色のようだった。

 

居酒屋の闇の力のようなものを表現しようとした。ただし、外見は日本風の陽気さとタルタランの人の良さで蔽ってね

 

人は画家だと聞くと、狂人か金持ちのどちらかだと思うだろう

 

もし君も来ることになれば、君は歴史上、最初の画商、使徒になる

 

本気にこれを取り組んで、僕が望んでいるような恐ろしい絵を作って良いものかどうか迷っているからだ

 

実際にヴァイオリンかピアノが弾ければ、本当に楽しいに違いない。ヴァイオリンをとりあげ、弾きはじめる。それで一晩中だって、皆楽しく過ごせるのだ。絵描きも同じことができなくては駄目だ。

 

僕の画室はそう具合は悪くない。ことに小さな日本の版画を壁にいっぱいピンで留めたから、大いに楽しい。

 

黄色とすみれ色の華が一面に咲いた野原に取り囲まれた小さな町、まるで日本の夢のようだ

 

僕らは日本の画家を愛しその影響を受けている。このことは、全ての印象派画家について言える。それなら、どうして日本へ、つまり日本にあたる南フランスへ行かずにいられようか。

 

この冬、パリからアルルへ来る途中に受けた感動を思い出しても、まだありありと浮かんでくる。まるで日本に来たのじゃないかと、目を凝らしたほどだった。

 

僕はやっぱりズンデトルの農民のままでいます。少し違うのは、彼らの方がこの世界ではるかに役に立っているということです。

 

今日は小さな馬車が跳ね橋を渡っている絵を描いた。それは青空を背景にして、くっきりと姿を見せている。

 

僕はブイヤベースを貪り食うマルセイユ人のように、絵を描いているところだ。別に驚くようなものではない。大きなひまわりの絵を描いているだけだからね。

 

病気のため精神病院に入ることになったとき、別れる数日前にゴーガンのいない椅子を描こうとしました

ポール・ゴーギャン

 

空の椅子、それらはたくさんあるし、もっと増えるだろう。そして遅かれ早かれ、空の椅子だけが残るだろう。

 

病気の間、僕はズンデルトの家の一つ一つの部屋が目に浮かんだ。一つ一つの道、庭に生えている一つ一つの植物、家の周りの景色、畑、隣家の人々、墓地、教会、その先にある僕らの家の野菜畑、さらには墓地の高いアカシアの木にあるカササギの巣までも。

 

幼い頃の生活、少年時代と青年時代の生活、世俗的な喜びと虚栄の生活が、木から花が落ちるようにいやおうなく朽ち果て、新しい人生、キリストへのほとばしる愛の人生、誰も悔やませることのない悲しみ、聖なる悲しみの人生が、力強く成長していくのを、誰か見るものはいるのだろうか

 

自然という偉大な書物が我々に語ってくれる死のイメージだが、僕が努めて出そうとしたのは、ほとんど微笑みながらという姿だ

 

あと、2、3年も仕事をして、自分が正しい道にいると感じられたら、少しは安心できるだろう

 

何か大きいもの、無限なるもの、神を感じさせるものが欲しいという気持ちになったら、遠くに探す必要はない。大海よりもっと深く、もっと無限で、もっと永遠なもの、それを朝目覚めて、揺り籠に射し込む優しい日の光に歓声をあげたり笑ったりする、赤ん坊の目の表情の中に見たように思う。

 

無限なものや至高なものが、我々には必要なのだ。人間はそれを得たのではない限り、絶対に満足したり、安心感を抱いたりしてはならない。

 

僕は決して風景画ではない。僕が風景を描こうとすると、いつも人物画のようになってしまう。

 

人間とその作品のおいて、真に善いもの美しいもの、道徳的内面的精神的で崇高な美しさをもっているもの、それらは全て神から出ているのだと思う

 

生命や動きを取り入れること、人物をそれぞれの場所に配置して、互いに切り離すのはなんと難しいことか。これはムートネの大問題だ。

 

神に対する信仰を抱き続ける者は、ときおり良心のかすかな声を聞く。その時は、子供の素直さでこの声に従うべきなのだ。

 

自分を大事にしたり、興奮や障害にあまり気を配るつもりはない。自分の寿命が長いか短いかは、あまり気にならない。

 

急ぎすぎる必要はない。そうしたところで良いことはないから。ただ、絶対に静かに落ち着いて、出来る限り規則的でしかも一心不乱に、出来る限り簡潔に仕事を続けていかねばならない。

 

働き、働きながら考える単純な農民こそ、私にとって教養人である。今までもそうだったし、これからもそうだろう。

 

もう再発することはあるまいと思い始めた発作が、また起きたので苦悩は深い

 

誇り高き敗北者

 

この死の中には、何ら陰的なものはなく、純金の光にあふれた太陽と共に、明るい光の中でことが行われるのだ

 

この土地は実に絵のようで実に独特だ。言わば、そこでは全てが語っているのだ。

 

その樹に注意力を全部集中して、その樹が生きてくるようになるまでやり続ければ、その周囲の事物は、おのずから出来上がってゆくものだ

 

深い紺碧の中に光る星のように、神秘的効果を獲得する

 

無限を描く

 

夜は昼よりも色彩豊かなのだよ

 

カフェとは人がとかく見を持ち崩し狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた

 

ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う

 

君が"ムスメ"とは何のことかを知っているなら、僕はそれを一つ描いた

 

ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。何故彼は消息を知らせてこないのか。

 

ピサロが、あの若い少女に何物かを見出してくれたことは、とても嬉しい

カミーユ・ピサロ

 

ドラクロワが試みて描きあげた牢屋のタッソの方が、より調和に満ちている。他の多くの絵と同様、本当の人間を表現しているのだ。

 

糸杉のことが、いつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりのようなものを作りたい。

 

人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で死のイメージを見たのだ

 

人が自然を愛するなら、その人はいたるところに美を見出すことが出来る

 

二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること、星によって希望を表現すること、夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること、それは表面的な写真ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか

 

赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう

 

結局無意識のうちに、モンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。

アドルフ・モンティセリ

 

この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため、日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。

 

その子のために、すぐ青い空を背景に白い花をつけたアーモンドの木の枝の絵を描き始めました

 

この品を、大事に取っておいてくれ

 

日本の芸術について勉強していると疑いもなく、賢者にして哲学者という知的な人間に出会う。この人は何をして、時を過ごしているのだろうか?

 

彼は一本の草の芽を研究しているのだ。しかしこの草の芽は、彼に全ての植物をそうして四季を壮大な風景を描き出させ、ついには色々な動物、それから人間の姿を描き出させるようになる。

 

人生は全てを描くには余りにも短い

 

まるで自分が花であるかのように自然の中に生きる。こんなに単純な、これらの日本人が私達に教えてくれるものこそ、真の宗教ではないだろうか。

 

最初は自然を追いかけてへとへとになる。そして全て失敗し、静かにパレットから創造するようになると、その結果として、自然がそれに従うようになる。

 

絵における色彩、それは人生における熱狂だ。そのため色彩を保とうとするのを、おろそかにできない。

 

僕が近代の芸術家で良いと思うのは、昔の芸術家のように道徳を云々しない点だ

 

日本人は本能的に正反対のものを追い求める。彼らは塩辛いキャンディーだとか、揚げた氷菓子だとか、氷をまぶした揚物を食べるのだよ。

 

僕の全ての仕事は、言ってみれば日本人の上に作られている

 

日本の芸術は祖国では廃れているが、フランスの印象主義に新たに根を張っているのだ

 

僕は古いものを美しいと思うからこそ、それだけいっそう新しいものを美しいと思う

 

シニャックや点描をやっている連中が、非常に美しい絵をしばしば描いていることを考えるならば、それらの絵を貶したりせずに認めてやり、ことに仲違いしているときこそ尊敬の念をもって語るべきだ。さもないと偏狭な党派主義者になってしまい、他人の価値を全然認めず自分だけが物事を正しく理解していると思い込んでいる連中と、少しも変わらなくなる。

ポール・シニャック

 

全ての色を強調すると、再び静謐と調和が到達するのだ。それはワーグナーの音楽とどこか似ている。

リヒャルト・ワーグナー

 

僕らを導いてくれるのは、自然に対する感動、自然に対する感情の真摯さである

 

僕が人工的な熱病状態を作り出しているとは思わないでくれ。僕はいつも厄介な計算を行い、そこから次々と絵が生まれるのだ。それらは素早く描かれてはいるが、それ以前に充分長く考えられている。

 

ある晩、人気のない場所を散歩したことがある。陽気ではないが、寂しくなかった。そう、美しかった。

 

夜景または夜の効果を夜、その場で描くことに僕はすごい魅力を感じている

 

僕は絵の中で音楽のような慰めになるものを語りたい。男や女を永遠なもので描きたい。かっては背光がシンボルであったその永遠なものを、光によって、色彩の振動によって表そうと努めるのだ。

 

ギリシャ人や昔のオランダ人や日本の巨匠が、他の星座で彼らの輝かしい流派を続けていると空想するのは大いに楽しいことだ

 

僕らはこの時代に残るだけでなく、他の人々が引き継げるような芸術や事業に携わっているのだ

 

音楽で慰めの言葉を語れるように、色彩を上手に配置することによって詩情を表現できる

 

僕は精神的に駄目になり、肉体がからっぽになるまで制作しなければならないと感じている

 

僕は絶対に殉教者になりたくない

 

こうして人生は過ぎて行く。時は再び帰らない。しかし、絵を描く機会が再びないことを知っているからこそ、僕は夢中になって仕事している。

 

幸運と不幸の違い。両方ともに非常に有用なものだ。死あるいは消滅と生命も同じだ。

 

僕はすでに自分がある程度、成功を収める日を予感している

 

病気の間しっとりみぞれが降った。僕は夜起き上がって風景を眺めた。自然があれほど感動的で、あれほど優しく思えたことはなかった。

 

一世紀後の人々に、亡霊のように見える絵を描きたい

 

写真のように似せることによってではなく、性格を表現し、高揚させる手段として、現代の色彩理論を色彩感覚を用いて、情熱的な表現によって、それを求めるのだ

 

自然のある一片と他の一片との間に成り立ち、互いに説明しあい、引き立てあっている不思議な関係を、人々が理解するにはまだ至っていない

 

いろいろたくさんのことを書きたいと思うが、書いてもつまらない感じがする

 

ところで実際、僕らは僕らの絵に語らせる以外には何も出来ない

 

僕は人生においても、絵画においても、神などなしにやっていけるが、僕のような苦しみの多い人間は、自分よりも偉大な何ものかなしにはやっていけない。それは僕の生命であり、創造の力だ。

 

それでも僕は、この言葉を使って良いのなら、宗教の必要を強く感じることがある。そういうとき、僕は夜、外へ星空を描きに出る。

 

これで終わりにしたかった

 

画家が生きている間はそんなに支払われなかったのに、死ぬと高い値がつくという話をよく耳にします。それはチューリップ取引のようなもので、生きている画家にとっては長所よりも短所の方が多いのです。

 

世界の偉大なる画家十人 近現代編
エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、ルネ・マグリット、サルバドール・ダリ、KBTIT