K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

杉本博司 ロスト・ヒューマン

2016年11月30日 | 美術
こんばんは。映画祭に通い詰めで睡眠時間が短いただけーまです。通信制限かかっててなかなか更新できませんでした…

今回は東京都写真美術館リニューアルオープン、かつ総合20周年記念に開催された、杉本博司さんの『ロスト・ヒューマン』で更新です。既に展示は終了していまくが…

実は初めての訪問となる東京都写真美術館。リニューアルオープンしたばかりで、非常に綺麗な建物でした。







杉本博司さんと言えば、フィルムの長時間(?)露光によって撮られた<海景>シリーズや<劇場>シリーズが有名ですが、今回の展示は普段目にする単なる静止展示ではなく、さまざまな世界観の組み合わさったコンセプト展示に変化。来訪者が五感で感じるのではなく、展示物やキャプションとの関係性を意識しながら鑑賞するタイプのものでした。

このコンセプトが抜群に良く、私たちは「人類の失われた」架空世界にタイムスリップしたかのような疑似体験を強制されるわけです。

展示は<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>、<廃墟劇場>、<仏の海>の3種類で、それぞれが緻密に構成された展示内容でした。

<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>
設定は世界が滅んだ架空(ではなくなるかもしれないが)の未来。さまざまな職種の人(なんとラブドールも…)が、「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」の一節で始まる地球最後の日に残した遺言とともに、その人が最後を過ごしたであろう空間が組み合わされたインスタレーションです。


<海景> ≪ガリラヤ海、ゴラン≫

「太陽系の第3惑星地球には大量の水が存在し、5億5千年程前から水中での有機物による爆発的な生命現象の連鎖が始まった。生命は人類にまで進化し、今回の2万年程の間氷期の間に文明の発生を見た。しかし様々な困難により文明は衰退し、そしてそこに残されたのは文明の廃虚だった。」


≪ラストサパーサンディ≫ 比較宗教学者が最後過ごしたであろう空間

ここで興味深いのは、どの滅亡も現実の社会問題が行き果てた結果であるということです。宗教抗争、貧困問題、食料問題、少子化問題、環境問題、バイオエシックス云々…いずれも現実で問題となっている事象です。
社会問題に興味を持つきっかけになればという甘ったるいものではなく、この世界を強烈に批判する作品。極端な解釈という点ではカリカチュアに通じるものがあります。キューブリックの『時計じかけのオレンジ』ではありませんが、サタイア(風刺)的ディストピアと捉えることができるでしょう。

<廃墟劇場>
<廃墟>シリーズに新しい視座を与えたインスタレーション。廃墟と化した劇場で映画を流し、そこを長時間露光で捉えた写真(そのため映画を流していた画面は真っ暗になる)と、流していた映画の杉本本人による解説、そして日本の古典文学(『平家物語』『源氏物語』『方丈記』『枕草子』)から抜粋された栄枯盛衰を思わせる句が添えられています。


《パラマウント・シアター、ニューアーク》
映画 スタンリー・クレーマー『渚にて』1959
句 たけき者も遂にはほろびぬ ひとえに風の前の塵に同じ(平家物語)

劇場・映画・文学を古今東西関わらず結びつけ、写真として表現するシリーズ。芸術ジャンルを問わない壮大な時空がこの作品には宿っています。廃れた劇場の嘗て栄えていた様子や、映画が封切りになった当初、古典が生まれた瞬間など、さまざまなことに想いを馳せられます。
そして、すべての要素が指向するのは栄枯盛衰という記憶。時間の残酷さと記憶の(優しさにも似た)懐かしさの感じられる作品でした。

<仏の海>
三十三間堂の千手観音像を撮影した大判の写真による作品。ズラッと並んだ千手観音像の高画質な写真が、鑑賞者を睨み詰めているかのような空間でした。



「仏像を見るとは信仰のほとんど失せてしまった現代人にとって、どのような体験なのだろうか」という考えから長きに渡る交渉の末実現した本作品。当時の姿で蘇ったような観音像のリアルさに、思わず圧倒されてしまいます。

意外にや写真家の展示は初めてということに気づきました。展示内容からして杉本博司を写真家という言葉で括って良いのか疑問ですが…
総合アーティストとして更なる高みに上りつめる杉本博司、今後の活動も楽しみです。


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