こんばんは、先週の土日に会社の同期と香川でうどんを食べ過ぎて今週身体の組成比3%がうどんだったただけーまです。香川のうどんはただただ激うまでしたが、しばらく空腹感というものを感じませんでした。おいしいものって素敵!!!旅行って最高!!!
と、まあ前置きはさておき。
今回は去年の映画で大変恐縮ではございますが、ラース・フォン・トリアー監督の『ニンフォマニアック』の感想をば。去年の私の中でのベスト5にもランクインしている作品です。
さて、ラース・フォン・トリアー監督と言えば2000年のカンヌ国際映画祭で大賞パルムドールを受賞した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(これもまたすごい作品でございました……)で有名な監督ですが、その監督が「性」をテーマにして制作したのが本作になります。
彼の作品は代表作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』しか観ていませんが、この映画の結末がとても衝撃的だったということもあり公開前からかなり高い期待。何より印象的だったのは公開前の広告イメージです。少女が椅子にもたれかかりながら自分の陰部に三角定規を当てつけているイメージだけでも相当なインパクトを持っているにも関わらず、「愛なんて、教わっていない。」という衝撃的なキャッチコピーにすぐに虜になってしまいましたね~。
もう、これは……惹かれざるを得ません……!!!
そしてこの広告から想起されるのは、バルテュスの描く「少女像」ですね。双方とも今にも少女性を失わんとしている瞬間を切り取ったイメージで、まさしく少女から女性へと変質する重たい憂欝感に満ち溢れています。
バルテュス《夢みるテレーズ》
さて、肝心の映画の内容ですが、これがまた強烈。
※以下多分にネタばれを含み、かつ長いので注意!!
基本的には、色情狂の女性ジョーが中年童貞のセリグマンに、これまでの自分の人生を8章構成で語るという体裁をとっています。なので、基本的には昔がたりが物語の大部分を占めます。章ごとにセリグマンはジョーに人生の教訓めいたものを語り、その教訓から連想して次の章へ移行する、という流れをとっています。VOL.1/VOL.2の2本立てなので、回想系が苦手な人は眠くなってしまうかもしれません…
章だては下記です。それぞれどんな章かざっくり書きますと……
VOL.1
CHAPTER.1「釣魚大全」
好きでもない男ジェロームに処女を捧げる。
性的快楽を求めて男とやりまくる。
CHAPTER.2「ジェローム」
就職先で偶然再会したジェロームに恋する。
ジェロームは別の女とどこかへ行ってしまう。
「セックスに必要な秘密の要素は愛よ」とか友人に言われる。
CHAPTER.3「H夫人」
ジェロームにふられた反動で男と再び遊びまくる。
遊んで行く中でH夫人の人生を狂わせてしまう虚無感。
CHAPTER.4「せん妄」
死にかけの父親と近親相姦する。
CHAPTER.5「リトル・オルガン・スクール」
違い選りすぐりの男性と継続的に性行為する。
ジェロームと再び再開し念願のセックスするもジョーは既に不感症に。
ジョーが「何も感じないのよ……」と言って泣きだした瞬間にパンクが流れて前編が終わった瞬間は、おいまじかよ……となりましたね。遊び相手との行為には快感を感じていたのにも関わらず、唯一愛情を持てた、処女を捧げた相手との性行為で何も感じられなかったという皮肉な構成。遊び仲間の友人が残した「セックスに必要なのは愛情」という言葉がここでも響いてくるわけです。
VOL.2
CHAPTER.6「東方教会と西方教会(サイレント・ダック)」
不感症ながらもジェロームとの子どもを授かる。
性的快楽が忘れられず、激しい自慰行為→SMの世界へ。
クリスマスにも別の男とSMに興じるジョー。
呆れたジェロームは幼い息子を連れて出ていく。
CHAPTER.7「鏡」
色情狂対象のカウンセリングに通い始める。
「私は色情狂、そういう自分が好き」と言って脱退する。
"I'm nymphomaniac!!!"
CHAPTER.8「銃」
何故か借金の取り立て屋の仕事を行う。
ジェロームと部下がくっついてジョーに見せつけるようにセックスする。
失意の内にジョーは倒れ伏し雪が降り始める(→セリグマンに救われる冒頭のシーンに戻る)
最後一通り話し終えた後にジョーは性欲に任せたこれまで生き方を見つめなおし、これまでとは違う新しい人生を踏み出そうと決意します。ジョーは、新しい生き方を気づかせてくれたこのセリグマンに感謝しながらセリグマンの家で眠るのですが、その晩になんと童貞中年のセリグマンがジョーに夜這いをします(←最低)ジョーは再び絶望して懐に忍ばせた拳銃でセリグマンに発砲、その発砲音で物語は幕を閉じます。
「性欲」を中心としたジョーの人生を正してくれたセリグマン自身が結局「性欲」に忠実な存在だったという皮肉がここにもありますね。しかし、彼女がセリグマンに向けて拳銃の引き金を引くというアクションそのものが、ジョー自身が嘗ての自分の生き方との決別を暗示しているようでもあります。結局「性欲」に忠実なのが人間の本来の姿だった、というネガティブな解釈も可能ですが……
「愛とは嫉妬交じりの性欲に過ぎない」というキャッチコピーからも「性欲」というものの強さと悲観的な「どうしようもなさ」が窺えます。英字のタイトルも"NYMPHOMANIAC"ではなく"NYMPH()MANIAC"という風になっていますし……(この"()"は恐らく女性器を示しているものと思われます)とにかく徹底的に「性」を追求したような作品でしたねぇ。最後の虚無感も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に通じるところがあります。
ただ今もまだわからないのがジョーの次の台詞の真意です。
「私が他の人と少しだけ違うことは――夕日に多くを求めすぎたことかも」
ジョーは夕日に何を重ねて、何を求めたのでしょうか。
バルテュス《美しい日々》
と、まあ前置きはさておき。
今回は去年の映画で大変恐縮ではございますが、ラース・フォン・トリアー監督の『ニンフォマニアック』の感想をば。去年の私の中でのベスト5にもランクインしている作品です。
さて、ラース・フォン・トリアー監督と言えば2000年のカンヌ国際映画祭で大賞パルムドールを受賞した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(これもまたすごい作品でございました……)で有名な監督ですが、その監督が「性」をテーマにして制作したのが本作になります。
彼の作品は代表作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』しか観ていませんが、この映画の結末がとても衝撃的だったということもあり公開前からかなり高い期待。何より印象的だったのは公開前の広告イメージです。少女が椅子にもたれかかりながら自分の陰部に三角定規を当てつけているイメージだけでも相当なインパクトを持っているにも関わらず、「愛なんて、教わっていない。」という衝撃的なキャッチコピーにすぐに虜になってしまいましたね~。
もう、これは……惹かれざるを得ません……!!!
そしてこの広告から想起されるのは、バルテュスの描く「少女像」ですね。双方とも今にも少女性を失わんとしている瞬間を切り取ったイメージで、まさしく少女から女性へと変質する重たい憂欝感に満ち溢れています。
バルテュス《夢みるテレーズ》
さて、肝心の映画の内容ですが、これがまた強烈。
※以下多分にネタばれを含み、かつ長いので注意!!
基本的には、色情狂の女性ジョーが中年童貞のセリグマンに、これまでの自分の人生を8章構成で語るという体裁をとっています。なので、基本的には昔がたりが物語の大部分を占めます。章ごとにセリグマンはジョーに人生の教訓めいたものを語り、その教訓から連想して次の章へ移行する、という流れをとっています。VOL.1/VOL.2の2本立てなので、回想系が苦手な人は眠くなってしまうかもしれません…
章だては下記です。それぞれどんな章かざっくり書きますと……
VOL.1
CHAPTER.1「釣魚大全」
好きでもない男ジェロームに処女を捧げる。
性的快楽を求めて男とやりまくる。
CHAPTER.2「ジェローム」
就職先で偶然再会したジェロームに恋する。
ジェロームは別の女とどこかへ行ってしまう。
「セックスに必要な秘密の要素は愛よ」とか友人に言われる。
CHAPTER.3「H夫人」
ジェロームにふられた反動で男と再び遊びまくる。
遊んで行く中でH夫人の人生を狂わせてしまう虚無感。
CHAPTER.4「せん妄」
死にかけの父親と近親相姦する。
CHAPTER.5「リトル・オルガン・スクール」
違い選りすぐりの男性と継続的に性行為する。
ジェロームと再び再開し念願のセックスするもジョーは既に不感症に。
ジョーが「何も感じないのよ……」と言って泣きだした瞬間にパンクが流れて前編が終わった瞬間は、おいまじかよ……となりましたね。遊び相手との行為には快感を感じていたのにも関わらず、唯一愛情を持てた、処女を捧げた相手との性行為で何も感じられなかったという皮肉な構成。遊び仲間の友人が残した「セックスに必要なのは愛情」という言葉がここでも響いてくるわけです。
VOL.2
CHAPTER.6「東方教会と西方教会(サイレント・ダック)」
不感症ながらもジェロームとの子どもを授かる。
性的快楽が忘れられず、激しい自慰行為→SMの世界へ。
クリスマスにも別の男とSMに興じるジョー。
呆れたジェロームは幼い息子を連れて出ていく。
CHAPTER.7「鏡」
色情狂対象のカウンセリングに通い始める。
「私は色情狂、そういう自分が好き」と言って脱退する。
"I'm nymphomaniac!!!"
CHAPTER.8「銃」
何故か借金の取り立て屋の仕事を行う。
ジェロームと部下がくっついてジョーに見せつけるようにセックスする。
失意の内にジョーは倒れ伏し雪が降り始める(→セリグマンに救われる冒頭のシーンに戻る)
最後一通り話し終えた後にジョーは性欲に任せたこれまで生き方を見つめなおし、これまでとは違う新しい人生を踏み出そうと決意します。ジョーは、新しい生き方を気づかせてくれたこのセリグマンに感謝しながらセリグマンの家で眠るのですが、その晩になんと童貞中年のセリグマンがジョーに夜這いをします(←最低)ジョーは再び絶望して懐に忍ばせた拳銃でセリグマンに発砲、その発砲音で物語は幕を閉じます。
「性欲」を中心としたジョーの人生を正してくれたセリグマン自身が結局「性欲」に忠実な存在だったという皮肉がここにもありますね。しかし、彼女がセリグマンに向けて拳銃の引き金を引くというアクションそのものが、ジョー自身が嘗ての自分の生き方との決別を暗示しているようでもあります。結局「性欲」に忠実なのが人間の本来の姿だった、というネガティブな解釈も可能ですが……
「愛とは嫉妬交じりの性欲に過ぎない」というキャッチコピーからも「性欲」というものの強さと悲観的な「どうしようもなさ」が窺えます。英字のタイトルも"NYMPHOMANIAC"ではなく"NYMPH()MANIAC"という風になっていますし……(この"()"は恐らく女性器を示しているものと思われます)とにかく徹底的に「性」を追求したような作品でしたねぇ。最後の虚無感も「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に通じるところがあります。
ただ今もまだわからないのがジョーの次の台詞の真意です。
「私が他の人と少しだけ違うことは――夕日に多くを求めすぎたことかも」
ジョーは夕日に何を重ねて、何を求めたのでしょうか。
バルテュス《美しい日々》
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます