死刑が執行されました。
死刑制度については賛否両論あるでしょう。どちらが正しいというわけでなく、賛否の両論が品をもって建設的批判・議論をしていくことが重要でしょう。全員が賛成というのは無理ですから、決定のメカニズムを明確にした上で、その下ではそれに従って行動するしかないわけです。
そもそも、なぜ意見が割れるのでしょう。それには、以下の理由が考えられます。
論理は、言葉の定義(約束)・公理(無条件で認めるもの)をもとに、そこから定理(結論)が導かれるものです。
その際、定義・公理が共通していないと同じ結論は得られません。例えば、「東京」と言った場合に、東京23区を指すのか、東京都を指すのか、横浜などを含んだ東京都市圏を指すのか、によって話は変わってきます。当然のことながら、どの定義が正しい、というわけではありません。議論を始める際に、「この議論では」どの定義のもとで話を進めていくのかを決めることが重要でしょう。
また、公理についても、例えば「人の命を奪うことは絶対にいけない」というのを公理として認めるかどうかによって話は変わってきます。「人の命を奪うことは絶対にいけない」と言うとと「当たり前じゃないか。それを認めていない人などいるのか。」と言われることがあります。しかし、死刑制度支持者はこれを公理として認めていないということです。(どちらが良い、ということではありません。公理も厳密に共有しなければならない、という事例です。)
さらには「aである。よって、b」である。というときの、「よって」というのが数理的論理(記号論理)か非数理的論理(文脈に依存する論理)のどちらで構成していくか、によっても変わってきます。
4点目としては、---これは意見が割れる理由というよりは、議論がかみ合わないことがおきる理由ですが---単純に別の点について議論を交わしている、ということがありえます。例えば、法律について話すときに、「このケースではcとdどちらなのか」という疑問について、議論をしている二者がそれぞれ、「判例がどうなっているのか」と「法律の解釈として『どうあるあるべき』なのか」を話しているということです。
上記のような点、すなわち論理の構成について分かっていない人が、裁判員に加わるというのは、ときとして危険をはらみます。職業政治家自身・職業裁判官自身が民意に媚びず、独立した存在として職務に望むべきでしょう。職業政治家と民意の関係について、2012年7月6日産経新聞『賢者に学ぶ』において、適菜収さんが(言葉は若干きついと感じますが)的確な論を述べています。なお、適菜さんの思想全般に賛同するということでなく、この論について賛同するということをここに付記します。
「「民意に従う」「国民の判断を仰ぐ」ことが正しいなら、すぐにでも議会を解体して、すべての案件を直接投票(民主主義)で決めればいい。現在では技術的にそれは可能だ。しかし同時にそれは、政治の自殺を意味する。直接投票で物事が決まるなら知性は必要なくなるからだ。」
という指摘は尤もでしょう。直接投票では専門的かつ冷静な判断はできません。そのために職業政治家による議会制度の存在意義があります。誤解無きように述べておきますが、私は、国民一人一人の将来について考えなくて良い、と言っているのではありません。国民の将来について、政策決定という点からは、「民意」は専門的かつ冷静な判断が出来ないのでは、ということを述べているに過ぎません。
適菜さんは、郵政民営化法案が参議院で否決されたことを受けて当時の小泉首相が衆議院を解散したことについて、
「わが国の議会主義が死んだ瞬間である。職業政治家の集団である参議院の判断を無視し、素人の意見を重視したのだから。」
と書いています。この見解も、言葉の選び方に刺激が強すぎるとも思いますが、的を得ていると思います。「民意」の免罪符によって職業政治家が軽視されているからこそ、職業政治家がさらに「民意」に媚びるという滑稽極まりない状況が出てくるのでしょう。私はこの状況に対して危惧を覚えます。
さて、死刑制度についても今日の朝日新聞夕刊で
「昨年3月、3人を執行した小川敏夫氏は「国民の声を反映した裁判員裁判でも死刑が支持されている」と発言。」
とありました。この報道が本当(死刑執行の根拠としてこの発言をした)ならば、相当に危険な発言と言わざるをえないでしょう。
小川氏が死刑を支持するのは、(死刑賛成でも反対でもどちらにせよ)それは個人の自由です。また、現法下においては、法務大臣である以上、死刑の執行は職務のひとつでしょう。しかし、法務大臣が「国民の声を反映した」裁判員制度での支持を根拠に死刑執行をしたとすれば、職業意識に対して大きな欠如があると考えざるをえません。
「民意」を盾に発言する政治家は、職業としての専門性を放棄しているのではないか、と常々考えます。仮に「国民の9割が信号無視を容認している」という状況になれば「信号無視をしても良い」とでも言い出すのでしょうか。
死刑制度については賛否両論あるでしょう。どちらが正しいというわけでなく、賛否の両論が品をもって建設的批判・議論をしていくことが重要でしょう。全員が賛成というのは無理ですから、決定のメカニズムを明確にした上で、その下ではそれに従って行動するしかないわけです。
そもそも、なぜ意見が割れるのでしょう。それには、以下の理由が考えられます。
論理は、言葉の定義(約束)・公理(無条件で認めるもの)をもとに、そこから定理(結論)が導かれるものです。
その際、定義・公理が共通していないと同じ結論は得られません。例えば、「東京」と言った場合に、東京23区を指すのか、東京都を指すのか、横浜などを含んだ東京都市圏を指すのか、によって話は変わってきます。当然のことながら、どの定義が正しい、というわけではありません。議論を始める際に、「この議論では」どの定義のもとで話を進めていくのかを決めることが重要でしょう。
また、公理についても、例えば「人の命を奪うことは絶対にいけない」というのを公理として認めるかどうかによって話は変わってきます。「人の命を奪うことは絶対にいけない」と言うとと「当たり前じゃないか。それを認めていない人などいるのか。」と言われることがあります。しかし、死刑制度支持者はこれを公理として認めていないということです。(どちらが良い、ということではありません。公理も厳密に共有しなければならない、という事例です。)
さらには「aである。よって、b」である。というときの、「よって」というのが数理的論理(記号論理)か非数理的論理(文脈に依存する論理)のどちらで構成していくか、によっても変わってきます。
4点目としては、---これは意見が割れる理由というよりは、議論がかみ合わないことがおきる理由ですが---単純に別の点について議論を交わしている、ということがありえます。例えば、法律について話すときに、「このケースではcとdどちらなのか」という疑問について、議論をしている二者がそれぞれ、「判例がどうなっているのか」と「法律の解釈として『どうあるあるべき』なのか」を話しているということです。
上記のような点、すなわち論理の構成について分かっていない人が、裁判員に加わるというのは、ときとして危険をはらみます。職業政治家自身・職業裁判官自身が民意に媚びず、独立した存在として職務に望むべきでしょう。職業政治家と民意の関係について、2012年7月6日産経新聞『賢者に学ぶ』において、適菜収さんが(言葉は若干きついと感じますが)的確な論を述べています。なお、適菜さんの思想全般に賛同するということでなく、この論について賛同するということをここに付記します。
「「民意に従う」「国民の判断を仰ぐ」ことが正しいなら、すぐにでも議会を解体して、すべての案件を直接投票(民主主義)で決めればいい。現在では技術的にそれは可能だ。しかし同時にそれは、政治の自殺を意味する。直接投票で物事が決まるなら知性は必要なくなるからだ。」
という指摘は尤もでしょう。直接投票では専門的かつ冷静な判断はできません。そのために職業政治家による議会制度の存在意義があります。誤解無きように述べておきますが、私は、国民一人一人の将来について考えなくて良い、と言っているのではありません。国民の将来について、政策決定という点からは、「民意」は専門的かつ冷静な判断が出来ないのでは、ということを述べているに過ぎません。
適菜さんは、郵政民営化法案が参議院で否決されたことを受けて当時の小泉首相が衆議院を解散したことについて、
「わが国の議会主義が死んだ瞬間である。職業政治家の集団である参議院の判断を無視し、素人の意見を重視したのだから。」
と書いています。この見解も、言葉の選び方に刺激が強すぎるとも思いますが、的を得ていると思います。「民意」の免罪符によって職業政治家が軽視されているからこそ、職業政治家がさらに「民意」に媚びるという滑稽極まりない状況が出てくるのでしょう。私はこの状況に対して危惧を覚えます。
さて、死刑制度についても今日の朝日新聞夕刊で
「昨年3月、3人を執行した小川敏夫氏は「国民の声を反映した裁判員裁判でも死刑が支持されている」と発言。」
とありました。この報道が本当(死刑執行の根拠としてこの発言をした)ならば、相当に危険な発言と言わざるをえないでしょう。
小川氏が死刑を支持するのは、(死刑賛成でも反対でもどちらにせよ)それは個人の自由です。また、現法下においては、法務大臣である以上、死刑の執行は職務のひとつでしょう。しかし、法務大臣が「国民の声を反映した」裁判員制度での支持を根拠に死刑執行をしたとすれば、職業意識に対して大きな欠如があると考えざるをえません。
「民意」を盾に発言する政治家は、職業としての専門性を放棄しているのではないか、と常々考えます。仮に「国民の9割が信号無視を容認している」という状況になれば「信号無視をしても良い」とでも言い出すのでしょうか。