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Tada日記~~~

日常を綴ります☆

民意という名の免罪符

2013-02-21 21:29:03 | エッセイ・評論
死刑が執行されました。
死刑制度については賛否両論あるでしょう。どちらが正しいというわけでなく、賛否の両論が品をもって建設的批判・議論をしていくことが重要でしょう。全員が賛成というのは無理ですから、決定のメカニズムを明確にした上で、その下ではそれに従って行動するしかないわけです。

そもそも、なぜ意見が割れるのでしょう。それには、以下の理由が考えられます。
論理は、言葉の定義(約束)・公理(無条件で認めるもの)をもとに、そこから定理(結論)が導かれるものです。
その際、定義・公理が共通していないと同じ結論は得られません。例えば、「東京」と言った場合に、東京23区を指すのか、東京都を指すのか、横浜などを含んだ東京都市圏を指すのか、によって話は変わってきます。当然のことながら、どの定義が正しい、というわけではありません。議論を始める際に、「この議論では」どの定義のもとで話を進めていくのかを決めることが重要でしょう。

また、公理についても、例えば「人の命を奪うことは絶対にいけない」というのを公理として認めるかどうかによって話は変わってきます。「人の命を奪うことは絶対にいけない」と言うとと「当たり前じゃないか。それを認めていない人などいるのか。」と言われることがあります。しかし、死刑制度支持者はこれを公理として認めていないということです。(どちらが良い、ということではありません。公理も厳密に共有しなければならない、という事例です。)

さらには「aである。よって、b」である。というときの、「よって」というのが数理的論理(記号論理)か非数理的論理(文脈に依存する論理)のどちらで構成していくか、によっても変わってきます。

4点目としては、---これは意見が割れる理由というよりは、議論がかみ合わないことがおきる理由ですが---単純に別の点について議論を交わしている、ということがありえます。例えば、法律について話すときに、「このケースではcとdどちらなのか」という疑問について、議論をしている二者がそれぞれ、「判例がどうなっているのか」と「法律の解釈として『どうあるあるべき』なのか」を話しているということです。

上記のような点、すなわち論理の構成について分かっていない人が、裁判員に加わるというのは、ときとして危険をはらみます。職業政治家自身・職業裁判官自身が民意に媚びず、独立した存在として職務に望むべきでしょう。職業政治家と民意の関係について、2012年7月6日産経新聞『賢者に学ぶ』において、適菜収さんが(言葉は若干きついと感じますが)的確な論を述べています。なお、適菜さんの思想全般に賛同するということでなく、この論について賛同するということをここに付記します。
「「民意に従う」「国民の判断を仰ぐ」ことが正しいなら、すぐにでも議会を解体して、すべての案件を直接投票(民主主義)で決めればいい。現在では技術的にそれは可能だ。しかし同時にそれは、政治の自殺を意味する。直接投票で物事が決まるなら知性は必要なくなるからだ。」
という指摘は尤もでしょう。直接投票では専門的かつ冷静な判断はできません。そのために職業政治家による議会制度の存在意義があります。誤解無きように述べておきますが、私は、国民一人一人の将来について考えなくて良い、と言っているのではありません。国民の将来について、政策決定という点からは、「民意」は専門的かつ冷静な判断が出来ないのでは、ということを述べているに過ぎません。
適菜さんは、郵政民営化法案が参議院で否決されたことを受けて当時の小泉首相が衆議院を解散したことについて、
「わが国の議会主義が死んだ瞬間である。職業政治家の集団である参議院の判断を無視し、素人の意見を重視したのだから。」
と書いています。この見解も、言葉の選び方に刺激が強すぎるとも思いますが、的を得ていると思います。「民意」の免罪符によって職業政治家が軽視されているからこそ、職業政治家がさらに「民意」に媚びるという滑稽極まりない状況が出てくるのでしょう。私はこの状況に対して危惧を覚えます。
さて、死刑制度についても今日の朝日新聞夕刊で
「昨年3月、3人を執行した小川敏夫氏は「国民の声を反映した裁判員裁判でも死刑が支持されている」と発言。」
とありました。この報道が本当(死刑執行の根拠としてこの発言をした)ならば、相当に危険な発言と言わざるをえないでしょう。
小川氏が死刑を支持するのは、(死刑賛成でも反対でもどちらにせよ)それは個人の自由です。また、現法下においては、法務大臣である以上、死刑の執行は職務のひとつでしょう。しかし、法務大臣が「国民の声を反映した」裁判員制度での支持を根拠に死刑執行をしたとすれば、職業意識に対して大きな欠如があると考えざるをえません。

「民意」を盾に発言する政治家は、職業としての専門性を放棄しているのではないか、と常々考えます。仮に「国民の9割が信号無視を容認している」という状況になれば「信号無視をしても良い」とでも言い出すのでしょうか。

漸化式

2013-02-15 23:06:15 | エッセイ・評論
隣接二項間の漸化式があったとします。一般項を推定できた(例として、a_n=n+2)とき、その一般項が正しいことを示すのには、数学的帰納法を用いるのが自然です。
なお、「一般項を漸化式に代入して、成立しているからこの一般項は正しい」というのは好ましくないでしょう。
①一意性について
漸化式が与えられたとき、それを満たす数列{a_n}がただ1通りに決まるか、ということです。すなわち、a_n=n+2の他に漸化式を満たす一般項があるのではないか、という疑問に答えていません。
②漸化式(ここでは任意の隣接二項間について成り立つ関係式。初項は含めない。)を満たしているからといって、初項のズレがあるかもしれません。すなわち、a_n=n+2だけでなく、a_n=n+3もa_(n+1)=(a_n)+1を満たしますが、a_1=3も満たすのはa_n=n+2だけです。

①については、「漸化式をa_(n+1)について解いたときに、a_(n+1)がa_nの関数となっていれば、(初項がちょうどひとつ与えられているとすると)a_(n+1)は一意に定まるので、気にすることはないのでは?」という見解もあるでしょう。
②については、「そもそも一般項を推定できたのは初項を検討したから」という見解もあるでしょう。

①②とも、上述の見解はもっともです。その意味では「一般項を漸化式に代入して、成立しているからこの一般項は正しい」という理屈も大きな間違いとなるケースは少ないでしょう。しかし、数学的帰納法を用いれば、よりclearに解決するわけで、やはり数学的帰納法を使うのがnaturalではないでしょうか。

5,-5,7,-7,9,-9,………

2013-02-11 20:24:49 | エッセイ・評論
タイトルの数列{a_n}について、一般項を考えます。

方法1.階差数列{b_n}が
-10,12,-14,16,…
となることから、
b_n={10+(n-1)×2} × (-1)^n
を得ます。
これより,n≧2について、
a_n=5+Σ{(2k+8) × (-1)^k}  (Σの範囲はk=1~ n-1)
となります。
Σ計算ではS-rS法を用います。

方法2.数列{a_n}を、
4.5+0.5, (5.5-0.5)×(-1), 6.5+0.5, …
と見ることにより、
a_n=[(3.5+n)+0.5×{(-1)^(n-1)}]×(-1)^(n-1)
を得ます。



遠隔操作事件

2013-02-10 17:08:50 | エッセイ・評論
報道機関および警察が、日本の治安向上に多大な貢献をしているのは確かでしょう。その上での私見です。

パソコン遠隔操作事件について容疑者が逮捕されました。

時事通信 2月10日(日)12時44分配信から一部引用
 店の関係者によると、同容疑者は昨年10月以降計7回来店し、逮捕前日の今月9日も利用。PCのある個室ブースに2~3時間滞在することが多かったという。
(中略)
 店の関係者は、片山容疑者について「不審なところはなく、無口なお客さんという印象。特にトラブルは起こさなかった」と振り返り、「遠隔操作事件の容疑者と聞いてびっくりした。

とあります。
この報道はいかがなものでしょうか。
まだ真犯人とも分からない人について、店の利用状況を店員の証言をもとに報道している、という点について、推定無罪の原則からして、報道のモラルを疑わざるをえません。さらに、もし本当に店員が顧客情報を漏らしているとしたら、この店のモラルについても疑わざるをえません。なお、推定無罪の原則は、立証の責任は検察にあるということであり、それは報道の姿勢に対するものではありません。しかし、立証責任が検察にあるということは、すなわちまだ(少なくとも現時点では)無罪であるということです。また、誤認逮捕の可能性もあります。
すでに、今回の事件では誤認逮捕がありました。そもそも、このような誤認逮捕が起こる背景には普段からの慣習もあるのではないでしょうか。すなわち、道路で自転車の防犯登録を確認しようとする際にも、自分(警察官)の名前を名乗らず相手の身分だけを訊こうとする。このような慣習は、「公」務員として好ましくはないかと思います。

繰り返しになりますが、報道機関および警察が、日本の治安向上に多大な貢献をしているのは確かだと考えます。その上での私見です。

ガウスの発散定理

2013-02-08 22:20:05 | エッセイ・評論
大学課程のベクトル解析において、ガウスの発散定理というものが出てきます。これを厳密に証明する(「例外なく」成立することを示す)のは数学のベクトル解析の内容です。そして、ガウスの発散定理の結果を最大限に利用するのが物理学の電磁気です。結果を利用する際に非常に有用と考えられるのが「感覚的な証明」です。
「囲われた物体から液体が湧き出すとする。『物体内部の湧き出しの合計』は『表面から流れ出る量の合計』と等しい。均一な湧き出しであれば、『内部1立方メートルあたりの湧き出し量に体積を掛けたもの』は、『表面1平方メートルから流れ出る量に表面積を掛けたもの』に等しい。」
ということです。
この理解があれば、利用する立場にはもちろんのこと、厳密な証明にも助けとなるでしょう。

『数学の思考法ⅠA・ⅡB』のあとがきにも書いていますが、具体的な話をせずに「理解か暗記か」という二項対立の議論をしても意味は少ないと考えます。いま、ひとつの具体的な例として、ガウスの発散定理については「感覚的な証明」をすることが、数学・物理学どちらへアプローチするにしても重要だと私は思います。