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称讃寺の和尚さんの独り言。お坊さんって こんなんでいいのかなぁ~と思いながらの毎日です。ナマクラ坊主のブログです。

浄土真宗本願寺派(西本願寺派)称讃寺の住職の瑞田信弘です。毎日忙しくしておりますが、ふと気づいた事を書いてみます。

諦観さま、臓器移植について

2010年11月15日 00時24分40秒 | インポート

確かに 日本人は 発展途上国の人の腎臓などを 多額のお金で買ったりもしています。

諦観さま ご指摘のように、臓器が欲しい人は 誰か死なないかなぁ~、と思っているかもしれません。

病気になり 臓器の移植しか助かる方法が無い 移植される側の人。

脳死状態になり 臓器を提供する側の人。

それぞれの立場があります。

私は 単純に 

本人が 差し上げましょうとの 意思が明確であれば 提供すれば良いと思います。

生きている人の 臓器を取り出すことで 結果的にその人が死亡することは、

移植される側に組みすぎている議論だと感じます。

脳死の人も 将来は 回復することが期待できるようになるかもしれませんし、

本当に 死んですぐ取り出せば 移植が可能になるかも知れません。

臓器移植をするために 本来は生きている人を 法律上は 死んだ事にする議論には 私は賛成できません。


諦観さんから 葬儀についてのコメントを頂きました。

2010年11月15日 00時08分24秒 | インポート

諦観さま

大変ありがたいコメントを頂き誠に有難う御座いました。

確かにご指摘のように、葬儀での遺族・親族・会葬者は 宗教者が真宗でも真言宗でも神道でもキリスト教でも 葬送に対する意識は同じなのかもしれません。日本人の民俗学的な切り口での考察が必要だと 私も思いました。

葬式が 葬送から 告別へと 意味合いが変化しているような気がします。

あの世・お浄土へ皆で送るという意識でしたら 宗教者は絶対必要ですし、葬儀は無くならないと思いますが、お別れという意識になれば 必ずしも宗教者は必要でないし 家族だけで・・・、と言う事もあり得ます。

又、宗教者の力不足で、今や 葬式は 葬儀社が仕切るようになり 一種のショーになってしまいました。その事が 結果として 葬儀に対して意義を見出せなくなりつつある様な気がします。

葬儀社・宗教者がそれぞれの役割・責任を再確認する時に来ているのかもしれません。


迷える豚さん、大変ですね~!!

2010年09月09日 22時45分25秒 | インポート

反抗期は 中一の男子ですか。何かにイライラしているんでしょうね。怒鳴ったり 物を投げたり 蹴飛ばしたり・・・・、確かに大変ですね。この時期の彼らは 人生劇場の主役は常に自分でして 自分の言動が回りの人にどんな影響を与えているのかなどは 思いもよりません。特に男子は 男の子が男に成る為の成長過程でして 自分中心と言うか自分が王様意識です。

ご主人のこの頃はどうだったか、あなたの男兄弟はどうだったか、聞いてみるのも いいかもしれません。

何かにイライラして 怒鳴ったり 物を投げたり している時は あえて平静を装い その行動には何も反応しない事です。何も無かったように 普通に対応しましよう。

ヤクザの人が 怒鳴ったり怒ったりした時 回りの人が過剰に過激に反応しますと 益々声が大きくなります。何にも反応しないと 自分のバカバカさに気付き怒鳴ったりした事がアホらしくなります。

ここ1~2年でしようから お母さんは 大きな気持ちで接してあげてください。お釈迦様の手の平の上で 騒いでいる 孫悟空の物語の様に・・・。

何でも メール下さい。


迷える豚さん

2010年09月07日 22時29分32秒 | インポート

コメント、有難うございます。

お子さんは 何人ですか?何年生ですか?

私は 50歳代半ばで 3人の子育てをほぼ終えた先輩から 反抗期についてアドバイスさせていただきます。

お母さんは 怒らない事です。子どもさんが反抗すればするほど 親は感情的にならない、怒らない事です。ちょっとした事をほめましよう。なんでも ほめましよう。何かを頼んで、「ありがとう」とお礼を言いましよう。

とにかく、子どもさんが反抗した事に 母親が腹を立てたり、感情的になって声を荒立てたりする事は かえって逆効果です。

子どもさんの犯行が 大きな台風の大風だとすれば、お母さんは 柳の木の枝になって下さい。

反抗期はいつまででもは続きませんから・・・。


臓器移植について

2010年08月31日 22時37分41秒 | インポート

迷える豚さん、お返事が遅くなりました。

臓器移植について 私も意見があります。それは 「死」について です。「死」とはどういう状態か、ということです。臓器を提供する側の人は 臓器を摘出するまでは心臓は鼓動を打ち血液が流れ体温がある状態です。何かの原因で意識が無く回復の可能性が無い状態を 「脳死」と認定し、実態は生きているのですが 臓器移植をする場合に限って 「死」とするのです。臓器の移植をしない場合は「生」です。

言い換えれば 臓器移植をする場合に限って 植物状態の回復の可能性が無い人を「脳死」と認定し「死んだことにしよう」と言うことです。

本当は生きている状態で 臓器を摘出することによって死ぬのです。

改正臓器移植法によって この「脳死」は正式の「死」として認められました。私は この「死」の定義にずいぶんな違和感があります。回復の見込みは無いが生きている人の臓器を取り出すことによって死んでしまうというのが 実態だと思います。

私は 皆さん方に広くご意見をお聞きしたいのですが、回復の見込みが無いと言うことは 「生」ではなくて「死」ですか?臓器の提供が欲しくって「脳死」という「死」を認めると 今後 脳死の認定基準が変更されないとも限りませんので 将来的には 回復の可能性が無いことは 限りなく「死」に近くなってしまいます。

どうぞ ご家族で臓器移植について、「死」について、「脳死」について 話し合ってみましよう。

また、ご意見を下さい。