おはようございます。
トンネルを抜けると、そこは雪国だった。
目が覚めると、外は雪国だった。
そんな朝です。
20センチは積ってる!
あったかな部屋に守られて、きれいなあ~とのんきな気持ちで雪景色を眺められる贅沢。
ありがとう。愛してます。
昨日だったかな?
「無条件の承認」が今私の世界でクローズアップされている気がしているというようなことを書いた。
そして、無条件に承認できる人でありたい=無条件で承認できる人でありたい!という望みをもった自分の状態を、対人関係でみせてもらっていると感じるというようなことを書いた。
そしてその後浮かんだのは、なんだか私の中で自分でできてないと感じてしまう視点でいる為に不足がちな承認を、まわりから補ってもらっていると感じことができる体験を、近頃沢山していると捕らえることもできるなあーとおもった。
私これでいいのかな?
ほんとに今は今なりに、私は私なりに、いつもみんな100点を生きている存在の一人として認めてあげてもいいのかな?
そんな迷いに、いいよ。それはそれでいいよ。と言ってくれる人がいる。
承認されていると感じやすいことが、最近沢山ある。
批判?と感じるようなこともあるけど、冷静になって、それを愛に置き換えてみてみると、私のあり方存在を気にかけてくれている人がいる、愛あるかかわりをしようよ!とおもってくれている人がいる!という風な感じに捕らえることができだした気がしている。
ありがとう。愛してます。
承認されるとうれしい♪
この日曜日の夜、我が家への帰りのドライブ中に、その日の承認された感を感じて喜んだ体験を思い出して喜んでいる私に、ありがとう。愛してます。といってみたら、涙が出てきた。
うれし泣き。
なんだ!嬉しいだけではないんだ私!と気がついた。
承認されなかったと、愛がない、という視点で、感じた体験で私の中にできていた傷がまだあって、それに今感じた承認された感がしみたから、涙が出ているんだなあ~とおもった。
私のとらえかた次第で、今ある今感じた承認を私の過去にできた傷を癒す風にも使うことができるかもしれない。
私のどっかに自分の責任でできた穴を、自分の責任で埋める。ってそういう風なことなんかな~?ともおもった。
そんな自分にも、ありがとう。愛してます。といった。
ありがとう。愛してます。
そして、承認をしっかり受け取ることが、まだ得意ではないかも?ともおもった。
胸の奥まで届かないような受け取り方をしていることが多いなあーともおもった。
ので、胸の奥で承認されたと感じた体験を思い出して、受け取ってみたら胸の中があったかくなった気がした。
せっかくいただいている承認を、私が私のためにしっかり受け取ってしっかり活用できるように、私に曇りがあってもなくてもいつもこれからも愛する。
承認する=愛すること、だとおもっている。
今の私の自我?が一番欲しい承認ではなかったり、ささやかな物だったり、することで、ついついそれじゃない。それくらいのものがほしいんじゃないんよーとか、それはいらない。とか、それがほしかったのじゃない、この人からもらいたいんじゃない、この人からもらってもお返しできない、なんて抵抗もあったりすることもある。
もらったらお返ししたい。
喜ぶこと、幸せになること、そしてありがとう、とおもうこと=愛のお返しである、それが相手の役に立つことでもある、という視点も適用し、そんな風にもおもっているこの頃なんだけど。
あなたからこの形この量の承認という愛をいただくのに、私は値しないと遠慮するような気持ちがあったりもする。
喜び感謝するだけに、抵抗があったり、申し訳ないと感じてしまう傾向があって、お返しできないから遠慮しようという気持ちになっていたりもある。
あー今の私はあづまさんのいうところの「愛情の受け取り拒否」をしているんだな~ときがつく時が増えた。
そんな私にもありがとう。愛してます。
そして、そんな自分にありがとう。愛してます。ということで、
冷静さが戻り?
そうだった、そうだった。
喜び感謝するだけもいいんだ。
あげるといっているのに、罪悪感で遠慮しなくてもいいんだ。
ただありがたく受け取ってもいいんだ。
とおもって、うれしい~ありがとう~♪と受け取ってみることができることが増えた。
その分?うれしい~ありがとう~♪と感じる出来事が私の周りに増えていっている気がしている。
ありがとう。愛してます。
ありがとう。愛してます~。
そしてまた、厳密に分けると。
無条件の承認も含み感じつつも、表面的にみると条件付の承認を感じていただいていることが多いんやないかなあーともおもう。
女性性=無条件の承認
男性性=条件付の承認。
だったかな。
あなたのこれこれこういうところいいよ!と条件付に承認されて評価してもらったと感じていて、
でも私は、あなたが知らないこんなところもありますよ!というようなことをいっていることが案外ある気がする。
ほんとはそもそもどっちもある。
命というものに、運命に?ご縁に?無条件にも、条件付にも、しょうにんされていている=愛をいただいているってことが、生きて生かされている状態を維持できているんじゃないかな?とおもう。
無条件にも、条件付にも、承認どっちも大事で、どっちも必要で、どっちも十分ある。
どっちもがそれなりに機能しているから、生き生かされている。
そんな風な感じなんじゃないかな。
そんな風に感じるように生かされた。
ありがとう。愛してます。
だからまあ違いはあるんだろうけど、わからなくたってもいいか。
感じるままに感じて、感謝して受け取って、愛して、手放していけばいいんだなあ~。
うれし泣きになる状態にいると、愛して握り締めてしまったりする恐れがある。
それはまた自分を縛る鎖になってしまう。
さようなら~と追いやるような気持ちでもなく、これ欲しかったんだやっときたと握り締めるのでもなく、
私のアンテナが反応する「快」も「不快」も私の幸せに必要な愛。
いつも愛は十分ある世界を感じれない恐れや不安不満から、不快!それ違う!とそれ愛じゃないと拒絶したり逃げたり、敵対して自分を守らないでも、大丈夫。
それでも今の私はそんな風に感じることもあるかもしれない。
そんな自分にまず愛してます。ただひたすらに愛してます。
快、それそれほしかったんだ~と不安で握り締めようとする私もいたりすることがある。
ありがとう。愛してます。
でも大丈夫、ほんとはいつも十分ある世界に生かされている。
そのことへの信頼ができない、恐れなどをもった自分を愛する。
全て愛。
恐れを感じるもの、不満を感じるのも、不安を感じるのも。
快を感じるのも、不快を感じるのも。
思考するのも、意識することも。
愛する行為。
ありがとう。
愛してます。
追い払わなくても、握り締めなくても、いつも十分愛を与え合っている世界に生かされている。
そんな風にいまは感じる。
そんな風に今感じるように生かされている。
ありがとう。愛してます。
ありがとう。
愛してます~。