カメラの稽古

老後の愉しみにカメラを始めました。

我胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 烟はうすし桜島山

2021年10月31日 | 写真

鹿児島県・伊集院から望む桜島

1860(万延元)年3月、水戸藩の過激浪士らが大老・井伊直弼を暗殺します(桜田門外の変)。國臣もその企みに1枚かんでいたのではないかとの嫌疑をかけられ、幕吏の探索がさらに激しさを増します。薩摩藩に逃げ込もうとしますが失敗。肥後高瀬(熊本県玉名市)の医師で肥後尊攘派の重鎮・松村大成宅に転がり込み、松村家で武芸や兵法の講師をしながら、久留米水天宮の宮司・真木和泉守(禁門の変で自刃)や肥後藩の活動家らと交わり、独自の討幕論を固めていきます。

同年10月、國臣は、薩摩藩の国父・島津久光に自らの討幕論を上奏するため薩摩藩に再度入国しますが、鹿児島の手前・伊集院でさんざん待たされたあげく、大久保利通らに体よく追い返され、グラグラこいて詠みました。いっこうに腰をあげない薩摩人を揶揄した歌です。

わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 烟はうすし桜島山

この歌を詠んだ伊集院町(鹿児島県)にある歌碑

 

國臣の生家跡である「平野神社(福岡市)にある歌碑

(意訳)

わたしの胸の中にはふつふつとした討幕の思いがある。それに引き替え、桜島(薩摩藩)はなんて腰抜けなんだ!

わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 烟はうすし桜島山

・・・以前、長州・山口県出身の安倍晋三首相(当時)が桜島の前でこの歌を披露したテレビニュースをみたことがあります。安倍さんがこの歌の本当の意味を知っていて披露したのだったら、薩摩人と犬猿の仲だった長州人の負けじ魂、未だ恐るべしです(苦笑)。

(写真:筆者)


平野次郎國臣の顕彰碑(福岡市中央区「平野神社」)現代語訳

2021年10月31日 | 写真

(現代語訳)

平野次郎國臣は筑前藩士・平野能栄の次男である。国学に通じ、和歌を善くし、人のために慷慨し、節操があって、早い時期から勤王の志が篤かった。

嘉永以来(ペリー来航以来)、幕府の失政により国内は騒然となっていた。國臣は決起のため脱藩し、同志とともに討幕を計画した。戊午の獄(安政の大獄)が起きた時は、急ぎ、僧月照(薩摩藩の西郷隆盛と朝廷工作をしていた清水寺の勤皇僧)を薩摩まで送り、薩摩から去ったあとは肥後で義徒を募り、中山忠愛を奉じた。再び鹿児島に入国し、「尊攘英断録」を(薩摩藩主に)上書しようとしたが、大久保利通(薩摩藩主の側近)に諭されて薩摩を去った。

文久2年、島津久光(薩摩藩の国主)が兵を率いて東上する際には、志士仲間に義挙を説く必要から、先行して上京し、「回天三策」を密かに奏上した。筑前藩主・黒田齊溥が上京しようと播磨まできていたときに、藩主に対して意見を述べ、時代の急務を論じたが、捕縛されて獄に投じられた。獄中、紙を捻った字を作って著述した「神武必勝論」は、宮廷の文庫に今なお収蔵されているといわれている。

翌年、国臣を赦免するよう朝廷から藩に命令がくだり、國臣は学習院(京都御所にあった公家の教育機関)の国事掛に任じられた。この時、親征(攘夷親政・大和行幸)の決議が起きて、中山忠光が大和国(奈良県)で挙兵した(天誅組の変)。朝廷からの命を受け、暴挙をやめるよう諭すため大和へ急行したが聴き入れてもらえなかった。京都に帰ってみると朝議は一変していて(八月十八日の政変)、(尊王攘夷派の)七卿が西に出奔していた(七卿落ち)。

國臣は(七卿のひとり)澤宣嘉を奉じて但馬国(現・兵庫県)で挙兵(生野義挙)したものの、戦に敗れて捕らわれ、京の獄舎(六角獄舎)で斬られた。元治元年7月20日、享年37であった。

王政復古の後、朝廷は國臣の誠忠を嘉して正四位を贈った。今般、同郷の者が話し合って、國臣の偉業を朽ちることなく伝えるため碑を建てることとなり、この碑文を書かせていただいた。

大正4年10月                                  枢密顧問官 従二位勲一等 子爵 金子堅太郎

( )内は訳者補記。