鹿児島県・伊集院から望む桜島
1860(万延元)年3月、水戸藩の過激浪士らが大老・井伊直弼を暗殺します(桜田門外の変)。國臣もその企みに1枚かんでいたのではないかとの嫌疑をかけられ、幕吏の探索がさらに激しさを増します。薩摩藩に逃げ込もうとしますが失敗。肥後高瀬(熊本県玉名市)の医師で肥後尊攘派の重鎮・松村大成宅に転がり込み、松村家で武芸や兵法の講師をしながら、久留米水天宮の宮司・真木和泉守(禁門の変で自刃)や肥後藩の活動家らと交わり、独自の討幕論を固めていきます。
同年10月、國臣は、薩摩藩の国父・島津久光に自らの討幕論を上奏するため薩摩藩に再度入国しますが、鹿児島の手前・伊集院でさんざん待たされたあげく、大久保利通らに体よく追い返され、グラグラこいて詠みました。いっこうに腰をあげない薩摩人を揶揄した歌です。
わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 烟はうすし桜島山
この歌を詠んだ伊集院町(鹿児島県)にある歌碑
國臣の生家跡である「平野神社(福岡市)にある歌碑
(意訳)
わたしの胸の中にはふつふつとした討幕の思いがある。それに引き替え、桜島(薩摩藩)はなんて腰抜けなんだ!
わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 烟はうすし桜島山
・・・以前、長州・山口県出身の安倍晋三首相(当時)が桜島の前でこの歌を披露したテレビニュースをみたことがあります。安倍さんがこの歌の本当の意味を知っていて披露したのだったら、薩摩人と犬猿の仲だった長州人の負けじ魂、未だ恐るべしです(苦笑)。
(写真:筆者)