シドニーの風

シドニー駐在サラリーマンの生活日記です。
心に映るよしなしごとをそこはかとなく書き綴ります…祖国への思いを風に載せて。

月刊誌

2009-03-12 22:09:25 | シドニー生活
 海外にいると、週刊誌や月刊誌に飢えます。日経新聞はこちらでも購読できますが、週刊誌や月刊誌は、出張者や訪問者に買って来て貰う以外にないからです。ホットだけれど、ちょっと距離を置いて眺めたい、あるいはホットな話題をちょっと別の切り口で読ませてくれるというのは、日刊紙では難しい。
 日々の動きを追う、事実関係を拾って行くだけなら、インターネットで十分ですが、以前にも触れた通り、自分に興味がないことでも世間が注目していること(世間が注目すべきとメディアが判断するもの)を押さえて置くには日刊紙が便利です。しかし、細切れの事実の先にある、大きな流れを俯瞰したり、事件の底流にある真相を見極めようとしたり、あるいは歴史的な文脈の中で現在を位置づけ直す作業などは、月刊誌の領域になります。
 最近、文藝春秋社が発行するオピニオン誌・月刊「諸君!」が5月1日発売の6月号を最後に休刊することが明らかになりました。熱心な読者ではありませんでしたが、私が学生時代の頃のことですから、デタントを経て再び東西冷戦に揺り戻しがあった頃で、まだまだ進歩系の新聞や論調がかまびすしい当時、「文藝春秋」をはじめとする保守的な論調の、更に右寄りの座標軸に自らを位置づけていた「諸君!」は却って新鮮に映り、たまに買っては楽しんでいたので、懐かしくもあり、同時に名残惜しい気持ちで一杯です。
 論壇・総合誌関係では「論座」「現代」が昨年相次いで休刊しており、時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、硬派が敬遠されているような軽めの世相が、やや気になります。

アルコール規制

2009-03-11 21:39:29 | シドニー生活
 健康に害の少ない(癌などの疾病リスクを高めない)酒量に関して、オーストラリアの国家保険・医療研究評議会が指針を発表しました(8年振りの見直し)。男女とも純アルコール量で一日20gまで、ワインなら小さめのグラス2杯、ビールなら375ml缶2本なのだそうです。世界有数のワイン生産国で、国がこのような指針を纏めること自体に奇異な感じを受けますし、余計なお世話とも言いたいところですが、実は昨年来、手軽に飲める所謂アルコポップ(ウォッカやラム酒などのAlcoholと炭酸飲料Popを掛け合わせた造語Alcopops、RTD=Ready To Drinkとも)と呼ばれる果汁や炭酸入りアルコール飲料を若者が暴飲することが社会問題化していたのが背景にあるものと思われます。それにしても僅かに二杯(二本)とは・・・本稿内容は、家族には秘密です。
 また、同じ問題により、昨年4月からアルコポップに対する増税を実施した結果、ビール消費量が15年振りに伸びているという報道もありました。年間消費量1500万L増、一人当たり換算で年3本増だそうで、果たして増税で当初狙った効果があったのか若干疑問ではあります。
 もともと一人当たりビール消費量ではヨーロッパ以外の国では一番(世界10位、日本の1.5倍の消費量)と言われる国柄です。オーストラリアに来て驚いたのは、ワインだけではなくビールも美味しいことで、特にお気に入りは、タスマニア州産Cascade。写真はタスマニア旅行で見つけたドラフト・ビールで、オーストラリア本土ではついぞ見かけませんが、いずれにしても、この銘柄、オーストラリアに旅行される方は是非お試し下さい。
 飲むために健康であらねば・・・と思う今日この頃です。

WBC一次ラウンド

2009-03-10 22:23:55 | あれこれ
 WBC一次ラウンドA組の全日程が終わり、日本は前回同様2位で二次ラウンドに進みました。その間、前回WBCや北京オリンピックの雪辱戦で、韓国に14-2で7回コールド勝ちして積年の鬱憤を晴らしたのも束の間、再戦した昨日は、0-1の完封負けを喫してしまい、短期決戦の恐ろしさ、試練を味わったところです。結果はともかく、昨日の試合は、平均視聴率34%、瞬間最高視聴率47%に達し、役者が揃うと、野球でもかくも盛り上がるものかと驚かされました。日本のプロ野球の日ごろの沈滞ぶりがウソのようです(勿論、ONの頃からの野球ファンとしては盛り上がって欲しいのですが)。
 さて何かと比較の対象になる韓国チームですが、ごく公平に見ても、日本チームに見劣りするところは見当たりません。選手層の厚さでは断然日本(更にはアメリカなど)に分があるわけですが、いざ各国1チームで短期間に数試合戦うくらいであれば、韓国のようなチームでも勝ち目があるということでしょう。もし韓国チームにあって他チームにない(弱い)ものがあるとすれば、勝利への貪欲さではないかと思われます。その貪欲さを影で支えるのが韓国のメディアです。日本が負けた場合には、せいぜい「原じゃ勝てん」「なぜ松中と細川を外した」「捕手が城島と阿部ではダメだ」などと広言してきた野村さんか星野さんが喜ぶくらいですが(冗談です)、期待が裏切られた時の韓国のメディアは凄まじい。日本にコールド負けしたことを「恥辱の大敗」と書きたて、不甲斐無い自らのチームをこきおろす始末です。
 そんな、やや全体主義的な気配すら漂う韓国メディアは、相手チームのことを悪しざまに言うのも平気で、今回も、負けた腹いせに、日本の野球のことを顕微鏡野球!?と批判したそうです。北京五輪で日本打線を封じ込めた金広鉉が今回は完全に打ち崩されたのは、日本がメディアも動員して徹底的なデータ収集を行い、まるで顕微鏡をのぞき見るように頭からつま先まで暴いたからだと言い、さも日本の野球がせせこましいと言わんばかりですが、ちょっと品がないですね。それから、日程のことも、日本に有利で不公平だと、負けてから異議を唱えたそうですが、そういうことはやはり試合が始まる前に言った方が良さそうです。日本だって諸外国だってメディアを誇れるところはなかなか無いでしょうが、せめて負けっぷりは良くしたいものです。韓国チームがちょっと気の毒なくらいです。
 これから舞台を天然芝のアメリカに移し、やや湿り勝ちの日本のメジャーリーガー5名が元気を取り戻して活躍するところを、特に日の丸を背負ってはしゃぐイチローを、是非もう一度見てみたいものです。

朝鮮半島情勢(下)

2009-03-10 00:13:39 | あれこれ
 北朝鮮は、9日から米・韓合同軍事演習が始まったことを受けて、再び軍事的緊張を高めています。この軍事演習期間中、北朝鮮領空周辺を通過する韓国民間機の安全は保証できないと警告したのに続き、北朝鮮が「人工衛星」と主張して発射準備を進めている長距離弾道ミサイルを日・米・韓が迎撃することは「戦争を意味する」とし、「報復攻撃を開始する」とする声明を発表しました。麻生首相は、ミサイル防衛(MD)システムによる迎撃を示唆しましたが、実効性の保証がなく、現実には、現行の制裁措置に加え、朝鮮総連など北朝鮮関係団体の資産凍結や輸出制限措置を発動するのが関の山と見られます。
 北朝鮮がこれほどまでに対外的に態度を硬化させているのは、国内情勢に相当の不安定要因を抱え、綱紀粛正を図ろうとしているからか、あるいは1998年8月末に人工衛星「光明星1号」と主張して長距離弾道ミサイル「テポドン」を発射し、最高人民会議第10期・第1回会議前に「打上げ成功」と発表して、金正日政権発足に当って祝賀ムードを盛り上げたように、今回も4月に予定される最高人民会議第12期・第1回会議前に、金正日体制3期目(あるいはその後継体制)を盛り立てる狙いがあるのでしょうか。
 その背景には、韓国において、ここ数年、在韓米軍の移転ないしは縮小・撤退を既定事実として、韓国・国防部が言うところの「全方位国防態勢」を構築し「自主国防」を目標とする動きが見られるように、韓国が朝鮮半島統一への準備を着々と進めていることが挙げられます。そうした中、明らかに経済的危機下にあり従って経済的劣勢にある北朝鮮の焦りが、軍事的な突出という形で、対北朝鮮融和政策を見直す韓国の李明博政権を揺さぶりつつ、アメリカとの直接対話に向けたメッセージ発信に繋がっていると見て間違いありません。
 こうして見ると、気がつくことが二つあります。一つは、朝鮮半島情勢において、あらためて日本の影が薄いということ。冷静に見ると拉致問題だけで関与する日本の発言力は低いと言わざるを得ません。だからと言って、日本も核武装すべきだと短絡的に主張するつもりはありませんが、集団的自衛権に関する憲法解釈の問題で、権利にとどまらずその行使に踏み込んだ議論がこれから必要になるでしょう。もう一つは、北朝鮮の暴発を避けることが焦眉の急ですが、実は根本的には北朝鮮と言うよりも、朝鮮半島の地政学的重要性こそが問題だということです。北朝鮮囲い込みの先にある朝鮮半島統一という事態をどのように管理していくか、そこで日本がどう関わっていくか。米国、中国、ロシア、北朝鮮といった核保有国が鎬を削る朝鮮半島には、地球上、稀に見る軍事力が集積しています。もし朝鮮半島が親中国や親ロシアに傾き出したら、どうなるか。アメリカとしては飽くまでも朝鮮半島に緊張状態を作り出し、中国を牽制しておきたいに違いない。朝鮮半島情勢における日本の戦略的取組みが求められる所以です。

プロレス賛歌

2009-03-07 08:16:53 | あれこれ
 先日、日本テレビがプロレス中継(地上波)を今月一杯で終了することを発表しました。今後は日テレ系の有料CS放送(G+)に移行するそうです。かつてプロレスと並んで、日本テレビの看板番組だった巨人主催試合の中継も、地上波での放送は、今年は更に4割減の26試合(昨年は42試合)になることを発表したばかりです(BSに移行させる計画で、昨年21→今年52試合、CSでは全72試合を放映)。テレビ番組も経済原理で動く以上、これも時代の流れなのでしょうが、私が子供の頃は、プロセスや野球を見て、プロレスごっこや野球をして遊んだ同世代の子供たちが多かった(に違いない)だけに、ある種の感慨を禁じ得ません。
 プロレスは親父が好きだったせいで、いつの間にか一緒に見るようになり、東洋の巨人・ジャイアント馬場が16文キック、空手チョップやココナッツ・クラッシュを駆使して、また後に燃える闘魂と呼ばれるアントニオ猪木がコブラ・ツイストや卍固めの決めワザで、ガイジン・レスラーを撃退するのを楽しみにするようになりました。父親はいつも、プロレスは所詮はショーだからとうそぶきながら、反則攻撃に激怒し鉄柱攻撃に狂喜乱舞していましたが、子供の私にとってショーというのは、最後はガイジン・レスラーが負けてくれる八百長の意味で、流血をも辞さない真剣勝負と思い込んでハラハラ・ドキドキ、手に汗握って見守ったものでした。鉄人ルー・テーズ、神様カール・ゴッチ、ドリー・ファンク・ジュニアはじめ、黒い魔人ボボ・ブラジル、人間発電所ブルーノ・サンマルチノ、噛みつき魔フレッド・ブラッシー、鉄の爪フリッツ・フォン・エリック、足四の字固めのザ・デストロイヤー、アブドラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンなど、錚々たる個性豊かなガイジン・レスラーがひしめき、子供の私の目を海外に見開かせてくれ、愛国心を芽生えさせてくれました(笑)。
 ショーの意味が分かるのはもう少し後のことです。
 プロレスというのはただの格闘技ではありません。圧倒的な強さを見せつけられたところで、面白いわけではないからです。勿論そこには鍛え抜かれた肉体的強靭さは必要条件ですが、十分ではなく、磨きあげられた技と、擬似・格闘技としての試合前後を含むパフォーマンスによって、観客を熱狂させるショーであることが重要なのです。ジャイアント馬場ですらアメリカで修行していた頃はヒール(悪役)を演じていたと言います。そこには観客も納得するある筋書きが暗黙のうちに存在し、真剣勝負(喧嘩)にはない、一般大衆が安心して楽しめる娯楽性の要素があります。勿論、アントニオ猪木の異種格闘技戦への挑戦に見られるように、格闘技として世界最強を求めた時代もありました。それが後にUWFや更には総合格闘技へと繋がり、真剣勝負の凄惨さが却って一般大衆のファン離れを招いたのではないかとも思います。そういう意味では、相撲と似たような、“見せる(魅せる)”格闘技と言ってもよいかも知れません。相手に技を繰り出させ、ぎりぎりのところでそのダメージを回避しながら、技の応酬によって観客を熱狂させ、それでも最後は勝つというパワーとテクニックが必要です。鉄人ルー・テーズは「試合の出来に納得が出来なくなった」として引退を決意したそうですが、試合に負けることではなく試合の出来に自分が納得できなくなることを理由に挙げるレスラーが多いところに、プロレスの本質が表れているように思います。
 もともとアメリカのプロレスは、サーカスの出し物の一つとして、レスラーが観客の挑戦を受けたり、ボクサーと戦ったりするカーニバル・レスリングが起源とされます。それだけに、本場アメリカのプロレスは、エンターテインメント性が極めて強く、日本のプロレスに馴染んでいた私が違和感を感じるほどでした。女性を伴ってきらびやかに登場し、競技以外のパフォーマンスは一流ですが、いざ試合に入ると真剣味が乏しく、粘りなくあっさり敗れたりします。観客は試合そのものだけではなくその前後の物語も含めて楽しんでいるようなのです。それに引き換え日本では、武道の伝統があり、真剣勝負を尊ぶ文化のせいで、アメリカとはやや趣きを異にします。日本テレビのプロレス番組の制作はバラエティ部署ではなく、一貫して日本テレビ運動部(スポーツ部)が担当だったことにも、その性格が表れていると言えそうです。
 繰り返しになりますが、相撲もプロレスも、純粋な意味での格闘技ではなく、“魅せる”格闘技です。相撲やプロレスからガチンコ勝負が出てくる流れは否定しませんが、本来の相撲やプロレスの凋落は、娯楽が多様化した現代社会の当然の帰結だとは言え、懐かしさとも相俟って、切なくもあります。

アリス

2009-03-05 21:39:01 | あれこれ
 アリスが再結成され、28年ぶりに全国ツアーを行なうことが報道されました。
 アリスと言えば、中学生の頃、「モーリス持てば、スーパースターも夢じゃない」という谷村新司さんの低くよく通る声のラジオ・コマーシャルが思い出されます。それほど、フォーク・ソング時代、モーリスのアコースティック・ギターを持ちたがった時代の、憧れの存在でした。
 結成は1971年12月末、解散は1981年5月と言いますから、活動は1970年代を中心に9年半に及びます。フォーク・シンガーとして、デビュー曲「走っておいで恋人よ」や「明日への賛歌」は谷村新司さんが作詞・作曲で、所謂シンガー・ソング・ライター路線を歩みましたが、泣かず飛ばずに終わり、その後、「青春時代」や「二十歳の頃」のようにフォーク調でありながら、なかにし礼作詞・都倉俊一作曲という歌謡界の黄金コンビによる作品もありましたが、それでもメジャーになれませんでした。初めてのヒット曲は、ずっと下って1975年9月にリリースされた「今はもうだれも」で、オリコン・チャート11位まで上昇し、メガ・ヒットとなった「冬の稲妻」がリリースされた1977年10月から、アリス作品の中で唯一オリコン1位になった「チャンピオン」までのシングル4曲約2年間がアリスの絶頂期にあたるでしょう。このメガ・ヒット時代はフォーク・シンガーの枠を越えて活躍の幅を広げましたが、私が好きなのは、飽くまでメガ・ヒット以前のアリスでした。
 聴く音楽はサザンとユーミンに尽きる、ということは以前にこのブログで触れましたが、演る音楽は実はアリスと風(伊勢正三)に尽きる私です。高校の修学旅行の芸能大会で、フォークソング・サークルの友人にギター演奏してもらってアリス「帰らざる日々」と河島英五「酒と泪と男と女」(大阪らしい・・・)を歌って芸能大賞を貰ったからではありませんが、大学に入ってアリスのコピー・バンドを結成し、京都女子大学の学園祭(藤花祭)でコンサート・デビューまでしてしまうという、若さと言うか、怖いもの知らずというのは本当に素晴らしいことで、今では慙愧に堪えません。
 アリスに関して外せないのは、関東ではセイ!ヤング、関西ではMBSヤングタウンでの、谷村新司さんのDJ活動でしょう。大阪人の私としては、ヤングタウン(通称ヤンタン)での、ちんぺい(谷村新司さん)、ばんばん(ばんばひろふみさん)、佐藤良子さんの三人の掛け合いに、受験生の頃は随分心を癒されました。歌手としてだけではなく、DJ=今で言うパーソナリティは全人格が勝負の役柄で、いろいろな面で影響を受けた初めての芸能人ではないかと思います。
 今回の再結成にあたってのコメントがふるっています。「60(歳)だし、そろそろ一発かますかという機運が盛り上がってきた」(谷村新司)「アリスは一番大事な故郷だった。それがもう一度、節々が痛くても出てこれたのがうれしい」(堀内孝雄)「60になって力の抜き方がわかってきた。本番はすごいことができると思います」(矢沢透)「なんのポーズもとらないし、投げられる直球を投げたい」(谷村新司)と、これじゃあ四半世紀前のイメージそのままです。人間は年齢を重ねても本質は変わらないものですね。嬉しくなります。

朝鮮半島情勢(中)

2009-03-04 22:49:31 | あれこれ
 世界の冷戦構造は崩壊しましたが、アジアではいまだにその緊張を一部で引き摺っています。一つは台湾海峡であり、もう一つは朝鮮半島、いずれも冷戦の落とし子と言えます。この二ヶ所はいつ発火するか分からない地域という意味でフラッシュ・ポイントと呼ばれて来ました。
 その北朝鮮の核問題で、これまで周辺諸国はさんざん振り回されて来ました。それは恐らく周辺国がステータス・クオ(現状維持)を望んでいるからに他なりません。それをいいことに北朝鮮はやりたい放題と言っても過言ではなく、周辺国は明らかに手を焼いています。昨日の続きで、今日は朝鮮半島を巡る各国の思惑を見て行きたいと思います。
 もともと北朝鮮の独裁体制は長くは続かないだろうと見られて来ました。実際に、経済破綻のため軍隊に対してすら食糧配給を満足に行なえず、軍用米を収奪する農村の疲弊が進んでいると言われます。専門家の中には、過去60年間に築き上げられた相互監視と組織生活を支配する朝鮮労働党体制は簡単に崩れない(脱北の元高官)と見る向きもありますが、組織腐敗、制度疲労は崩壊寸前で、金正日後継問題による権力の空白が起きれば変化は予測不能(韓国情報関係筋)とする分析の方が妥当のように思われます。北朝鮮が恐れるのは、まさに体制崩壊に繋がる経済制裁と軍事進攻であり、それを回避するため、あの手この手で周辺国から譲歩を引き出して来たわけです。これに対し、周辺国の思惑は錯綜し、なかなか一筋縄では行きそうにありません。
 先ず韓国ですが、保守派の大統領になって、これまでの太陽政策を転換しつつあります。実際、韓国は、他の東南アジア諸国と同様、中国・東北地方やロシア更にはヨーロッパへと繋がる大陸の経済圏に軸足を移しつつあるように見えます。その意味でも、北朝鮮に対する軍事的な優位性を維持しつつ、北朝鮮の体制崩壊の先を見据えた対応を検討していると見て間違いありません。一方の北朝鮮は、太陽政策からやや実利主義に傾いた韓国・李明博政権を非難し、韓国との政治・軍事的対決状態の解消に関連するすべての合意事項を破棄すること(無効化)を宣言しました。強硬な姿勢を示すことにより、韓国の現政権の非妥協的な政策の修正を迫っているものと見ることが出来ます。他方、金大中・盧武鉉両政権で進んだ南北交流の結果、流れ込んだ現金によって賄賂の横行など組織の腐敗が進んだことを背景に、韓国への経済的依存度を高めすぎた反動が起きているという見方もあります。
 次に中国ですが、基本的に朝鮮半島の安定(現状維持)に加え、北朝鮮に対する影響力保持を目指していることは間違いありません。北朝鮮の体制が崩壊する結果、多くの難民が中朝国境を越えるのは困るでしょうし、逆に朝鮮半島統一という事態もまた中国にとって決して好ましい状況ではありません。更に重要なことは、中国にとって北朝鮮は対米カード、対米牽制の手段となり得る点です(これは北朝鮮にとっても同じで、対中接近は対米カード、中朝両国の利害は一致する)。結果として、国連制裁決議を守って北朝鮮への食糧援助を止める気配はさらさらなく、生かさず殺さずの現状維持を続けるわけです。
 最後にアメリカですが、先日、クリントン国務長官がアジア歴訪を行った際にも、北朝鮮に対して決して譲歩するそぶりを見せませんでした。甘いところを見せるとつけあがることは目に見えているからです。そもそもアメリカにとって朝鮮半島で望むことは、直接には核拡散や核兵器流出を抑えるべく、北朝鮮の大量破棄兵器の撲滅と、在韓米軍の再編だろうと思われます。しかし将来的には、中国の力を借りながら南北交流が進み、北朝鮮と韓国をつなぐ経済圏ができ、中国・ロシアとも繋がるような事態になれば、アメリカにとって決して好ましい状況ではなく、牽制しておきたいところです。一方の北朝鮮にとって、悪の枢軸呼ばわりされた時は最悪でしたが、最近、北朝鮮が発信しているメッセージを見ると、「米国の敵視政策がある限り、核放棄はない」「南朝鮮に対する米国の核の傘がなくなれば、わが方も核兵器が必要なくなる」「(朝鮮戦争の)休戦協定の平和協定への転換を」「米朝関係正常化と核問題は別問題」といった具合いで、最も意識する米国に対して、核保有国として認知して欲しいというメッセージとともに、交渉の余地があり、非核化にコミットするとも伝えていることです。
 結局、そんなこんなで、朝鮮半島は現状維持にならざるを得ないわけです。六ヶ国協議、あるいは日中韓、日米韓といった枠組み(一種の包囲網)は、そこから一歩進めて、北朝鮮を如何に開かれた市場経済に溶け込ませるか、安全保障の枠組みがない北東アジアに、せめて東南アジアのような多国間における協力関係を構築するといった、北朝鮮問題を軟着陸させるべき取組みを強化して欲しいものです。ゆめゆめイラクで起こった破壊による復興支援ではなく、東洋の叡智により、経済協力を軸として血を流すことなき開発構想が理想です。

朝鮮半島情勢(上)

2009-03-03 23:08:04 | あれこれ
 このところ朝鮮半島の三月危機説が囁かれて来ました。六ヶ国協議で進めてきた対北エネルギー供給支援が中断される可能性がある三月に、報道されている通り北朝鮮の「テポドン2号」またはその改良型の発射準備が整うためでした。最近、北朝鮮のミサイル技術者が、2月2日に行われたイランの人工衛星打ち上げに協力していたことが米情報筋から明らかにされ、北朝鮮の動きを牽制しています。テポドン2号の射程は約6000キロ(アラスカやハワイ周辺まで到達)ですが、改良型であれば1万キロ(米本土も射程圏内)にもなり、北朝鮮の弾道ミサイルが長射程化する脅威が現実化しつつあることが懸念されます。北朝鮮は人工衛星の実験通信衛星「光明星2号」を運搬ロケット「銀河2号」で打ち上げるための準備を進めているだけだと白を切っていますが、もとより誰も信じておらず、衛星とミサイル発射の技術はほとんど変わりはなく、北朝鮮に弾道ミサイル関連活動の停止を求めた2006年7月の国連安保理決議に違反していると日・米・韓ともに非難しています。
 今回の動きは、どうやらオバマ新政権を意識しているという見方が専らです。飽くまで六ヶ国協議を通じて北朝鮮の核兵器と核開発計画の放棄を検証可能な形で達成することを目指すアメリカに対して、北朝鮮は核廃棄より対米関係正常化が優先されるべきであり、その後、核軍縮交渉で朝鮮半島の非核化を実現するという立場、いわば「核保有国」として米国と対等な交渉を行なう立場を主張し、完全にすれ違っています。今回の長距離ミサイル誇示は、米国への脅威を演出することで、イラクやアフガニスタンに向けられがちなオバマ政権の目をあらためて北朝鮮に向けさせる作戦でしょう。
 飽くまで外交カードとして散らつかせているに過ぎないので、実際に日本やアメリカ本土に向けてミサイルを打ち込むことはないでしょうが、前回のように海に向けて発射する可能性は極めて高い。経済的に行き詰っている北朝鮮としては他に手段の取りようがない瀬戸際外交の現実、2005年の六ヶ国合意で核廃棄を約束したにもかかわらず、テロ支援国家指定解除や重油供給支援をタダ取りするだけで核査察を拒否したまま現在に至る不埒な国が、いまだにすぐ間近にいる北東アジアの国際政治の現実は、拉致問題だけをクローズアップしたがる日本人として、冷徹に理解しなければなりません。
 朝鮮半島は伝統的に大陸勢力(ランド・パワー)としての中国の勢力下にあり、朝貢関係を結ぶことによって朝鮮半島の国家は独立を維持して来ました。日本から見た場合、朝鮮半島は、元の時代を除いて大陸勢力が朝鮮半島全土を直接支配することがなかったという意味で、大陸勢力が南下することを阻止するバッファ・ゾーンとして機能して来たと言えます。日清・日露戦争は、この朝鮮半島の覇権を巡る、ランド・パワー(清国並びにロシア)とシー・パワー(英国及び英国を後ろ盾とする日本)との争いだったと見る人もいます。1920年代後半以降、日本は朝鮮半島を足がかりに大陸進出を本格化させ、今度はシー・パワーとしてのアメリカの大陸政策(中国権益の確保)と対立を深め、結局、日本は支配した領土を全て放棄し無条件降伏する形で決着したのは、歴史が示す通りです。戦後は、ランド・パワーのソ連と新たなシー・パワーとしてのアメリカが朝鮮半島で対峙し、朝鮮戦争はさながら両者の代理戦争の様相を呈しました。地政学的に見て、これほど重要な朝鮮半島に、かつては肩入れしていた大日本帝国が、戦後、大・帝国の文字を抜かれたら牙も抜かれたようで、日本になった途端、戦略性を全く感じられないのが、不満であり不安でもあります。

ヤメ検弁護士の独白

2009-03-02 23:51:38 | あれこれ
 田中森一氏の自叙伝「反転」(幻冬舎、2007年6月)を読みました。副題は「闇社会の守護神と呼ばれて」。新聞広告の衝撃的な内容に惹かれて、随分前にアマゾンで買っていたのですが、ペナンからシドニーへの長期出張・引越しのドサクサで、本棚の奥に押しやられていて、今頃、ひも解いた次第。ここ数日、体調を崩して、ブログに向かう気力が失せて養命酒でもなかなか元気が出なかった(別に飲んだわけではありませんが)時で、大いに刺激を受け、ちょっと復活することが出来ました。
 内容は・・・長崎の片田舎の極貧状態から苦学の末に司法試験に合格し、辣腕検事として鳴らした後、特捜検事に引き立てられ、権力側に立って悪を摘発する検察という仕事に生き甲斐を感じる前半生が先ずは展開されます。どちらかと言うと素直に明るい面だけでなく、所詮は検察と言っても法務省キャリアのエリートに牛耳られ、国策捜査という名のもとに権力体制と企業社会を守護する官僚に過ぎず、権力の中枢に切り込むことが出来なかった挫折感や、自らも決してエリートではなく叩き上げの捜査検事として検察上層部から利用されるだけの存在に過ぎない無力感に苛まれ、むしろウラ社会に渦巻く犯罪者の生い立ちや生きざまに共感して行く自分を抑えられず、ついには検事を辞職するに至ります(ヤメ検)。そして検事時代に得た法技術を駆使して暴力団幹部や仕手筋や総会屋などのウラ社会の人々を守る顧問弁護士に転身し、顧問料が月に1千万円を越えるほどに成り上がり、時まさにバブル絶頂期で、バブル紳士のおこぼれに与かりつつ栄華を極め(なんと7億円のヘリコプターまで購入する)、最後は石橋産業手形詐欺事件で有罪判決を受けるに至る(執筆当時は上告中、その後最高裁で棄却され実刑が確定)、まさに前半生とは反転するが如き波乱万丈の後半生が綴られます。
 前評判通り、なかなか読み応えがあって面白い。さすがに現場叩き上げの特捜検事・本人でしか書けないような検察という巨大組織の問題を内側から見る視点やエピソードが、なるほどと唸らせます。また闇社会と繋がる弁護士が垣間見た、政官財というオモテの権力世界(エスタブリッシュメント)とウラ社会(アウトロー)とが、結局、コインの表と裏のように持ちつ持たれつの関係で繋がっているのが日本社会だと、やっぱり思わせるところは、やるせなくなります。
 しかし、読後感はどうもすっきりしません。結局、本書は本人がある意図を以って執筆し、出版社はある意図を以って出版したものであって、それ以上でもそれ以下でもないからでしょう。検察内部や、政官財とウラ社会との癒着の内幕を余すところなく暴いているかと言うと、必ずしもそうとは思えず、本書によって新たな事実が明るみに出て、バブルの歴史が変わるだけでなく、これによって困る人が出てくるとか、刑事事件に発展するといった驚きは無さそうです。それは、恐らく執筆当時、著者が公判中の身で、もともと法律家である以上、不利な供述は強要されないという原則を、この本においても踏まえているからに他なりません(つまり書かなかったことの方により真実がある?)。前半部分、司法試験に合格し特捜検事に成り上がるまでの自慢話はよしとしましょう。しかしその中で検察内部にメスを入れ構造上の問題を暴くところは、自らの公判を意識して、敵対する検察のありようを告発するものと見て間違いなさそうですし、著者を追い込む石橋産業事件の捜査を指揮する石川検事との確執にも触れられています。後半のバブル紳士との交わりは、人によっては、ここまで書いても大丈夫?と他人事ながら心配になるほど赤裸々な記述だと驚かされるわけですが、それすらも如何にもバブルという特殊な時代の大きなうねりに翻弄され、もっと言うならそのうねりを惹き起こした個々のバブル紳士たちに引き摺られ、自らが能動的に動くことはなく、従って巧妙に自らの責任を回避して見せることによって、これも公判を意識して自己弁護と自己韜晦に終始しているだけのように思われます。
 それほどに手加減した本書で、胡散臭さが鼻を衝きますが(凡そ公判中の人物が書いた本は、佐藤某にしてもそうですが、胡散臭さが付き纏いますね)、それでもなお限定付きの面白さがあり、読んで損はないと思います(本書の全編を貫く哲学とか人生観といったものはいまひとつ見えませんが、個々のエピソードには魅力がありますので、本稿では敢えて触れませんでした)。