新しいHPがほぼできあがったのでお知らせします。今回は特にタイトルをつけず、"SWING21"をそのまま使っています。URLはこちら
→http://sw21.main.jp/
当サイトは順次縮小していき、ビジネス関連のページは最終的にすべて削除します。単なる移行ではなく見直しも行っているため、新HPとは内容に若干の相違があると思いますが、しばらくご容赦ください。
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近日中にSWING21は新しいサイトを開設します。ビジネス関連はすべてそちらに移行し、当サイトは個人的な趣味サイトとして継続させる予定です。
新サイトURLは後日掲載します。
久安百首◆藤原俊成≪八≫
071 露むすぶまのゝこすげのすが枕 かはしてもなぞ袖ぬらすらむ
露の降りた真野の小菅よ 菅枕よ
枕を交わしても涙の止まらないのはなぜだろう
《続後撰和歌集》恋歌。真野の小菅は歌枕の真野の萱原ではなく、近江国の真野の入江あたりだろう。真野川河口に湿地があり、菅の群落があったと思われる。菅枕は菅を束ねた簡易な枕。初句の「露」は第五句「ぬらす」の縁語なので、第二句までは有意の序詞である。
もの思へばまのゝこすげのすが枕 絶えぬ涙に朽ちぞはてぬる
(新後撰和歌集 恋 藤原顕仲朝臣)
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072 恋をのみ飾磨の市にたつ民の たえぬ思ひに身をやかへてむ
《千載和歌集》恋歌。飾磨は播磨の歌枕。飾磨の市に民の立つ日が絶えぬようにという意味かと思ったが、市に立つ民が身を売るように我が身を滅ぼすのかという解釈(久保田淳)もある。「身をやかへてむ」はそのほうが通じるか。
わたつみの海に出でたる飾磨川 絶えむ日にこそ我が恋ひ止まめ
(万葉集巻第十五 よみ人知らず)
遣新羅使もしくはその随身が詠んだ恋の歌。俊成はおそらくこの歌を念頭に置いている。
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073 いかにせむあまのさかてをうち返し 恨みてもなほあかずもあるかな
《新勅撰和歌集》恋歌。天の逆手は《古事記》や《伊勢物語》にも出る呪術。柏手の打ち方が通常とはちがうらしいが実態不明。「うらみ」とあるから手の裏を打ち合わせるとも考えられる。忘れるためのまじないも空しく、思いを断ち切ることができなかったと。
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074 忘れ草つみにこしかど 住吉の岸にしもこそ袖はぬれけれ
住吉の岸辺に忘れ草を摘みに来たけれど
すみよしという名とはうらはらに
忘れられずに袖は涙に濡れるのだったよ
《続千載和歌集》恋歌。住吉の岸の忘れ草は《古今和歌集》以下さまざまな歌集に見られ、実際に住吉の川岸か湿原に生えていたと思われる。百合に似た藪萱草の花は一日花だといい、まじないには向いていたのだろう。
住みよしとあまは告ぐとも長居すな 人忘れ草おふといふなり
(古今和歌集 雑 みぶのたゞみね)
いづかたかしげりまさると忘れ草 よし住吉のながらへて見よ
(続古今和歌集 雑 清少納言)
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075 思ひわび見し面影はさておきて 恋せざりけむをりぞ恋しき
思い悩んでお会いしたあなたの面影は
(忘れられないから)さておくとして
恋をしていなかった頃がなつかしい
《新古今和歌集》恋歌所収。歌に「さておきて」はめずらしい。勅撰集ではほかに殷富門院大輔しか見当たらず、使いにくい語と思われる。
たぐひなくつれなき人はさておきて 生ける我が身のうらめしきかな
(新続古今和歌集 雑 殷富門院大輔)
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076 いかばかり我を思はぬわがこゝろ 我がためつらき人をこふらむ
どれほどわたしのことを考えない我が心であることか
わたしに薄情なあの人を好きになるなんて
擬人法のユーモア。次の一首と同趣向だが、さして面白くはない。
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077 人をのみなどかうらみむ 憂きをなほ恋ふる心もつれなかりけり
あの人ばかりをなぜ恨むことがあろう
嘆きながらもなお恋するわたしの心も
(わたしにとって)薄情なのでしたよ
《続後撰和歌集》は二句「なにうらむらむ」とする。人も我が心もともに恨むに足るのである。擬人法としてはこちらのほうがましか。
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078 恋しきに憂きもつらきもわすられて 心なき身になりにけるかな
恋しさのあまり嘆きも苦しみも忘れてしまい、思慮分別もなくなってしまったと。「心なき身」の解釈が難しいが、虚ろな状態ととらえてもよさそう。
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079 いとふべきこはまぼろしの世の中を あなあさましの恋のすさびや
現世は厭うべき幻の世ではないか。恋の気まぐれなど、なんと浅はかなことか。遊び半分の慰みが「すさび」だが、成り行きまかせもまた「すさび」である。
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080 敷きしのぶ床だにたえぬ涙にも 恋は朽ちせぬものにぞありける
あの人を偲んで敷いた寝床さえ涙に朽ちてしまうというのに
恋の思いは朽ちることがないのだったよ
《千載和歌集》恋歌は二句「床だにみえぬ」とする。「しきしのぶ」は誤写からうまれた歌語とされており、《万葉集》の次の歌がその元という。
にはにたつ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな
(万葉集巻第四 常陸娘子)
常陸娘子(ひたちのをとめ)が京に上る藤原宇合に贈った歌。「庭に立つ」は麻にかかる枕詞。この歌の「布さらす」の表記「布暴」を「布慕」と誤写したことから「しきしのぶ」がうまれたのだそうだ。
麻手ほす東乙女のかやむしろ しきしのびても過ぐす頃かな
(千載和歌集 恋 源俊頼朝臣)
俊頼による本歌取り。上の句は有意の序詞。
晩年を迎えた西行は旅姿で藤原家隆のもとを訪れ、笈(おい)から二巻の歌合を取り出して後事を託したと伝えられる。これがいわゆる『御裳濯河(みもすそがわ)歌合』と『宮河歌合』で、その名が示すように伊勢神宮に奉納するために編まれたものだった。歌合や歌会などを歌集にまとめて神社に奉納するのはめずらしくないが、西行の場合は自作の和歌を左右に分けた自歌合で、慈鎮(=慈円)に清書を依頼したともいう。
この二巻が珍重されるのは、前者が藤原俊成、後者がその息子定家が判詞を書いているため。判詞は左右の歌の優劣判定だけでなくその理由をも記すわけで、そこから判者の持論(歌論といってもよいが)をうかがい知ることができるのである。
ところで、俊成は何度も判詞を辞退したらしい。『風雅和歌集』に載せられた次の歌は西行が『御裳濯河歌合』の表紙に書いたものであり、俊成はこの歌に説得されて判詞を引き受けたのだという。
藤浪をみもすそ川にせき入れて もゝえの松にかけよとぞ思ふ
(風雅和歌集 神祇 西行法師)
藤原氏の系統をあらわす「藤浪」の語を用いて俊成と西行(俗名佐藤義清)が同じ藤原の流れではないかと訴え、その流れを神宮の御裳濯川に合流させて内宮にある松の巨木(百枝の松)に掛けようではないかと。
本書は上記二巻の歌合を含む西行の和歌約2300首をすべて収録した、文庫本にあるまじき(?)快挙を成し遂げた一冊。『山家集』や勅撰に採られた歌を集めた「選集」なら何種類も出ているが、文庫本で全歌集とは、実物を手に取ってさえまさかと思った。懇切な口語訳はついていないし、初学者にここまでは不要。しかし研究者が手元に置いて資料にできるほどの内容が安価で手に入るのは、和歌好きにはたまらない魅力だ。
→書庫
列女百人一首《陸》
051 書きおきし君が玉章身にそへて のちの世までの形見とやせむ
(左衛門局)
左衛門局については左衛門督局(さゑもんのかみのつぼね)と呼ばれた女房が二人あるそうだが、これは後深草天皇の皇女遊義門院に仕えたのち後醍醐天皇の後宮に迎えられた中納言藤原為忠の娘である。
元弘元年、後醍醐天皇は倒幕を企てて露顕、隠岐に流された。しかしこれが各地の蜂起を呼び、結果的には新田義貞や足利尊氏らが幕府に反旗を翻して北条一門は壊滅、建武の新政となった。元弘の乱である。
本書の解説文はそのいきさつを記した『太平記』の抜き書き。女房は中宮に仕える左衛門佐局(さゑもんのすけのつぼね)と呼ばれる美女である。これを見初めた中納言と一夜の契りを結ぶが、翌日後醍醐が逃亡、中納言も衣冠を捨てて随う。中納言は形見にと鬢の髪を切り、和歌とともに置いていった。
黒髪の乱れん世まで存えば これをいまはの形見ともみよ
悲しみに耐えかねた局は大井川の淵に身を投げて果てるが、その時に形見の髪を袖に入れて詠んだのが「書きおきし」の一首だったという。
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052 いまさらに脊くにはあらず 君なくてありぬべきかとならふばかりぞ
(末葉)
末葉(すゑは)は京都の人。越後の男を聟としていたが、数年を経て本国へ帰ろうとする男にこの歌を詠み、帰国を思いとどまらせたという。
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053 知らざりし心づくしのいにしへを 身の思ひ出としのぶべしとは
(探題英時妻)
鎮西探題北条英時は第十六代守時の弟だという。倒幕軍に追いつめられて自刃したのは正慶2年(1333)のこと。その妻は本書によれば赤橋相模守の娘であった。挿絵は短剣を手にしており、夫の一周忌の夜に自害したとある。
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054 たれ見よと形見を人のとゞめけむ たえてあるべきいのちならぬに
(佐介貞俊妻)
佐介左京亮貞俊は鎌倉北条の武士。京において罪を犯し自刃。貞俊の死後、最後に着ていた小袖と累代の刀が形見として故郷に送られた。同梱されていた辞世を読んだ妻はその刀で自害して果てたという。
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055 秋風にそよぎいでたる荻の聲 おのづからなる法のことわり
(弁内侍)
弁内侍は鎌倉時代初期の歌人。女房三十六歌仙で『弁内侍日記』を遺す。勅撰集に45首が採られているが上記の歌は見えず、『日記』にもない。流布していた楠正行による弁内侍救出物語をそのまま短縮して載せたものらしい。正行が四条畷の戦いに破れて自刃したため尼となったとあるが、内侍は正行の死から4年後まで後深草天皇に仕えていた。
史実ではないものの、この話は明治期の女子教育の場でくり返し用いられた。内侍と正行は夫婦ではなかったが、恩義のある人物の菩提を弔うための出家が列女の鑑と考えられたのだろう。
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056 ながめせし花を越路に殘しおきて 都の春も旅は悲しき
(御匣)
御匣は越前の女。九歳になる息子に学問をさせるため永平寺に赴くが、留守の間に夫二宮源内は若い女を迎え入れ、御匣母子を追い出してしまう。御匣は子を寺に預けた後行方知れずとなる。やがて成長した息子は京に上り、稲荷山で霊夢を見て母の居場所を知る。母御匣もまた京にいたのである。説明がないが、上記は母子再会時の歌か。物語は二宮が後悔することでハッピーエンドとなっている。
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057 ひとすぢに思ひ切りてや黒髪のかゝる乱れの世をばうらみむ
(元ひめ)
元ひめも武家の妻で、夫の討死を知って自害している。夫の出陣後にすぐ髪を切ったのは死の覚悟を示すためだったらしい。動乱の南北朝時代、夫の後追いをする妻は多かったのだろうか。
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058 沈むともおなじく越えむ待てしばし くるしき海のゆめのうき橋
(山名氏清妻)
元ひめと同じ山名氏の妻。氏清(1344-1391)は明徳の乱で戦死している。氏清の妻は息子が父とともに討死しなかったことを責めたと伝えられる。将軍義満に内紛をつけ込まれた山名氏はこの敗戦で弱体化し、再生はならなかった。挿絵は刀を握りしめた勇壮な婦人だが。
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059 淺ましの身をば立野に捨てられて 寢亂れ髪の櫛のつらさよ
(守尾)
芦名盛隆に敗れた立野弥兵衛の妻。天正8年(1580)7月、安積高倉城を攻め落とされた立野は忠誠の印として妻を人質に出すものの、間もなく叛逆をくわだて発覚。芦名は守尾を串刺しの刑に処するため引き出したが、守尾少しも恐れず、平然と歌を詠んで死に臨んだという。
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060 これとても仮初ならぬ 別れてはかたみとも見よ水くきの跡
(一休禪師の母)
一休禅師の母が遺書に添えた歌。本書は禅師の母を後小松院の女房だったとしている。南朝方の刺客として送り込まれたが院の胤を宿し、誕生の後は出家にせよとの命に従って千菊丸(一休の幼名)を出家させたという。遺書は女の手になるものとは思いにくいが、男勝りの女房だったと解釈されているらしい。