はしきやし

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藤原俊成≪七≫

2014-01-18 | 久安百首

久安百首◆藤原俊成≪七≫

061 しのぶよりやがて心ぞうつりぬる 恋は色なるものにぞありける

  忍ぶ恋もやがてその思いは変わって行った
  恋は浮気なものなのだったよ

《続千載和歌集》恋歌には初句「思ふより」として載る。「色」は浮気である、好色であるという意味合いで、すでに心はほかの相手に移っているのである。

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062 散らば散れいはせの森のこがらしに 伝へやせまし思ふ言の葉

《新勅撰和歌集》恋歌。岩瀬の森は奈良斑鳩にある歌枕。紅葉の名所であり呼子鳥が棲むともいうので、「言はせ」に掛けただけでなく「呼ぶ」を暗示しているかもしれない。

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063 年ふれど人のこゝろはつれなくて 涙はいろのかはりぬるかな

《新千載和歌集》恋歌に所収。第四句は「涙の色の」となっている。悲嘆にくれて涙が紅(=血の色)に変わったことを指す。

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064 あぢきなや思へばつらき契かな 恋はこの世に燃ゆるのみかは

  情けないものだ 思えばつらい定めだった
  恋の炎はこの世でだけ燃えるものではないのだから

現世での恋の成就をあきらめ、あの世での「燃ゆる」恋を想定している。「契」はこの場合、約束というより宿命だろう。

  あぢきなや人の憂き名をたてしゆゑ 我が思ひをばなきになしつる
  (風雅和歌集 恋 後伏見院御歌)

  まよふべきのちの憂き身を思ふにも つらき契はこの世のみかは
  (続千載和歌集 恋 後京極院)

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065 恋しともいはゞおろかになりぬべし 心を見する言の葉もがな

  恋しいなどと言えばむしろ言い足りないことになるだろう
  これほどの思いを示す言葉はないものだろうか

《続古今和歌集》恋歌。「おろか」は不充分なこと、言い足りないこと。
《玉葉和歌集》にはこの歌の返歌とされる詠み人知らずの歌が載る。

  恋してふ偽りいかにつらからん 心を見する言の葉ならば

  (玉葉和歌集 恋 よみ人知らず)

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066 深くしも思はぬほどの思ひだに けぶりのそことなるなるものを

深く思っていない恋でさえ煙の立つもととなるというではないか。ましてこれほどの思いが煙を立てないはずがない。「思ひ」の「火」から煙を導くのは常套。俊成女にも次の一首がある。

  下もえに思ひ消えなむ煙だに あとなき雲のはてぞ悲しき

  (新古今和歌集 恋 皇太后宮大夫俊成女)

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067 頼めずはなか/\よにもながらへて 久しくものは思はざらまし

《続古今和歌集》恋歌所収。あてにならない恋のゆくえ。

  はじめより長く言ひつゝ頼めずは かゝる思ひにあはましものか
  (万葉集巻第四 坂上郎女)

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068 奥山の伊波柿沼のうきぬなは 深き恋路に何みだれけむ

《千載和歌集》恋歌。岩垣沼に浮くぬなわ(沼縄=蓴菜)。恋路は「小泥」との掛詞。

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069 ひとごゝろ浮田の杜に引く注連の かくてやゝがて止まむとすらむ

平安時代の歌枕「浮田の杜」は京都与杼(よど)神社の大荒木の森。しかし「注連」の語があるので下記の万葉歌が本歌かもしれず、奈良の荒木神社とも考えられる。

  かくしてやなほやなりなむ 大荒木の浮田の杜の標にあらなくに
  (万葉集巻第十一 2839)

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070 涙川袖のみわたにわきかへり やる方もなきものをこそ思へ

《新勅撰和歌集》恋歌では四句「ゆくかたもなき」とする。みわた(水曲)に沸き返るとは感情が高ぶって乱れるさま。川の水がくねりたぎるようすに重ね合わせているが、通常は流れの淀んでいる湾曲部内側を言う。俊成は外側の急流を想起しているのだろう。

  山川のみわたに淀むうたかたの 泡にむすべる薄氷かな
  (玉葉和歌集 冬 前大納言為家)

久安百首目次


ありのすさび

2013-10-28 | 蕪村逍遥

 巨匠の手すさびなら見てみたい気もするが、通常手すさび、筆のすさびの「すさび」はもてあそび、あるいは気まぐれを指す。真剣さがなく、値打ちのあるものとはみなされない。《徒然草》に「笛をえならず吹きすさびたる」(第四十四段)などとあるのも、楽しんでいるだけで本気ではない状態を指している。

 ○たけのこや稚き時の繪のすさび
 (芭蕉 猿蓑・夏)

 幼いころに戯れに絵を描いたというのだろう。《雅言集覧》には宣長の解釈として、「すさび」はなぐさみわざをすることとある。しかし蕪村の句には少々異なる「すさび」が出てくる。

 ○袷着て身は世にありのすさび哉
 (蕪村遺稿)

 更衣。綿入れから軽くて薄い袷に着替え、さっぱりと身軽になったところで、その気分を蕪村は「ありのすさび」と呼んでいる。

 現代の辞書で「ありのすさび」を調べてみると、現状に慣れてそれを何とも思わないこと、生きているのを当然と思ってなおざりに暮らすこと、などと書いてある。なかには怠惰な生活をすることという解説も。

 そして各書が引用しているのが《古今和歌六帖》の次の歌。

  あるときはありのすさびに語らはで 戀しきものと別れてぞ知る
  (古今和歌六帖 巻第五 雜思・物がたり)

一般的通釈は、生きていたときはそれを当然と思い、語り合うこともなかったということだろう。死に別れてはじめて恋しいと知ったというのだ。
 蕪村がこの歌を念頭においていたとすると、「身は世にあり」は友人なり伴侶なりに先立たれた身を指しているとも考えられる。先立たれて知った恋しさをあるがままに受け入れ、衣替えしたような気分でいようではないかと。

 しかしこの句は《六帖》の歌とは無関係かもしれない。蕪村は気負いなく、あくせくせず、あるに任せて生きることをよしとしており、それを「ありのすさび」と称して戯れてみせたのではないか。俗な欲得には関わらず、気ままに遊び暮らしているのさと。

 ところで、辞書類が申し合わせたように《六帖》から引用しているのは《雅言集覧》の影響、というより引き写し。ほとんどの辞書がみずから用例を探そうとせず、江戸時代の書(明治20年に増補されているが)に頼っているらしい。それだけ《雅言集覧》の存在が大きいとも言えるが、たとえば源俊頼にこういう歌がある。

  さもとだに無げの情にいつしかな在りのすさびのほどとやは見る
  (散木奇歌集 巻第八 恋)

「なげのなさけ」はうわべだけの情け。やはりそうだったのね。見せかけの愛情だったことに、時が経った今、なおざりな扱いの程度を見て気がついたわ。
 面白いと思うが、やはり《六帖》のほうが説明がしやすいか。《集覧》の選択は適切だったのかもしれない。

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蕪村逍遥録


Coltrane

2013-06-07 | Cool Jazz

Coltrane ジョン・コルトレーンの初リーダー作『コルトレーン』が吹き込まれたのは1957年5月31日。時にコルトレーン30歳と8ヶ月、リーダーとしてはあまりにも遅いデビューだった。ジャズ・ミュージシャンとしてはマイルズのオリジナル・クインテット加入以前から数々のセッションに参加していた。しかしマイルズの下で一皮むけたコルトレーンはソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、タッド・ダメロン、マル・ウォルドロン、テディ・チャールズ、そしてセロニアス・モンクといった俊英、鬼才に出会うチャンスに恵まれた。短期間に驚くほど多くのセッションに参加したかれは、サックスの腕前とともにジャズ・センスにも磨きをかけたと思われる。
 当アルバムでは自作曲を2曲披露し、アレンジにも挑戦している。サヒブ・シハブのバリトンが重要な役割を果たしているのは、リーダーなしセッション『ダカール』でバリトン二人とフロントを組んだ経験が生かされているのかもしれない。

 セクステット編成で前半3曲のピアノはレッド・ガーランド、後半3曲はマル・ウォルドロン。ガーランドと組んだワンホーンの『コートにすみれを』なんぞはマイルズの抜けたオリジナル・クインテットみたいだが、ウォルドロンとのセッションは(暗い、重いという評も一部にあるものの)進んだ連中の音楽だと思える。

John Coltrane: Coltrane
01. Bakai
02. Violet for your furs
03. Time was
04. Straight street
05. While my lady sleeps
06. Chronic blues

Johnnie Splawn, trumpet/ John Coltrane, tenor saxophone
Sahib Shihab, baritone saxophone/ Red Garland or Mal Waldron, piano
Paul Chambers, bass/ Albert Heath, drums
-Recorded 1957.05.31
Prestige 7105

Cool Jazz Index


珠玉の落穂拾い

2013-04-06 | Cool Jazz

Dolphy08 Eric Dolphy: Here and There
Eric Dolphy, flute & bass clarinet
Booker Little or Freddie Hubbard, trumpet
Mal Waldron or Jaki Byard, piano
Roy Haynes, drums and others
-Recorded 1960 or 1961
OJCCD-673-2 (Prestige Records P-7382)

 ドルフィの没後、1966年にリリースされたいわゆる落穂拾いアルバム。しかしこれはただの残り物ではなかった。既出アルバムに劣らない出来映えである。録音順に見ていくと、3曲目の“April Fool”と次の“G.W.”はドルフィの初リーダーアルバム“Outward Bound”と同日のセッション。録音日が4月1日だったので『エイプリルフール』という、なんともテキトーな命名。フレディ・ハバード抜きのクァルテットでわずか4分で終わってしまう。“G.W.”のほうは別テイクである。テイク2ほど聴きなれていないせいか新鮮に感じられる。

 “Status Seeking”と“God Bless the Child”はあの『ファイヴ・スポット』から。前者はマル・ウォルドロンのアルバムで録音したばかりだったので省かれたと思われる。とはいえウォルドロン盤とは顔ぶれが異なり、ライヴということもあって白熱の演奏が展開されている。演奏時間13分。ソロが長く、聴き応えはこちらの方が上かもしれない。後者はバス・クラリネットの無伴奏ソロ。フレージングに『イン・ヨーロッパ』に似たところがあるのは時期が近いからだろう。
 そのヨーロッパ録音の残り物が“Don't Blame Me”なわけだが、これが11分を超える長尺で、ドルフィ・ワールドを存分に味わえる。ヨーロピアン・リズムセクションも快調。

1. Status Seeking
2. God Bless the Child
3. April Fool
4. G.W. (take 1)
5. Don't Blame Me (take 2)

 

Cool Jazz Index


藤原俊成≪六≫

2013-03-01 | 久安百首

久安百首◆藤原俊成≪六≫

051 いつしかと冬のしるしに 立田川紅葉とぢませ薄氷せり

  いつの間にか 冬が来たのを示すように
  竜田川は紅葉を終わらせて薄氷が張っている

《玉葉和歌集》冬歌。正保本は四句「とぢます」とする。別本は二句「冬のけしきに」。「とぢむ」は終わることを指し、薄氷が張って紅葉の季節が過ぎたことを示す。

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052 まばらなる真木の板屋に音はして 漏らぬ時雨は木の葉なりけり

隙間ばかりの板屋根の小屋に、時雨の音はするものの雨漏りもしないのは、木の葉が降っているからだったと。《千載和歌集》冬歌。詞書「崇徳院に百首の歌奉りける時落葉の歌とてよめる」とある。正保本は四句「もらぬ時雨や」五句「木の葉なるらむ」とする。

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053 風さやぐ小夜の寝覚の寂しさに はだれ霜ふり鶴さはに鳴く

  風の音が聞こえる夜に目を覚まし 寂しく思っていると
  霜がまばらに降り 鶴が沢に鳴いて いっそう寂しさをかきたてる

《玉葉和歌集》雑歌。詞書には「正治百首」とある。正治本三句「さびしきに」。「はだれ」は「斑」で「はだれ霜」「はだれ雪」などの成語があった。万葉歌などでは単に「はだれ」といえば斑雪を指したようである。

  風寒みはだれ霜ふる秋の夜は山下とよみ鹿ぞ鳴くなる
  (風雅和歌集 秋 基俊)

  はだれ雪降るかとみれば 九重に散りかさなれる花にぞありける

  (頼政集 春)

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054 月清み千鳥なくなり 沖つ風ふけひの浦の明けがたの空

《新勅撰和歌集》冬歌。吹飯の浦は歌枕、現在の深日(ふけ)の海岸(大阪)とされる。「吹く」「更ける」に掛けて使われることが多く、下の歌でも序詞の一部になっている。

  和歌所歌合に海辺秋月といへる心をよみ侍ける
  おきつ風ふけゐの浦による波の よるとも見えず秋の夜の月
  (新勅撰和歌集 秋 小侍従)

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055 月冴ゆる氷のうへに霰降り 心砕くるたまがはの里

《千載和歌集》冬歌。玉川の里は歌枕、大阪の三島の玉川と思われる。作者は氷に映る月を見ていたのか、空の月を見ていたのか。氷・霰・碎く・玉と縁語つながりの一首。

  正子内親王のゑあはせし侍けるにかねのさうしにかき侍ける
  見わたせば波のしがらみかけてけり うの花さける玉川の里
  (後拾遺和歌集 夏 相模)

□□夏歌中に
  卯の花の浪のしがらみかけそへて 名にもこえたる玉川の里
  (続後撰和歌集 夏 皇太后宮大夫俊成)

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056 空にみつ愁への雲のかさなりて 冬の雪とも積りぬるかな

  空に広がる嘆きの雲が重なっていき
  冬の雪となって降り積もったのだろう

《夫木抄》は五句「積るなりけり」とする。愁いの雲が雪となるというのはめずらしい発想と思うが、勅撰には採られていない。息子に下記の一首がある。

  うき世にはうれへの雲の繁ければ 人の心に月ぞ隠るゝ
  (夫木抄 雑 藤原定家)

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057 雪降れば道絶えにけり吉野山 花をば人の尋ねしものを

《玉葉和歌集》冬歌。吉野山は歌枕、桜の名所。標高350メートルほどの低い山だが、道が埋もれるほどには積雪するらしい。王朝人には馴染みの、神聖な山でもあった。

  花のうたとてよみ侍ける
  吉野山こぞのしをりの道かへて まだ見ぬかたの花を尋ねむ
  (新古今和歌集 春 西行法師)

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058 冬の夜の雪と月とを見るほどに 花のときさくおもかげぞ立つ

「ときさく」は《万葉集》などに用例があり、解き放つ意。雪と月を見て花の姿を想うというのは「雪月花」をイメージしているわけだが、説明的に見える。

  雪としも紛ひもはてず卯の花は暮るれば月の影かとも見ゆ
  (金葉和歌集 夏 江侍従)

  杜鵑かけつゝ君が待つ陰に紐解き放くる月ちかづきぬ

  (万葉集 巻二十 4464 大伴家持)

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059 小野山や焼くすみがまに樵りうづむ 爪木とゝもに積る年かな

《続古今和歌集》冬歌。爪木(つまぎ)は薪にする小枝。この場合の「積る年」は年齢というより月日で、年の瀬を指している。冬の間の作業に備え、積み上げた爪木の山がいつもより大きいのである。

  爪木こる遠山人はかへるなり 里までをくれ秋の三日月
  (玉葉和歌集 秋 順徳院御製)

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060 ゆく年を惜しめば身にはとまるかと 思ひいれてや今日を過ぎまし

《続拾遺和歌集》冬歌。大晦日の感慨。

  老ぬとも又もあはむと 行く年に涙の玉をたむけつるかな
  (新古今和歌集 雑 皇太后宮大夫俊成)


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