はしきやし

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天地一枚あけの春

2013-02-03 | 俳諧畸人録

俳諧畸人録◇活井旧室《壱》

 活井旧室は江戸の人 梅翁の風を慕ひ俳諧に鍛錬なり
 あるひは聒々坊ともいへり 身の丈大にして人のぞんでこれを懼る
 世に天狗坊と称せらる その性つねに酒を好む

 一日酔興してある撃剣家(けんじゅつつかひ)の軒に立寄りけるが
  面白き事に思ひ その道場へよろめき入りて 師と試合んことをのぞむ
  師もその容貌のたくましきを感じ まづ高弟と立合はしむ
  室なんの苦もなく打ちすゑられ たちまちしなへ投出して

  ○夕立にうたれて肥る田面かな

 皆これを見て見掛倒しなる坊なりと口を揃へて笑ひしかど
 またその風流あるを羨みしとかや

 節分の夜外より帰るさ ある酒店によりて酒いだせよと呼ばはれども
 豆囃のいとなみ多用なりしにや はなはだ不あしらいなり
 室怒りながらその家を出て

  ○這入ても喰物はなし鬼は外

 ある年の三朝に

  ○日本紀や天地一枚あけの春

 また孔子の賛

  ○豊年をしれとかかしののたまはく

 釈迦の賛

  ○蓮の実のとんだ事いふ親父かな

 その気象大卒この類なり

 (俳家奇人談)

 梅翁=西山宗因(1605-1682)の別号。
 しなへ=しなひ(竹刀)の誤りだろう。
 田面=たづら。田のおもて。田のほとり。
   《耳嚢》は同一エピソードに異なる句を載せる。
 豆囃=豆囃子。節分のはやし声「鬼は外」。
 三朝=さんちょう。元旦。一年一月一日の朝を意味する。
   日本紀の天地開闢は紙一枚に書かれていると。
 かかし=案山子が総髪(=孔子頭)だったことを指すか。

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 活井旧室(元禄6年-明和元年:1693-1764)は笠家氏。初号は鰐糞、別号に活々坊、天狗坊、岳雨などがある。宗因の談林派を再興しようとしたらしい。江戸で点者として活動と他書にあるが、師弟関係などの経歴は不詳。

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三千風句選

2013-02-01 | 俳諧畸人録

俳諧畸人録◇大淀三千風《参》

三千風句選

 ○行纏冥加あり長髄彦の神の春
 ○菫獨り立ちとまりつれ西行塚
 ○山遠く白鷺曇るさくらかな
 ○西行櫻木蔭の闇に笠捨たり
 ○祗園凉み床賃はたる烏かな

一句。行纏は脛巾で、読みも同じ。古くは布でなく藁を巻いたこともあったらしい。長髄彦は《古事記》に出る登美能那賀須泥毘古。脛に巻く行纏からの連想と思うが、実際に大和を旅していたとも考えられる。春の訪れた大和の山々を歩きながら、神武の東征軍と闘った往古の人物に思いを馳せたのだろう。冥加と言い神と言っているので長髄彦を祀る神社かとも思ったが、朝敵だったからあり得ないのかも。

二句。中山道を旅して西行塚に立ち寄ったと思われる。時期は芭蕉より先である。塚の前に一輪のすみれが咲いて、三千風とともに漂泊の歌人を偲んでいる。

三句。遠景である。春霞に白鷺がおぼろに見え、山の桜もかすんでいる。遠い桜を霞と見るのは和歌の常套だった。

四句。捨てられた笠の持ち主は何処に。「木蔭の闇」が桜の木の下に眠っている西行を髣髴させる凄み。

五句。川床の夕涼みは京の夏の風物詩。烏が床賃を払えとはたる(催促する)のが玉に瑕だと。風流に浸りきれないところが俳諧らしい面白味。


 ○凉ふくや鹽尻おろし蜑ころも
 ○凉風に常冬見するしら根かな
 ○行く螢一樹に尻をすへさせよ
 ○墓原や心もしらず飛ぶ螢
 ○白雨や臥龍の鼾曾禰の松

一句。塩尻の地名は塩の道の終着点を意味するという。塩尻からの颪はどちらに吹くのだろう。塩尻峠を越えて諏訪盆地に吹き降ろすなら、蜑は諏訪湖の蜑である。

二句。涼しい風が吹いてくるのは常冬の国からか。見上げれば白根山は今日も雪を頂いている。

三句。言われてみればほたるは落ち着きのない虫である。子どもが喜んで追い回すのも尻の座らぬ虫だから。

四句。墓原は墓地。「あくがれいづる魂かとぞ見る」と和泉式部に詠われたほたるだが、故人を偲ぶ人の心も知らぬげに飛び回っているではないかと。

五句。松を濡らす白雨(ゆふだち)は雷鳴をともなっていた。雷鳴は龍のいびきであり、臥龍は左遷された菅原道真を指している。播州高砂の曽根天満宮には道真手植えの「曽根の松」があったと伝える。三千風の頃にはまだ枯死していなかったらしい。


 ○五月雨や廿日京見ぬ比叡の山
 ○松崎や夏を咲せる木間富士
 ○妻良子浦やひよくの浮巣鴨の船
 ○伯耆富士松江の夏に蓋すなり
 ○しのぶずりのはしに序や杜若

一句。長雨を京でなく比叡から見た。比叡が見えぬより京が見えぬほうがはるかに寂しさが勝る。俗世との隔たりも実感できただろう。

二句。三千風は伊豆も訪れていたか。木の間から富士を望むその左手には夏の日にきらめく駿河湾が広がっていたはず。

三句。妻良子浦は松崎より石廊崎に近い。妻良と小浦、いずれかの浜に水鳥の浮巣を見て、地名から比翼の鳥を連想したと思われる。

四句。松江の夏を涼しくしているのは大山(伯耆富士)が蓋をしているから。飯櫃には夏の間だけ使用する竹で編んだ蓋があった。大山も夏用の蓋であると。

五句。芭蕉は《おくのほそ道》にしのぶずりの石を見たと書いている。名所と呼ぶにはおそまつなものだったといい、三千風もその傍らに咲く杜若のほうがましだと言いたかったのでは。


 ○實櫻や淋しさ凝りて須磨の浦
 ○島原や蒔繪の鷗縫の雁
 ○月今宵鯲かぞへつあくた川
 ○飾磨川水魚のもみぢしがらめり
 ○恨み顏や雪引きかづき松黙す

一句。実桜は桜桃、夏の季語。須磨の浦は行平が「藻塩垂れつゝ」と詠ったところであり、源氏の蟄居した地でもあった。

二句。遊郭島原の絢爛さ。縫(ぬひ)は刺繍を指す。傾城の衣装も家具調度も贅を凝らしてこの世の極楽(桃源郷)を演出していた。

三句。鯲は泥鰌(どぢゃう)。芥川は明神岳から南下して淀川に注ぐ。歌枕。月の光に泥鰌が数えられるほどに澄んでいたらしい。和歌のほか狂言や常磐津(芥川紅葉柵)にも出るので、三千風は月下の芥川で感慨にふけっていたのである。

四句。こちらは播州飾磨。水魚はこの場合淡水魚を指すか。簗にかかった魚を紅葉に見立てたとも考えられるが、川と紅葉が水魚の交わりと呼ぶほどに親しいというのかもしれない。

 わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が戀ひ止まめ
 (萬葉集卷第十五 讀人不知)

五句。雪を頭から引きかぶり、松は恨めしそうに黙っている。春の遠いことをうかがわせる。

○発句は大正元年刊《聽雨窓俳話》(博文館)による



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昔ありける女かほ

2013-01-08 | 俳諧畸人録

俳諧畸人録◇白井鳥酔《参》

春の句

 ○海近し朝日のもとは江戸の春
 ○初空やよろこぶ雲の置處
 ○天の際にちらはふ人や汐干狩
 ○雛棚や昔ありける女かほ
 ○凧しづ心なく暮て行

一句。大磯で詠んだか。朝日の昇るその下には江戸の繁華な正月。
二句。初空は元旦の空。初御空(はつみそら)とも。
三句。空と海の境い目にちらほら見える人の影。3月3日の磯遊び、
  大潮で潮の引いた沖の方まで行ってしまった人がいるのである。
  すべて朧ろな春ならではの夢幻。
四句。居並ぶ人形たちはどれも昔ふうの顔立ち。五段七段などの
  段飾りは近世に始まったとされるが、富裕な階層に限られた。
五句。日暮れがうらめしい凧(いかのぼり)。
  ○暮れかゝる空をかこつや いかのぼり  召波

 ○飛顏に分別見えぬ蛙哉
 ○青柳や裾にからまる鳰の聲
 ○面かげのかはらで落る椿哉
 ○醉事は天下晴れたり花の山
 ○苗代や夫婦の手して水加減

一句。曲翠に「思ふ事だまつてゐるか蟾蜍」の句があったが、
  それは動かぬ蛙。それに対し跳ぶ蛙は…。
二句。鳰は今では冬の季語。実際は一年中見られる水鳥である。
  春の色を見せる柳にキリキリリとその鳴き声がからみつく。
三句。美しいまま、まるごと落ちる椿は仲春の訪れを告げる。
  ○赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐
四句。気兼ねなく酔える山の花見。
五句。苗代に注ぐ水を調節する夫婦。余念のないさまが浮かぶ。
  ○苗代や嫁は五月があたり月 存義


夏の句

 ○蜷のすむ數さへ見ゆる清水哉
 ○客僧を上座に泣かす蚊遣哉
 ○短夜や月も骨折る山の數
 ○四阿の闇をめぐるや鳴水鶏
 ○小原女を待戀にして五月雨

一句。川蜷(かわにな)はきれいな水にしか棲まない。
二句。運悪くその日の上座は風下に。
三句。山が多くて間に合わぬ。鳥酔、この歌が念頭にあったか。
  夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月やどるらむ
  (古今和歌集 夏 清原深養父)
四句。水鶏の鳴き声は古来戸を叩く音とされていた。その声が
  戸を持たぬ四阿のあたりに聞こえたのである。
五句。五月雨を避ける物売り女、雨が上がるのを待ち焦がれて。

 ○夕立に思ひきつたる野中哉
 ○風は皆蝉に吸はれて一木哉
 ○蝙蝠や闇に生るゝ羽の色
 ○閑古鳥舟は向ふの岸にあり
 ○蓮咲ていやしき水はなかりけり

一句。逃れるべくもない野中の驟雨。ままよと覚悟の上ならば。
二句。動かぬ夏木立。「蝉に吸われて」は鳥酔の創意。
三句。闇夜を飛ぶ蝙蝠が黒いわけ。闇に生まれて闇に死ぬかと。
四句。向こう岸の舟も動く気配なく。
五句。極楽浄土の花。水も尊く思われるのは信心か清浄への憧れか。


秋の句

 ○名月や又あふ顏もよひの人
 ○夕虹を目のはてにして花野哉
 ○遊ぶ日も持たで老行く案山子哉
 ○蜻蛉や身をも焦さず啼もせず
 ○行秋や松にもたるゝ一つ家

一句。宵に出会った人に再び。誰しも帰りあぐねる名月の夜。
二句。日没前に雨が上がると夕空に虹がかかる。それを
  はるか視界の果てに見ながら花野を行く。明日は晴れ。
三句。働きづめで古びた案山子。鳥酔、他人事でなかったか。
四句。光りもせず鳴きもしない蜻蛉よ。お前は何を思う。
五句。去りゆく秋は一軒家まで寂しげに見せるか。

 ○初雁や蘆火にそむく蜑が顏
 ○咲てから月日は遅し菊の花
 ○朝顏や悟れ/\と咲きかはり
 ○野となりて畠となりて鶉かな
 ○上風は餘所の事なり萩の風

一句。蘆火(=葦火)は乾燥させた葦を燃やす火。
  蜑(=海人)はそれに顔を背けているが、夕空には
  この秋初めての雁の群れが飛んでいく。
二句。長いこと咲きつづける菊は時間の感覚を狂わす。
三句。しかし朝顔は露の世を思い知れと。
四句。畑は荒れて野となり、野は拓かれて畑となり、時を経て
  人の営みは変転していく。それを間近に見ていたうずらは
  変わらぬ自然の象徴なのかもしれない。
五句。上風は草や低木の上を吹き渡る風。萩が親しいのは
  地表を吹き抜ける下風である。上風ほど激しくはない。
  世間を吹く風をよそのことと見て。

冬の句

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三千風行脚の掟

2013-01-07 | 俳諧畸人録

俳諧畸人録◇大淀三千風《弐》

  〈行脚の掟〉

一、不惜身命の境界、無常迅速、夢幻泡影忘るまじき事。
一、色欲、身欲、名聞欲を放るべき事。
一、山賊追剥にあはゞ裸にて渡すべき事、若し殺害に及ばゞ
  首を延べて待つべし、死して敵を取るまじく、
  附四寸の小刀の外持つまじき事。
一、衣食居は天道にまかすべき事、船賃木賃茶代少しも直ぎるまじき事。
一、文筆所望なきに書くまじき事、一足も馬駕に乘るまじき事、
  若し病死せば日記と此箇條を古鄕へ届けたまふべし。

  死して後かばねの事は人まかせ


 《座右之銘》(明治38年)と《近世高僧逸話》(大正4年)の二書を参照したが異同が少なくない。どちらも誤植(および転記ミス?)が多い本なので意味が通らず、推測によって書き直したのが上記。《逸話》は三千風がこの誓語を首にかけて行脚したと記すが、それも単なる想像かもしれない。

 不惜身命は本来法華経の言葉であり、仏道を修めるために身命を惜しまぬことをいう。境界は仏教語「きょうがい」で、境涯、境遇に同じ。不惜身命の覚悟によって得られる己の世界(可能性とその限界)を知れということか。無常迅速は世の中の移り変わりが早いこと。夢幻泡影(むげんほうよう)は金剛般若経にあり、夢や幻、泡や影のように実体がないことを指す。「影」を「よう」と読むのは呉音。
 天道(てんたう)は天帝の謂だがここではおてんとさまであり、あるがままに任せよというのだろう。文筆所望なきに云々は芭蕉の「行脚の掟」を思い起こさせる。同世代なのでどちらが先かは決めかねるが、三千風が諸国放浪の旅に出たとされる天和元年(1681年)、芭蕉は江戸に芭蕉庵を営みはじめたばかりで《甲子吟行(野ざらし紀行)》の旅に出たのは貞享元年(1684年)のことだった。


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なきものを何よぶこどり

2013-01-06 | 俳諧畸人録

俳諧畸人録◇大淀三千風《壱》

 大淀氏は伊勢の人 一名部字友翰(ぶじゆうかん)
 十五歳にして俳諧を善くす
 性敏にして師をとらず 身みづから独立すといふ
 三十一の時釈門に入りて呑空と名(なづ)く
 延宝中一日に独吟三千句を吐く 自称して三千風といふ
 寓言堂また無不非軒と号す

  ○このいほり京へしらすな杜鵑
  ○花に来よと笠叩かるゝ一葉かな

 四方に行脚して奥の仙台に留まること十五年
 ふたゝび故郷へ立帰り また出でて相州大磯の沢辺に移り住す
 この子生得名利の心ふかく
 三都の遊女に勧進してその地に西行庵を建て
 かたはらに祐成が妾虎女の小像を安置し
 鴫立沢を唱へて古法師の遺跡とす
 これは去年ある卿の 鴫立沢の昔と
 名所に読みなし給へる科により勅勘を蒙りしを
 をのれ知りながら取立つるは道を思ふの狡猾(いたづら)なるべしや
 その時の口号(くちずさみ)

  ○一声や犬西行にほとゝぎす

 これより犬西行と人の呼びけるとなり
 同所に碑を建てて東往居士と自称せり
 その行脚の首途(かどで)は四月四日なり
 この句をもつて命期となすべしとの遺言なり 辞世

  ○今日ぞはや見ぬ世の旅の衣がへ

 (俳家奇人談)


 大淀三千風(寛永16年-宝永4年:1639-1707)は本姓三井、名を友翰といい、伊勢射和の生まれ。寛文9年(1669年)より仙台に住み、矢数俳諧で独吟2800句を達成する。これに200句を加えて《仙台大矢数》と名づけたものが西鶴によって刊行されている。多くの門弟の中には《おくのほそ道》に言及されている加右衛門も含まれる。天和1年(1681年)から7年ほどかけて全国を行脚し、元禄8年(1695年)大磯鴫立沢の庵に入る。師をとらなかったというが作風は談林系統であり、地方在住が長いこともあって終生主流となることはなかった。旅装束が多かったと思われる三千風、辞世の句はそれが死装束に替わることへの感慨なのだろう。

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 心なき身にもあはれは知られけり しぎたつ澤の秋の夕ぐれ
 (新古今和歌集 秋 西行法師)

 《新古今集》に載る三夕の歌のひとつ。《山家集》の詞書には「秋ものへまかりける道にて」とあって、どこかへ向かう途次としかわからない。少なくとも旅の途中ではなさそうで、大磯をその地とする根拠はないと思われる。
 鴫立庵を建てたのは小田原の崇雪なる人物らしく、大磯町HPではそれを寛文4年(1664年)としている。「鴫立沢」と刻まれた標石が現存し、裏面に「著盡湘南清絶地」とあるため「湘南」の地名発祥の地とされる。三千風の西行庵というのは今に遺る「圓位堂」か。大磯の虎の木像を安置しているのは「法虎堂」と呼ばれる小祠である。

 三千風は西行と大磯を結びつける無理を承知で「圓位堂」を建て、名所を作るつもりだったらしい。(おそらく西行かぶれの)先人崇雪の遺庵を受け継いだ目的はそこにあったと思われるが、《奇人談》のいうように「生得名利の心」深かったかどうかはわからない。江戸や難波の中央俳壇に出ようとしなかったからである。

 鴫立庵には歴代庵主の句碑があり、第一世三千風の句は

  ○鴫たつてなきものを何よぶこどり

鴫が立って(西行が去って)しまった今、我ら呼子鳥は何を呼んでいるのかと。呼子鳥は郭公(かっこう)を指すとも時鳥(ほととぎす)を指すともいわれるが、ここでは鳥の種類は意味がない。


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