「PYH♡Friends」の皆さん、アンニョン(^_^)/
台風がまた近づいています。
皆さんの所は大丈夫ですか?
どうか大きな被害が出ない様に、、とただただ祈るばかりです。
さて、もう目にされた方も多いと思いますが、韓国雑誌「女性東亜(여성 동아)」<572号> の8月号に、ヨンハのお姉様ご夫婦のインタビュー記事が掲載されたそうです。
数日前に、「PYH♡Friends」メンバーのsachikoさんがお知らせして下さったのですが、なかなかUP出来なくて今日になってしまいました。
(sachikoさん、ごめんなさい)
ご遺族のインタビューは初めてとのこと。
ご家族がこうしてお話をされるのは、漸くほんの少し気持ちが落ち着いてこられたのかな・・・と思いました。
涙無くして読む事は出来ません(;_:)
PCの翻訳機では上手く日本語訳が出来ませんが、ヨンハファンのlilac☆Yさんという方が上手に訳した記事をブログにUPして下さってたそうです。
(sachikoさん、重ね重ねお知らせありがとうございます^^)
lilac☆Yさんの了解も得て下さっていますので、ここにコピペさせて頂きます。
lilac☆Yさん、ありがとうございました。
【あなたが懐かしいです】
追慕 1週期パク・ヨンハ遺族初インタビュー
”誠実で真実だった弟、ありがとうという言葉では足りないファンたちの愛”
<Part:1>
韓流スターパク・ヨンハがこの世を去ってから1年が過ぎた。
6月30日、彼の位牌が祀られている京畿道パジュ市薬泉寺で、彼の家族と日本ファン1700人が集まって、一周忌追悼行事を行った。
今では彼に代わって、日本ファンたちと疎通しているパク・ヨンハの姉パク・ヘヨンさんと姉の夫キム・ジェヒョン氏に会い、生前パク・ヨンハの真率な姿、故人への懐かしさを聞いた。
この日もやはり雨が降った。重要な行事があるたびに雨が降って”レインマン”というニックネームがついたパク・ヨンハの追慕一周忌の日、早朝から空は暗雲に満ちて行事が始まると太い雨脚が相次いだ。
6月30日、京畿道パジュ市薬泉寺で開かれた追悼式には、前日に飛行機で日本から飛んできた1700人のファンたちで、足の踏み場がなかった。
しかし、恐れていたのとは異なりイベントは静かで厳粛な雰囲気の中で一瀉千里に進行された。
ファンは1時間近く並んで順番に遺影写真を見て献花した。
車椅子に乗った70代のお年寄りも、日本人男性の助けを借りて困難な階段を上がって、故人の顔と向き合った。
それまで悲しみを抑えていたファンは、写真の中のパク・ヨンハの明るい姿を見てついに愛惜の心で涙を流した。
これらは午後になると、故人の遺骨が安置された京畿道盆唐のメモリアルパークに再び集まって故人を追憶した。
早朝から追慕祭の準備に奔走したパク・ヨンハの家族は、盆唐納骨堂にも姿を現した。これらが最初に訪れたのは父親の墓地。
故人が去ってから4ヶ月で胃がんで亡くなった父を、息子と同じ空間に祀った。
パク・ヨンハの母と姉夫妻は、心を込めて黙祷と献花をしたあと、故人を忘れることなく遠くまで訪ねてくれたファンに感謝の挨拶をして席を外した。
そして半月後、パク・ヨンハの姉パク・ヘヨンさんと夫のキム・ジェヒョン氏が長くためらったあとに、本誌のインタビューに応じた。
*追悼一周忌 日本ファン1700人殺到
現在、パク・ヘヨンさんは2007年パク・ヨンハが自分の名前をとって設立した”ヨナエンターテイメント”を続けている。
他に事業を運営している夫キム・ジェヒョン氏も、妻を助けるためヨナエンターテイメントの実務を担当している。
今回の追悼式もこれらを中心に準備が進行されたが、行事を終え母を含め家族全員が疲れが出たという。虚しさも押し寄せた。
”追悼式を準備しながら、頻繁に薬泉寺とメモリアルパークを行き来してそのたびに心は複雑でした。特に墓地の周辺にパっと広がってる花を見るともっと悲しくて腹も立って・・・涙もたくさん流して。 それでも今回の仕事しながら、多くの人々に助けを借りて感謝の気持ちをどのように表現するか分からない。私たち家族で準備した場合、不可能なことでした”
追悼式は準備段階からヨナエンターテイメントとパク・ヨンハが生前活動していた日本側のマネージメント社アップフロントの協力で行われた。
遺族達は今年の初めから一周忌を置いて悩んでいたところ、今年3月、日本に地震が起こると暫定的に保留することを決定したが、日本のファンが追悼式に参加したいという意思を積極的に明らかにして、追慕祭を準備することになった。
日本は我が国とは異なり、ファンクラブを専門に管理する会社があり、ファンの意見収斂が早く、行事を進行する過程でも体系的なシステムが構築されているとキム・ジェヒョン氏は言う。
実際に追悼式を控えて日本の関係者が4回にわたって韓国で実地調査をしてきた。
一山(イルサン)と盆唐を回って、移動経緯と時間、さらに観光バスの駐車場まで徹底的に確認した。
このような緻密さのおかげで、追悼式当日2000人近い人数が集まったにもかかわらず、何も事故無く無事に終えることができた。
韓国での準備過程も侮れなかった。行事の概要を組むことからファンに配るレインコートと帽子を用意するなど、僅かなことでも逃さないよう努めた。
”頭皮が赤くなるほど神経を使ったが、それでも逃したのがあるんですよ。
追慕祭数日前に母が薬泉寺にタオル2千個送るとされるんです。もし雨が降れば雨水を拭くタオルが必要で、準備されましたよ。実際、その日に便利良く使いました。
今回の行事を準備しながら、多く驚きました。多分誰もが心が一つになって、ヨンハのために尽くすのか、日本側関係者は勿論、薬泉寺住職様も特に私たちのために節庭を開放して下さいました。メモリアルパーク側でも観光バスが複数台上がってくることに備えて、道まで新しく提供して下さったのです。 感謝して さらに感謝するだけです。”
パク・ヨンハが去ってから1年、その間家族はどのように過ごしたのだろうか。
両親は息子を送ったあと、直ぐ姉の家に居を移したあと、父が亡くなると家族達はもう一度悲しみに沈んだ。
全てが嵐のようにいっぺんに、心は揺れる船の様な混乱だった。ある程度安定を取り戻したいながらも、いきなり押し寄せる懐かしさに、心の片隅がいつもヒリヒリ傷んだ。
<Part:2>
*どうしても 顔見られなくてTVの電源を切る家族
”リビングルームの暖炉の上にヨンハの写真がいっぱいです。ファンが送って下さったのが殆どでしょう。一日に何度もヨンハの顔を覗きながら話もするのに、映像では到底見られないです。
以前にケーブルチャンネルでヨンハが出演した映画『作戦』を放映したんですよ。ヨンハの顔が大画面に出てくる瞬間、目を閉じてしまいました。胸が突然迫って精神がぼうっとしてしまう。
母も似たような経験をして、ヨンハが逝ったあと家族はTVを殆ど見ていません。それでも声が聴きたくて、ヨンハの歌は頻繁に耳を傾けます。車にもヨンハが日本で発表したアルバムがありました。”
子供を胸にうずめた母は、表面上は大丈夫のようでも、今日は大変で明日また大変だ。それでも、今まで息子を忘れずにいるファンたちを見て、多くの慰めを得ている。
家族は少なくとも週に一度、盆唐納骨堂に立ち寄るが、そのたびに墓地の前に座っている日本のファンたちに会ったと言う。
去年の冬には寒いところで震えているファンのために、母が大きなポットにコーヒーやゆず茶を入れて納骨堂に向かった。
”温かいお茶でおもてなししたいと言いました。日本がいくら近い国だと言っても今まで訪ねて下さるファンが居るというのが、本当に信じられないほど感謝しています。
たとえ言葉はよく通じなくても、墓地の前でヨンハを偲んでお互い抱きしめて泣きながら見ると、心は皆通じます。
ヨンハと関連した仕事があって日本に行けば、空港まで迎えに来て下さる方々もいらっしゃいます。その方たちが出ておられた場合、おそらく最後の1年がとても大変だったでしょう。”
ファンの追悼があとを絶たないために、墓地には1年を通して花やプレゼントでいっぱいだ。いくつかのファンは毎月の墓地に花を届け、またあるファンは定期的に家族に花を贈る、数が少なくても韓国ファンたちの誠意も日本のファンに劣らない。毎日のように盆唐の墓地を訪ねてきて、墓地の前に座るスペースを作るために、柔らかいビニールカーペットを敷いてるファンも居る。
パク・ヘヨンさんは”感謝の言葉では表現しにくい。まるで映画の中に居るような気がする時もある”と述べた。
夫キム・ジェヒョン氏も、日本のファンに接するたびにかれらが見せてくれる配慮と関心に驚きを隠すことができないという。
”実はヨンハが逝って、私は後のファンクラブを維持するのに意味があるのかと思いました。妻ともその部分について議論したが、日本は我々と情緒が違うんですよ。たとえスターは去って居ませんが、彼が生前残した痕跡を維持するのが使命だと考えているようです。
さらに驚くべきことは、ファンたちに会うと『ヨンハさんに会うことが出来なくて悲しい、大変です』と愚痴るのではなく過去7年間でヨンハが自分たちに抱かせてくれた喜びと幸せが大きくて、今では自分たちがヨンハにその愛を返してという話をします。
そのたびに胸がこみ上げて、家族として本当に感謝します。”
日本では過去1年間、パク・ヨンハを追悼する行事が数回開かれた。
昨年の18回の公演でとらえられていた”パク・ヨンハコンサートツアー2010STARS”が、パク・ヨンハ○亡で3回で止まった。
ファンの要請で昨年3月からパク・ヨンハの生前の活動の様子を編集して見る”フィルムコンサート”形式に変わって公演された。
日本の12地域を回りながら進行されたが、最後の公演は最も大きな地震の被害地域である仙台で開かれた。
最初は誰もが悲しみに沈んでいる状態で、公演を開くと言うのが道理ではないようで、キャンセルしようとしたが、むしろ仙台のファンたちがコンサートを行い、予定通りに進行してくれることを要請してきた。
結局、今年7月に25000人のファンが参加したフィルムコンサートは盛況のうちに終わった。
”ヨンハが去った時に悲しみに耐えるのも大変だったが、糸巻きのように絡み合っている多くの問題を、どのように解いていくか悩みでした。
さらに大規模なコンサートが進行中だったため、停止に起因する金銭的損害を避けることができませんでした。
ところが、日本側関係者たちは初めて会った時から、なんとか私たちを助けてくれる方向に話を導いてくれました。
少しでも被害を少なくしようとするのではなく、家族が安静をとることを優先としながら配慮したのです。ファンも殆どがチケットを払い戻しせず、会場を借りてくださった企業は、最低限の経費だけ受け取りました。
セッションでさえ、自分たちは演奏をしていないのでお金を受け取れないと言うんですよ。全く信じられない光景でした。”
日本側関係者たちは遠く去ったパク・ヨンハの代わりに、家族にスター級の扱いをしてくれる。会社側の招待で日本を訪問する時は、生前のパク・ヨンハが乗って通っていた飛行機の座席に、パク・ヨンハが泊まったホテルが喜んでくれる。パク・ヘヨンさんが”そんな必要がないと、いくら辞退しても効果がない。感謝の気持ちは全て言葉では表現できない”と述べた。
<Part:3>
*私たちの胸に永遠に 負けないスター
日本でパク・ヨンハはスター中のスターだった。韓国ではこの事実が大きくクローズアップされていないが、これまで日本で活動した面々を見ると彼の人気を十分に計ることができる。
パク・ヨンハは日本の衛星放送が主催する授賞式で、二度にわたり大賞を受けたが、受賞作の選定はファンの投票だけで行われた。
2008年にはパク・ヨンハの日常を公開した”ヨンハダイアリー”が大賞を受け、昨年11月にはアフリカのチャドで”ヨナスクール”を立ち上げて奉仕活動をする姿を描いたドキュメンタリー”パク・ヨンハ アフリカの旅”が再び大賞を獲得した。
この時は母親と一緒に家族が代理で参加して受賞した。
パク・ヘヨンさんは過去1年間の足跡を歩き、万感が交差したという。ファンの愛に感謝しているのは勿論のこと、誰にでも良い記憶で残っている弟も凄いという気がしたということだ。
彼女は”以前にもヨンハが私の弟だという事実が、誇らしく胸がいっぱいだったがヨンハが去ったあとに、その心が更に大きくなった”と語った。
”私が知ってるヨンハは自分がその席に上がったことに対して、いつも感謝している子供でした。
正直、ヨンハは最初からスターではありませんでした。
会社員のように着々と誠実に階段を上がり、その過程で多くの不満も味わった。
そうするうちに、ドラマ”冬のソナタ”で注目され始め、日本での活動もするようになりました。
そのため、ヨンハは自分自身があった機会に対して心より感謝し、家族にそのような話をよくしました。そうするほどもっと努力したんです。
ヨンハが去るまで、日本語を熱心に学んだのも同じ脈絡だと思う。一度は私達の家族が日本に居るヨンハの家に行ったことがあるが、ヨンハが『ごめんなさい、今日、日本語の先生が来ることになっているので、勉強が終わって少しだけど遊びに行こう』と言うんですよ。
ファンと直接コミュニケーションするには、言語の問題を解決しなければならないと考えたようです。塾で個人レッスンまで、本当に熱心に勉強しました。
結局、最後のコンサートの場面を見ると、通訳なしでファンたちに冗談を言うほど日本語を身につけたことを知ることができます。
歌の練習も熱心にしました。ヨンハが舞台の上で歌う姿を見るのが楽しみだったし・・・アルバムが出る度に実力がますます発展していくのを知ることができました。”
しかし、派手な外見の後ろに隠されている芸能人としての苦悩を、パク・ヨンハも感じたそうだ。これに対してパクさんは”芸能人として大変な点があった場合、おそらくもっと上手くやりたい心、自分自身をアップグレードしたい欲がなかっただろうか”と話した。
家族の目に写ったパク・ヨンハは、演技者として歌手としてまだ不足だという考えをしたという。
7年も日本でライヴ歌手として活動したが、韓国の放送で歌を歌うのを負担になって、まだ実力が足りない”という言葉をよくした。
また、ドラマ”オンエア”などで演技者としての認知度が上がったが、演技力が足りないと感じ、作品に入る前に必ず演技指導を受けたという。
しかし、そのような負担感が、彼が取り返しのつかない選択をした直接の理由ではない。姉夫妻は正確な原因については口を閉ざしていたが、パク・ヨンハは決して人気に執着せず、誰よりも気さくで率直だったと述べた。
今後、家族達はファンたちが必要な範囲内で、パク・ヨンハの業績を称えることを、ずっと継続するつもりだ。
当面は、来る9月、日本新宿と名古屋で開催される遺品の展示会がある。
キム・ジェヒョン氏は”先日、妻と一緒に他のアーティストの記念品の展示会を見てきたが、多くの人々が敬虔な気持ちで会場を見回していた。見方によれば故人がファンに与えることができる贈り物という気がして、展示を決心した。”と話した。
パク・ヘヨンさんはパク・ヨンハが誠実で真実だった、その姿でファンたちに記憶されると良いと言った。
いつの日か、その記憶さえもかすかに消える日が来るとしても、関係ないとする。
パクさんは ”私の胸には いつも星のように輝いている弟だ”と述べた。
”永遠に 負けない星”
”パク・ヨンハのもう一つの名前になることを祈る。
やっと落ち着いてこの記事を読ませて頂きました。
私があえて感想を言うまでもなく、きっと皆さんの心には同じ思いがよぎった事と思います。
ヨンハがどれだけ努力をして、頑張ってきたか、、、
そしてその人柄が、周りの人をどれだけ温かく優しくしていたのかを知る事が出来ました。
お姉様ご夫婦の言葉に、そしてファンの事をこんなにも思って下さる深い愛に、ただただ感謝の気持ちです。
夢を沢山抱いて、たゆまぬ努力を積んで、ありったけの愛を届けてくれたヨンハ。。。
“ヨンハ星”がいつまでも輝き続ける様に、、、
私達は、永遠にパク・ヨンハを愛するだけ、、、ですよね。
ご協力くださったlilac☆Yさんのブログはこちらです。
lilac☆Yさん、ありがとうございました。
☆ヨンハ星見っけ!☆つぶやき広場