工藤隆のサブルーム

古代文学研究を中心とする、出版、論文、学会講演・発表・シンポジウム、マスコミ出演、一般講演等の活動を紹介します。

「図書新聞」に「琉球文学大系」の書評を載せました

2022年08月03日 | 日本論
「琉球文学大系」(ゆまに書房)は全35巻で、完結まで約10年かかるようです。その第1巻「おもろさうし(上)」を手にしました。丁寧な註釈・解説が付いているので、内容の把握の助けになります。
 私は、依頼を受けてその書評を書きました。「図書新聞」の2022年8月6日(土)発行で、中規模以上の書店になら置かれています。タイトルは、「アニミズム系社会の言語表現文化が〈文学大系〉にまで上昇した」。400字詰め約7枚、いずれ全文をこの欄に転載します。
 なお、私の文章のほかに、波照間栄吉「「琉球文学大系」の構想──世紀の大事業の完成に向けて心して歩んでいきたい」と遠藤耕太郎「オモロの歌われ方を復元した画期的注釈──沖縄には、男性の姉妹がその男性を霊的に守護するという信仰が息づいている」という、二つの文章が掲載されています。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異世界同士の交流に〈歌ことばのワザ〉の競い合い──長江流域少数民族ミャオ族の文化

2022年06月04日 | 日本論
●日本の民俗には、塞(サイ)の神信仰というものがありました。村境いなどに、男女一対の道祖神(どうそじん)や地蔵を置いたりしているのがその名残です。また、外来者が村(集落)に入るときには、村入りの儀礼を行なう習俗もありました。これらは、悪霊・疫病など邪悪なものが村の外から入ってくるのを防ごうとする呪術的行為であったのです。邪悪なものの、村への流入を遮(さえぎ)るのが目的ですから、そのさえぎるの「サエ(へ)」が訛(なま)って「サイ(ヒ)」となり、「サエギルの神」→「サエの神」→「サイの神」と変遷したと考えられます。

●この「サイの神」信仰や村入り儀礼との共通性を感じさせる儀礼が、中国少数民族の文化の中に顕著に残っていることがわかってきました。それは、ある集落(A)を、別の集落(B)の人たちが訪問したときには、集落(A)の人たちが集落の入り口で遮って、集落(B)の人たちに歌を掛け、それに対して集落(B)の人たちが歌を返します。それを何回か繰り返したうえで、晴れて村入りが許されるというものです。
 これを、中国語では、「攔路(らんろ、ランルー)歌」と表記しています。中国語「攔(ラン)」の意味の第一は、「遮る」です。この「攔路歌」を、日本側の研究者は一般に「道塞(ふさ)ぎ歌」と訳していますが、私は「道遮り歌」という訳を採りたいと思います。それは、「道遮り歌」としたほうが、日本の「サイの神」信仰との関連性がよくわかるからです。

●去る5月28日(土)に、一般社団法人・アジア民族文化学会の第43回春季大会が、千代田区神田神保町の共立女子大学本館で開催されました。私はこれにオンラインで参加しました。
研究発表は、以下の通りでした。

 13:30 – 14:30 牛 承彪
  トン族南部方言地域における「行歌坐月」習俗及びその構造について考察
 14:40 – 15:40 曹 咏梅
  トン族大歌の保護と伝承――鄧敏文氏等の取り組みを中心に――
 15:50 – 16:50 真下 厚
  中国湘西苗族の結婚儀礼歌掛け

 いずれも、現地調査をもとにした、少数民族の歌文化の貴重な現場報告でした。この中で、特に「道遮り歌」との関連が濃かったのは、真下(ましも)厚(あつし)氏の「中国湘西苗族の結婚儀礼歌掛け」でした。「湘西(しょうせい、シアンシー)」(湖南省)のミャオ(苗)族の結婚式では、新郎の側が新婦の村にやって来たときに、新婦側の人たちが家の入り口で遮って歌を掛け、それに対して新郎側の人たちが歌を返します。それを何回か繰り返したうえで、新婦の家に入ることが許されるのです。結婚もまた、それぞれ別々の集落の人の合流という、いわば“異世界”同士の合流ですから、この際には「村入り」の儀礼が必要なのです。

●この「村入り」を、国家と国家、国際関係という水準で考えてみれば、「道遮り歌」はいわば外交交渉にあたります。しかし、外交交渉なしに武力という実力行使のみに頼れば、「侵略」「侵攻」「襲撃」になります。いま、プーチン・ロシア軍が行なっていることは、「村入り」の儀礼、すなわち文化的手続きをいっさい無視した「侵略」「侵攻」「襲撃」なのです。

●ミャオ(苗)族は、かつて漢族の支配に抵抗を続けた、戦闘力ある集団でした。湖南省の南部(真下厚氏の調査地域)には、「南方長城」が残されています。この「南方長城」は、万里の長城(2万1196㎞)ほどの規模ではありませんが、明代に漢族国家がミャオ族などとの戦いにおける防御壁として作った、約170㎞に及ぶものです(現在は、その一部が観光施設として修復・公開されています)。
 このような戦闘力あるミャオ族が、同族の異集落同士の交流の際に、武力という暴力ではなく、歌の掛け合いという〈歌ことばのワザ〉の競い合いを用いていたことに、長江流域少数民族文化の魅力を感じます。
 今まで、私が何冊かの本で書いてきましたように、日本の、縄文・弥生・古墳時代の文化、つまりは日本の基層文化は、長江流域少数民族と共通の文化圏に属していました。その共通文化圏の代表的なものが「歌垣文化圏」です(工藤『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』勉誠出版、2015年、参照)。日本文化の基層部分には、異世界との交流に、武力に頼らない、〈歌ことばのワザ〉の競い合いを用いるような感性が流れているはずなのです。
 日本国憲法の「第二章」(戦争の放棄)の第九条には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあります。この条文は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の意思によるものですが、当時の日本国の法律専門家のあいだでも、ある程度納得できる内容のものであったのでしょう。
 ウクライナに侵攻した今回のプーチン・ロシア軍の残虐行動を見ていると、その精神世界が、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するのとは正反対のところに位置していることがわかります。
 にもかかわらず、日本社会の精神世界の基層には、この日本国憲法「第二章」の精神がプーチン・ロシア軍などのような、領土拡張に狂った国家の侵略行動を「遮る」力があると感じる呪術的感性が根づいています。
 この「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する精神自体は、ミャオ族の、異世界との交流に、武力に頼らないで、〈歌ことばのワザ〉の競い合いを用いるような感性と同じく、素晴らしいものです。しかし、文化的手続きをいっさい無視して「侵略」「侵攻」「襲撃」に走る国家が日本国に迫ってきたときには、殉教者のように滅びの道に進むことを受け入れねばなりません。その覚悟が現代日本人にあるのかどうか、プーチン・ロシア軍のウクライナ侵攻が続いている現在、一人ひとりが考えてみる必要があります。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本文学』5月号に、「天皇論の再構築を」が掲載されました

2022年05月15日 | 日本論
●前回のこの欄で、「仮にロシアがこの侵略にやすやすと成功した場合、ロシアは次の照準をいずれかの時期に日本の北海道に合わせる可能性が出てきました」と書きました。しかし、2022年5月15日の現在では、ロシア軍の苦戦という戦況が報じられ始めましたので、ロシアの侵略が「やすやすと成功」することはなさそうだということになってきました。したがって、ロシアによる「いずれかの時期」の北海道侵攻は、さしあたりはかなり後の時期になりそうです(この可能性が無くなったということではなく、一時、休火山化したということです)。日本には、ロシアによる「いずれかの時期」の北海道侵攻に備えて、防衛策を練り上げる時間を与えられたことになります。
日本社会の「最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」と「こうあって欲しい願望」に身を委ねてしまう資質に、少しでも現実直視の思考を加えて、「いずれかの時期」に必ずやってくるロシア軍の北海道侵攻に備えることが重要です。

●『日本文学』(2022年5月号、日本文学協会編)の「子午線」というページに、私の「天皇論の再構築を」が掲載されました。「子午線」は見開き2ページというレイアウトが決まっていますので字数制限が厳しく、説明をいろいろ省いた文章になりました。ちなみに、「平成の天皇の即位礼・大嘗祭(一九九〇年)のころの『日本文学』は、頻繁に天皇制特集を組んでいた」の具体的な中身は、「日本文学と天皇制」(1989年1月号)、「日本文学と天皇制Ⅱ」(同年2月号)、パネルディスカッション「日本文学と天皇制」(同年9月号)、「近代文学における〈他者〉と〈天皇制〉」(同年10月号)、「表現としての〈天皇制〉」(1990年1月号)、「座談会・日本文学における〈他者〉と〈天皇制〉」(同年9月号)、です。
以下に、今回の私の「天皇論の再構築を」を、全文そのまま引用します。

───────────────────────────
   天皇論の再構築を
                    工藤 隆

 平成の天皇の即位礼・大嘗祭(一九九〇年)のころの『日本文学』は、頻繁に天皇制特集を組んでいた。しかし、令和の天皇の即位礼・大嘗祭(二〇一九年)のときには、そのような動きはまったく見られなかった。日本文学研究者の意識の中で、この三十年間に、天皇論、その延長線上にある日本論、さらには日本人のアイデンティティー論において、空白・停滞・断念つまりは思考停止が生じつつあるのではないか。
 天皇論では、まず天皇存在の、どの時代の、どのような性格を前提にしているかを明示することが必要である。①縄文・弥生時代など非常に古い段階の〈源流〉としてのあり方、②まだ「天皇」という名称はなく、〈国家〉体制の整備も進んでいなかった大王(族長)時代(古墳時代)のあり方、③六〇〇年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、公式に「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期のあり方、④藤原氏が政治的実権を握っていた時代のあり方(平安時代)、⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方、⑥明治の近代国家成立時に、近代化と反する天武・持統期的古代天皇制へ復帰したあり方、⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方を、区別するのである。
 このうちの①縄文・弥生時代、②古墳時代までの日本列島は基本的に無文字文化だったので、まとまった文献記録が無い。そこで、考古学資料や中国古典籍の記載などを参考にしながらも、最終的には文化人類学的資料によるモデル理論的想定に頼る以外にない。私は、『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、二〇二一年)で次のように述べた。

 無文字文化主流の時代の大王・族長の系譜について、文献史料的に確実なことが言えないという点に対する態度は、①史料が無いのだからこの部分については言及しない(棚上げにする)、②数少ない文献史料と文化人類学的報告(たとえばのちに紹介する母系に発する中国少数民族ワ族の系譜の調査報告など)や民俗学資料および縄文・弥生・古墳時代の考古学的資料を組み合わせて、できる範囲で客観的な推定をする、③確かな根拠を示すことなく恣意的な像を描く、という方向性の違いがある。
 現在の日本古代史および日本古代文学の学界の基本的態度は、①の「棚上げにする」である。戦前の皇国史観思想では、③の「恣意的な像を描く」であった。それに対して私は、②の「できる範囲で客観的な推定をする」という立場である。


 次に、天皇存在の本質部分とそれ以外の部分とを分けることが重要になる。

A これを失うと天皇ではなくなるという部分(最も本質的な部分なので変わってはならない部分)
B その時代の社会体制に合わせて変わってもかまわない部分
C その時代の社会体制に合わせて変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分


 「A 最も本質的な部分」の旧来の代表的なものは、大日本帝国憲法(明治22年〔一八八九〕)の「第一章 天皇」の第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「万世一系」である。しかし実は、天皇の本質は、系譜とは別次元にあると私は考えている。以下に、『女系天皇──天皇系譜の源流』からそのまま引用する。

 私は、天皇存在は、「縄文・弥生時代以来の、アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった特性を、神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」すなわち「超一級の無形民俗文化財」であることに、根源的な根拠があると述べた。自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化は、自然の生態系重視のエコロジー思想と基盤を共有しているのであり、世界的普遍性を持っている。


 大日本帝国憲法で「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と規定し、敗戦後の新皇室典範もそれを継承したことにより二十一世紀の皇位継承に危機が迫っている状況は、「C 変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分」にあたる。私は、『大嘗祭──天皇制と日本文化の源流』(中公新書、二〇一七年)で次のように述べた。

 要するに、皇位継承問題でも、今や、天皇制の、時代に合わせて変わらねば存続できなくなるという事態への目配りが求められ始めたのに、彼らの意識は戦前の指導層と同じく、〝神国日本幻想〟の中にとどまっていて、現実を冷静に見つめることができないのであろう。
 逆に、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制を極度に忌み嫌う旧左翼系の人たち(天皇文化と政治としての天皇制を区別する視点を持たない人たち)にもまた同じような発想が存在している。つまり、かつてのように〝天皇制打倒〟と明確な形で叫ばなくても、現状の綱渡りの皇位継承状態を放置すれば、いずれ天皇制は維持できなくなって結局は打倒されたのと同じことになるという考え方である。


 私は、天皇存在の分析には、現実社会的威力の面と文化・精神的威力の面を分離する把握が必要だと考えている。

甲 行政王・武力王・財政王など現実社会的威力の面
乙 神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面


 大日本帝国憲法は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を兼ねた天武・持統期的天皇制を選択したが、敗戦後の象徴天皇制では文化・精神的威力の面だけに特化したので、天皇存在の「超一級の無形民俗文化財」としての価値を再評価してその存続をはかるべきだという論理が登場できることになった。天皇存在の文化・精神的威力の象徴としての再評価によって、敗戦後七十年余を経た今、天皇論再構築に向かうことのできる条件が整ったのである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロシアによる北海道侵攻可能性の浮上と憲法9条問題

2022年04月19日 | 日本論
●2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻を開始し、4月19日の現在も激戦が続いています。
 仮にロシアがこの侵略にやすやすと成功した場合、ロシアは次の照準をいずれかの時期に日本の北海道に合わせる可能性が出てきました。そのときに日本人及び日本軍(自衛隊)は、今現在、悲惨な状況の中でも抵抗を続けているウクライナ軍・ウクライナ国民のように、粘り強い戦いを継続できるのでしょうか。そもそも、“自衛権”を明記せず、「国の交戦権は、これを認めない」、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とまで規定している憲法9条のもとでは、厳密には自衛隊の存在自体が憲法違反だし、ロシア侵略軍に対して抵抗のために「交戦」することさえ許されないのです。
 私は今、私が12年前に刊行した『21世紀・日本像の哲学』(勉誠出版、2010年)の一節を思い出しています。以下に引用するような私の指摘は、12年前にはほとんど注目されなかったようです。しかし、ウクライナでのロシアの残虐な戦争犯罪が進行中の2022年4月の現在なら、可能性として浮上してきたロシア軍の北海道侵攻にどのように備えるのか、および憲法9条問題について、今こそ、リアリズムの視点で、真剣に、急いで、考えを深めなければならないことが理解されやすくなってきたと思われます。今度こそ、日本社会の「最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」と「こうあって欲しい願望」に身を委ねてしまう資質に、少しでも現実直視の思考が加わることを祈っています。
 『マッカーサー大戦回顧録』(中公文庫、2003年)に、「ソ連は、占領当初から問題を起こしはじめた。ソ連軍に北海道を占領させて、けっきょく日本を二つに分けろという要求を持出したのだ。(略)私は真正面からそれを拒否した」とあるように、敗戦時の1945年には、ソ連軍の日本進駐の可能性は充分に存在していたのです。現ロシアの大統領(プーチン)の意識には、帝政ロシア、旧ソ連以来の領土拡張への病的な固執が巣くっています。プーチンの意識の中では、1945年ごろの北海道占領への思いは、むしろ、2022年の現在にこそ、いっそう生々しく燃えさかり始めている可能性があります。
 以下に、同書の138~149ページを、そのまま引用します。

───────────────────────────
『21世紀・日本像の哲学』(勉誠出版、2010年)138~149ページ

アメリカは日本の経済再建を支えた
 話を元に戻せば、敗戦後の日本が占領軍を平穏に受け入れた結果として、アメリカ占領軍による前述のさまざまな改革が実現した。これらの改革は〝自由主義〟の方向を向いていたので、マルクスの、生産関係(経済)の「土台」「下部構造」が政治・文化一般の「上部構造」を規定しているという考え方に即して言えば、アメリカ占領軍は、まず「上部構造」を自由主義の方向に改革したわけである。
 ただし、財閥解体は「土台」「下部構造」の経済部門の自由化だったが、それ以前の問題として敗戦までに日本の経済部門は壊滅的な打撃を受けていたので、「土台」「下部構造」の問題としては生産体制の復興がまず第一の課題だった。早めに降伏して敗戦による被害を最小限にするというリアリズムの眼がないままの敗戦だったので、主要都市を無差別爆撃で徹底的に破壊され、そのうえ原爆を二個まで落とされて民族絶滅の一歩手前まで行き、それでもまだ軍部は「一億総玉砕」など叫んでいる中での無条件降伏であった。
 アメリカは、物資や金銭で日本を支援した。それと同時に、アメリカ型の製品の品質管理システムを日本企業に伝授し、それを日本人はアメリカ本国よりさらに高度に磨き上げた結果、現在のように日本製品は質が高いと評価されるまでになった。
 製品の品質管理システムが伝授されたとき、日本人はそれを伝統的な勤勉さによって学習した。六〇〇、七〇〇年代の〈古代の近代化〉のときと同じように、たとえ敵対していても優れた能力を持った者ならその相手から学ぼうとする〝謙虚さ〟も持っていた。また、それを使用する人の立場に立って少しでも満足してもらえるようにと改善を重ねる〝思いやり〟〝気配り〟の精神や、製品の人の目に触れないような部分でも誠実な作業態度を貫くという責任感の強さ、そして工芸品での高い技術の伝統もあったので、日本で独自にくふうされた良質な製品が世界中に広がることになった。このような勤勉、謙虚、思いやり、気配りといった日本人の特性の基盤には、縄文・弥生期以来の原型生存型文化があり、その中心には自然界のあらゆるものに霊的な存在を感じ取るアニミズムの感性がある。また、ムラ段階の社会での相互扶助の生活感覚などもあるようだ
 それまでの日本人には、ムラ型社会特有の「世間の目」を基準にして自分の行動を律する習性が身についていた。その「世間の目」は、個々人の自由を制限しすぎる、社会改革を阻害するという負の側面がある一方で、ムラ社会の内側では集団生活を安定させる役割を果たすプラス面も持っている。このプラス面の部分は、縄文・弥生期にまで根を遡れる貴重な知恵であった。この習性がさらに島国文化として国家規模にまで及び、かつ徳川幕府の鎖国政策によってほとんど「本能」に近いと言ってもいいくらいの水準にまで定着した。ただし、二十世紀後半の高度経済成長期以後には、地域共同体や家族共同体の解体、国際化の進行(欧米的近代化の本格的進行)、インターネットの普及による「世間」の範囲の変化、所得格差の拡大による社会不安の増大などによって、この「本能」に近い感性もだいぶ崩れ始めている。しかし、今ならまだ、知恵を出し合ってくふうをすれば、そのプラス面の一部を回復できるのではないかと思われる。
 また江戸時代の社会では、「仁・義・礼・智・信」の儒教道徳もそれなりに庶民レベルにまで浸透していたようだ。日本仏教の、人間だけでなく動物そして自然界の山川草木にまで「仏」が宿っているとし、それらあらゆる存在に対して慈愛の心を注ぐという教えも、庶民レベルにまで浸透していた。「内発的」な条件が揃っていないのに「外発的」に西欧的な近代化を受け入れねばならなかったことによって〝無理な背伸び〟をし、アジア・太平洋戦争に突入してしまったが、本来の日本文化は原型生存型民族特有の寛容の精神を持つ文化だった。この寛容の精神、柔軟性が、アメリカ占領軍のさまざまな改革の受け入れを後押ししたのだろう。
 補っておくと、もし占領軍がアメリカではなく旧ソ連だったら、その後の日本の運命は大きく変わっていたことだろう。前出の『マッカーサー大戦回顧録』に、「ソ連は、占領当初から問題を起こしはじめた。ソ連軍に北海道を占領させて、けっきょく日本を二つに分けろという要求を持出したのだ。(略)私は真正面からそれを拒否した」とあるように、状況によっては旧ソ連軍の日本進駐の可能性は充分に存在していたのである。
 前出西鋭夫『國破れて マッカーサー』にも次のように述べられている。

ホプキンズはトルーマンに、「スターリンは日本を分割し、(本州の一部を)ソ連領土としたいと考えており、占領地域に関してイギリスと我が国と協定を結びたいと希望しております」と報告する。


 ホプキンズは当時のアメリカ大統領トルーマンの顧問、スターリンは当時のソ連の最高指導者。また、同書は、次のようにも述べている。

特にソ連とイギリスは、日本占領で同等の役割を強く要請し、ソ連はマッカーサーから独立した軍隊によって北海道を占領することを要求した。マッカーサーは、これを一蹴した。


 その旧ソ連は、日本の敗戦から四十六年後の一九九一年に崩壊し、それからはロシア連邦となった。もし一九四五年に日本が旧ソ連によって占領されていたら、その後の日本はソ連型の陰惨なファシズム国家になっていたことだろう。あるいは、ドイツが東ドイツと西ドイツに分割されたように(一九八九年にベルリンの壁が崩壊して分断は解消された)、北海道と東北日本はソ連型ファシズム社会、関東と西日本はアメリカ型の民主主義社会というような形もあったかもしれない。そして、九一年のソ連崩壊をきっかけとして北海道と東北日本もやっと日本国に復帰し、今ごろはその後遺症で日本国全体が政治的・経済的に大混乱に陥っていたのだと思われる。
 占領軍が民主・自由のアメリカだったということは、白村江の敗北のあとに唐と新羅が仲違(なかたが)いしたこと、二度の蒙古襲来が台風などによって失敗したこと、一八〇〇年代半ばに西欧列強による植民地化をまぬがれたことに続く、四度目の歴史の幸運であったとしていいだろう。
 これからの歴史の進展において、日本国には過去の四つの危機に匹敵する大きな危機が訪れることが必ずあるだろう。そのときにも、過去の四つのような幸運に恵まれるかどうかはだれにもわからないから、幸運頼みではなく、実力でその危機を乗り越えられるような準備が必要である。そのためにも日本人は、リアリズムの眼でとらえた「等身大の日本像」の把握を深めておくことが必要なのである

   憲法九条問題

第九条は犯罪国への懲罰条文であった
アメリカは日本の戦後復興に不可欠なものとして天皇制を残した。それが、日本国憲法の冒頭の、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定となった。
 しかし、日本にアジア・太平洋にまたがる戦争を遂行させた精神的〈核〉として天皇制があり、それが軍部と結びついたことは間違いないから、アメリカとしては、天皇制を残す以上は、軍部は消滅させなければならないと考えた。そこでアメリカは、「平和憲法」という装いで日本国に第九条を与えた。したがって、「平和」を求める全人類的な理想実現のためというのは表の装いで、アメリカ側の本当の狙いは、日本国が軍事的に二度と立ち上がれないようにする、ということにあった。

「日本国憲法」第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない国の交戦権は、これを認めない


 このうちの「日本国民は、………永久にこれを放棄する」という理念自体は崇高な理想として素晴らしいものだが、一九四五年の段階でのアメリカの本当の狙いは、「永久にこれを放棄する」という部分にあった。アメリカ自体は、「国際紛争を解決する手段」として「武力による威嚇又は武力の行使」を積極的に行ない続ける国だから、アメリカ自身が戦争放棄をするということはまったく考えていない。実態としては、日本国を、矯正不可能の永遠の犯罪者として扱い、少なくとも軍事面では永遠に一人前の国家として機能できないようにすることが目的だった。そのかわり、万が一日本がどこかの国から攻められることがあったときには、アメリカが軍事的に保護する、ということである。それが日米安全保障条約(一九五一年九月八日~)の真意である。
 ただし、マッカーサー自身は、次に引用するように、日本国のより現実的な将来像も考慮していたようだ。

第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげてはいない。だれでも、もっている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守ることになる。(略)私は日本国民に次のことをはっきり声明した。「世界情勢の推移で、全人類が自由の防衛のため武器をとって立上がり、日本も直接攻撃の危機にさらされる事態となった場合には、日本もまた、自国の資源の許すかぎり最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第九条は最高の道義的理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権をもたないという解釈は、どうこじつけても出てこない。(略)」(前出『マッカーサー大戦回顧録』)


 しかし、マッカーサー司令官の失敗は、せめてこの声明にある「自衛権」の保持のことだけでも憲法第九条に明記すべきだったのに、それをしなかったことにある。日本人の多くは、この声明の存在を忘れた。結果として、「自衛権」の記述を欠いた憲法第九条の1と2の条文のみが、多くの日本人の意識を支配することになったのである。
 アメリカ側の意向は、一九五〇年に朝鮮半島で朝鮮戦争(一九五〇~一九五三)が勃発すると、「日本も直接攻撃の危機にさらされる事態となった」と判断したからであろうか、早くも日本を再軍備させ、朝鮮半島での戦争に「日本軍」を参加させようとする方向に大きく転換した。マッカーサー司令官は、まず七万五〇〇〇人の「警察予備隊」という、軍隊に準じる組織を日本側に作らせた。そのようなアメリカ側の動きに対して、しかし時の首相の吉田茂は、「警察予備隊」設置は受け入れつつも、基本的に、再軍備は「日本にとって不可能である」という立場を貫いた(五百旗頭真『占領期』読売新聞社、一九九七年)。このときの吉田首相の論理の大きな根拠になったのが、憲法第九条だった。〝日本は平和国家になりました、軍事力はアメリカに任せます〟という論理である。五百旗頭も同様の考えを述べているが、吉田首相は、勝利者が敗北者に強制した憲法第九条を逆(さか)手(て)にとって、敗北者日本の、アメリカの戦争への荷担の回避という、なかなか見事なリアリズムの戦術を駆使したことになる。
 このような状況に直面してマッカーサー司令官は、みずからが日本人に与えた憲法第九条で、日本人に「懲罰」を与えすぎたことを後悔したに違いない。日本人にとっては、憲法第九条は、神々の世界から地上に下(くだ)された聖なる言葉のように受け入れられたのであり、滅多なことでは変えられない神の言葉に変じていたのである。したがってマッカーサー司令官は、やはり「自国の資源の許すかぎり最大の防衛力を発揮すべきである」という一節を、「声明」としてではなく、まさに憲法第九条の条文そのものの中に明記しておくべきだった。しかし、時すでに遅かった。新憲法は、わずか数年前の一九四六年十一月三日に公布されたばかりである。したがって彼は、簡単には「憲法改正」命令を出せなかったのだ。

ムラ社会的資質をコントロールできれば「戦力」の保持は可
 敗戦後六十年以上を経た現在でも、憲法第九条をそのまま残すべきだと主張している人たちがいる。その考え方の一部には、「武力によらない平和外交の方がはるかに現実的で経済的」という主張(加藤周一、「毎日新聞」二〇〇八年十二月六日夕刊の訃報記事より)があるようだが、これが吉田首相のリアリズム意識を継承したものなら、これはこれでなかなか高度な目くらまし戦術だということになる。実態としてはアメリカ占領軍による保護を受け続け、あるいはアメリカの軍事力を一種の「傭兵」として雇い、かつ自衛隊という実質的な軍隊も保有したうえで、「平和外交」を主張しているのだから、日本人の「平和憲法護持」行動は、実はかなり狡猾な戦術だということになる。
 しかし、「2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という条文に対して、加藤周一はどのように考えていたのだろうか。加藤のような主張の中心には、もしいま日本国憲法が、他国からの攻撃に対する「自衛権」の保有と、その「自衛」のための「戦力」の保有という当たり前のことを明示し、「自衛」のための「交戦権」の存在も明示する方向に変わった場合には、日本国は必ずかつてのような「侵略」に走るであろうという、軍国主義ファシズム時代に起きた悲劇のトラウマ(心的外傷)から来る判断があるようだ。
 また、「革新系」「左翼」の政治家だった田(でん)英夫は、「毎日新聞」の取材(二〇〇七年十月)に応じて、「軍隊を持っていれば実際に戦争に行きたくなる。それが戦後世代の国会議員は分かっていない」と述べたという(「毎日新聞」二〇〇九年十一月十八日の訃報記事より)。これもまた、軍国主義ファシズム時代に起きた悲劇のトラウマであろう。日本人は「軍隊」を持てば必ず海外侵略に向かうという田英夫など「革新系」「左翼」の日本人観は、日本人は永遠に〝近代人〟になれないと断定したのと同じである。
 この点については、明治の近代化以後現在にまで至る日本も、縄文・弥生期以来のムラ段階社会的な組織運営システムと、アニミズム・シャーマニズム・神話世界的な資質を強固に継承しているという私の分析に従えば、次のような言い方になる。すなわち、その反近代性・反リアリズム性の部分をある程度コントロールできるところまで日本社会が成長してきていると判断できれば「戦力」の保持も可能になるのだし、一九四五年の敗戦までの時期と同じように依然としてそれらをコントロールできるところまで民主主義が成長していないと判断するのなら「戦力」の保持は時期尚早だということになる。
 私の判断は、どちらかと言えば、二〇一〇年現在の日本社会は、みずからの文化資質である反近代性・反リアリズム性の部分をある程度コントロールできるところまで成長してきているとする前者である。一九四五年までの大失敗を常に教訓として「軍部」の暴走を抑制し、リアリズム(現実直視)のまなざしで、用心深く、油断せず、慎重に「戦力」をコントロールしていくための土壌は、敗戦後六十年以上を経た現在の日本社会には、少しずつ形成されてきていると私は感じている
 あとでも触れるが(108ページ)、マッカーサー司令官は敗戦時の日本を評して、「近代文明の尺度で計ると、我々が四十五歳であるのに対し、日本人は十二歳の子供のようなものだ」と述べた。マッカーサーの比喩で言えば、敗戦までの日本にとっての「戦力」「軍隊」は、「十二歳の子供」に与えられた本物のマシンガンみたいなものだったのであり、あのアジア・太平洋戦争への突入は、いわば〝少年犯罪〟的な要素を持っていたことになる。あれから六十年以上を民主主義と平和主義の国として生きてきた二十一世紀初頭の日本人は、民主党政権が島国文化・ムラ社会性的な組織運営システムの近代化にも「内発的」に着手したし、「近代文明の尺度」で二十五歳くらいにはなっているのではないだろうか。だとすれば、二十五歳の大人になら年齢相応の知恵が備わっているのだから、「戦力」「軍隊」が与えられても、「十二歳の子供」のときのようにむやみにマシンガンを撃(う)ちまくるような過ちは犯さないのではないか。二十一世紀の日本人は、リアリズム(現実直視)のまなざしで、用心深く、油断せず、慎重に「戦力」「軍隊」をコントロールできるくらいには成長してきているのではないか

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繰り返される“こうあって欲しい願望”に身を委ねるコロナ対策

2022年02月20日 | 日本論
●新型コロナのオミクロン株が猛威を振るっています。政府の対策は、ワクチンの3回目接種の時期を「2回目接種後8か月」と定めたことにより、2022年1月下旬からの第6波を迎えてしまいました。第5波終了後の昨2021年10月、11月のうちに“2回目接種後6か月”という方針に切り替えておけば、現在のような、自宅療養者(実質的には自宅放置者)が全国で50万人を超えるような悲惨な事態は招かなかったのではないでしょうか。
 昨年10月、11月にはすでに、外国からの情報で、2回目接種の効果の減衰が6か月後では90パーセントに及ぶということがわかっていました。ましてや、その時点ですでに、8か月後というのは論外の無策だということは明らかでした。しかし、現岸田政権が(実質的には厚生労働省の官僚たちが主導していたといわれますが)、依然として「3回目接種は2回目接種後8か月」にこだわり続けていたのは、「日本社会が、“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態を持っている」ことに起因します。日本の政権側のコロナ対策は、楽なほうへ、楽なほうへと、流れるのです。
 私は、昨2021年の8月27日のこの欄で、「新型コロナウィルス感染爆発──最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」という文章を書きました。現在の事態についてのコメントを書いても、この第5波のときの文章と同じ趣旨の文章になるでしょう。したがって、昨年8月のときのこの欄の文章を、以下に再掲載します。このうちのすべての数字をさらに悪いほうに入れ替え、安倍・菅政権を岸田政権に変えれば、2022年2月20日の現実になります。


 新型コロナウィルス感染爆発──最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態  2021年8月27日
●新型コロナウィルス感染の蔓延が新段階に入りました。感染力が初期の型より1000倍ともいわれる、インド発のデルタ変異型が登場したことによって、8月末の現在、日本には感染爆発ともいうべき第5波が進行中です。
 今年4~6月の第4波までとの決定的違いは、陽性が判明した感染者が直ちに医療施設に入ることができなくなったことです。東京都の場合でいえば、毎日4000人前後の感染者が出ていますので、これがこれからの10日間で単純計算で4万人ということになります。きょう(8月27日)現在、入院できない陽性者(自宅療養者数と宿泊療養者数を合わせて)は東京都ではすでに4万人に迫っていますから、合わせればこれから10日後には約8万人となり、完全に医療崩壊状態に陥ります。
 昨日(8月26日)の「毎日新聞」朝刊に、次のような記事がありました。

新型コロナウィルスの感染拡大で全国の自宅療養者数は9万6857人(18日時点)と10万人に迫る中、療養中に死亡するケースが相次いでいる。首都圏1都3県では8月に少なくとも21人が死亡し、前月(4人)の5倍超。

 自宅療養者のうちの少なく見積もって1000人に1人(つまり0.1パーセント)が、容体が急変して死亡すると仮定すると、10日後の約8万人のうちの80人が医療を受けられないままで死亡することになります。泥縄(泥棒を捕らえて縄をなう)ででもいいからともかくなんらかの対策を打ち出さないかぎり、自宅療養中の容体急変死の割合は100人に1人(1パーセント)くらいにまで悪化して、800人もの死者が出るような悲惨な事態になりかねません。
 もちろん、政府が、昨2020年3月ごろから、今のような最悪の事態を想定して、臨時の医療施設の設置や、医療従事者の配置などの準備を徐々にでも進めていれば、これほど悲惨な状況にはならなかったはずです。しかし、私が「日本社会が、“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態を持っている」(工藤『女系天皇──天皇系譜の源流』朝日新書)と述べたとおり、安倍晋三・菅義偉政権は、「最悪の事態」を想定することはせず(できず?)、この1年半を、一貫して新型コロナウィルス感染蔓延は“まもなく収束するに違いない”という楽観的な展望をいだき続けて時間を浪費した結果、2021年8月下旬現在、私の言う「第三の悲劇」(1945年の国家破滅級の敗戦、2011年福島原発の深刻事故に次ぐ悲劇)に突入し始めたようです。
 第5波の第4波までとの決定的違いは、「自宅療養」という名の“自宅に放置”が普通となっただけでなく、病状が悪化したので救急車を呼んだとしても、10人のうちの1人くらいしか入院させてもらえない(8月26日、東京都の発表)という悲惨な状況になっていることです。
 というわけで、これからは、第4波までのとき以上に、自分自身が感染しないように徹底して用心することが必要になったと感じています。国レベルでの新型コロナウィルス感染対策は、政権を握っている者たちが「“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」に身を委ね続けているのですから、もはや多くを期待することはできないでしょう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繰り返される“こうあって欲しい願望”に身を委ねるコロナ対策

2022年02月20日 | 日本論
●新型コロナのオミクロン株が猛威を振るっています。政府の対策は、ワクチンの3回目接種の時期を「2回目接種後8か月」と定めたことにより、2022年1月下旬からの第6波を迎えてしまいました。第5波終了後の昨2021年10月、11月のうちに“2回目接種後6か月”という方針に切り替えておけば、現在のような、在宅療養者(在宅放置者)が全国で50万人を超えるような悲惨な事態は招かなかったのではないでしょうか。
 昨年10月、11月には、外国からの情報で、2回目接種の効果の減衰が6か月後でさえも90パーセントに及ぶということがすでにわかっていたのに、現岸田政権(実質的には厚生労働省の官僚たちが主導していたといわれるが)が、依然として「3回目接種は2回目接種後8か月」にこだわり続けていたのは、「日本社会が、“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態を持っている」ことに起因します。コロナ対策は、楽なほうへ、楽なほうへと、流れるのです。
私は、昨2021年の8月27日のこの欄で、「新型コロナウィルス感染爆発──最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」という文章を書きました。現在の事態についてのコメントを書いても、この第5波のときの文章と同じ趣旨の文章になるでしょう。したがって、昨年8月のときのこの欄の文章を、以下に再掲載します。このうちのすべての数字をさらに悪いほうに入れ替え、阿部・菅政権を岸田政権に変えれば、2022年2月20日の現実になります。


 新型コロナウィルス感染爆発──最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態  2021年8月27日
●新型コロナウィルス感染の蔓延が新段階に入りました。感染力が初期の型より1000倍ともいわれる、インド発のデルタ変異型が登場したことによって、8月末の現在、日本には感染爆発ともいうべき第5波が進行中です。
 今年4~6月の第4波までとの決定的違いは、陽性が判明した感染者が直ちに医療施設に入ることができなくなったことです。東京都の場合でいえば、毎日4000人前後の感染者が出ていますので、これがこれからの10日間で単純計算で4万人ということになります。きょう(8月27日)現在、入院できない陽性者(自宅療養者数と宿泊療養者数を合わせて)は東京都ではすでに4万人に迫っていますから、合わせればこれから10日後には約8万人となり、完全に医療崩壊状態に陥ります。
 昨日(8月26日)の「毎日新聞」朝刊に、次のような記事がありました。

新型コロナウィルスの感染拡大で全国の自宅療養者数は9万6857人(18日時点)と10万人に迫る中、療養中に死亡するケースが相次いでいる。首都圏1都3県では8月に少なくとも21人が死亡し、前月(4人)の5倍超。


 自宅療養者のうちの少なく見積もって1000人に1人(つまり0.1パーセント)が、容体が急変して死亡すると仮定すると、10日後の約8万人のうちの80人が医療を受けられないままで死亡することになります。泥縄(泥棒を捕らえて縄をなう)ででもいいからともかくなんらかの対策を打ち出さないかぎり、自宅療養中の容体急変死の割合は100人に1人(1パーセント)くらいにまで悪化して、800人もの死者が出るような悲惨な事態になりかねません。
 もちろん、政府が、昨2020年3月ごろから、今のような最悪の事態を想定して、臨時の医療施設の設置や、医療従事者の配置などの準備を徐々にでも進めていれば、これほど悲惨な状況にはならなかったはずです。しかし、私が「日本社会が、“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態を持っている」(工藤『女系天皇──天皇系譜の源流』朝日新書)と述べたとおり、安倍晋三・菅義偉政権は、「最悪の事態」を想定することはせず(できず?)、この1年半を、一貫して新型コロナウィルス感染蔓延は“まもなく収束するに違いない”という楽観的な展望をいだき続けて時間を浪費した結果、2021年8月下旬現在、私の言う「第三の悲劇」(1945年の国家破滅級の敗戦、2011年福島原発の深刻事故に次ぐ悲劇)に突入し始めたようです。
 第5波の第4波までとの決定的違いは、「自宅療養」という名の“自宅に放置”が普通となっただけでなく、病状が悪化したので救急車を呼んだとしても、10人のうちの1人くらいしか入院させてもらえない(8月26日、東京都の発表)という悲惨な状況になっていることです。
 というわけで、これからは、第4波までのとき以上に、自分自身が感染しないように徹底して用心することが必要になったと感じています。国レベルでの新型コロナウィルス感染対策は、政権を握っている者たちが「“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」に身を委ね続けているのですから、もはや多くを期待することはできないでしょう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『日本像を作り直す──アジア基層文化と古代日本』(仮題)を書き始めます

2021年12月23日 | 日本論
●山田直巳編著『歌・呪術・儀礼の東アジア』が新典社研究叢書344として刊行されました。税込み1万7600円ですので、大学の図書館や研究室、また専門研究者の書庫にしか入らないでしょう。
 私が雲南省に本格的に少数民族文化の現地調査に入ったのが、1994年8月でしたから、それから27年を経て、このようなユニークな学術書が誕生することになりました。
 私の総論に始まって、「第一章 祭祀・儀礼・伝承論」「第二章 表記・歌掛け論」「第三章 比較表象論」というふうに、多方面に展開した17本の論文が揃いました。アジア基層文化を視野に入れることで日本古代文化研究が新しい段階に進んだことが、本書の諸論文によって明らかな形で示されたと感じます。
 私個人としては、論文「アジア基層文化と古代日本」(400字詰め約90枚)を、広く教養人一般に知ってもらいたくなってきました。また、朝日カルチャーセンターでの講座「女系天皇──天皇系譜を源流から考え直す」を元にした論文、「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜──女性・女系天皇と皇位継承」(400字詰め約80枚)も完成し、学会誌に入稿しました。
 この二つの論文「アジア基層文化と古代日本」と「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜」を元にして、400字詰め300枚くらいに膨らまして、新書版を書き下ろそうと考え始めました。書名は、『日本像を作り直す──アジア基層文化と古代日本』(仮題)といったものが頭に浮かんできました。新年に入ったら、書き始めようと思います。

………………………………………………………………
山田直巳編著『歌・呪術・儀礼の東アジア』(新典社研究叢書344)の総目次

はしがき(山田 直巳)

序 章
アジア基層文化と古代日本(工藤 隆)

第一章 祭祀・儀礼・伝承論
1 彝(イ)族の祭司「畢摩(ビモ)」について(張 正軍)
2 ミエン・ヤオの浄化儀礼に関する研究―道教・法教儀礼との比較から―(廣田 律子)
3 「踏喪歌」の社会的背景―雲龍県永香村・青干坪村を軸に―(山田 直巳)
4 白族董氏の系譜と祖先伝承(富田 美智江)
5 トンパ経典『以烏鴉叫声占卜』の歴史的位置―インド・チベット・中国における鴉鳴占卜の伝播と定着―(北條 勝貴)
6 シャーマニズム研究の現在再考―日本と雲南の調査、および欧米の研究を手掛かりとして―(菅原 壽清)

第二章 表記・歌掛け論
1 山と書くな 壮族の古壮字と日本の訓仮名を巡って(手塚 恵子)
2 トン族歌謡の漢字表記とその方法―〈歌〉を文字に書くことについて―(曹 咏梅)
3 プミ族のペー語による歌掛け―雲南省蘭坪県龍潭村プミ族の掛け合い歌「西番調」―(飯島 奨)
4 死者に掛ける歌考(草山 洋平)
5 儀礼と遊戯の掛け合い ラオス北部の掛け合い歌カップ・サムヌアから(梶丸 岳)

第三章 比較表象論
1 『古事記』における二つの始祖神話(岡部 隆志)
2 『万葉集』の独詠的恋歌の生成―歌垣歌からの連続と飛躍―(遠藤 耕太郎)
3 万葉歌への道をめざして―中国西南部少数民族の歌文化を手がかりに―(真下 厚)
4 蝦蟇論―田の神、地の神としてのタニグク―(今井 秀和)
5 映像から見る久高島の祭祀と二、三の事柄(北村 皆雄)

あとがき(山田 直巳)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アジア基層文化と古代日本」の校正に力を注いでいました

2021年11月03日 | 日本論
●朝日カルチャーセンターでの講座「女系天皇--天皇系譜を源流から考え直す」は、対面講座とオンライン講座を組み合わせたハイブリッド形式で、順調に終了しました。話してみると、いろいろと新たに気づいたこともありましたので、この内容を論文化することにしました。タイトルは、次のように変わります。

  アジア基層文化からみた記紀天皇系譜──女性・女系天皇と皇位継承

  順調に進めば、来年5月ごろには、学会誌上で活字化できると思います。

●10月は、400字詰め約90枚の論文「アジア基層文化と古代日本」の校正に力を注いでいました。この論文は、山田直巳編『歌・呪術・儀礼の東アジア』の〈序章〉として書かれました。この本には、私を含めて17名の書き下ろし論文が収録されています。
  〈序章〉 1名
  第一章〈祭祀・儀礼論〉 5名
  第二章〈表記・歌掛け論〉 5名
  第三章〈神話・伝承論〉 2名
  第四章〈比較日本論〉 4名

●全体が学術論文の集まりですので、学術書系出版社からの刊行です。したがって、分厚いうえに、部数が少ないので、定価は1万6000円(税込み1万7600円)です。一般教養人の目に触れることはほとんど無いと思われますので、私の論文は、いずれ新書版を書き下ろして、一般教養人に読んでもらえる状態にしようと考えています。
 そのときの書名は、「日本像を作り直す」あるいは「源流からのまなざしで日本像を作り直す」といったものになりそうです。

●以下は、私の論文の目次です。「おわりに」だけは全文を引用しておきました。
───────────────────
アジア基層文化と古代日本
工藤 隆
  1 過去像からのアイデンティティー
  2 原型的文化の側から〈古代〉をとらえ直す
  3 古事記などの古層の言語表現のイメージに迫る
  4 古事記・万葉集・伊勢神宮・大嘗祭・天皇系譜の古層
  5 アジア鵜飼文化圏と古代日本
  おわりに 

 以上のように、日本最古の本格的著作物である『古事記』(七一二年)以前の、縄文・弥生時代以来の〈古代の古代〉のアニミズム系文化の基層を、長江流域を中心とするアジア全域の文化圏の中に位置づけてきた。二十一世紀の現代でも戦前回帰願望を保持している人々にとっては、『古事記』、『万葉集』、伊勢神宮、大嘗祭、万世一系の天皇系譜は、国粋主義を称揚するための純粋ヤマト文化の根拠に見えているようだ。しかし、以上に見てきたように、鵜飼文化を含めて、『古事記』、『万葉集』、伊勢神宮、大嘗祭、万世一系の天皇系譜などは、すべてアジア基層文化のアニミズム系文化圏に属するものである。したがって、これからは、『古事記』、『万葉集』、伊勢神宮、大嘗祭、万世一系の天皇系譜などへの言及が、国粋主義や偏狭な愛国主義に向かわない道の模索に向かうことができるであろう。
 特に天皇論については、現在私たちは無数といってもよい刊行物を持っている。しかし、それらのほとんどすべては、従来漠然とひとくくりに〈古代〉と呼ばれていた時代が、〈古代の古代〉と〈古代の近代〉に分離して把握される研究段階に到達していることを知らない論である。すなわち、現代の天皇論のほとんどは、〈古代の近代〉を〈古代〉の全体だと思い込む旧来の古代日本像にとらわれているか、あるいは〈古代の古代〉はもちろん〈古代の近代〉にさえ関わらないようにして論じているので、日本文化の基層部分への視線が欠落した論になっている。天皇論にかぎらず日本論を意図する人は、一八六八年の明治新政府発足以後二十一世紀の現代まで、アジア基層文化のアニミズム系文化と西欧的近代文明が同時存在している日本社会の構造を、冷静な目で見つめ直すべきであろう。基層(源流)からのまなざしで日本像を作り直す必要がある



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講座「女系天皇」がハイブリッド講座に変わりました

2021年09月16日 | 日本論
●朝日カルチャーセンター新宿教室での1回講座「女系天皇--天皇系譜を源流から考え直す」が、対面講座とオンライン講座を組み合わせたハイブリッド講座に変わりました。
 日程には変更ありません。2021年9月29日(水)の午前10:30~12:00(1時間30分)です。詳しくは、「朝日カルチャーセンター新宿教室 女系天皇」でサイトにアクセスしてください。

●7月2日のこのブログでは、次のように書きました。

 ところで、今のところ、この講演は、オンラインではなく、対面講座のかたちで行う予定になっています。
 一般に教養講座の聴講者は、中高年層が多い。それら中高年層のほとんどは、9月29日の10日前くらいまでには、ワクチン接種が終了しているものと思われます(ちなみに、私は5月30日に第1回接種、6月25日に第2回接種が終了しています)。そのうえ、聴講者の人数を減らして教室内を密にせず、ドアと窓を開けて換気を良くするなどすれば、対面形式の講座が可能なのではないかと考えています。できるならば、マスクなしで話したいのですが、さすがにそこまでは無理かもしれませんが。


 しかし、8月には新型コロナウィルスが一都三県で医療崩壊を伴う感染爆発に至り、第5波になりました。そして、東京には緊急事態宣言が発出され、それが講座当日の29日の翌日の9月30日まで延長となったのです。
 その結果、対面だけの形式をあきらめて、教室での対面式とオンライン形式を組み合わせた形に変更することになりました。教室では、聴講者の数を縮小したうえで、教壇の前に遮蔽設備を置くなどして、私はマスクなしで話せることになりました(1時間半をマスクを付けたままで話し続けるのはかなり苦しい)。

●当日に配付する資料を作りました。A4で25枚ですから、400字詰め換算約90枚になりました。以下に、その目次と一部要点だけを引用します。
────────────────────

女系天皇──天皇系譜を源流から考える (資料)

Ⅰ 天皇論、皇位継承論の前提
 天皇制そのものまた皇位継承について論じる際には、天皇の歴史の、どの時代の、どのような性格を想定しているのかを明示する必要がある。まず、「時代」については、簡潔にいえば、次のようになる。

①縄文・弥生時代など非常に古い段階の〈源流〉としてのあり方
②まだ「天皇」という名称はなく、〈国家〉体制の整備も進んでいなかった「大王(族長)」時代のあり方 (ここまでは基本的に無文字文化だったので、金石文などを除いて、まとまった文字記載系譜や諸記録は無い)
③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期のあり方(『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)が登場。これ以後、文字記載された記紀の天皇系譜が権威化・固定化されることになった)
④藤原氏が政治的実権を握っていた時代のあり方(平安時代)
⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方
⑥明治の近代国家成立時に、近代化と反する古代天皇制へ復帰したあり方
⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方

 次に、天皇制とはなにかを考えるにあたっては、本質とそれ以外とを分けることが重要になる。

A これを失うと天皇ではなくなるという部分(最も本質的な部分なので変わってはならない部分)
B その時代の社会体制に合わせて変わってもかまわない部分
C その時代の社会体制に合わせて変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分
 
 これらA・B・Cについては、さらに、天皇のあり方を、

甲 行政王・武力王・財政王など現実社会的威力の面(あらゆる権力機構に備わっている要素)
 乙 神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面(古代天皇制国家以来の天皇存在に特徴的な要素)

とに分解して把握する必要がある。すると、③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期に創出された天皇制のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制だったことがわかる。⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方は、行政王・武力王・財政王の側面を失った時代である。そして、⑥明治維新による近代国家成立後の、近代化と反する王政復古がなされた時代のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制の復活であったことになる。
 そして、⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方は、行政王・武力王・財政王の側面を除去されて、神話王・呪術王など文化・精神的威力の側面に特化した存在である。
 これら①~⑦の時代による違いと、A~Cの、本質からの遠さ近さ、および甲・乙の面の有る無しを見極めながら現代の天皇論は進められなければならない。

Ⅱ 〈伝統〉〈源流〉の中身の確認
◆明治憲法が中国皇帝制度模倣の男系かつ男子継承絶対主義の明文化
◆女性天皇は、推古天皇(三十三代)から後桜町天皇(一一七代)まで、8名10代。
◆大宝律令ではより柔軟であった
◆男系継承維持には側室制度が必要だった
◆古代では近親結婚も常態であった
◆近世までは幼児天皇も許容されていた

Ⅲ 記紀天皇系譜に残る女性始祖、女系継承の痕跡
◆綏靖天皇(二代)と懿徳天皇(四代)の系譜
◆継体天皇(二十六代)系譜の女系継承

Ⅳ 文献史料以前に迫るモデル理論
◆モデル理論で文献史料以前に迫る
◆古事記の四つの顔

Ⅴ 無文字文化の系譜と文字文化の系譜
◆母系民族モソ人の系譜

Ⅵ 弥生・古墳時代以来の女性リーダーたち
◆卑弥呼・アマテラス・ヤマトトトヒモモソヒメ
◆卑弥呼・アマテラス・ヤマトトトヒモモソヒメ
◆神功皇后と託宣
◆「天皇」扱いだったかもしれない神功皇后・イヒトヨノイラツメ

〔まとめ〕簡潔にまとめれば、日本列島にはもともと男系(父系)と女系(母系)が併存していて、おそらく臨機応変に両者が使い分けられていたと思われる。ときには、女系と男系をない交ぜにするなどの組み合わせ型もあったであろう。母系制のワ族の事例や、上野(こうずけ)三碑の金井沢(かないざわ)碑の系譜を参考にすれば、名前は母の名の一部を継承するが、氏族としては父の姓を名乗るなどはその一例であろう。先に引用したサホビコ・サホビメ伝承にあった「一般に子の名は必ず母がつけるものだ」という垂仁天皇の言葉の背景には、このようなない交ぜの伝統が存在していた可能性がある。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新型コロナウィルス感染爆発──最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態

2021年08月27日 | 日本論
● 新型コロナウィルス感染の蔓延が新段階に入りました。感染力が初期の型より1000倍ともいわれる、インド発のデルタ変異型が登場したことによって、8月末の現在、日本には感染爆発ともいうべき第5波が進行中です。
 今年4~6月の第4波までとの決定的違いは、陽性が判明した感染者が直ちに医療施設に入ることができなくなったことです。東京都の場合でいえば、毎日4000人前後の感染者が出ていますので、これがこれからの10日間で単純計算で4万人ということになります。きょう(8月27日)現在、入院できない陽性者(自宅療養者数と宿泊療養者数を合わせて)は東京都ではすでに4万人に迫っていますから、合わせればこれから10日後には約8万人となり、完全に医療崩壊状態に陥ります。
 昨日(8月26日)の「毎日新聞」朝刊に、次のような記事がありました。

新型コロナウィルスの感染拡大で全国の自宅療養者数は9万6857人(18日時点)と10万人に迫る中、療養中に死亡するケースが相次いでいる。首都圏1都3県では8月に少なくとも21人が死亡し、前月(4人)の5倍超。


 自宅療養者のうちの少なく見積もって1000人に1人(つまり0.1パーセント)が、容体が急変して死亡すると仮定すると、10日後の約8万人のうちの80人が医療を受けられないままで死亡することになります。泥縄(泥棒を捕らえて縄をなう)ででもいいからともかくなんらかの対策を打ち出さないかぎり、自宅療養中の容体急変死の割合は100人に1人(1パーセント)くらいにまで悪化して、800人もの死者が出るような悲惨な事態になりかねません。
 もちろん、政府が、昨2020年3月ごろから、今のような最悪の事態を想定して、臨時の医療施設の設置や、医療従事者の配置などの準備を徐々にでも進めていれば、これほど悲惨な状況にはならなかったはずです。しかし、私が「日本社会が、“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態を持っている」(工藤『女系天皇──天皇系譜の源流』朝日新書)と述べたとおり、安倍晋三・菅義偉政権は、「最悪の事態」を想定することはせず(できず?)、この1年半を、一貫して新型コロナウィルス感染蔓延は“まもなく収束するに違いない”という楽観的な展望をいだき続けて時間を浪費した結果、2021年8月下旬現在、私の言う「第三の悲劇」(1945年の国家破滅級の敗戦、2011年福島原発の深刻事故に次ぐ悲劇)に突入し始めたようです。
 第5波の第4波までとの決定的違いは、「自宅療養」という名の“自宅に放置”が普通となっただけでなく、病状が悪化したので救急車を呼んだとしても、10人のうちの1人くらいしか入院させてもらえない(8月26日、東京都の発表)という悲惨な状況になっていることです。
 というわけで、これからは、第4波までのとき以上に、自分自身が感染しないように徹底して用心することが必要になったと感じています。国レベルでの新型コロナウィルス感染対策は、政権を握っている者たちが「“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」に身を委ね続けているのですから、もはや多くを期待することはできないでしょう。
 以下に、『女系天皇──天皇系譜の源流』で述べた、新型コロナウィルスの感染拡大と日本社会についての文章を、そのまま引用しておきます。

─────────────────────────────
『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、2021年)48~54ページ

 このように、「二千年以上」という数字や、男系継承が「一つの例外もなく続いてきた」ということが、呪文のように発せられ続けると、いつのまにか、これが真理だと思い込む人々が多数派になってしまうことになりかねない。ましてや、政権を掌握している側が、確かな証拠と他者からの批判に耐えうる論理とで思考する態度を放棄し、日本列島民族(ヤマト少数民族)のマイナス面の文化的伝統である「こうあって欲しい願望」(工藤『深層日本論』)に流され続けていると、その緩(ゆる)んだ思考回路が習い性となり、戦争・原子力発電所事故・大災害・感染症拡大といった肝腎な時に、決定的な判断ミスを犯すことになる。これは、代表的には、一九四五年の破滅的敗戦と二〇一一年の福島第一原子力発電所の深刻事故で実証済みである。私は、『深層日本論』で次のように述べた。

 一九四五年の国家破滅や、二〇一一年の東京電力福島第一原子力発電所の重大事故が示すものは、日本社会が、“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態を持っていることである。それは、日本文化の、特にムラ社会性・島国文化性の伝統のマイナス面に原因があるのだが、それを情緒的、情念的に下支えしたのがアニミズム系文化の部分であったとしてよい。
だとすれば、この思考形態に何らかのくふうをして改革を加えなければ、日本国は、いつかまた、国家破滅級の第三の悲劇を迎えることになるのではないか。

 本書を執筆中の今、新型コロナウィルスが世界中で猛威を振るっている。日本国が、「“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し、最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」の人間、すなわち、確かな証拠に基づく科学的客観性重視の論理を軽視している人間に政治権力を握らせると、政治の面でも大きな判断ミスを犯して破滅まで突き進んでしまう可能性がある
 「“こうあって欲しい願望”に身を委ね、目先の利害を優先し」という部分は、裏返していえば、目前で起きつつあることについてその本質を第一にして何をすべきかを考えるのではなく、本質とは別の副次的なことを優先させて行動することである。今回の新型コロナ蔓延でいえば、すでに二〇二〇年一月末には新しい感染症が中国で発生していることがわかっていたのに、中国の国家主席の来日が決まっていたので、なるべく事を荒立てないようにしようということが理由だと思われるが、武漢および中国全土からの来日者を拒否するといった厳しい取り組みをするのが遅れた。また、新型コロナウィルスの日本侵入に対する防御行動が遅れていることを自覚していたのならば、せめて、来たるべき感染蔓延に備えて、PCR検査拡大のための準備、一般医療と感染者医療の両立体制を整え、医療従事者用の防護具の手配、国民一般に向けたマスクの国内生産の増産などといった準備を高スピードで進めておくべきであったのに、そうならなかった。三月五日に中国主席の来日延期が決定して、やっと国の対策が本格的に動き出した印象である。また、東京都も、東京オリンピックが開催中止にならないようにと、なるべく新型コロナ被害を軽度に見せようとしたのだと思われるが、遅くとも三月二十、二十一、二十二日の三連休の前に厳しい対策を打ち出すべきだったのにそれをしなかった。東京都の対策も、三月二十四日に東京オリンピックの一年程度の延期が決定して、やっとのことで本格的に始動した。これらは、いずれも、感染症蔓延という大災害の本質ではなく、「目先の利益」つまりは副次的都合を優先させた結果である
 本書の執筆最終段階の十二月には、新型コロナ感染の、第一波、第二波をはるかに上回る第三波が日本列島を覆い始め、北海道・大阪府による自衛隊医療班出動要請に象徴されるように、全国規模での医療崩壊の現実化が見え始めた。その原因には、PCR検査を含む医療体制整備の遅さ、コロナウイルスにとって有利な寒冷期に入ったことなどに加えて、政府による、人々に全国規模での積極的な移動を促す「Go Toトラベル」、および人々に会食という最も感染しやすい機会を増やすよう促す「Go toイート」キャンペーンがあったと思われる。二〇二〇年四月七日に閣議決定された「『新型コロナウイルス感染症緊急経済対策』について」という文章には、「Go Toキャンペーン(仮称)として、新型コロナウイルス感染症の拡大が収束した後の一定期間に限定して、官民一体型の消費喚起キャンペーンを実施する」と明記されていた。しかし、政策決定者の意志にここでも「こうあって欲しい願望」に身を委ねる習性が働いて、“短期間で収束して欲しい”という願望だったはずのものがいつのまにか“まもなく収束するに違いない”という楽観的な結論に変じ、まだ「新型コロナウイルス感染症の拡大が収束」していないにもかかわらず、なんと早々と七月二十二日から運用が開始されてしまったのである。
 しかし、これから先、仮にワクチンの早期開発などいくつかの幸運が重なったとして、新型コロナウィルス感染が敗戦、原発事故に続く「第三の悲劇」にまで至らずに収束するといった、「こうあって欲しい願望」どおりの進行になった場合には、それは、辛うじて日本の基層文化のプラス面が力を発揮したからだということになるのだろう。私は『深層日本論』で次のように述べた。

 東日本大震災では、あれほどにすさまじい被害が出ているのに、商店略奪、暴動、支援品強奪といったことがほとんど起きず(火事場泥棒的な窃盗・詐欺などはいくぶん生じたようだが)、また被災者たちも力を合わせて助け合い、辛抱強く苦難に耐えていたことに対して、世界各国から称賛の声が上がった。
 日本人のこのような資質は、色濃く継承されてきている縄文・弥生期以来のアニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性のうちのプラス面の発現である。このプラス面は、縄文・弥生期的なムラ社会の秩序観に、古代中国から流入してきた儒教・仏教などの価値観・道徳観がヤマト文化本来のアニミズム系文化で和らげられて融け込むことによって形成されたものである。

 国民皆保険制度が富裕層でない感染者でも病院に行きやすい条件を作っていたり、幕末から明治にかけて日本にやって来た欧米人の日記が記録しているように、日本人は伝統的に清潔好きで、衛生観念も高かったようであり、また家の中には履き物を脱いで入り、そのうえマスクをつけることにあまり抵抗を感じないなどのことが、新型コロナウィルスの爆発的感染をぎりぎりのところで食い止めているのかもしれない。そして、「縄文・弥生期以来のアニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性のうちのプラス面」が発揮されて〝世間の目〟による抑制が働いた結果、感染抑え込みのための外出自粛や休業要請が、軍や警察が銃で脅したり、罰金を科したりするまでのことをしなくても、ある程度までは国民の多数の部分で自発的に守られたことが、効果を発揮したことになるだろう。しかし、同書で次のようにも書いた。

一方で、アニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性には、合理的思考を遠ざけ、自分の所属する共同体の内側の価値観だけに引きこもる傾向があるというマイナス面がある。このマイナス面が、国際社会との関係作り、他国との戦争や、核物質という制御がいちじるしく困難なものとのかかわりというような、最もリアリズムの眼が求められる局面においては、悲劇的な結末(たとえば一九四五年の敗戦や二〇一一年の福島第一原発の爆発事故など)を招来することがある。


 今ならば私は、この「制御がいちじるしく困難なもの」の中に、「核物質」だけでなく、感染症の世界的流行(パンデミック)も加える。(以下略)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講座「女系天皇--天皇系譜を源流から考え直す」のお知らせ

2021年07月03日 | 日本論
●朝日カルチャーセンター新宿教室で、「女系天皇--天皇系譜を源流から考え直す」と題して、1回講演(講義)をすることになりました。
 日程は、2021年9月29日(水)の、午前10:30~12:00(1時間30分)です。詳しくは、以下の朝日カルチャーセンターのサイトを参照してください。

https://www.asahiculture.jp/course/shinjuku/69ec4a32-7ad8-5c5f-6275-60837f73cb06

【講義要旨】
 皇位継承問題の議論では、天皇存在の本質・源流を、どの時代の、どのようなあり方にもとめるかによって違いが出ます。男系かつ男子継承絶対主義が明文化されたのは、明治時代の大日本帝国憲法・旧皇室典範からですから、実はそれは近代に入ってからの新しい事象なのです。江戸時代までには、8人の女性天皇も存在しました。600年代末の天武・持統天皇時代に男系かつ男子継承の唐の皇帝制度の積極的移入(模倣)を進めましたが、女性族長は弥生時代の卑弥呼を含めて各地に存在していたようですし、女性天皇は推古天皇(592年即位)以来の伝統がありましたので、『古事記』『日本書紀』の天皇系譜は、男系継承だけに限定・選択して整備・編集されたようです。500年末くらいまでの無文字時代の日本には文献史料がないので、文化人類学や考古学の知識を援用して、最も古いと思われる源流を理論的に推測する以外にありません。すると、少なくとも弥生・古墳時代の日本列島文化では、族長には男性も女性も存在していて、男性族長には男系継承が、女性族長には女系継承が用いられ、臨機応変に男系・女系継承が使い分けられていたのだろうと推定されるのです。


●ところで、今のところ、この講演は、オンラインではなく、対面講座のかたちで行う予定になっています。
 一般に教養講座の聴講者は、中高年層が多い。それら中高年層のほとんどは、9月29日の10日前くらいまでには、ワクチン接種が終了しているものと思われます(ちなみに、私は5月30日に第1回接種、6月25日に第2回接種が終了しています)。そのうえ、聴講者の人数を減らして教室内を密にせず、ドアと窓を開けて換気を良くするなどすれば、対面形式の講座が可能なのではないかと考えています。できるならば、マスクなしで話したいのですが、さすがにそこまでは無理かもしれませんが。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「女性自身」web版で皇位継承の本質・源流について述べました

2021年05月12日 | 日本論
●「安定的な皇位継承策を議論する政府の有識者会議」が進行中です。今までの報道によるかぎり、天皇制とは何か、天皇位継承の本質・源流は何か、といった論議はなされていないようです。
 このような中で、「女性自身」編集部からの取材がありましたので、天皇位継承問題についての私の考えを述べておきました。「女性自身」web版です。なお、以下の総タイトル部分は、編集部が付けたものです。正確には、後半部は「族長位継承は女系と男系のない交ぜが日本の最も古い伝統である」とするのが私の真意に近いです。ともかく、全文を、そのまま引用しておきます。

「男系限定は中国の模倣」女系天皇容認が日本の伝統である理由
https://jisin.jp/domestic/1976218/

────────────────── 
「男系限定は中国の模倣」女系天皇容認が日本の伝統である理由
 政府は3月、安定的な皇位継承のあり方を検討する有識者会議を招集。女性天皇や女系天皇の是非を含め、皇位継承権の範囲などについて検討を進めている。
 菅義偉首相はこれまで「男系による継承が絶えることなく続いてきた重み」をことあるごとに強調してきた。しかし、その発言に異を唱える研究者がいる。
 今年1月、『女系天皇 天皇系譜の源流』(朝日新書)を上梓した大東文化大学名誉教授の工藤隆氏だ。その中で工藤氏は「男系と女系がないまぜとなった継承こそが本来のヤマト文化」だと主張しているのだ。いったい、どういうことなのだろうか? その根拠を工藤氏に解説してもらった(以下、「」内は工藤氏)。


「去年の8月、河野太郎防衛大臣(当時)がインターネット番組で『安定的な皇位継承に向け、父方が天皇の血を引かない女系天皇も検討すべきだ』と、踏み込んだ発言をしました。女系天皇容認論を時の大臣が公言したということで話題になったのですが、その河野氏ですら『我が国の皇室は、過去ずっと男系で継承されてきており』という前提で話しています。この認識がそもそも正確ではないのです。
 男系での皇位継承が本格的に採用されたのはあくまでも西暦600年代以降です。当時、隆盛を誇っていた中国大陸の唐を手本に国家体制を整える中で、皇位継承についても唐を模倣して男系に限定されたと考えられます」

西暦600年代というと飛鳥時代にあたる。宮内庁のホームページにも掲載されている天皇系図では、初代の神武天皇が即位したのは紀元前660年の縄文時代とされているが、


「縄文、弥生など非常に古い時代にも天皇氏族が存在したかのように記述された天皇系譜は、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にまとめられているのですが、それらは700年代初頭の権力集団である天皇氏族が整理・編纂したものであり、客観性という点ではかなり疑わしいのです。
 近年の研究では、そもそも『天皇』という称号が登場したのは600年代末、天武天皇、持統天皇の時代です。『古事記』や『日本書紀』で、初代・神武からすべての『大王(族長)』に『天皇』号を与えてしまったことによって、非常に古い時期から天皇氏族が存在していたかのような錯覚が生じています。
 王(皇帝)が男系継承でかつ男性でなければならないというのは、もともと中国・漢民族由来の思想です。日本でも、500年代くらいから族長位継承は男系継承優位に傾いてはいたようですが、600年代末から700年代初頭、唐の国家体制を模倣するうちに、天皇につながる古い時代の大王(族長)の系譜も男系でまとめたほうがいい(男性でなければならないという部分は受け入れませんでしたが)という観念が優位になり始めたのでしょう。そして、以後の皇位継承を男系に限定するだけでなく、それ以前の大王の系譜にも、おそらくはいくつかの創作や改変を加え、初代・神武から続く男系の天皇の系譜として『古事記』や『日本書紀』にまとめたのではないかと考えられます。綏靖(すいぜい)天皇(2代)、懿徳(いとく)天皇(4代)の系譜に残された女性始祖の痕跡や、継体天皇(26代)の系譜に見られる女系継承の痕跡などは、男系継承への整理作業から漏れ落ちた事例だと考えられます」

それでは600年代以前、縄文・弥生から古墳時代に至る古い時代の族長位(皇位)継承は、どのようになされていたと考えられるのだろうか?


「当時の日本列島には、弥生時代の卑弥呼をはじめとして、数多くの女性リーダー(族長)が存在したらしいことは、『古事記』『日本書紀』『風土記』からわかります。九州から関東まで、何人もの女性族長の存在が伝承されています。また、同じ九州から関東までの地域で、被葬者が女性と推定される古墳が少なくとも18例はあるという考古学者の報告もあります。
 族長位継承の実態については歴史的資料が乏しいものの、文化人類学的資料を参考にすれば、古い段階では男性の族長と女性の族長の両方が存在していたと考えられます。これも推測ですが、女性族長がいれば、女系継承もありえたでしょう。すなわち、600年代以前の族長位の継承は、男系と女系の両方がないまぜになっていたのではないかと推測されます。『古事記』『日本書紀』の天皇系譜でも、推古天皇(在位592~628年)など、600年代以後にも女性族長(女性天皇)が珍しくありませんでした。やはり、男系と女系がないまぜになって継承されていた古くからの感覚が600年代以後にも生き続けていて、少なくとも女性天皇は可とする考えははっきりと維持されていたのでしょう」

701年には日本初の成文法である「大宝律令」が制定されて、その中の「継嗣令(けいしりょう)」には、皇族の世継ぎや婚姻についても規定されていた。

「《およそ天皇の兄弟と皇子を、皆親王とせよ》としたうえで、《女帝の子もまた同じ》という注がつけてあるのですが、女帝の子の父についての条件は書かれていません。この条文の解釈には諸説がありますが、私は、女帝の夫が男系の皇族ではない人だったとしても、つまり“女系”の子でも、皇位継承権のある親王になれるという共通認識が、当時の権力者にはあった可能性があると考えています。
 その後、『古事記』や『日本書紀』がまとめられた奈良時代(710年~)には、皇位継承は男系重視に強く傾いていったのですが、それが明文化されることはなく、女性天皇はもちろんのこととして、女系天皇も許容される余地が微かに残されていたのだと思われます」

女性天皇に限っていえば、実際、江戸時代(1603年~)にも、明正(めいしょう)天皇(109代、即位1629年)、後桜町(ごさくらまち)天皇(117代、即位1762年)という2人の女性天皇がいた。


「皇位継承の規定を『男系』ばかりか『男子』とまで明文化したのは、明治時代(1868年~)の大日本帝国憲法下で制定された旧皇室典範が初めてなのです」

天皇氏族が紀元前から存在し、その系譜が男系継承だけだったとする考え方が国家の法によって支持されたのは、明治時代以後のことである。それを踏まえたうえで、工藤氏が皇位継承問題についてこう提言する。

「現行の皇室典範にも規定されている“男系かつ男子継承絶対主義”に固執する限り、皇位継承の危機的状況から抜け出すことはできないでしょう。もともと日本列島のヤマト文化では、族長位(皇位)の継承にも男系と女系が併存していて、おそらく臨機応変に両者が使い分けられていたのだと思われます。男系継承の強化は唐の皇帝制度の、日本古代国家整備の必要性に後押しされた模倣だったのであり、それに男子継承まで加えたのは西欧列強との対抗を意識した明治政府の選択だったのだから、21世紀の近代国家日本では、そろそろその模倣の行き過ぎから脱して、ヤマト文化本来の姿に戻る時期が来たのではないでしょうか」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『女系天皇』の楽しくかつ高度な書評(斎藤美奈子氏)に出会えました

2021年04月20日 | 日本論
●私の本を書評するには、いくつかの困難が伴うようです。まず、書評者のあいだでは、〈古代〉を、〈古代の近代〉と〈古代の古代〉に分けることに不慣れな感性が一般的だからです。600、700年代の〈古代の近代〉は、大陸の国家にならって本格的に国家建設を進めた時期であり、法律、戸籍、軍隊、徴税制度、都市などの整備が進み、文字(漢字)の本格的な移入も進みました。後世の例でいえば、1800年代末の明治国家成立期の、西欧近代文明受容の文明開化に匹敵する、古代なりの文明開化だったのですから、この時期にはそれ以前の〈古代の古代〉のヤマト伝統の文化にも大きな変化が生じたことでしょう。
 ところが、〈古代の古代〉の日本列島民族は無文字文化だったので、変質以前のその時代の文化状況を伝える文字文献が存在しません。
 一般常識としては、日本古代の〈源流〉にまでさかのぼって考えるときには、『古事記』『日本書紀』の記事を参照すればよいということになっています。しかし、最古のまとまった文献史料としての『古事記』の成立は712年、『日本書紀』の成立も720年の、つまり古代なりの大変革期であった〈古代の近代〉の作品、つまり古代としては相当に新しい段階の作品なのです。
 実は、日本列島文化の伝統は、短く見ても、縄文・弥生・古墳時代の1万3千余年の期間を持っています。この1万3千余年の〈古代の古代〉についての直接的な文献史料はほとんどありません(『魏志』倭人伝など中国古典籍などの間接的史料を除いて)。
 一般に、学問的研究においては、確かな証拠を提示することが前提になります。しかし、無文字文化時代の〈古代の古代〉のヤマト文化については、文献史料が無いので、考古学的資料に頼る以外にありません。しかし、考古学的資料は建物・道具・人骨など〈物〉ですから、歌など〈ことば〉の文化についてはまったくわかりません。そこで私は、『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、2021年)で次のように述べました(56ページ)。

モデル理論で文献史料以前に迫る
 無文字文化主流の時代の大王・族長の系譜について、文献史料的に確実なことが言えないという点に対する態度は、①史料が無いのだからこの部分については言及しない(棚上げにする)、②数少ない文献史料と文化人類学的報告(たとえばのちに紹介する母系に発する中国少数民族ワ族の系譜の調査報告など)や民俗学資料および縄文・弥生・古墳時代の考古学的資料を組み合わせて、できる範囲で客観的な推定をする、③確かな根拠を示すことなく恣意的な像を描く、という方向性の違いがある。
 現在の日本古代史および日本古代文学の学界の基本的態度は、①の「棚上げにする」である。戦前の皇国史観思想では、③の「恣意的な像を描く」であった。それに対して私は、②の「できる範囲で客観的な推定をする」という立場である。
 私は、この②の立場に用いる方法をモデル理論と呼んでいる。主として中国などの辺境に縄文・弥生期とほとんど変わらない状態で生活してきた民族の、無文字文化のことば表現や、呪術・祭祀などの実態を調査して得られた資料を手がかりにしてモデルを作り、そのモデルから日本最古の本格書物『古事記』(七一二年)以前の日本列島文化を、ホログラフィーのように浮かび上がらせる方法である。
 文化人類学・民俗学や考古学の資料を素材として、できるかぎり正確ないくつかの情報をインプット(投入)し、それらを統合した一つの立体像をレーザー光線で浮かび上がらせるホログラフィーの手法である。立体像はそこに浮かび上がるのだが、その部分に手を差し入れても実体はない。したがって、このホログラフィー手法によって浮かび上がってくる〈古代の古代〉像は、あくまでも一種の仮想現実としての像である。しかし、立体像がまったく無い状態や、あっても歪んだ立体像を思い浮かべたり、あるいはまったく無根拠の妄想的立体像を描いているのに比べれば、まだましであろう。
 ただし、モデル作りの素材としては、中国の長江(揚子江)南・西部の諸民族の文化資料が最も適している。なぜなら、この地域は日本列島と同じアジアであると同時に、かつて水田稲作そのほかさまざまなものを日本列島に伝えた源にあたる地域だからである。

 現代日本の知識人の多くは、「①史料が無いのだからこの部分については言及しない」という立場をとっているようです。しかし、日本の本質について真剣に論じようとするときには、どうしても〈源流〉に言及せざるをえないときがあるので、そういうときには『古事記』『日本書紀』を参照することになります。
 しかし、『古事記』『日本書紀』の専門研究の学界の大勢は、〈古代の古代〉についての論理化に対しては問題意識が低く、古代史学界と同じく「棚上げにする」という態度です。そのような中で、折口信夫は、なんとかしてその壁を突破しようとして、文化人類学的研究に強い関心を持ちました。彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩書房、1965年)と述べているように、日本古代文学を発生・源流の側から把握するには「エスノロジー」(民族学、文化人類学)との交流が不可欠だと認識していたのです。しかし、現在の古代文学研究者の一部(私もその一人)が推進しているような少数民族文化の現地調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口には実現できなかったのです。
 したがって、現在の『古事記』『日本書紀』研究の旧来の水準や、時代の制約ゆえにもう一歩を踏み出すことができなかった折口信夫の古代研究に依拠しているだけでは、日本の〈古代の古代〉にはたどり着けません。
 私は、『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(中公新書、2006年、1ページ)で、次のように述べました。

古事記の四つの顔
 『古事記』(七一二年成立)には、大まかには四つの顔がある。神話の書、文学の書、神道の教典の書、天皇神格化のための政治の書という顔である。この四つの顔が渾(こん)然(ぜん)一体となって『古事記』という一つの作品になっているのだが、これらのうちのどの部分を強調するかによって『古事記』は異なる表情を見せてくる。
 神社神道においては神道教典としての側面が強調される。皇国史観が支配的だった明治以後の時代には神社神道だけでなく国家神道の教典ともなり、天皇神格化の側面が突出した。しかし、一九四五年の敗戦以後、日本が民主主義国家に転じたことによって神社神道・国家神道の教典と天皇神格化の側面は遠くに退き、代わりに神話、文学の側面が浮上して現在に至っている。

 このうちの「天皇神格化のための政治の書という顔」は、『日本書紀』においてはさらに強められました。私は、『女系天皇──天皇系譜の源流』で次のように述べました(182ページ)。

 六〇〇年代末には、諸氏族の持っている「帝紀」と「本辞(旧辞)」には多くの「虚偽」が加わっているという認識が一般的だったのだ。ましてや、当時の最高権力者である天皇の場合には、その系譜にはさらに多くの「虚偽」が加えられた可能性がある。先の「天武天皇紀」十年の記事でわかるように、のちの『日本書紀』(七二〇年)に向けての編集委員が、川嶋皇子以下、皇族あるいは皇族と縁の深い氏族の人たちで占められていたのだから、『日本書紀』の内容が、天皇氏族に有利なものに傾斜するのは当然だったろう。川嶋皇子は、三十八代天智天皇の皇子、忍壁皇子(刑部親王など別表記あり)は四十代天武天皇の皇子である。したがって、天皇系譜の整備が天皇氏族に有利なものに傾斜するのは当然だったはずであり、男系男子継承の唐の皇帝制度を模倣するという政治方針がとられた以上、少なくとも「男系」の部分だけは貫徹しようとして、大小の創作・改変・捏造が加えられたであろうことも間違いあるまい。

 このような私の論理に対して、柔軟に対応できる書評者が現れました。斎藤美奈子氏の「今週の名言奇言」(「週刊朝日」2021年4月2日号)です。私の文章の「大宝律令の時代には、女性天皇はもちろん、女系天皇も容認されていた」という一節を「名言奇言」として取り出したうえでの書評です。
 この書評は、『古事記』『日本書紀』に対する過度な信頼感から逃れることと、〈古代の古代〉への接近には長江流域少数民族文化など文化人類学的資料に頼らざるをえないこと、この二つを軽々と受け入れることができているという点で、“高度な”書評であると評価できます。特に、「著者は文化人類学的手法を用い、中国西南部で、長江流域の少数民族の族長の系譜の調査まで行っている!」という文章の「!」の部分に、斉藤氏の感性のしなやかさ、柔らかさを感じました。以下にその全文を引用します。

───────────────────────── 
《今週の名言奇言 (「週刊朝日」2021.4.2)》
 『女系天皇 天皇系譜の源流』(朝日新書) 工藤 隆著
斎藤美奈子「今週の名言奇言」
 「大宝律令の時代には、女性天皇はもちろん、女系天皇も容認されていた」

 女性宮家は創設すべきか、女性天皇は認められないのか。皇室問題はいま、大きく揺れている。工藤隆『女系天皇』はそんな議論に一石を投じる快著。
 天皇は古来、万世一系の男系によって継承されてきた。と私たちは聞かされてきた。でも、その「古来」っていつ?
  『古事記』『日本書紀』だと人はいうけど、じゃあその前はどうなのか。無文字文化時代まで視野に入れて考えないと話にならぬと著者はいう。軍国主義の時代、皇室の歴史は紀元前660年にはじまるとされていた。紀元前660年って縄文時代末期か弥生時代初期だぞ。
 古代には「古代の古代」と「古代の近代」があって、「古代の古代」は文字がなかった縄文・弥生・古墳時代。「古代の近代」は文献資料が残る西暦600年前後~奈良時代。記紀が編纂されたのは「古代の近代化」が進んだ時代で、当時の日本は先進国である唐の思想を手本にしていた。つまり記紀の天皇の系譜が男系に整えられているのは<唐皇帝の男系男子継承を模倣した>結果。創作や改変や捏造もされた可能性がある。
 それ以前の「古代の古代」の時代には、王の継承は父系も母系もないまぜだった。それを証明するのに著者は文化人類学的手法を用い、中国西南部で、長江流域の少数民族の族長の系譜の調査まで行っている!
 「古代の近代」の思想を明治の大日本帝国憲法が明文化し、軍国主義下の日本はそれを絶対視し、戦後の新憲法や皇室典範もその呪縛から逃れられなかった。だから<まず唐文化の絶対視・模倣を停止すべきである>と本書は提言するのである。
 女性天皇問題が政治的案件として浮上したのは小泉純一郎内閣時代。2005年、「皇室典範に関する有識者会議報告書」は女性天皇、女系天皇への道を開くのは不可欠と結論づけた。<大宝律令の時代には、女性天皇はもちろん、女系天皇も容認されていた>のであれば、女性を排除する理由はないよね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森喜朗会長事件と深層日本

2021年03月04日 | 日本論
●東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(当時)の「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」などを含む一連の発言(2021年2月3日)が、女性蔑視・女性差別だと問題視されて、結局会長辞任となりました。
 この経緯を見ているうちに、今回の事態は、『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』(新潮新書、2019年)に書いた、次のような部分がそのまま当てはまる事態だと感じました。その「敗戦と原発事故」という部分(222ページ)を、以下にそのまま引用しておきます。
 この部分には、「それらの多くはその場限りの儀礼的謝罪や、表面を繕うだけの擬装改革で時間稼ぎをし、その原因である「空気」の部分は手つかずに生き続けていくのである(牛の歩みのようにゆっくりではあるが少しずつ改良の変化は起きつつあるようだが)」とあります。森会長事件の場合は、「その場限りの儀礼的謝罪や、表面を繕うだけの擬装改革」、つまり、2月4日に森会長が記者会見を開き、発言を撤回し、謝罪する「その場限りの儀礼的謝罪」で済まそうとしたのですが、今回はそれだけで済ますことができずに、最終的に辞任に追い込まれたところに、日本社会のあり方にも「牛の歩みのようにゆっくりではあるが少しずつ改良の変化は起きつつある」と感じました。

─────────────────────── 
敗戦と原発事故
 しかしながら、アニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性の伝統のうちの、特にムラ社会性・島国文化性がもたらすマイナス面については、ここで特に言及しておく必要がある。というのは、私の約七十六年の人生を振り返ってみて、日本文化を基層部分からとらえ直さないかぎりその原因が理解できない国家的悲劇が二つあったからである。
 その第一は、一九四五年の敗戦で終わったアジア・太平洋戦争への突入である。それは、日本軍がアジア全域で行なった戦争行為で多数の死傷者と荒廃を生じさせただけでなく、アメリカ軍の無差別爆撃により日本全土が焦土と化し、究極の無差別大量殺戮道具である原子爆弾も二個まで落とされ、兵および民間人の日本側総死者数は三百十万人を超え、最終的には無条件降伏して連合国軍(占領軍)の支配下に入るという悲惨さだった。ただし、敗戦の年の私はまだ三歳だったので、戦争の記憶はほとんどない。わずかに思い出されるのは、空襲警報が出て、だれかに防空壕に運び込まれた微かな記憶だけである。
 この戦争への突入と、結果として敗戦、国家破滅(あるいはその直前)にまで至った原因については、さまざまな分析がなされている。
 象徴的な一例として、真珠湾攻撃に踏み切る一か月前の昭和十六(一九四一)年十一月の、軍部の状況について述べた半藤一利の文章を引用しておこう(『ドキュメント 太平洋戦争への道』PHP文庫、一九九九年)。

 いざ開戦となった場合の戦争の見通しについて、十一月十五日、大本営政府連絡会議は十分に討議した。その結論はーーアメリカを全面的に屈服させることは、さすがの日本の「無敵」陸海軍も考えてはいない。
①初期作戦が成功し自給の途を確保し、長期戦に耐えることができたとき。
②敏速積極的な行動で重慶の蒋介石が屈服したとき。
③独ソ戦がドイツの勝利で終ったとき。
④ドイツのイギリス上陸が成功し、イギリスが和を請うたとき。


そのときには、アメリカは戦意を失うであろう。栄光ある講和にもちこむ機会がある、というのがその骨子である。特に、この③と④はかならず到来するものと信じ、だから勝算ありと見積った。しかし、初期作戦不成功の場合、ドイツが崩壊した場合など、日本に不利なときについてはまったく考えられていなかった。
 この「日本に不利なときについてはまったく考えられていなかった」という意識のあり方は、二〇一一年三月十一日の東日本大震災によってもたらされた、東京電力福島第一原子力発電所の重大事故でも再現された。これが、私の人生で経験した国家的悲劇の第二である。
 この事故は、三月十一日の全電源喪失、翌十二日の水素爆発、そして格納容器内での炉心溶融(メルトダウン)へと進んだ。放射能汚染によって半径数十キロメートル地域が居住不能地域となり、二〇一九年の現在でも数万人が県外で避難生活を送っている。
 この事故は、扱いを間違えれば、さらに大きな爆発を招いて、避難地域が東北全県、さらには首都圏全域にも及ぶ可能性があった。その最悪の場合には、少なく見積もっても二千万人余(報道によれば、五千万人という試算もあったという)の住民が、日本列島のどこかに避難しなければならなくなっただろうから、それは間違いなく日本国の崩壊・破滅に近い状況であり、一九四五年の敗戦に匹敵する巨大悲劇となるところだった。
 この事故の直接的な原因には、想定を超えたマグニチュードの大地震だったこと、東京電力が津波の押し寄せる高さを低めに見積もっていたことなどがあるが、それにしても日本列島は、巨大地震・巨大津波に加えて、火山の巨大噴火の可能性もある(他国からのミサイル攻撃による破壊もありうる)。したがって、地震・津波・噴火に対しては最悪の場合を基準にして備えるべきなのである。もちろん、そのような最悪の場合の想定を発表して警告を発していた研究者たちは存在したのだが、それらの意見はほとんど採用されなかったという。これは、アジア・太平洋戦争の敗北を予想していた冷静な指摘もあったにもかかわらず、それは無視され、あるいは恫喝され、追放され、投獄されて、結局は破滅的敗戦に至った第一の悲劇の場合と同じである。
  日本社会におけるこのような、ムラ社会的な決定のされ方を、「空気」という語で説明したのが山本七平『「空気」の研究』(文春文庫、一九八三年、原単行本一九七七年)である。

・「空気」とは一体何なのであろう。それは教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯がたたない“何か”である。(略)彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任は誰も追及できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探究の方法がない。
・「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。(略)統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。
・「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。


 それではそのような「空気」がどのようにして形成されたのかだが、私流にいえば、「超能力」すなわちほとんどDNAレベルの「空気」を醸成した源は、日本文化の、アニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性の伝統の中のマイナス面にその源を持っている。それは縄文時代も含めるなら、一万年余の歴史の中で醸成されたものなので、明治の近代化、一九四五年の敗戦による近代化を経てもなお、そう簡単に改革することのできない「超能力」である。ハンチントンの日本評が、「基本的な価値観、生活様式、人間関係、行動規範においてまさに非西欧的なものを維持し、おそらくこれからも維持しつづける」としたのも、彼がこの「空気」の存在を感知したからであろう。この「空気」は、敗戦後にもしっかり日本支配を続けている。そして、二一世紀に入った現在でさえ、日本の政治社会、官僚組織、企業組織、スポーツなどの連盟組織、その他あらゆる種類の集団組織において、ハンチントンのいう「集団主義」「階級制」「権威」「血族関係」「排他主義」「同質性」など、ムラ社会性・島国文化性のマイナス部分が、依然として力を持ち続けている。そして潜在化しているそれが、ときどき不祥事、事件、醜聞(スキャンダル)として表側世界に浮上してマスコミの話題になる。しかし、それらの多くはその場限りの儀礼的謝罪や、表面を繕(つくろ)うだけの擬装改革で時間稼ぎをし、その原因である「空気」の部分は手つかずに生き続けていくのである(牛の歩みのようにゆっくりではあるが少しずつ改良の変化は起きつつあるようだが)。
 この「超能力」の「空気」が、原子力行政においては、地震・津波・噴火に対して最大限の対策が必要だという現実直視の提言を無視する、政権側政治家・官僚・電力会社そして原子力学者まで含む“原子力ムラ”を誕生させた。この原子力ムラでは、安全基準よりも経済性が優先されたうえに、事故が起きた場合でも何重にも防御装置が働くから、全電源喪失やメルトダウンは起きるはずがないという自信過剰から来る楽観論が支配的であった。
 日本の原子力の専門家たちは、太平洋に戦線を拡大したときに敗戦はまったくの想定外としていたかつての日本軍部と同じように、津波の到達点を、三陸海岸の過去の大津波の事例が示す恐ろしい事実から目をそらして低く想定し、〝こうあって欲しい願望〟に身を委ねてしまっていた。その結果、原子力安全委員会の「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」(一九九〇年決定、二〇〇一年改訂)の「Ⅳ・原子炉施設全般」の「指針27 電源喪失に対する設計上の考慮」に次のように書くほどに、「全交流動力電源喪失」への備えが極度に低かった。

 長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい

 私は、原子力発電所建設を推進した専門家たちには、いやしくも科学者である以上、現実直視の眼が貫かれているはずだと思っていた。しかし、専門家たちの多くが、「全交流動力電源喪失」は「考慮する必要はない」「想定しなくてもよい」と確信していたことを知って、私は驚いた。そして、重大事故発生後の東京電力、原子力安全・保安院、原子力安全委員会の関係者が、ほぼ異口同音に「この事故は想定外だった」と述べていたことに衝撃を受けた。「想定外だった」というのは、自分たちが科学者としてはいかに無能であったかを告白していることになるのである。
 日本社会が、目先の利害を優先し、“こうあって欲しい願望(いわば夢物語)”に身を委ね、最後にもたらされるかもしれない破綻への想像力を欠き、最終的に破滅的結末を迎えるのは、日本文化の、特にムラ社会性・島国文化性の伝統のマイナス面に原因があると私は考えている。これらの責任の第一はそのような方向に国民を誘導した政権側政治家・経済人・知識人・科学者・軍人(アジア・太平洋戦争の場合)など指導層にあるが、そのような指導層を無批判に支持し続けた大多数の国民にも責任の第二がある。
 福島第一原発の「事故調査・検証委員会」が設置され(二〇一一年五月二十四日、閣議決定により発足)、その委員長に「失敗学」で知られる畑村洋太郎が起用された。その畑村が、福島第一原発の事故を引き起こした津波想定の極端な低さをめぐって、東京電力および原子力科学者の心理を分析して、次のように言っている。

 見たくないものは見えない。聞きたくないことは聞こえない。自分たちが困ることは考えないための理由をたくさん並べて結局、考えない。(「産経新聞」二〇一一年四月二十日)


  つまり、原子力の専門家たちは、アジア・太平洋戦争のときの日本軍部が「日本に不利なとき」については考えないことにしたのと同じような心理で、致命的な事故の想定については考えないことにして原発建設にのめり込んでいったのであろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『大嘗祭―隠された古層』が刊行されました

2021年02月02日 | 日本論
●工藤隆・岡部隆志・遠藤耕太郎編『大嘗祭―隠された古層』(勉誠出版)が刊行されました。

●一般社団法人・アジア民族文化学会の、2019年秋季大会のシンポジウム「大嘗祭-隠された古層」が元になった単行本が、勉誠出版から刊行されました(2021年2月1日)。
私の論文「大嘗祭と天皇制」と岡部隆志論文「秘儀としての大嘗祭―曖昧なる天皇の超越性」と、そのときの討論記録が主体となっています。そして、新たに「刊行の意義」(遠藤耕太郎)、「大嘗祭を取材して」(高島博之)、およびオンライン座談会「大嘗祭の今とこれから」(工藤隆・岡部隆志・山田直巳・高島博之、司会:遠藤耕太郎)が加わりました。さらに巻末には、大嘗祭の原型を論じるにあたって私や三品彰英が論拠の一つに用いている「マレー半島セランゴール地方の収穫儀礼」(W・W・スキート)の原文からの直接翻訳(遠藤見和)が掲載されました。

●私は『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』 (中公新書、2017年)の「はじめに」の冒頭で、次のように述べました。

 大嘗祭は、あたかも地下を流れる伏流水(ふくりゅうすい)のような、不思議な祭式である。新天皇が誕生するときには一気に注目を浴びて大々的に報道されるが、普段はよほど特別な専門家以外にその存在を意識する人はいない。大嘗祭が終了するとたちまちに報道はなくなってしまい、やがてほとんどの人々の記憶から消えていってしまう。しかし実は、大嘗祭は、次の新天皇の大嘗祭に向けて、地下を静かに流れ続けているのである。

  2019年11月の令和の大嘗祭が終わると、やはり「たちまちに報道はなくなってしまい、やがてほとんどの人々の記憶から消えていってしま」って、2021年の現在に至っています。
  このような状況の中で、本書『大嘗祭―隠された古層』は、大嘗祭を、天皇制の本質と、日本社会の本質を見つめ直す論考として、大きな位置を占めることになるでしょう。

─────────────────── 
  工藤隆・岡部隆志・遠藤耕太郎編『大嘗祭―隠された古層』

目次

『大嘗祭 隠された古層』刊行の意義   遠藤耕太郎

大嘗祭と天皇制   工藤隆
 一……大日本帝国憲法・旧皇室典範と天皇制
 二……日本国憲法・新皇室典範と天皇制
 三……大嘗祭の源流 
 四……天皇霊の問題
 五……天武持統政権─日本的統治機構のスタート
 六……大宝律令に見る天皇祭祀の基本構造
 七……天武持統期に大嘗祭の本格的整備開始
 八……〈古代の近代化〉の反作用としての「古」への回帰

秘儀としての大嘗祭―曖昧なる天皇の超越性   岡部隆志
 一……天皇の超越性
 二……大嘗祭の二つのとらえ方
 三……天皇が帯びる霊威の解釈
 四……曖昧さこそが大嘗祭の本質
 五……大嘗祭における祭神
 六……皇祖アマテラス祭神説が抱える問題
 七……大嘗祭の特徴をまとめると
 八……「大嘗の祭」祝詞に見る大嘗祭の構造
 九……天皇の曖昧さと秘儀の役割

シンポジウム討議 「大嘗祭 隠された古層」
 パネリスト:工藤隆・岡部隆志 司会:遠藤耕太郎
 一……大嘗祭の古層
 二……天武持統朝と大嘗祭
 三……大嘗祭と情念
 四……大嘗祭と女性性・天皇制
 五……曖昧な大嘗祭と日本
 六……祀る神と祀られる神
 七……ツカサの就任儀礼と大嘗祭
 八……東アジアの新嘗儀礼

大嘗祭を取材して   高島博之
 一……はじめに
 二……退位の意向
 三……大嘗祭の位置づけ
 四……秋篠宮さまの反発
 五……大嘗祭とは何か
 六……実際の大嘗祭

座談会 大嘗祭の今とこれから
 工藤隆・岡部隆志・山田直巳・高島博之 司会:遠藤耕太郎
 一……大嘗祭の捉え方
 二……折口信夫の大嘗祭論
 三……秋篠宮発言をめぐって
 四……世界文化遺産としての大嘗祭
 五……天皇が継承するもの
 六……天皇の根拠
 七……皇位継承のこれから
 八……天皇制のこれから

◉付録資料 「マレー半島セランゴール地方の収穫儀礼」W・W・スキート(翻訳 遠藤見和)
 一……稲魂の回収儀式の準備 
 二……田で母穂束から稲魂を取る儀式
 三……稲魂を再生させる儀式
 四……三日後の脱穀と乾燥
 五……母穂束に関する儀式
 六……新嘗の祝宴
 七……最後の稲穂の収穫

あとがき   岡部隆志

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする