●2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻を開始し、4月19日の現在も激戦が続いています。
仮にロシアがこの侵略にやすやすと成功した場合、ロシアは次の照準をいずれかの時期に日本の北海道に合わせる可能性が出てきました。そのときに日本人及び日本軍(自衛隊)は、今現在、悲惨な状況の中でも抵抗を続けているウクライナ軍・ウクライナ国民のように、粘り強い戦いを継続できるのでしょうか。そもそも、“自衛権”を明記せず、「国の交戦権は、これを認めない」、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とまで規定している憲法9条のもとでは、厳密には自衛隊の存在自体が憲法違反だし、ロシア侵略軍に対して抵抗のために「交戦」することさえ許されないのです。
私は今、私が12年前に刊行した『21世紀・日本像の哲学』(勉誠出版、2010年)の一節を思い出しています。以下に引用するような私の指摘は、12年前にはほとんど注目されなかったようです。しかし、ウクライナでのロシアの残虐な戦争犯罪が進行中の2022年4月の現在なら、可能性として浮上してきたロシア軍の北海道侵攻にどのように備えるのか、および憲法9条問題について、今こそ、リアリズムの視点で、真剣に、急いで、考えを深めなければならないことが理解されやすくなってきたと思われます。今度こそ、日本社会の「最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」と「こうあって欲しい願望」に身を委ねてしまう資質に、少しでも現実直視の思考が加わることを祈っています。
『マッカーサー大戦回顧録』(中公文庫、2003年)に、「ソ連は、占領当初から問題を起こしはじめた。
ソ連軍に北海道を占領させて、けっきょく日本を二つに分けろという要求を持出したのだ。(略)私は真正面からそれを拒否した」とあるように、敗戦時の1945年には、ソ連軍の日本進駐の可能性は充分に存在していたのです。現ロシアの大統領(プーチン)の意識には、帝政ロシア、旧ソ連以来の領土拡張への病的な固執が巣くっています。プーチンの意識の中では、1945年ごろの北海道占領への思いは、むしろ、2022年の現在にこそ、いっそう生々しく燃えさかり始めている可能性があります。
以下に、同書の138~149ページを、そのまま引用します。
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『21世紀・日本像の哲学』(勉誠出版、2010年)138~149ページ
アメリカは日本の経済再建を支えた
話を元に戻せば、敗戦後の日本が占領軍を平穏に受け入れた結果として、アメリカ占領軍による前述のさまざまな改革が実現した。これらの改革は〝自由主義〟の方向を向いていたので、マルクスの、生産関係(経済)の「土台」「下部構造」が政治・文化一般の「上部構造」を規定しているという考え方に即して言えば、アメリカ占領軍は、まず「上部構造」を自由主義の方向に改革したわけである。
ただし、財閥解体は「土台」「下部構造」の経済部門の自由化だったが、それ以前の問題として敗戦までに日本の経済部門は壊滅的な打撃を受けていたので、「土台」「下部構造」の問題としては生産体制の復興がまず第一の課題だった。早めに降伏して敗戦による被害を最小限にするというリアリズムの眼がないままの敗戦だったので、主要都市を無差別爆撃で徹底的に破壊され、そのうえ原爆を二個まで落とされて民族絶滅の一歩手前まで行き、それでもまだ軍部は「一億総玉砕」など叫んでいる中での無条件降伏であった。
アメリカは、物資や金銭で日本を支援した。それと同時に、アメリカ型の製品の品質管理システムを日本企業に伝授し、それを日本人はアメリカ本国よりさらに高度に磨き上げた結果、現在のように日本製品は質が高いと評価されるまでになった。
製品の品質管理システムが伝授されたとき、日本人はそれを伝統的な勤勉さによって学習した。六〇〇、七〇〇年代の〈古代の近代化〉のときと同じように、たとえ敵対していても優れた能力を持った者ならその相手から学ぼうとする〝謙虚さ〟も持っていた。また、それを使用する人の立場に立って少しでも満足してもらえるようにと改善を重ねる〝思いやり〟〝気配り〟の精神や、製品の人の目に触れないような部分でも誠実な作業態度を貫くという責任感の強さ、そして工芸品での高い技術の伝統もあったので、日本で独自にくふうされた良質な製品が世界中に広がることになった。
このような勤勉、謙虚、思いやり、気配りといった日本人の特性の基盤には、縄文・弥生期以来の原型生存型文化があり、その中心には自然界のあらゆるものに霊的な存在を感じ取るアニミズムの感性がある。また、ムラ段階の社会での相互扶助の生活感覚などもあるようだ。
それまでの日本人には、ムラ型社会特有の「世間の目」を基準にして自分の行動を律する習性が身についていた。その「世間の目」は、個々人の自由を制限しすぎる、社会改革を阻害するという負の側面がある一方で、ムラ社会の内側では集団生活を安定させる役割を果たすプラス面も持っている。このプラス面の部分は、縄文・弥生期にまで根を遡れる貴重な知恵であった。この習性がさらに島国文化として国家規模にまで及び、かつ徳川幕府の鎖国政策によってほとんど「本能」に近いと言ってもいいくらいの水準にまで定着した。ただし、二十世紀後半の高度経済成長期以後には、地域共同体や家族共同体の解体、国際化の進行(欧米的近代化の本格的進行)、インターネットの普及による「世間」の範囲の変化、所得格差の拡大による社会不安の増大などによって、この「本能」に近い感性もだいぶ崩れ始めている。しかし、今ならまだ、知恵を出し合ってくふうをすれば、そのプラス面の一部を回復できるのではないかと思われる。
また江戸時代の社会では、「仁・義・礼・智・信」の儒教道徳もそれなりに庶民レベルにまで浸透していたようだ。日本仏教の、人間だけでなく動物そして自然界の山川草木にまで「仏」が宿っているとし、それらあらゆる存在に対して慈愛の心を注ぐという教えも、庶民レベルにまで浸透していた。「内発的」な条件が揃っていないのに「外発的」に西欧的な近代化を受け入れねばならなかったことによって〝無理な背伸び〟をし、アジア・太平洋戦争に突入してしまったが、本来の日本文化は原型生存型民族特有の寛容の精神を持つ文化だった。この寛容の精神、柔軟性が、アメリカ占領軍のさまざまな改革の受け入れを後押ししたのだろう。
補っておくと、
もし占領軍がアメリカではなく旧ソ連だったら、その後の日本の運命は大きく変わっていたことだろう。前出の『マッカーサー大戦回顧録』に、「ソ連は、占領当初から問題を起こしはじめた。ソ連軍に北海道を占領させて、けっきょく日本を二つに分けろという要求を持出したのだ。(略)私は真正面からそれを拒否した」とあるように、状況によっては旧ソ連軍の日本進駐の可能性は充分に存在していたのである。
前出西鋭夫『國破れて マッカーサー』にも次のように述べられている。
ホプキンズはトルーマンに、「スターリンは日本を分割し、(本州の一部を)ソ連領土としたいと考えており、占領地域に関してイギリスと我が国と協定を結びたいと希望しております」と報告する。
ホプキンズは当時のアメリカ大統領トルーマンの顧問、スターリンは当時のソ連の最高指導者。また、同書は、次のようにも述べている。
特にソ連とイギリスは、日本占領で同等の役割を強く要請し、ソ連はマッカーサーから独立した軍隊によって北海道を占領することを要求した。マッカーサーは、これを一蹴した。
その旧ソ連は、日本の敗戦から四十六年後の一九九一年に崩壊し、それからはロシア連邦となった。もし一九四五年に日本が旧ソ連によって占領されていたら、その後の日本はソ連型の陰惨なファシズム国家になっていたことだろう。あるいは、
ドイツが東ドイツと西ドイツに分割されたように(一九八九年にベルリンの壁が崩壊して分断は解消された)、北海道と東北日本はソ連型ファシズム社会、関東と西日本はアメリカ型の民主主義社会というような形もあったかもしれない。そして、九一年のソ連崩壊をきっかけとして北海道と東北日本もやっと日本国に復帰し、今ごろはその後遺症で日本国全体が政治的・経済的に大混乱に陥っていたのだと思われる。
占領軍が民主・自由のアメリカだったということは、白村江の敗北のあとに唐と新羅が仲違(なかたが)いしたこと、二度の蒙古襲来が台風などによって失敗したこと、一八〇〇年代半ばに西欧列強による植民地化をまぬがれたことに続く、四度目の歴史の幸運であったとしていいだろう。
これからの歴史の進展において、
日本国には過去の四つの危機に匹敵する大きな危機が訪れることが必ずあるだろう。そのときにも、過去の四つのような幸運に恵まれるかどうかはだれにもわからないから、幸運頼みではなく、実力でその危機を乗り越えられるような準備が必要である。
そのためにも日本人は、リアリズムの眼でとらえた「等身大の日本像」の把握を深めておくことが必要なのである。
憲法九条問題
第九条は犯罪国への懲罰条文であった
アメリカは日本の戦後復興に不可欠なものとして天皇制を残した。それが、日本国憲法の冒頭の、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定となった。
しかし、日本にアジア・太平洋にまたがる戦争を遂行させた精神的〈核〉として天皇制があり、それが軍部と結びついたことは間違いないから、アメリカとしては、天皇制を残す以上は、軍部は消滅させなければならないと考えた。そこでアメリカは、「平和憲法」という装いで日本国に第九条を与えた。したがって、「平和」を求める全人類的な理想実現のためというのは表の装いで、アメリカ側の本当の狙いは、日本国が軍事的に二度と立ち上がれないようにする、ということにあった。
「日本国憲法」第九条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
このうちの「日本国民は、………永久にこれを放棄する」という理念自体は崇高な理想として素晴らしいものだが、一九四五年の段階でのアメリカの本当の狙いは、「永久にこれを放棄する」という部分にあった。アメリカ自体は、「国際紛争を解決する手段」として「武力による威嚇又は武力の行使」を積極的に行ない続ける国だから、アメリカ自身が戦争放棄をするということはまったく考えていない。実態としては、日本国を、矯正不可能の永遠の犯罪者として扱い、少なくとも軍事面では永遠に一人前の国家として機能できないようにすることが目的だった。そのかわり、万が一日本がどこかの国から攻められることがあったときには、アメリカが軍事的に保護する、ということである。それが日米安全保障条約(一九五一年九月八日~)の真意である。
ただし、マッカーサー自身は、次に引用するように、日本国のより現実的な将来像も考慮していたようだ。
第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげてはいない。だれでも、もっている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守ることになる。(略)私は日本国民に次のことをはっきり声明した。「世界情勢の推移で、全人類が自由の防衛のため武器をとって立上がり、日本も直接攻撃の危機にさらされる事態となった場合には、日本もまた、自国の資源の許すかぎり最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第九条は最高の道義的理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権をもたないという解釈は、どうこじつけても出てこない。(略)」(前出『マッカーサー大戦回顧録』)
しかし、マッカーサー司令官の失敗は、せめてこの声明にある「自衛権」の保持のことだけでも憲法第九条に明記すべきだったのに、それをしなかったことにある。日本人の多くは、この声明の存在を忘れた。結果として、「自衛権」の記述を欠いた憲法第九条の1と2の条文のみが、多くの日本人の意識を支配することになったのである。
アメリカ側の意向は、一九五〇年に朝鮮半島で朝鮮戦争(一九五〇~一九五三)が勃発すると、「日本も直接攻撃の危機にさらされる事態となった」と判断したからであろうか、早くも日本を再軍備させ、朝鮮半島での戦争に「日本軍」を参加させようとする方向に大きく転換した。マッカーサー司令官は、まず七万五〇〇〇人の「警察予備隊」という、軍隊に準じる組織を日本側に作らせた。そのようなアメリカ側の動きに対して、しかし時の首相の吉田茂は、「警察予備隊」設置は受け入れつつも、基本的に、再軍備は「日本にとって不可能である」という立場を貫いた(五百旗頭真『占領期』読売新聞社、一九九七年)。このときの吉田首相の論理の大きな根拠になったのが、憲法第九条だった。〝日本は平和国家になりました、軍事力はアメリカに任せます〟という論理である。五百旗頭も同様の考えを述べているが、吉田首相は、勝利者が敗北者に強制した憲法第九条を逆(さか)手(て)にとって、敗北者日本の、アメリカの戦争への荷担の回避という、なかなか見事なリアリズムの戦術を駆使したことになる。
このような状況に直面してマッカーサー司令官は、みずからが日本人に与えた憲法第九条で、日本人に「懲罰」を与えすぎたことを後悔したに違いない。日本人にとっては、憲法第九条は、神々の世界から地上に下(くだ)された聖なる言葉のように受け入れられたのであり、滅多なことでは変えられない神の言葉に変じていたのである。したがってマッカーサー司令官は、やはり「自国の資源の許すかぎり最大の防衛力を発揮すべきである」という一節を、「声明」としてではなく、まさに憲法第九条の条文そのものの中に明記しておくべきだった。しかし、時すでに遅かった。新憲法は、わずか数年前の一九四六年十一月三日に公布されたばかりである。したがって彼は、簡単には「憲法改正」命令を出せなかったのだ。
ムラ社会的資質をコントロールできれば「戦力」の保持は可
敗戦後六十年以上を経た現在でも、憲法第九条をそのまま残すべきだと主張している人たちがいる。その考え方の一部には、「武力によらない平和外交の方がはるかに現実的で経済的」という主張(加藤周一、「毎日新聞」二〇〇八年十二月六日夕刊の訃報記事より)があるようだが、これが吉田首相のリアリズム意識を継承したものなら、これはこれでなかなか高度な目くらまし戦術だということになる。実態としてはアメリカ占領軍による保護を受け続け、あるいはアメリカの軍事力を一種の「傭兵」として雇い、かつ自衛隊という実質的な軍隊も保有したうえで、「平和外交」を主張しているのだから、日本人の「平和憲法護持」行動は、実はかなり狡猾な戦術だということになる。
しかし、「2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という条文に対して、加藤周一はどのように考えていたのだろうか。加藤のような主張の中心には、もしいま日本国憲法が、他国からの攻撃に対する「自衛権」の保有と、その「自衛」のための「戦力」の保有という当たり前のことを明示し、「自衛」のための「交戦権」の存在も明示する方向に変わった場合には、日本国は必ずかつてのような「侵略」に走るであろうという、軍国主義ファシズム時代に起きた悲劇のトラウマ(心的外傷)から来る判断があるようだ。
また、「革新系」「左翼」の政治家だった田(でん)英夫は、「毎日新聞」の取材(二〇〇七年十月)に応じて、「軍隊を持っていれば実際に戦争に行きたくなる。それが戦後世代の国会議員は分かっていない」と述べたという(「毎日新聞」二〇〇九年十一月十八日の訃報記事より)。これもまた、軍国主義ファシズム時代に起きた悲劇のトラウマであろう。日本人は「軍隊」を持てば必ず海外侵略に向かうという田英夫など「革新系」「左翼」の日本人観は、日本人は永遠に〝近代人〟になれないと断定したのと同じである。
この点については、明治の近代化以後現在にまで至る日本も、縄文・弥生期以来のムラ段階社会的な組織運営システムと、アニミズム・シャーマニズム・神話世界的な資質を強固に継承しているという私の分析に従えば、次のような言い方になる。すなわち、その反近代性・反リアリズム性の部分をある程度コントロールできるところまで日本社会が成長してきていると判断できれば「戦力」の保持も可能になるのだし、一九四五年の敗戦までの時期と同じように依然としてそれらをコントロールできるところまで民主主義が成長していないと判断するのなら「戦力」の保持は時期尚早だということになる。
私の判断は、どちらかと言えば、二〇一〇年現在の日本社会は、みずからの文化資質である反近代性・反リアリズム性の部分をある程度コントロールできるところまで成長してきているとする前者である。
一九四五年までの大失敗を常に教訓として「軍部」の暴走を抑制し、リアリズム(現実直視)のまなざしで、用心深く、油断せず、慎重に「戦力」をコントロールしていくための土壌は、敗戦後六十年以上を経た現在の日本社会には、少しずつ形成されてきていると私は感じている。
あとでも触れるが(108ページ)、マッカーサー司令官は敗戦時の日本を評して、「近代文明の尺度で計ると、我々が四十五歳であるのに対し、日本人は十二歳の子供のようなものだ」と述べた。マッカーサーの比喩で言えば、敗戦までの日本にとっての「戦力」「軍隊」は、「十二歳の子供」に与えられた本物のマシンガンみたいなものだったのであり、あのアジア・太平洋戦争への突入は、いわば〝少年犯罪〟的な要素を持っていたことになる。あれから六十年以上を民主主義と平和主義の国として生きてきた二十一世紀初頭の日本人は、民主党政権が島国文化・ムラ社会性的な組織運営システムの近代化にも「内発的」に着手したし、「近代文明の尺度」で二十五歳くらいにはなっているのではないだろうか。だとすれば、二十五歳の大人になら年齢相応の知恵が備わっているのだから、「戦力」「軍隊」が与えられても、「十二歳の子供」のときのようにむやみにマシンガンを撃(う)ちまくるような過ちは犯さないのではないか。
二十一世紀の日本人は、リアリズム(現実直視)のまなざしで、用心深く、油断せず、慎重に「戦力」「軍隊」をコントロールできるくらいには成長してきているのではないか。