工藤隆のサブルーム

古代文学研究を中心とする、出版、論文、学会講演・発表・シンポジウム、マスコミ出演、一般講演等の活動を紹介します。

沖縄民族のアイデンティティーをめぐって(琉球独立論について)⑦(一応の結論)

2016年02月25日 | 時事問題など

●本欄での私の沖縄論は、2015年8月6日(①)、8月8日(②)、9月22日(③)、10月26日(④)、11月18日(⑤)、2016年1月15日(⑥)と続けてきましたので、この辺で“一応の結論”を出しておくことにします。

●私の沖縄論および日本論の要(かなめ)になっている考え方を、①~⑮として以下にまとめます。

①沖縄も日本も基層文化の部分では共通している。
②その基層文化の特徴は、自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化と、一神教に向かわないシャーマニズム文化である。
③また両者共に、ムラ社会性と島国文化性を濃厚に残存させている。
④ 縄文・弥生・古墳時代にまで遡れば、沖縄民族はもちろんヤマト族(日本列島民族)もまた、中国国家の側から見れば「蛮夷」であり、現在の用語でいえば「少数民族」であった。


  ここまでの①~④のうちで、特に④の、沖縄民族もヤマト族(ヤマトンチュ、本土の日本人)も「少数民族」的存在であったという部分には、沖縄人もヤマト族も心理的に抵抗を感じるようです。つまり、できるならそのような把握を認めたくないという感情なのです。特に、沖縄民族に対して相対的に優勢民族になっている現在の日本人(本土人)にはこの感情が強いようです。
 これは、前回の本欄(⑥、2016年1月15日)で、優勢民族・ヤマト族主体の日本国政府はもちろん、一般国民、知識人、評論家、政治家などは(革新系・良心的な人たちも含めて)、そもそも沖縄問題が優勢民族・ヤマト族対弱小勢力(少数民族)オキナワ民族の数百年にわたる関係にその出発点があるのだという認識はほとんどありませんし、そのことに気づくことも嫌っていることとも関係しています。
 これは、少数民族文化のうちの特に次の③の特性(近代化に遅れているという点)において、日本人一般が劣等意識を持っているからでしょう。以下、工藤『歌垣と神話をさかのぼる──少数民族文化としての日本古代文学』(新典社、1999年、所収)からの引用。

《少数民族とは、中央集権的国家(たとえば、中華人民共和国、日本国、タイ国その他)が形成されている状態において、国家権力を掌握している民族の側から見て、①相対的に人口が少なく、②国家権力の中心的な担い手ではなく、③〈国家〉の側にくらべて経済や先進文化の摂取という点で遅れている傾向があるが、④〈国家〉の側の文化に対して文化的独自性を強く保持している民族のことである。》


  また、少数民族文化の「原型的な生存形態」の特性について、工藤『古事記誕生──「日本像」の源流を探る』(中公新書、2012年)で、次のようにも述べました。

・宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていること(仮に本格宗教が流入していても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっていること)
・世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていること
・その集団・民族が、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であること


  このうちの、特に「〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小である」という点が、琉球独立論とも関係してくることになります。

⑤沖縄民族もヤマト族も、大陸の一般的な歴史では、優勢民族・漢族の国家によって支配・統合されるのが普通であったが、琉球列島も日本列島も大陸とのあいだに海という防御壁が存在していたために、直接の侵略を受けることから免れた。
⑥特にヤマト族は、遣隋使・遣唐使など留学生を派遣して当時なりの先端技術や、国家運営の知識などを移入して、〈古代の近代化〉を推進することができて、少数民族的社会であるにもかかわらず、〈国家〉建設に成功した。
⑦この際に、アニミズム系のシャーマニズムを背景にした呪術体系や、神話世界を中心に据えた観念と、歌垣文化圏特有の恋歌文化などを強力に残存させることができたことの裏返しとして、国家対国家の関係を維持するのに必要なリアリズムの眼(現実直視の眼)の部分では弱さを抱え込むことになった。


さて、琉球独立論にとっていま最も自覚しなければならないのは、ヤマト族および沖縄民族を覆っている「国家対国家の関係を維持するのに必要なリアリズムの眼(現実直視の眼)の弱さ」という弱点です。
すでに本欄「沖縄民族のアイデンティティーをめぐって(琉球独立論について)」の①~⑥で何度か触れてきましたように、沖縄民族には、独立を志向する正当な理由があります。そして、現在の世界を見渡せば、人口が少なくても、また小さな島でも、独立して国連に加入している国がいくつか存在します。したがって、「沖縄県」は独立運動を起こして「琉球国」を再興することが可能です。
  そのうえで、沖縄民族はどのような道を選択すべきかを、「リアリズムの眼(現実直視の眼)」で考えてみましょう。

⑧近代化を進めていた欧米列強は、近代化に遅れた民族を“劣った民族”として「見下し」、植民地化という一種の“強盗行為”を続けた。明治日本もまた、そのような帝国主義時代の近代国家のあり方を忠実に学習した成り上がり近代国家であった。
このころは、欧米近代国家の“強盗行為”にさらされる“被害者”の国家であった中国が、2000年代に入ると、ファシズム国家体制を維持したまま経済成長を遂げたことによって、19世紀末の日本のような領土拡張主義の欲望に目覚めて、ついに“加害者”として今アジア全域に時代錯誤の進出行動を取り始めている。
⑨現在の中国ファシズム政府は、日本の九州を起点に尖閣諸島のある東シナ海から台湾、南シナ海、ブルネイに至るラインを「第1列島線」、さらに日本の伊豆諸島からグアム、パプアニューギニアを結ぶラインを「第2列島線」と呼び、徐々に中国の支配地域に組み込もうと武力進出を続けている。
⑩このような状況の中で、沖縄県が「琉球国」として独立を果たしたあとには、沖縄地域はほとんど間違いなく、中国ファシズム政府に呑み込まれることであろう。
⑪独立「琉球国」は軍事力についてどのように考えるのであろうか。現在聞こえてくる将来像では、まずアメリカ軍に全面的に出て行ってもらい、同時に「日本国」の自衛隊にも出て行ってもらって、“非武装中立”を掲げるのであろう。しかし、中国ファシズム政府は“非武装”ならばかえって好都合と考えて、早々と中国軍を用いて支配地域に組み込むであろう。
⑫したがって、中国がファシズムから民主主義に移らないかぎり、絶対に「琉球国」として独立すべきではない。裏返していえば、中国ファシズム政府が崩壊して民主主義政府が樹立され、しかもその政治体制が安定して持続できるものとなったときには(それはおそらくは100~200年後のことであろうが)、「琉球国独立」は現実性をもつであろう。
⑬現在の安倍政権は、ソフトなファシズムに向かってじわじわと日本を劣化させつつあるが、しかし日本は民主主義国なので、その流れに選挙・言論その他の手段で抵抗することができるし、さらには政権交代も現在ならまだ可能である。
 2012年に登場した第2次安倍晋三内閣には、強者・富裕者を支え、弱者・貧困層を切り捨てる、また1945年までの軍国主義ファシズム時代の“強い日本”への回帰願望という特徴がある。このような政権の劣化した政治を修正できる政権を誕生させて、その新たな政権と協調することによって、なんとか独立の一歩手前に踏みとどまり続けるというのが、沖縄民族の「リアリズムの眼(現実直視の眼)」によるぎりぎりの選択になるだろう。
⑭中国共産党政府の考え方の基本は、漢族の実利性・現実性重視にあるので、チベット仏教の前近代性の中にいるチベット族とは、文化的に共通する部分をほとんど持たない。つまり、中国共産党政府とチベット族は、基層文化の部分で共通性を持たないだけでなく、優勢民族・漢族による支配・抑圧も続いているという構造である。
 それに対して、日本国政府と沖縄民族の場合は、優勢民族・ヤマト族による侵略、そして抑圧が続いているとはいえ、基層文化の部分では、多くの共通性を持っている。自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化と、一神教に向かわないシャーマニズム文化である。また両者共に、ムラ社会性と島国文化性を濃厚に残存させている。
 ならば、どうせどこかのより大きな国に所属しなければならないのなら、基層文化の部分でまったく異質な中国国家よりも、基層文化を共有する日本国に所属するほうが、はるかにマシなのではないか。
⑮「リアリズムの眼(現実直視の眼)の弱さ」という点では、縄文・弥生以来のアニミズム系文化、シャーマニズム文化、恋歌文化などのDNAが強力に存続している日本国もまた、沖縄民族と同じである。したがって、中国ファシズム政府の領土拡張主義の勢いに対して、「リアリズムの眼(現実直視の眼)」に裏打ちされた対抗策が必要である。
現在の中国は、報道の自由が無い、言論の自由が無い、表現の自由が無い、共産党以外の政党の存在が許されず、普通選挙も許されない、軍部が強大な権力を握り、徹底的な「愛国主義教育」を実施し、現状の全体主義(ファシズム)政治を1940年代前半の全体主義(ファシズム)日本への憎悪をかき立てることで正当化しようとする目くらまし策、財物の多くを中国共産党・軍とその周辺が独占している格差社会、賄賂政治の横行、社会全体を覆う道徳観念の欠如などがその実態である。中国共産党政府は、政権の正当性の無さを、反日憎悪を駆り立てることと、100年以上前の帝国主義時代の領土拡張主義行動によって、覆い隠そうとしているのである。


私は、『歌垣の世界-歌垣文化圏の中の日本』(勉誠出版、2015年)に次のように書きました。

日本人を、明治以後一九四五年の敗戦まではもちろん、敗戦後から二十一世紀の現在まで覆い続けている、情念、情緒、気分(山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、一九七七年、の用語でいえば「空気」)こそが、日本国が国際・国内社会にかかわる重大決断を下すときの、実質的な力になっているのである。そして、それらの情念、情緒、気分などは、しばしばリアリズムや合理的判断とは逆方向のものであるため、〝断固たる決断〟だったはずのものが“大いなる悲劇”への第一歩であることが多い(たとえば、かつての、短期間に勝利という願望のもとに突入して民族滅亡一歩手前の敗戦を招いたアジア・太平洋戦争や、いま現在の、全電源喪失の想定は必要なしという希望的観測にもとづく原発推進が招いた福島原発事故など)。


  沖縄民族の「琉球独立論」だけでなく、日本国自体もまた、中国ファシズム政府やファシズム性の強いロシアの領土拡張主義の伝統的欲望の餌食にならぬように、「リアリズムの眼(現実直視の眼)」を少しずつでも鍛えていくことが必要なのです。

●最後に、日本政治(日本人一般)の「リアリズム的な判断力」の弱さについて述べた次の一節(工藤『21世紀・日本像の哲学』171ページ)を引用しておきます。

  それにしても本当に惜しまれるのは、西欧的近代化を積極的に吸収して合理主義思想を身につけたはずの日本の「革新系」「左翼」など良心的で知性的な日本人が、その西欧的知性の限界ゆえに、日本の実像を見る目を獲得できないでいることである。日本の「進歩的」で良心的な知性の部分における、等身大の日本像を把握する冷静な視点の欠落は、日本国にとって大きな損失だと言っていいだろう。
「革新系」「左翼」は、どちらかといえば平等主義・平和主義者で、良心的で、正義とヒューマニズム精神を重んじ、弱者の側に立ち、カネに汚くなく、知性的な人が多いようだ。そのような人材が、等身大の日本像から眼を背け、結果としてリアリズム的な判断力という点で大きな弱点を抱えているのは残念なことである。
敗戦後は、日本人の伝統的なヤマト的なるものを尊重すべきだという論を立てると「保守系」「右翼」ということになり、「革新系」「左翼」はその部分にはいっさい触れないようにするというのが定型になっていた。したがって、「美しい日本と私」(川端康成)や「美しい国、日本」(安倍晋三)のように、日本を「美しい」ものとして把握するメッセージは、基本的に「保守系」「右翼」の側からだけ発せられてきた。あるいは「愛国心」についても、どちらかといえば好戦主義者で、ヒューマニズム精神を軽んじ、弱者を切り捨て、知性より情緒・因習を基本にしがちな人たちの専売特許のようになってきた


●「沖縄民族のアイデンティティーをめぐって(琉球独立論について)」はこの⑦をもって一応の結論とします(必要に応じてまた言及します)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする