工藤隆のサブルーム

古代文学研究を中心とする、出版、論文、学会講演・発表・シンポジウム、マスコミ出演、一般講演等の活動を紹介します。

『女系天皇』の楽しくかつ高度な書評(斎藤美奈子氏)に出会えました

2021年04月20日 | 日本論
●私の本を書評するには、いくつかの困難が伴うようです。まず、書評者のあいだでは、〈古代〉を、〈古代の近代〉と〈古代の古代〉に分けることに不慣れな感性が一般的だからです。600、700年代の〈古代の近代〉は、大陸の国家にならって本格的に国家建設を進めた時期であり、法律、戸籍、軍隊、徴税制度、都市などの整備が進み、文字(漢字)の本格的な移入も進みました。後世の例でいえば、1800年代末の明治国家成立期の、西欧近代文明受容の文明開化に匹敵する、古代なりの文明開化だったのですから、この時期にはそれ以前の〈古代の古代〉のヤマト伝統の文化にも大きな変化が生じたことでしょう。
 ところが、〈古代の古代〉の日本列島民族は無文字文化だったので、変質以前のその時代の文化状況を伝える文字文献が存在しません。
 一般常識としては、日本古代の〈源流〉にまでさかのぼって考えるときには、『古事記』『日本書紀』の記事を参照すればよいということになっています。しかし、最古のまとまった文献史料としての『古事記』の成立は712年、『日本書紀』の成立も720年の、つまり古代なりの大変革期であった〈古代の近代〉の作品、つまり古代としては相当に新しい段階の作品なのです。
 実は、日本列島文化の伝統は、短く見ても、縄文・弥生・古墳時代の1万3千余年の期間を持っています。この1万3千余年の〈古代の古代〉についての直接的な文献史料はほとんどありません(『魏志』倭人伝など中国古典籍などの間接的史料を除いて)。
 一般に、学問的研究においては、確かな証拠を提示することが前提になります。しかし、無文字文化時代の〈古代の古代〉のヤマト文化については、文献史料が無いので、考古学的資料に頼る以外にありません。しかし、考古学的資料は建物・道具・人骨など〈物〉ですから、歌など〈ことば〉の文化についてはまったくわかりません。そこで私は、『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、2021年)で次のように述べました(56ページ)。

モデル理論で文献史料以前に迫る
 無文字文化主流の時代の大王・族長の系譜について、文献史料的に確実なことが言えないという点に対する態度は、①史料が無いのだからこの部分については言及しない(棚上げにする)、②数少ない文献史料と文化人類学的報告(たとえばのちに紹介する母系に発する中国少数民族ワ族の系譜の調査報告など)や民俗学資料および縄文・弥生・古墳時代の考古学的資料を組み合わせて、できる範囲で客観的な推定をする、③確かな根拠を示すことなく恣意的な像を描く、という方向性の違いがある。
 現在の日本古代史および日本古代文学の学界の基本的態度は、①の「棚上げにする」である。戦前の皇国史観思想では、③の「恣意的な像を描く」であった。それに対して私は、②の「できる範囲で客観的な推定をする」という立場である。
 私は、この②の立場に用いる方法をモデル理論と呼んでいる。主として中国などの辺境に縄文・弥生期とほとんど変わらない状態で生活してきた民族の、無文字文化のことば表現や、呪術・祭祀などの実態を調査して得られた資料を手がかりにしてモデルを作り、そのモデルから日本最古の本格書物『古事記』(七一二年)以前の日本列島文化を、ホログラフィーのように浮かび上がらせる方法である。
 文化人類学・民俗学や考古学の資料を素材として、できるかぎり正確ないくつかの情報をインプット(投入)し、それらを統合した一つの立体像をレーザー光線で浮かび上がらせるホログラフィーの手法である。立体像はそこに浮かび上がるのだが、その部分に手を差し入れても実体はない。したがって、このホログラフィー手法によって浮かび上がってくる〈古代の古代〉像は、あくまでも一種の仮想現実としての像である。しかし、立体像がまったく無い状態や、あっても歪んだ立体像を思い浮かべたり、あるいはまったく無根拠の妄想的立体像を描いているのに比べれば、まだましであろう。
 ただし、モデル作りの素材としては、中国の長江(揚子江)南・西部の諸民族の文化資料が最も適している。なぜなら、この地域は日本列島と同じアジアであると同時に、かつて水田稲作そのほかさまざまなものを日本列島に伝えた源にあたる地域だからである。

 現代日本の知識人の多くは、「①史料が無いのだからこの部分については言及しない」という立場をとっているようです。しかし、日本の本質について真剣に論じようとするときには、どうしても〈源流〉に言及せざるをえないときがあるので、そういうときには『古事記』『日本書紀』を参照することになります。
 しかし、『古事記』『日本書紀』の専門研究の学界の大勢は、〈古代の古代〉についての論理化に対しては問題意識が低く、古代史学界と同じく「棚上げにする」という態度です。そのような中で、折口信夫は、なんとかしてその壁を突破しようとして、文化人類学的研究に強い関心を持ちました。彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩書房、1965年)と述べているように、日本古代文学を発生・源流の側から把握するには「エスノロジー」(民族学、文化人類学)との交流が不可欠だと認識していたのです。しかし、現在の古代文学研究者の一部(私もその一人)が推進しているような少数民族文化の現地調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口には実現できなかったのです。
 したがって、現在の『古事記』『日本書紀』研究の旧来の水準や、時代の制約ゆえにもう一歩を踏み出すことができなかった折口信夫の古代研究に依拠しているだけでは、日本の〈古代の古代〉にはたどり着けません。
 私は、『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(中公新書、2006年、1ページ)で、次のように述べました。

古事記の四つの顔
 『古事記』(七一二年成立)には、大まかには四つの顔がある。神話の書、文学の書、神道の教典の書、天皇神格化のための政治の書という顔である。この四つの顔が渾(こん)然(ぜん)一体となって『古事記』という一つの作品になっているのだが、これらのうちのどの部分を強調するかによって『古事記』は異なる表情を見せてくる。
 神社神道においては神道教典としての側面が強調される。皇国史観が支配的だった明治以後の時代には神社神道だけでなく国家神道の教典ともなり、天皇神格化の側面が突出した。しかし、一九四五年の敗戦以後、日本が民主主義国家に転じたことによって神社神道・国家神道の教典と天皇神格化の側面は遠くに退き、代わりに神話、文学の側面が浮上して現在に至っている。

 このうちの「天皇神格化のための政治の書という顔」は、『日本書紀』においてはさらに強められました。私は、『女系天皇──天皇系譜の源流』で次のように述べました(182ページ)。

 六〇〇年代末には、諸氏族の持っている「帝紀」と「本辞(旧辞)」には多くの「虚偽」が加わっているという認識が一般的だったのだ。ましてや、当時の最高権力者である天皇の場合には、その系譜にはさらに多くの「虚偽」が加えられた可能性がある。先の「天武天皇紀」十年の記事でわかるように、のちの『日本書紀』(七二〇年)に向けての編集委員が、川嶋皇子以下、皇族あるいは皇族と縁の深い氏族の人たちで占められていたのだから、『日本書紀』の内容が、天皇氏族に有利なものに傾斜するのは当然だったろう。川嶋皇子は、三十八代天智天皇の皇子、忍壁皇子(刑部親王など別表記あり)は四十代天武天皇の皇子である。したがって、天皇系譜の整備が天皇氏族に有利なものに傾斜するのは当然だったはずであり、男系男子継承の唐の皇帝制度を模倣するという政治方針がとられた以上、少なくとも「男系」の部分だけは貫徹しようとして、大小の創作・改変・捏造が加えられたであろうことも間違いあるまい。

 このような私の論理に対して、柔軟に対応できる書評者が現れました。斎藤美奈子氏の「今週の名言奇言」(「週刊朝日」2021年4月2日号)です。私の文章の「大宝律令の時代には、女性天皇はもちろん、女系天皇も容認されていた」という一節を「名言奇言」として取り出したうえでの書評です。
 この書評は、『古事記』『日本書紀』に対する過度な信頼感から逃れることと、〈古代の古代〉への接近には長江流域少数民族文化など文化人類学的資料に頼らざるをえないこと、この二つを軽々と受け入れることができているという点で、“高度な”書評であると評価できます。特に、「著者は文化人類学的手法を用い、中国西南部で、長江流域の少数民族の族長の系譜の調査まで行っている!」という文章の「!」の部分に、斉藤氏の感性のしなやかさ、柔らかさを感じました。以下にその全文を引用します。

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《今週の名言奇言 (「週刊朝日」2021.4.2)》
 『女系天皇 天皇系譜の源流』(朝日新書) 工藤 隆著
斎藤美奈子「今週の名言奇言」
 「大宝律令の時代には、女性天皇はもちろん、女系天皇も容認されていた」

 女性宮家は創設すべきか、女性天皇は認められないのか。皇室問題はいま、大きく揺れている。工藤隆『女系天皇』はそんな議論に一石を投じる快著。
 天皇は古来、万世一系の男系によって継承されてきた。と私たちは聞かされてきた。でも、その「古来」っていつ?
  『古事記』『日本書紀』だと人はいうけど、じゃあその前はどうなのか。無文字文化時代まで視野に入れて考えないと話にならぬと著者はいう。軍国主義の時代、皇室の歴史は紀元前660年にはじまるとされていた。紀元前660年って縄文時代末期か弥生時代初期だぞ。
 古代には「古代の古代」と「古代の近代」があって、「古代の古代」は文字がなかった縄文・弥生・古墳時代。「古代の近代」は文献資料が残る西暦600年前後~奈良時代。記紀が編纂されたのは「古代の近代化」が進んだ時代で、当時の日本は先進国である唐の思想を手本にしていた。つまり記紀の天皇の系譜が男系に整えられているのは<唐皇帝の男系男子継承を模倣した>結果。創作や改変や捏造もされた可能性がある。
 それ以前の「古代の古代」の時代には、王の継承は父系も母系もないまぜだった。それを証明するのに著者は文化人類学的手法を用い、中国西南部で、長江流域の少数民族の族長の系譜の調査まで行っている!
 「古代の近代」の思想を明治の大日本帝国憲法が明文化し、軍国主義下の日本はそれを絶対視し、戦後の新憲法や皇室典範もその呪縛から逃れられなかった。だから<まず唐文化の絶対視・模倣を停止すべきである>と本書は提言するのである。
 女性天皇問題が政治的案件として浮上したのは小泉純一郎内閣時代。2005年、「皇室典範に関する有識者会議報告書」は女性天皇、女系天皇への道を開くのは不可欠と結論づけた。<大宝律令の時代には、女性天皇はもちろん、女系天皇も容認されていた>のであれば、女性を排除する理由はないよね。
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