●毎日新聞(2024年3月3日)の「仲畑流万能川柳」欄に掲載された18首のなかに、
歌垣は神代の婚活だったのネ(取手 崩彦)
という句を見たとき、川柳一般に感じるものとは少し違った感想が私の心の中に生じました。
「歌垣」の定義には、学術的な著作物を含めて長いあいだ、「性的解放の場」だとする勘違いの記述が一般化していました。以下に、それらの代表的なものを列挙します。
★『広辞苑』(第六版)の「うたがき」の項目
①上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。(略)
★『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1983年)の「うたがき」の項目
古代、男女が集団で飲食歌舞し、相互に歌い掛け歌い返す行事。本来、生産の予祝行為であり、性の開放を伴っていた。春秋、特定の山や海浜、または市などで行われた。語源は、「歌懸(か)き」の意。東国では「嬥歌(かがい)」(「懸合」の約)ともいった(略)。
★『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、1967年)の「うたがき」の項目
①男女が一所(神聖な山や市などが選ばれた)に集まって、飲食・歌舞し、性的解放を行なった行事。(略)
★『日本国語大辞典』(第二版、小学館、2001年。以下、1973年の第一版とほとんど同内容)の「うたがき」の項目
①古代、男女が山や市(いち)などに集まって飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌って性的解放を行なったもの。元来、農耕予祝儀礼の一環で、求婚の場の一つでもあった。のちに遊楽化してくる。かがい。(略)
★『上代文学研究事典』(おうふう、1996年)の「うたがき」の項目
(説明の分量は、400字詰め11枚に及ぶ大量のもので、上代文学作品の中の歌垣関係資料の紹介も詳しい。しかし、その中心はやはり旧説の範囲内なので、上記の諸辞典の記述と特に異質な点だけを抜粋して引用する)
これらの説明で顕著なのは、歌垣には、「性的解放」(『広辞苑』『時代別国語大辞典 上代編』『日本国語大辞典』)、「性の開放」(『日本古典文学大辞典』)、「祭式的異常」(『上代文学研究事典』)が必須だとする思い込みです。これでは、古代の歌垣が、まるで「異常」な乱交パーティーの場であるようなイメージですね。
おそらく、川柳作者の「崩彦」(くえびこ)さんも、これらの専門的辞典および一般的に権威ある『広辞苑』が提示する歌垣像に従って、「性的解放」に力点を置いて歌垣のイメージを作っていたのではないでしょうか。
しかし、2000年代初頭までは中国長江流域に残存していた、少数民族社会の実際の歌垣の現場では、即興で相手が紡ぎ出す歌詞を聞いたあとに、できる限り間を開けずにこちらも即興の歌詞を歌い返していくということの連続なので(ときには夜を徹するなど長時間にわたります)、いわば、無文字での(音声表現だけの)冷静な歌詞作りが延々と続く緊張した場なのです。その歌詞作りの力量が、結婚相手を得るという結果に結びつくので、歌垣の現場はいわば“配偶者を求める切実な思いに裏打ちされた、歌詞作りの真剣勝負の場”なのです。
しかも、長江流域の歌垣の現場では、歌を歌う両者には複数の友人たちが一緒についているのが普通で、しかも、周りには見物人がいて両者の歌の掛け合いに耳を傾けているのも普通なのです。したがって、歌垣の現場では「性的解放」などが起きるはずもないのです。
古代の日本列島は、長江流域を中心とするこのような歌垣文化圏に、東の端(極東)で所属していたということが、最近の研究でわかってきました。
それでは、この歌垣文化圏の歌垣はどのようなものなのか。詳しくは、単行本、工藤隆『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(勉誠出版、2015年)にまとめましたので、そちらを参照してください。
その中で、私は、歌垣を次のように定義しました。
この定義は、社会の中での「配偶者や恋人を得るという実用的な目的」(私は社会態と呼んでいる)と、「即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う」という表現のありかた(表現態と呼ぶ)の組み合わせから成っています。
ここでたいせつなのは、「配偶者や恋人を得るという実用的な目的」という社会的役割の把握です。川柳作者「崩彦」さんは、おそらくはこの「実用的な目的」という部分に、現代の「婚活」に通じるものを感じ取って、その驚きを素直に表現したのでしょう。そして、この句を掲載することに決めた選者の仲畑氏の、新説を許容するふところの深さも感じました。
私の『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(2015年)は、2016年に日本歌謡学会の志田延義賞を受賞しましたので、学問の世界ではいちおうの承認を受けたことになります。しかし、この私の著書で一新された歌垣像が、『広辞苑』など一般書にまで広がるまでには、まだ長い年月が必要なのだと思われます。
以下に、『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』の一節を引用しておきます。
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★工藤隆『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(勉誠出版、2015年)p2
従来の歌垣研究の弱点は、大きく見て二つに絞られる。まず第一は、「歌垣」が登場する資料がいずれも七〇〇年代のものに限られるため、それより以前の、縄文・弥生時代以来の数千年間にも存在していたかもしれない原型的な歌垣の姿がどうだったのかについての接近が弱かった点である。
弱点の第二は、七〇〇年代以前の歌垣に接近しようとした場合でも、変質の進んだ中世・近世・近代の国内の民俗行事をモデルにしたので、その場合の歌垣像はどうしても後世的なものになる以外になかった点である。しかも、それらの民俗行事は、ほとんど日本国の国境の内側の素材に集中していたために、二十世紀後半までは長江(揚子江)流域(特に以南の)少数民族の世界に普通に存在していたより原型性の高い歌垣の、現地調査の開始が遅れる原因を作った。
実は、一九九五年に雲南省で“生きている歌垣”に実際に触れる経験をするまでは、私もまたこれら二つの弱点にとらえられていた。しかし、“生きている歌垣”が目の前で進行している場に身を置いたときに一気にそれらの弱点から解放されて、「黄金の時間が過ぎて行く」という感覚に襲われたのだった。
私はその後、長江以南地域のいくつもの少数民族の歌垣についての知識も得たことによって、歌垣論にとって最も重要なのは、より原型的な歌垣の像を、どれだけ現実感のあるものとして描くかだと考えるようになった。そこで、詳しくは本論で触れるように、「歌垣とは、不特定多数の男女が配偶者や恋人を得るという実用的な目的のもとに集まり、即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う、歌の掛け合いのことである」という定義を提示することになったのである。
歌垣は神代の婚活だったのネ(取手 崩彦)
という句を見たとき、川柳一般に感じるものとは少し違った感想が私の心の中に生じました。
1 「歌垣」という語が川柳に登場したこと自体が珍しい。
2 作者は「歌垣は婚活だった」という新知識を知って驚いているが、その新知識はどこから得たのか。
3 「崩彦」(くえびこ)という川柳作者名は、『古事記』(712年)の大国主命(おおくにぬしのみこと)の段に登場する「久延毘古(くえびこ)」に由来するものだろうが、もしかするとこの作者は、『古事記』など古代文学作品に通じている人なのかもしれない。「崩え」は崩れるの意で「崩え彦」は「かかし」を指す。『古事記』大国主命段ではこの「久延毘古」は、海から現れた神の正体をスクナヒコナの神だと明らかにした“知恵者”として登場している。
2 作者は「歌垣は婚活だった」という新知識を知って驚いているが、その新知識はどこから得たのか。
3 「崩彦」(くえびこ)という川柳作者名は、『古事記』(712年)の大国主命(おおくにぬしのみこと)の段に登場する「久延毘古(くえびこ)」に由来するものだろうが、もしかするとこの作者は、『古事記』など古代文学作品に通じている人なのかもしれない。「崩え」は崩れるの意で「崩え彦」は「かかし」を指す。『古事記』大国主命段ではこの「久延毘古」は、海から現れた神の正体をスクナヒコナの神だと明らかにした“知恵者”として登場している。
「歌垣」の定義には、学術的な著作物を含めて長いあいだ、「性的解放の場」だとする勘違いの記述が一般化していました。以下に、それらの代表的なものを列挙します。
★『広辞苑』(第六版)の「うたがき」の項目
①上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。(略)
★『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1983年)の「うたがき」の項目
古代、男女が集団で飲食歌舞し、相互に歌い掛け歌い返す行事。本来、生産の予祝行為であり、性の開放を伴っていた。春秋、特定の山や海浜、または市などで行われた。語源は、「歌懸(か)き」の意。東国では「嬥歌(かがい)」(「懸合」の約)ともいった(略)。
★『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、1967年)の「うたがき」の項目
①男女が一所(神聖な山や市などが選ばれた)に集まって、飲食・歌舞し、性的解放を行なった行事。(略)
★『日本国語大辞典』(第二版、小学館、2001年。以下、1973年の第一版とほとんど同内容)の「うたがき」の項目
①古代、男女が山や市(いち)などに集まって飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌って性的解放を行なったもの。元来、農耕予祝儀礼の一環で、求婚の場の一つでもあった。のちに遊楽化してくる。かがい。(略)
★『上代文学研究事典』(おうふう、1996年)の「うたがき」の項目
(説明の分量は、400字詰め11枚に及ぶ大量のもので、上代文学作品の中の歌垣関係資料の紹介も詳しい。しかし、その中心はやはり旧説の範囲内なので、上記の諸辞典の記述と特に異質な点だけを抜粋して引用する)
「神婚祭祀と一体化した饗宴にその本質があるのではないかと思われるが、なお謎の部分が多い。」
「歌垣では交換や略奪が人妻への求愛というものになった。これは祭式的異常(オルギー)の一つの形でもあった。歌垣が市で行なわれるのもこの交換や略奪と関係している。」
「歌垣では交換や略奪が人妻への求愛というものになった。これは祭式的異常(オルギー)の一つの形でもあった。歌垣が市で行なわれるのもこの交換や略奪と関係している。」
これらの説明で顕著なのは、歌垣には、「性的解放」(『広辞苑』『時代別国語大辞典 上代編』『日本国語大辞典』)、「性の開放」(『日本古典文学大辞典』)、「祭式的異常」(『上代文学研究事典』)が必須だとする思い込みです。これでは、古代の歌垣が、まるで「異常」な乱交パーティーの場であるようなイメージですね。
おそらく、川柳作者の「崩彦」(くえびこ)さんも、これらの専門的辞典および一般的に権威ある『広辞苑』が提示する歌垣像に従って、「性的解放」に力点を置いて歌垣のイメージを作っていたのではないでしょうか。
しかし、2000年代初頭までは中国長江流域に残存していた、少数民族社会の実際の歌垣の現場では、即興で相手が紡ぎ出す歌詞を聞いたあとに、できる限り間を開けずにこちらも即興の歌詞を歌い返していくということの連続なので(ときには夜を徹するなど長時間にわたります)、いわば、無文字での(音声表現だけの)冷静な歌詞作りが延々と続く緊張した場なのです。その歌詞作りの力量が、結婚相手を得るという結果に結びつくので、歌垣の現場はいわば“配偶者を求める切実な思いに裏打ちされた、歌詞作りの真剣勝負の場”なのです。
しかも、長江流域の歌垣の現場では、歌を歌う両者には複数の友人たちが一緒についているのが普通で、しかも、周りには見物人がいて両者の歌の掛け合いに耳を傾けているのも普通なのです。したがって、歌垣の現場では「性的解放」などが起きるはずもないのです。
古代の日本列島は、長江流域を中心とするこのような歌垣文化圏に、東の端(極東)で所属していたということが、最近の研究でわかってきました。
それでは、この歌垣文化圏の歌垣はどのようなものなのか。詳しくは、単行本、工藤隆『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(勉誠出版、2015年)にまとめましたので、そちらを参照してください。
その中で、私は、歌垣を次のように定義しました。
歌垣とは、不特定多数の男女が配偶者や恋人を得るという実用的な目的のもとに集まり、即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う、歌の掛け合いのことである。
この定義は、社会の中での「配偶者や恋人を得るという実用的な目的」(私は社会態と呼んでいる)と、「即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う」という表現のありかた(表現態と呼ぶ)の組み合わせから成っています。
ここでたいせつなのは、「配偶者や恋人を得るという実用的な目的」という社会的役割の把握です。川柳作者「崩彦」さんは、おそらくはこの「実用的な目的」という部分に、現代の「婚活」に通じるものを感じ取って、その驚きを素直に表現したのでしょう。そして、この句を掲載することに決めた選者の仲畑氏の、新説を許容するふところの深さも感じました。
私の『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(2015年)は、2016年に日本歌謡学会の志田延義賞を受賞しましたので、学問の世界ではいちおうの承認を受けたことになります。しかし、この私の著書で一新された歌垣像が、『広辞苑』など一般書にまで広がるまでには、まだ長い年月が必要なのだと思われます。
以下に、『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』の一節を引用しておきます。
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★工藤隆『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(勉誠出版、2015年)p2
従来の歌垣研究の弱点は、大きく見て二つに絞られる。まず第一は、「歌垣」が登場する資料がいずれも七〇〇年代のものに限られるため、それより以前の、縄文・弥生時代以来の数千年間にも存在していたかもしれない原型的な歌垣の姿がどうだったのかについての接近が弱かった点である。
弱点の第二は、七〇〇年代以前の歌垣に接近しようとした場合でも、変質の進んだ中世・近世・近代の国内の民俗行事をモデルにしたので、その場合の歌垣像はどうしても後世的なものになる以外になかった点である。しかも、それらの民俗行事は、ほとんど日本国の国境の内側の素材に集中していたために、二十世紀後半までは長江(揚子江)流域(特に以南の)少数民族の世界に普通に存在していたより原型性の高い歌垣の、現地調査の開始が遅れる原因を作った。
実は、一九九五年に雲南省で“生きている歌垣”に実際に触れる経験をするまでは、私もまたこれら二つの弱点にとらえられていた。しかし、“生きている歌垣”が目の前で進行している場に身を置いたときに一気にそれらの弱点から解放されて、「黄金の時間が過ぎて行く」という感覚に襲われたのだった。
私はその後、長江以南地域のいくつもの少数民族の歌垣についての知識も得たことによって、歌垣論にとって最も重要なのは、より原型的な歌垣の像を、どれだけ現実感のあるものとして描くかだと考えるようになった。そこで、詳しくは本論で触れるように、「歌垣とは、不特定多数の男女が配偶者や恋人を得るという実用的な目的のもとに集まり、即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う、歌の掛け合いのことである」という定義を提示することになったのである。