工藤隆のサブルーム

古代文学研究を中心とする、出版、論文、学会講演・発表・シンポジウム、マスコミ出演、一般講演等の活動を紹介します。

川柳「歌垣は神代の婚活だったのネ」(崩彦)について

2024年03月12日 | 日本論
●毎日新聞(2024年3月3日)の「仲畑流万能川柳」欄に掲載された18首のなかに、

  歌垣は神代の婚活だったのネ(取手 崩彦)

という句を見たとき、川柳一般に感じるものとは少し違った感想が私の心の中に生じました。

 1 「歌垣」という語が川柳に登場したこと自体が珍しい。
 2 作者は「歌垣は婚活だった」という新知識を知って驚いているが、その新知識はどこから得たのか。
 3 「崩彦」(くえびこ)という川柳作者名は、『古事記』(712年)の大国主命(おおくにぬしのみこと)の段に登場する「久延毘古(くえびこ)」に由来するものだろうが、もしかするとこの作者は、『古事記』など古代文学作品に通じている人なのかもしれない。「崩え」は崩れるの意で「崩え彦」は「かかし」を指す。『古事記』大国主命段ではこの「久延毘古」は、海から現れた神の正体をスクナヒコナの神だと明らかにした“知恵者”として登場している。


 「歌垣」の定義には、学術的な著作物を含めて長いあいだ、「性的解放の場」だとする勘違いの記述が一般化していました。以下に、それらの代表的なものを列挙します。

★『広辞苑』(第六版)の「うたがき」の項目
①上代、男女が山や市などに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事。一種の求婚方式で性的解放が行われた。かがい。(略)

★『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1983年)の「うたがき」の項目
 古代、男女が集団で飲食歌舞し、相互に歌い掛け歌い返す行事。本来、生産の予祝行為であり、性の開放を伴っていた。春秋、特定の山や海浜、または市などで行われた。語源は、「歌懸(か)き」の意。東国では「嬥歌(かがい)」(「懸合」の約)ともいった(略)。

★『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、1967年)の「うたがき」の項目
①男女が一所(神聖な山や市などが選ばれた)に集まって、飲食・歌舞し、性的解放を行なった行事。(略)

★『日本国語大辞典』(第二版、小学館、2001年。以下、1973年の第一版とほとんど同内容)の「うたがき」の項目
①古代、男女が山や市(いち)などに集まって飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌って性的解放を行なったもの。元来、農耕予祝儀礼の一環で、求婚の場の一つでもあった。のちに遊楽化してくる。かがい。(略)

★『上代文学研究事典』(おうふう、1996年)の「うたがき」の項目
 (説明の分量は、400字詰め11枚に及ぶ大量のもので、上代文学作品の中の歌垣関係資料の紹介も詳しい。しかし、その中心はやはり旧説の範囲内なので、上記の諸辞典の記述と特に異質な点だけを抜粋して引用する)
「神婚祭祀と一体化した饗宴にその本質があるのではないかと思われるが、なお謎の部分が多い。」
「歌垣では交換や略奪が人妻への求愛というものになった。これは祭式的異常(オルギー)の一つの形でもあった。歌垣が市で行なわれるのもこの交換や略奪と関係している。」


 これらの説明で顕著なのは、歌垣には、「性的解放」(『広辞苑』『時代別国語大辞典 上代編』『日本国語大辞典』)、「性の開放」(『日本古典文学大辞典』)、「祭式的異常」(『上代文学研究事典』)が必須だとする思い込みです。これでは、古代の歌垣が、まるで「異常」な乱交パーティーの場であるようなイメージですね。
 おそらく、川柳作者の「崩彦」(くえびこ)さんも、これらの専門的辞典および一般的に権威ある『広辞苑』が提示する歌垣像に従って、「性的解放」に力点を置いて歌垣のイメージを作っていたのではないでしょうか。
 しかし、2000年代初頭までは中国長江流域に残存していた、少数民族社会の実際の歌垣の現場では、即興で相手が紡ぎ出す歌詞を聞いたあとに、できる限り間を開けずにこちらも即興の歌詞を歌い返していくということの連続なので(ときには夜を徹するなど長時間にわたります)、いわば、無文字での(音声表現だけの)冷静な歌詞作りが延々と続く緊張した場なのです。その歌詞作りの力量が、結婚相手を得るという結果に結びつくので、歌垣の現場はいわば“配偶者を求める切実な思いに裏打ちされた、歌詞作りの真剣勝負の場”なのです。
 しかも、長江流域の歌垣の現場では、歌を歌う両者には複数の友人たちが一緒についているのが普通で、しかも、周りには見物人がいて両者の歌の掛け合いに耳を傾けているのも普通なのです。したがって、歌垣の現場では「性的解放」などが起きるはずもないのです。
 古代の日本列島は、長江流域を中心とするこのような歌垣文化圏に、東の端(極東)で所属していたということが、最近の研究でわかってきました
 それでは、この歌垣文化圏の歌垣はどのようなものなのか。詳しくは、単行本、工藤隆『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(勉誠出版、2015年)にまとめましたので、そちらを参照してください。
 その中で、私は、歌垣を次のように定義しました。

歌垣とは、不特定多数の男女が配偶者や恋人を得るという実用的な目的のもとに集まり、即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う、歌の掛け合いのことである。


 この定義は、社会の中での「配偶者や恋人を得るという実用的な目的」(私は社会態と呼んでいる)と、「即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う」という表現のありかた(表現態と呼ぶ)の組み合わせから成っています。
 ここでたいせつなのは、「配偶者や恋人を得るという実用的な目的」という社会的役割の把握です。川柳作者「崩彦」さんは、おそらくはこの「実用的な目的」という部分に、現代の「婚活」に通じるものを感じ取って、その驚きを素直に表現したのでしょう。そして、この句を掲載することに決めた選者の仲畑氏の、新説を許容するふところの深さも感じました。
 私の『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(2015年)は、2016年に日本歌謡学会の志田延義賞を受賞しましたので、学問の世界ではいちおうの承認を受けたことになります。しかし、この私の著書で一新された歌垣像が、『広辞苑』など一般書にまで広がるまでには、まだ長い年月が必要なのだと思われます。
 以下に、『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』の一節を引用しておきます。

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工藤隆『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』(勉誠出版、2015年)p2
 従来の歌垣研究の弱点は、大きく見て二つに絞られる。まず第一は、「歌垣」が登場する資料がいずれも七〇〇年代のものに限られるため、それより以前の、縄文・弥生時代以来の数千年間にも存在していたかもしれない原型的な歌垣の姿がどうだったのかについての接近が弱かった点である。
 弱点の第二は、七〇〇年代以前の歌垣に接近しようとした場合でも、変質の進んだ中世・近世・近代の国内の民俗行事をモデルにしたので、その場合の歌垣像はどうしても後世的なものになる以外になかった点である。しかも、それらの民俗行事は、ほとんど日本国の国境の内側の素材に集中していたために、二十世紀後半までは長江(揚子江)流域(特に以南の)少数民族の世界に普通に存在していたより原型性の高い歌垣の、現地調査の開始が遅れる原因を作った。
 実は、一九九五年に雲南省で“生きている歌垣”に実際に触れる経験をするまでは、私もまたこれら二つの弱点にとらえられていた。しかし、“生きている歌垣”が目の前で進行している場に身を置いたときに一気にそれらの弱点から解放されて、「黄金の時間が過ぎて行く」という感覚に襲われたのだった。
 私はその後、長江以南地域のいくつもの少数民族の歌垣についての知識も得たことによって、歌垣論にとって最も重要なのは、より原型的な歌垣の像を、どれだけ現実感のあるものとして描くかだと考えるようになった。そこで、詳しくは本論で触れるように、「歌垣とは、不特定多数の男女が配偶者や恋人を得るという実用的な目的のもとに集まり、即興的な歌詞を一定のメロディーに乗せて交わし合う、歌の掛け合いのことである」という定義を提示することになったのである。

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「アジア基層文化資料センター」具体化への歩みが見え始めました

2024年02月17日 | 日本論
●『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化圏の日本』の「まえがき」で、「『始源の表現が露出している』記録資料(略)を一括して保存して、後世の研究者が活用できるような施設ができないものだろうか。たとえば“アジア基層文化資料センター”といった施設である」と述べました。
 この中の「アジア」には日本も含まれているので、それを強調するためには「日本・アジア」とするのが良いかもしれません。
 また、それらの「記録資料」を用いて新たな段階の研究が進んでいくという意味で、「資料センター」は「研究センター」のほうが良いかもしれません。
 そこで、“日本・アジア基層文化研究センター”といった名称が見えてきます。すると、オキナワ文化、アイヌ文化、縄文・弥生文化なども含まれることになります。

●また、「寄付・基金のさしあたりの受け皿としては、一般社団法人・アジア民族文化学会のような組織がその任を果たすであろう」とも述べました。つい最近、そのアジア民族文化学会が、“日本・アジア基層文化研究センター”を具体化するための案を作り始めたようです。

●『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化圏の日本』のために新たに書き下ろした「まえがき」の全文を、以下に引用しておきます。

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  まえがき

 1

 日本とは何かを源にまでさかのぼって把握しようというときには、考古学的な遺跡や遺物を手がかりにするのが普通である。しかし、日本列島の遺跡・遺物は、無文字文化時代のものなので、人々が発したであろう〈ことば〉表現に関わるものはほとんどわからない。
ただし、中国大陸との交流のなかで漢字文化が移入されるようになると、鉄剣銘や碑文などの金石文が現われる。しかしそれらは、日本列島民族(ヤマト族)が声に出して歌い、唱えたであろう、ヤマト語による神話や恋歌や呪術・儀礼の呪詞などの〈ことば〉表現までは記述していない。
 中国伝来の漢字を用いて、ヤマト族の神話・歌などが本格的な書物としてまとめられたのは『古事記』が最初である。その成立の七一二年という時期は、隋・唐という大陸先進国家から、国家運営の技術・知識を積極的に導入した〈古代の近代〉にあたる。壬申(じんしん)の乱(六七二年)に勝利して即位した天武天皇(四十代)によって、国家体制の整備が進められ、〈古代なりの近代化〉が本格的に進行し始めた。天武没後は皇后(四十一代持統天皇)が天武時代の諸政策を継承し、全国的な戸籍(庚寅年籍・こういんねんじゃく)に基づく人民支配を可能にした。六九七(文武元)年、持統天皇は孫の軽に位を譲り、文武天皇(四十二代)が即位したが、持統は太上(だいじょう)天皇として大宝律令を完成させた(七〇一年)。『古事記』の成立は、文武のさらにのちの、元明天皇(四十三代)のときである。〈古代なりの近代化〉は、先進の大陸国家の影響を受けて国家体制が整備され、政府中枢での文字(漢字)使用が普通になった段階である。中央政府、中央都市(都)、法律、官僚制度、戸籍、徴税制度、軍事組織などが整い、中央政府の指示が文書によって地方にまで伝達することができるようになった。
 しかし、日本列島の〈古代〉には、六〇〇、七〇〇年代の〈古代の近代〉以前に、縄文・弥生・古墳時代という少なく見積もっても一万数千年の期間があった。この時期を、私は〈古代の古代〉と呼んで区別している。〈古代の古代〉の日本列島文化は、基本的に無文字文化であったこと、低生産力段階のムラ段階社会が基本であったこと、自然との共生と節度ある欲望を柱とするアニミズム系文化であったことなどに特徴を持つ。〈古代なりの近代化〉が進行して、古代国家成立に向かって突き進むときには、それまでのムラ段階社会的なアニミズム系文化は、〝遅れた文化〟だとして廃棄されてしまうこともありえた。しかし、日本古代国家は、それら前代の文化を、天皇国家の精神的主柱として手厚く扱う方針を採った。
 天武・持統政権は、思想面では道教・仏教・儒教を積極的に移入し、行政面では律令体制を導入して、〈国家〉体制を整備した。さらに、行政機構としては、行政性が太政官(だいじょうかん・だじょうかん)によって、宗教性が神祇官(じんぎかん)によって担われる二官八省システムを採用した。この、実利重視の方向性の太政官と、神話・呪術的な反(非)実利の方向性の神祇官がセットになる統治機構の源は、邪馬台(ヤマト)国(この「台」をタイではなく「ト」と訓むべきであることについては、工藤隆『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』新潮新書、二〇一九年、の五一~五三ページに詳述した)の卑弥呼が創始した二重構造王権システムにあったのである。

    2

 天武・持統政権は、律令制や道教など外来の実利的組織運営術や当時なりの科学技術などを積極的に移入する一方で、ヤマト古来の、ムラ段階社会的なアニミズム系文化の保護・育成にも積極的に取り組んだ。ヤマト伝統の歌や舞などを保護し、天語(あまがたり)歌・宇岐(うき)歌・志都(しづ)歌ほか八千矛(やちほこ)の神の「神語(かむがたり・かむこと)」など、『古事記』だけでも二十例近くが一漢字一ヤマト語音表記で記録された。これらの歌群は、いずれも雅楽寮(七〇一年設置の音楽官庁、ががくりょう・うたまいのつかさ・うたのつかさ・うたりょう)の前身の機関に伝えられてきていた楽曲だったのだろう。
 また、『古事記』の「序」によれば、天武天皇は、〝朕(われ)が聞いたところでは、諸氏族の持っている「帝紀」と「本辞」は、すでに真実のものとは違っていて、多くの虚偽が加わっている。今その誤りを改めなければ、幾年もしないうちに真実がわからなくなってしまうであろう。この帝紀と本辞は国家の根本、天皇政治の基礎なのである。そこで、「帝紀」を書物にまとめ、「旧辞」をよく調べて、偽りを削り真実を定めて、後世に伝えたいと思う〟(現代語訳)と述べたという。また「天武天皇紀」十年(六八一)にも、天武天皇が「……に詔(みことのり)して、帝紀(すめらみことのふみ)及び上古(いにしへ)の諸事(もろもろのこと)を記(しる)し定(さだ)めしめたまふ」とある。
 また、「天武天皇紀」四年(六七五)には、「所部(くにのうち)の百姓(おほみたから)の能(よ)く歌(うたうた)ふ男女(をのこめのこ)、及び侏儒(ひきひと)・伎人(わざひと)を選びて貢上(たてまつ)れ」と命じたとあり、また「天武天皇紀」十四年(六八五)には、「凡(およ)そ諸(もろもろ)の歌男(うたを)・歌女(うため)・笛(ふえ)吹く者(ひと)は、即(すなは)ち己(おの)が子孫(うみのこ)に伝へて、歌笛(うたふえ)を習はしめよ」と命じている。
 さらに、『太神宮諸雑事記』(だいじんぐうしょぞうじき、八六八~九〇五年成立、神道大系編纂会編『神道大系・神宮編1』、一九七九年)によれば、伊勢神宮の、現在の内宮(ないくう)の位置での遷宮(せんぐう)の行事(式年遷宮)が開始されたのは、持統天皇四年(六九〇)のこととされている。
 この式年遷宮は、内宮・外宮(げくう)の正殿(しょうでん)ほか主要な建物を、二十年ごとに更新するものである。内宮・外宮正殿の建築様式は、高床式、茅葺(かやぶき)屋根、掘立(ほったて)柱、白木(しらき)、直線状の破風(はふ)、破風を突き出た千木(ちぎ)、堅魚木(かつおぎ)、棟持(むなもち)柱、心御柱(しんのみはしら)などに特徴を持つ。これらの多くは、中国長江(揚子江)以南の先住民族(少数民族)の集落の高床式住居・倉庫と共通するものである。この時期にはすでに、大陸国家から宮殿建築・寺院建築などの、瓦屋根、土壁、礎石の上に柱を置く(礎石建〔た〕ち)、柱を彩色するなどの建築技術が移入されていた。しかし、伊勢神宮の内宮・外宮正殿は、それら〈古代の近代化〉を象徴する建築技術を採用せず、あえて縄文・弥生期以来のムラ段階社会の、〈古代の近代化〉に逆行する〝原始性〟の強い建築様式への回帰を選択したのである。
 また天武・持統政権は、伊勢神宮の式年遷宮と並行して、斎宮(さいぐう、いつきのみや、さいくう)制度の本格的整備も開始した。斎宮とは、天皇の即位ごとに選ばれて伊勢神宮の祭祀に奉仕した未婚の内親王(天皇の姉妹あるいは皇女〔おうじょ・娘〕)または女王(じょおう・じょうおう、天皇の遠戚の女性)のことである。これも、邪馬台国の卑弥呼や、クニ段階の各地に存在した女性リーダーの、巫女(ふじょ)性の伝統を継承した制度であった。

    3

 “日本文化の原郷”という言葉が結ぶ像は、多くの人にとっては、飛鳥(あすか)時代(五九二~七一〇年)や奈良時代(七一〇~七九四年)であろう。しかし、それらは、〈古代なりの近代化〉が進行した、日本古代の中では最も新しい段階の時期である。それら以前にも日本列島には歴史があったのだから、“日本文化の原郷”という場合は、少なく見積もっても、縄文時代を経て弥生時代そして古墳時代までの約一万数千年を〈古代の古代〉として視野に入れる必要がある
 しかし、この〈古代の古代〉は基本的に無文字文化時代だったので、ヤマト語による文献史料がほとんど無い。そこで私は、モデル理論で文献史料以前に迫ろうと提案してきた。文化人類学的報告や民俗学的資料および縄文・弥生・古墳時代の考古学的資料を組み合わせて、できる範囲で客観的な推定をするのである
 このうちの文化人類学的報告は、主として、〈古代の古代〉の日本列島と地理的に交流があった地域で、かつ近代文明との接触が薄く、まるで〝生きた化石〟のように、縄文・弥生・古墳時代に近い生活を営んでいる民族の文化をモデルにする。その条件に最も近かったのが、中国の長江(揚子江)流域南・西部の諸民族の文化資料である。
 私は、この地域の少数民族文化の共通性を「原型生存型文化」と呼んでいる。
 〈古代の古代〉の日本列島民族(ヤマト族)の文化的特性は、簡潔には、自然界のあらゆるものに超越的・霊的なものの存在を感じ取る観念・信仰であるアニミズムと、アニミズム・神話的観念に基づく呪術体系であるシャーマニズムと、人間にかかわる現象の本質をアニミズム的な神々の作り上げた秩序の物語として把握する神話世界性との、この三つが主体であるような文化(まとめてアニミズム系文化と呼ぶ)である。このアニミズム系文化と密着しているのが「原型生存型文化」である。その生活のあり方の特徴をまとめれば、次のようになる(前出『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』)。

a縄文・弥生期的な低生産力段階(採集あるいは粗放農耕的水準)にとどまっている。
b電気照明、ラジオ・テレビなどの電気製品、プラスチックなど化学製品、電話・インターネットなど外部との通信手段が無く、自動車も無く、もちろん自動車用道路、水道も無いなど、いわゆる近代文明の産物が無い。
c移動手段としては自分の足が原則であり、一生涯を通して、生まれ育った地域の内側で過ごすのが普通。
d言語表現は、基本的に無文字の音声言語表現であり、歌う神話や歌を掛け合う風習などを持っている。
e宗教は、教祖・教典・教義・教団・布教活動という要素の揃った本格宗教ではなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっている。
f世界観は、自然と密着したアニミズム・シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えている。

 本書に収録した「中国雲南省ワ(佤)族文化調査報告」の諸集落も、調査当時はこれらa~fの条件、ほとんどすべてを保つ「原型生存型文化」の集落であった。
 三浦佑之(すけゆき)が、私の『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(中公新書、二〇〇六年)の書評で次のように述べた(日本経済新聞、二〇〇七年二月四日)。

 古代の文学や文化を考えていると、起源に遡(さかのぼ)りたいという誘惑に抗しきれなくなる。そこで、頭の中であれこれと構想しながら、始源の世界を幻想するのが発生論である。
 ところが著者は、実際に始源の表現が露出している土地に出かけ、調査や採集を行なって貴重な資料を手に入れる。(以下略)

 「原型生存型文化」のa~fの特徴を備えている集落とは、「始源の表現が露出している土地」(三浦)のことである。私が活発に現地調査をした一九九五年~二〇〇〇年代初頭の時期には、このような「始源の表現が露出している」辺境の土地が、奥地に入ればまだ存在していたのである。私は、幸運にもこの時期に、多くの「始源の表現が露出している」文化を保持している集落を訪問することができた。しかも、小型のビデオカメラが登場した時期なので、神話歌いや歌垣や呪術的祭祀の現場を、そのまま映像記録化することができた。またこの時期は、中国政府の側も私のような研究スタイルに対して比較的寛大だったので、辺境の集落に、かなり自由に入らせてくれたのである。
 しかし、二〇〇〇年代初頭を過ぎたころから、「原型生存型文化」のa~fの特徴が大幅に消滅し始めた。中国政府の改革開放政策が高度経済成長をもたらし、その経済成長の波が急激に辺境にも及んだのである。aの「低生産力段階」には、農業指導が進行して、旧来の作物にも変化が生じた(たとえば、焼き畑農耕の禁止、陸稲栽培から水田稲作への転換)。
 最も大きな変化は、bの「いわゆる近代文明の産物が無い」点であり、集落に電気が通じ、ラジオ・テレビなどの電気製品が当たり前になり、電話・インターネットなどで外部との通信手段が得られるようになった。自動車用道路も作られ、水道も引かれた。そして、村人の多くが携帯電話を使うようになったことで、外部から遮断された生活という“生きた化石”の前提条件が大きく崩れた。
 自動車用道路が整備されたことで、cの「移動手段」の閉鎖性も大きく失われた。dの「無文字の音声言語表現」も、漢族(漢民族)文化主体の学校教育が持ち込まれ、漢字文化および中国共産党的思想の浸透が加速化している。
 eの「自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)」や、fの「神話世界」を中心に据えた「世界観」も、近代化(中国語では「現代化」)からみて“遅れた文化”と見られているようだし、近代化に猛進中の現在の中国共産党政府は、私がそれらの文化の原型性に感じているような敬意を持つ段階までには、文化的に成熟していない。dの「歌う神話や歌を掛け合う風習」なども、民族文化村や歌舞団に観光用の芸能ショーとして吸収され、ムラの現実生活との接点は急激に失われており、第一次資料としてそれらを学問的に用いることはできない
 私は、「少数民族」を次のように定義している(前出『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』新潮新書)。

 少数民族とは、中央集権的国家が形成されている状態において、国家権力を掌握している民族の側から見て、①相対的に人口が少なく、②国家権力の中心的な担い手ではなく、③国家の側にくらべて経済や先進文化の摂取という点で遅れている傾向があるが、④国家の側の文化に対して文化的独自性を強く保持していて、⑤もともとはその地域の先住民族であったが、のちに移住して来た他民族が多数あるいは優勢民族となり、結果として劣勢民族に転化したという歴史を持っているものが多く、⑥独自の国家を形成しないか、形成しても弱小国家である。


  現代中国の、国家と少数民族文化との関係を見るときに重要なのは、このうちの、「⑥独自の国家を形成しないか、形成しても弱小国家である」である。現代中国は、漢族主体の国家である。漢族は、紀元前以来国家を樹立し、領土拡大をするという強固な意志に貫かれている民族である。一方で中国少数民族は、「独自の国家を形成しないか、形成しても弱小国家」であり、いわば“国家形成に向かわない文化”なので、結局は漢族の国家に吸収されてしまうことになった。
 日本古代国家の場合は、先に天武・持統政権について述べたように、日本列島民族(ヤマト族)の「独自の国家を形成しない」はずのアニミズム系文化の資質を、積極的に古代天皇国家と同時存在させようとした。このようなことが可能になったのは、大陸とのあいだの海の障壁が、大陸国家に日本列島への侵攻を断念・躊躇させたからである。また、新羅のように、唐との戦いに勝利して、結果的に朝鮮半島が中国国家の日本国侵攻を食い止めてくれたという面もあった。しかし、アニミズム系文化の資質を持つ中国少数民族社会は、中国国家と陸続きだったので、中国国家による征服を免れることはできなかった。そして、少数民族社会の基本的に“国家形成に向かわない文化”は、漢族的な、領土を拡大し、人民を支配・管理しようとする国家原理とは相容れないということもあって、少数民族文化の最も良質な部分(原型生存型文化の部分)が、中国政府によって、天武・持統政権の日本古代国家のように、自らの存在と不可分の基層文化として保護・育成されることは期待できない。
 ということは、二〇〇〇年代初頭くらいまでのあいだに長江流域少数民族社会の現地調査をして、その、現に生きている人々が一つの場を共有して祭りや呪術として作り上げた“生きて動いている文化”をビデオ映像や録音で記録し、それに文字記録も付随させたものは、二〇二〇年代の今となっては超一級の貴重資料ということになる。この時期の、これら「始源の表現が露出している」記録資料は、消滅直前の、二度と復元不可能な、無文字文化時代の原型生存型文化の記録だったのである
 このような調査記録を持っている人たちは、私と交流のあった人たちの範囲だけでも、私を含めて以下のような人たちである(五十音順)。

飯島奨・板垣俊一・乾尚彦・遠藤耕太郎・岡部隆志・欠端實・梶丸岳・川野明正・北村皆雄・草山洋平・工藤隆・佐野賢治・繁原央・菅原壽清・鈴木正崇・辰巳正明・手塚恵子・富田美智江・廣田律子・北條勝貴・星野紘・真下厚・皆川隆一・山田直巳ほか

 これらの人たちや、私とは交流がないが同じような記録作りをしていた人たちが保有しているかもしれない、あるいは故伊藤清司など故人が保有していたかもしれない「始源の表現が露出している」記録資料が、死蔵されたり、散逸・廃棄されたりしてしまうのは、あまりにもったいない。なんとか知恵を出し合って、それらの資料を一括して保存して、後世の研究者が活用できるような施設ができないものだろうか。たとえば“アジア基層文化資料センター”といった施設である。そのためには不動産が必要になるが、ここに名前を挙げた人たちが寄付をよせたり、非営利組織(NPOなど)の力を借りてクラウドファンディングなどで基金を募るなどして、まずは小規模で出発して、その後徐々に賛同者を増やしていけば、いずれは実現可能であろう。寄付・基金のさしあたりの受け皿としては、一般社団法人・アジア民族文化学会のような組織がその任を果たすであろう
 人類は今、資本主義的な市場経済主義の無限の欲望開発と、科学技術の過剰進展とによって地球の自然環境の劣悪化を招くとともに、核兵器による億単位の人間殺戮の危機さえ目前としている。自然環境の今以上の劣悪化と、核戦争による膨大な人間殺戮、近代文明の破滅的破壊、放射能汚染の全地球的規模での拡大を防止するための知恵として、自然との共生と、節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化から学ぶことは多いだろう。
 あるいは、これは想像もしたくないことではあるが、ついに核戦争が勃発してしまって、少なくとも主として北半球の近代文明社会がほぼ壊滅するような事態におちいった場合に、生き残った人類が文化を再建していくときにも、国家を目指さないがゆえに領土への執着が希薄で、また垂直的支配被支配関係を好まず、かつ自然との共生と節度ある欲望を旨とするアニミズム系文化の知恵が貢献するところがあるだろう。近代文明社会の壊滅を防ぐために、あるいはほぼ壊滅したあとの人類文化再建のためにも、この“アジア基層文化資料センター”は、根源からの視点を提示できるという点で重要な役割を果たすであろう


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本居宣長『古事記伝』についての神田秀夫『古事記の構造』の言及

2024年01月20日 | 日本論
●前回のこの欄で、『アジアの中の伊勢神宮』の「あとがき」を引用しました。その中で、本居宣長(もとおりのりなが)『古事記伝』に触れました。そして、「本居宣長によって描かれた『古事記』像の欠陥は、簡潔にいえば、国境の内側に自閉していること、そして、文字文献登場以前の日本列島文化への想像力の欠如、この二つです。そして、この二つの欠陥は、敗戦後の国文学の世界の、日本古代文学の研究方法にほとんどそのままに継承されました。」と述べました。
 とはいいながら、訓詁注釈だけに限っていえば、江戸時代としてはその水準はずば抜けた高さでしたし、その訓詁注釈の方向性としては現代にまで大きな影響を与えています。
 このような、『古事記伝』の矛盾についての先駆的指摘として、私が記憶しているのは、以下に引用する神田秀夫『古事記の構造』の文章です。特に、「十八世紀の封建日本に生まれ合はせた宣長のなかに、客観的な文献学者と一種の神秘主義者とが同時に住んでゐたとて、悲劇として悲しむべきでこそあれ、単に矛盾として怪しみ笑ふべきではないのであらう。」という文章に注目です。
 私は、神田秀夫(1913~93)とは研究者としての交流はありませんでした。私が本格的に中国長江流域少数民族社会の調査に踏み込んだのは1995年ですから、彼の存命中には、私の「文化人類学を導入した斬新な古代古典学」(先﨑彰容が私の研究スタイルに対して用いた用語)はまだ誕生していなかったのです。私のこの研究スタイルが、明確な形をとった単行本は、『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(中公新書、2006年)からです。この『古事記の起源』の94ページに神田秀夫「葦かびの序歌」を引用しました。この「葦かびの序歌」論は、古事記冒頭部の分析に、文字文化以前の“歌われていた神話”の存在を想定した、文化人類学の視点のない時代としては、画期的な発想だったと私は評価しています。
 以下に、神田秀夫『古事記の構造』の文章をそのまま引用します。

────────────────────────── 
 神田秀夫『古事記の構造』(明治書院、1959年)1ページ

  Ⅰ 序説
 1 古事記伝──宣長の悲劇的な矛盾
  (略)
 たしかに古事記伝は初めて古事記を発見し、古事記に価値を与へた、卓然たる大著である。起稿されたのは遅くも明和四年(一七六七)、宣長がまだ三十八にしかならないころなのに、脱稿したのは宣長がもう六十九になってゐた寛成十年(一七九八)のことなのも、事実である。
 だが、宣長は、ご承知のやうに国学者で、古事記が伝承するところの事がらは一切批判してはならない、すべてすなほに信仰せよ、と来るから、今日のわれわれにとっては、およそやりきれない存在である。そんならなぜ読むかといふと、初歩のこととて、はじめはだまされたつもりで一度読んでやらうと思って読みだすのだが、古事記伝は、読みすすむにつれて、意外や、神がかりした時の宣長とは打って変って客観的な物静かな一人の文献学者がそこに立ち現はれ、その参照力の豊富なこと、また周到なこと、漢学の底力のあること、当時のレベルを思ふと、全く驚くばかりなのを発見するからである。
 だから私などはよく、不思議な気がしたものだ、──これだけの大学者が、どうしてその研究の対象を信仰するに至ったのであらうか、と。言ひ換へれば、これほどのミイラ採りがどうしてミイラとなったのか、と。それも、知らないで沙漠の道を踏み迷ったといふなら格別、知ってゐて、知り抜いてゐて、自らすすんでミイラとなることを願ひ、ミイラになりすまし、なりおほせた、としか思へないから奇怪なのである。
 しかし、まあ、考へてみれば、人間がめざめ、解放されてゐる筈の今日でさへ、すぐれた科学者で、旧来の信仰にすがる人もゐるのだから、まして十八世紀の封建日本に生まれ合はせた宣長のなかに、客観的な文献学者と一種の神秘主義者とが同時に住んでゐたとて、悲劇として悲しむべきでこそあれ、単に矛盾として怪しみ笑ふべきではないのであらう。当時の限度に於ける文献学を行きつくところまで徹底させる一途な態度と、それを為し得る学力とがなかったならば、その神秘主義との矛盾も、かうまで鮮明に現はれて来なかったでもあらうから、その意味では、宣長の学力にしてはじめて達し得た矛盾と解して置くべきかもしれない。とにかく、古事記伝は、さういふ不思議な本である

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『アジアの中の伊勢神宮』の「あとがき」です

2023年12月27日 | 日本論
●今回刊行した『アジアの中の伊勢神宮』は論文集ですので、本書のために新たに書き下ろした部分は、「まえがき」と「あとがき」だけです。その中でも特に「あとがき」には、内側に閉じるタコツボ型が大勢になっている日本知識人村に対して私が感じている苛立ちがストレートに出ていますので、あえて「です・ます調」で和らげたつもりです。
 その全文を、以下に引用しておきます。


──────────────────────

  あとがき

    1

 日本とは何かを源から論じるときには、『古事記』にまでさかのぼれば、参照すべき文献は押さえたと感じる人が多いようです。
 しかし、問題はそれほど単純なものではありません。『古事記』には、神話の書、文学の書、神道の教典の書、天皇神格化のための政治の書という四つの顔があります(工藤『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』中公新書、二〇〇六年)。このうちの、文学の書としての『古事記』の基礎作業的な研究は、本居宣長(もとおりのりなが)『古事記伝』(一七九八年完成、引用は『本居宣長全集』筑摩書房、一九六八年、による)に代表される江戸期の国学の訓詁注釈的な伝統を継承して、すでに敗戦前までにかなりの水準に達していて、敗戦後現在にいたる『古事記』研究も基本的にその延長線上にあります。
 しかし、神話の書としての側面では、宣長の時代には、ムラ段階社会の生活と密着し、声で歌われ、あるいは唱えられていた生きている神話の実態を示す資料がほとんど得られなかったので、残された文字文献資料だけではたどり着けない領域が手つかずで残されたのです。古事記神話は、ムラ段階社会とのつながりを失い、また声の表現も失って文字世界に固定された、いわば〝死んだ神話〟の集積体なのです。
 また、天皇神格化のための政治の書という側面については、それを相対化する視点を『古事記伝』はまったく持つことができませんでした。宣長は、『古事記』に〝純粋無垢なヤマト心〟を見ると同時に、次のようにも述べています。

 皇大御国(スメラオホミクニ)は、掛(カケ)まくも可畏(カシコ)き神御祖天照大御神(カムミオヤアマテラスオホミカミ)の、御生坐(ミアレマセ)る大御国(オホミクニ)にして、万(ヨロヅノ)国に勝(スグ)れたる所由(ユゑ)は、先(マヅ)ここにいちじるし。国といふ国に、此大御神の大御徳(オホミメグミ)かがふらぬ国なし。
   〔(日本国は)天皇が全体を治めている「皇大御国」であり、それは先祖の神である(高天原の)天照大御神から発している(神聖な)国なので、(世界中で)最も優れた国なのである。(世界中の)国で、天照大御神の恵みを受けていない国はないのである。〕


 高天の原もアマテラスもすべて物語の中の存在でしかないのにそれを実在だと信じる人々のいる国、すなわち日本国の、その内側でしか通用しない論理を根拠にして、日本国を世界中で最も優れた国だとする、ほとんど誇大妄想の論理です
 もちろん、鎖国時代の日本の内側しか知らない宣長の場合には、これはこれで仕方ない面もありました。しかし、明治期にすでにそれなりの近代化を導入していたはずの一九〇〇年代の日本社会が、皇国史観のような誇大妄想の物語を心の糧(かて)にして他国に軍事侵攻して行ったのは、日本とは何かの認識に、大きな欠落が存在していたからだと思われます。
 それは、『古事記』が発する情念・情緒の部分の、反リアリズム的性質にありました。神話世界的観念の特徴は、視野が内向きに固定されていることです。神話は、自分が暮らす領域の外を知らぬがゆえに作り出された物語世界です。
 本居宣長によって描かれた『古事記』像の欠陥は、簡潔にいえば、国境の内側に自閉していること、そして、文字文献登場以前の日本列島文化への想像力の欠如、この二つです。そして、この二つの欠陥は、敗戦後の国文学の世界の、日本古代文学の研究方法にほとんどそのままに継承されました。『古事記』への接近が、国境の内側主義と、無文字文化時代の言語表現への接近の忌避に特徴づけられるのが、敗戦以後現在までの古代文学研究学界の大勢です。言い換えれば、二十一世紀の現在でも、『古事記』研究は、研究方法自体が国粋主義的なので、『古事記』の天皇神格化のための政治の書の側面から派生する国粋主義的性格を相対化できないのです

    2

 一般知識人が日本とは何かを源から把握しようとするとき、日本最古の本格的書記物である『古事記』に依拠するのは仕方ないことです。しかし、そのときに古代研究者から提示される『古事記』像は、国境の内側に閉じた思考と、無文字文化時代のヤマトの言語表現文化への接近の欠如が生み出した歪んだ像なのです。
 伊東裕吏(ゆうじ)『丸山眞男の敗北』(講談社選書メチエ、二〇一六年)が、丸山真男(まさお)という、最も冷静に日本とは何かを分析した知識人でさえもが、日本文化の「古層」に迫ろうとすると、「国粋主義者たち」と同じ日本像になってしまったことを指摘して、次のように述べています。

実は、【丸山真男の】古層論文が指摘した、記紀神話に見られる「なる」に規定された発想や、宣命(せんみょう:天皇の命令を 和文で記した文書)の「中今」(なかいま)という言葉にあらわれた日本特有の「永遠の今」という無窮性の観念は、なにも丸山が発見したものではない。それどころか、それらはまさに、大東亜戦争の最中に、国粋主義者たちによって日本精神の本質として謳わ(うた)れていたものであった。
(略)
 つまり、この点について言えば、丸山の「古層」論と、戦中の皇国史観に基づいた日本精神論とは、内容自体にまったく変わりない。 (( )内原文)


 しかし、これは丸山真男ひとりに限ったことではなく、現在でも、知識人を含む日本人の多くが、日本とは何かについて抱いている歪みの共通像だと私は考えています。「丸山眞男の敗北」は、実は〝現代日本のほとんどの知識人の敗北〟でもあるのです
 現代日本の多くの知識人たちよ、あなたたちは日本文化の「古層」について、丸山真男以上のことを述べることができますか? あなたが日本人であることの最も深い根拠を、丸山以上の思索で述べようと努力していますか? 実は、日本文化の「古層」について考えること自体を棚上げにして、思考停止しているのではありませんか?
 現代日本社会は、明治の文明開化以来流入してきた欧米の合理主義的な近代文明の表層と、江戸時代までにできあがっていた縄文・弥生時代にまでさかのぼる、反(あるいは非)リアリズム的なアニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性を主成分とする基層との、同時存在によって形成されています(工藤『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』新潮新書、二〇一九年)。これらアニミズム系文化とムラ社会性・島国文化性の基層部分は、プラス面とマイナス面を両方備えたうえで、日本人の潜在意識の部分に深く食い込んで、現代日本人の行動を「空気」(山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、一九七七年)のようになって動かしているのです
 ところが、日本の知識人の多くは、表層の欧米的な合理主義の部分は積極的に学習するが、日本文化の基層の部分に対する認識がいちじるしく弱いだけでなく、軽視さえしているのです。
 日本の知識人一般のこのような傾向は、日本の明治以後の近代化のあり方にその源があると考えられます。そのわかりやすい事例として、渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、一九九八年)が紹介している、明治六年(一八七三)に来日したイギリス人チェンバレン(一八五〇~一九三五)の、「日本知識人」についての論を以下に引用します(チェンバレンの言葉の部分は、チェンバレン『日本事物誌1』平凡社東洋文庫、一九六九年、英文原著は一八九〇年、による)。

 チェンバレンによれば、欧米人にとって「古い日本は妖精の住む小さくてかわいらしい不思議の国であった」。今日の日本知識人はこういうことばを聞くと、反射的に憤激するか冷笑するように条件付けられている。なぜなら、それは古い日本への誤った賛美であって、事実として誤っているばかりか、それ以前に反動的役割を果しかねないからである。チェンバレン自身、そのような日本人の心的機制についてはよく知っていた。彼は書いている。「新しい教育を受けた日本人のいるところで、諸君に心から感嘆の念を起させるような、古い奇妙な、美しい事物について、詳しく説いてはいけない。……一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている」。
 彼はその好例として、英国の詩人エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 1832~1904)が一八八九(明治二十二)年に来日したとき、歓迎晩餐会で行ったスピーチが、日本の主要新聞の論説でこっぴどく叩かれた話を紹介している。アーノルドは日本を「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と賞賛し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べたのだが、翌朝の各紙の論説は、アーノルドが産業、政治、軍備における日本の進歩にいささかも触れず、もっぱら美術、風景、人々のやさしさと礼儀などを賞めあげたのは、日本に対する一種の軽視であり侮蔑であると憤慨したのである。(( )内原文)


 このうちの、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、(略)、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」 という部分は、私が先に述べた日本文化の「アニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性を主成分とする基層」に発する部分のプラス面に当たる資質であり、その貴重な資質の痕跡は、二十一世紀の現在でも、日本人の潜在意識や民間習俗の中に、弱まったとはいえまだ残存しています。  
 一方で、「一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている」(チェンバレン)という部分の「彼らの過去」とは、明治の近代化で取り入れている西欧文化とは逆方向の、古代以来の日本文化の伝統のことであり、私の言葉では日本文化の「基層」、丸山真男の用語でいえば「古層」に発する文化現象のことです。この「基層」「古層」に対する認識の弱さ、軽視は、明治維新から百五十年以上を経た現代日本の知識人においても、基本的には変わっていないのです
 それだけではなく、日本の知識人の多くは、大学教育で欧米的な近代合理主義の知性をたっぷりと身につける過程で、日本社会の合理的でないところを、ただ〝遅れている〟〝劣っている〟と感じるようになりがちです。
 精神分析学の岸田秀(しゅう)は、次のように述べています。

 また、ヨーロッパが経済的、工業的、軍事的に格段の進歩を遂げてその勢力を他大陸へと拡大していったこともヨーロッパ人の人種差別的優越感を高めた。それとともにというか、それにつられてというか、人種差別を正当化する思想家が続々と現れた。ジョン・ロック、デイビッド・ヒューム、モンテスキュー、ルソー、マルクス、マックス・ウェーバー、など。それぞれが同じことを言ったわけではないが、アフリカやアメリカの原住民は土地を耕さず、活用していないから、奪っていいのだとか、アフリカは文明が成立し得ない暗黒大陸だとか、アジア人は倫理を欠き信用できないとか、アジアは停滞しているとか、いろいろヨーロッパ中心主義的なことを言い始めた。彼らの説く基本的人権、自由、平等、民主などの近代思想は白人以外は対象外で、どこかで人種差別思想とつながっていた。進歩史観が広く信じられ、ヨーロッパ人の抱く世界像のなかでは、つねに先端を切って進歩するヨーロッパ人と未開にとどまる非ヨーロッパ人とが鮮やかな対比を成していた。(岸田秀『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』新書館、二〇〇七年)


 ここに挙げられた「ジョン・ロック、デイビッド・ヒューム、モンテスキュー、ルソー、マルクス、マックス・ウェーバー、など」の著書からは、私たち日本人は、近代化に必要な理論・思想の多くを学ぶことができました。しかし同時に、彼らの理論・思想に根づく、アジア・アフリカ・アメリカ大陸などは植民地化されても仕方がない〝劣等人種〟の居住地域だとする姿勢もまた、日本の知識人の意識の中に滑り込んだのです。

    3

 とはいいながら、日本とは何かを考えるときには、どうしても日本の過去像の把握が必要になりますので、そのとき、考古学資料とは別に、文字で書かれた最古の本格的書記物にも手がかりを求めようとして、『古事記』にたどり着くことになります。ところが、古代文学研究者の多くが提示する『古事記』像は、国境の内側に自閉し、無文字文化時代の日本列島文化への想像力の欠如によってできあがった像です。したがって、丸山真男のように、移入した近代文明的な表層の知識・知性には人一倍詳しい人でも、「古層」を論じようとすると、基層部分の、縄文時代にまで届く数千年の反(あるいは非)リアリズム的なアニミズム系文化などの分厚い伝統に迫る手段を持っていないので、〈古代なりの近代化〉の中で形成された、古代としてはかなり新しい日本像を「古層」だと誤認してしまうのです。たとえば、皇位継承の男系重視への著しい傾斜は、六〇〇、七〇〇年代に、唐の皇帝制度の男系男子絶対主義のうちの男系部分だけの模倣が強化されたことによって始まったものでしかないのに、それを「古層」以来の伝統だと誤認するように。
 ではどうすればよいのか。それは、『古事記』を相対化できる新たな分析手法を取り入れることです。
 『古事記』を月に喩(たと)えれば、地球上から肉眼や望遠鏡で見た月面の模様を、地上にとどまったままでさまざまに解釈して論理を組み立ててきたのが、宣長以来現在までの『古事記』論の大勢なのです。しかし、私が提唱するモデル理論では、これを逆転させて、宇宙船で月に降り立って月の現実を観察しながら月の実態を把握するのです。もちろん『古事記』研究の場合、『古事記』の深層にある無文字文化時代の縄文・弥生・古墳時代の文化そのものに着陸することはできませんが、モデル理論としてはある程度可能でしょう。特に縄文・弥生時代の日本列島文化と共通性の多い、中国大陸長江流域を中心としたアジア全域の、アニミズム系文化の社会の実態をモデルとして、いわば『古事記』以前からの視線で、古事記を読み直すのです。この方法を、私はモデル理論と称しています
 このモデル理論を用いて、旧来の『古事記』像と旧来の日本像から抜け出し始めたと私自身が感じられるようになったのは、『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(二〇〇六年)を執筆したころからです。また、その延長線上で、『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』(二〇一九年)も執筆しました。「目利き45人が選ぶ2019年私のオススメ新書」(「中央公論」二〇二〇年三月号)で、日本思想史の先﨑彰容(せんざきあきなか)がこの『深層日本論』を「オススメ」第一位に推し、「(略)文化人類学を導入した斬新な古代古典学を確立してきた著者が、これまでの工藤古代学をわかりやすく、ダイジェストにした古代史入門書。天皇等をめぐり変に思想的偏向がないのが、清々しく読みやすい。」と評しました。日本の現代知識人の中に、少数とはいえ、「文化人類学を導入した斬新な古代古典学」を許容すれば等身大の日本像に迫れるかもしれないと感じる人たちが、登場しつつあると感じました。
話を元に戻せば、このモデル理論を使えば、『古事記』を、ある程度までは相対化できるのです(完全には無理ですが)。そうすれば、『古事記』の天皇神格化のための政治の書の側面を、ムラ段階社会の神話的要素と、国家段階の天皇権力美化の要素とに分別して論じることができるようになるでしょう
 従来の訓詁注釈的研究手法以外のものを認めようとしない人たちは、このモデル理論を導入すると、自分たちの閉じた共同体が崩れるように感じて、排除するか、黙殺するか、知らないふりをするか、とにかく関わらないようにするのが安全無難だと思っているのかもしれません。しかし、本居『古事記伝』以来蓄積されてきた訓詁注釈的研究手法の成果はそれはそれとして貴重な知的財産なのですから、それらを継承したうえで、このモデル理論的手法を組み合わせればよいのです。二〇〇〇年代に入ってようやく、日本の古代文学研究が、伝統的な訓詁注釈的研究手法と新たなモデル理論的研究方法の両方を組み合わせて、より高度なレベルで研究水準を高められる段階に進化したのです
 しかし、現在のように、『古事記』研究の主流が、天皇神格化のための政治の書の側面を相対化できぬままで停滞しているかぎり、『古事記』の皇国史観的匂いを制御できないでいるということになりますので、『古事記』が学校教育の中に正当な地位を与えられることは難しいでしょう。しかし『古事記』には、縄文・弥生時代に発する、自然との共生と節度ある欲望、および、国家を目指さないがゆえの領土への執着の希薄さ、垂直的支配被支配関係を好まない気質などに特徴づけられるアニミズム系文化の精神が塗り込められています。そして、そのアニミズム系文化の精神こそが、西欧的近代化思想に対して日本的なるものに独自の位置を与える根源のものなのです
 長江流域を中心とするアジア全域のアニミズム系文化圏の中の古代日本という視点を持つことが、『古事記』像や日本像を、偏狭な国粋主義的思考から解放し、国際的普遍性の中に位置づけ直す有力な手段となるのです

 以上のような問題意識を受け止めて、三弥井書店は、『歌の起源を探る・歌垣』(岡部隆志・手塚恵子・真下厚編、二〇一一年)、『古事記の起源を探る・創世神話』(工藤隆・真下厚・百田弥栄子編、二〇一三年)、『神話と自然宗教──中国雲南省少数民族の精神世界』(岡部隆志、二〇一三年)、『アジア「歌垣」論』(同、二〇一八年)、および私の『古代研究の新地平──始原からのアプローチ』(二〇一三年)を刊行しました。本書『アジアの中の伊勢神宮』は、前著『古代研究の新地平』をさらにアジア全域の視野へと展開したものです。吉田智恵氏の継続的な支えに感謝いたします。

二〇二三年九月二十日
工藤 隆

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『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化圏の日本』が刊行されました

2023年11月24日 | 日本論
●論文集『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化圏の日本』(三弥井書店、2023年10月刊、2800円+税)が刊行されました。

 収録された5本の論文および4本の短文のそれぞれのテーマをあらためて見直すと、『古事記』『日本書紀』『万葉集』、また記紀の天皇系譜、オキナワ論、天皇論 、天皇祭祀論、そして中国雲南省ワ族文化の現地調査報告という具合に、研究対象がいくつもの領域に関わっていることがわかります。
 日本文化の伝統では“一筋の道を貫く”というのが最上のあり方であって、私のように“複数の筋の道に関わる”すなわちいくつかの領域にまたがった研究をするのは、あまり歓迎されない傾向があります。その結果、日本の知識人世界には、日本文化の全体像を、さらには人類文化の全体像を総合的に把握する視点を打ち出そうとする姿勢が極めて希薄です。
 私はかつて、「専門領域に立脚しつつ領域を超える」(『日本・神話と歌の国家』勉誠出版、2003年、所収)という文章で、次のように述べたのを思い出しました(223ページ)。

 文化人類学の専門家からみれば、それまでこの分野でほとんど実績のなかった“素人”の仕事がなぜこれほどに次々に公刊され、発表されるのか、不思議に感じられたことだろう。しかし、むしろこれは、私が“素人”だったことがプラスに働いて、新しいものが見えたからだと考えてもいいのではないか。
 専門領域の学会・学界というものは、それぞれが歴史と伝統を背負い、その分野の研究の蓄積の上にさらに精密さを加えていくのが普通だ。それはもちろんその学会・学界の成長・発展でもあるのだが、一方で常にタコツボの中での自閉と停滞の危険を背負っている。学問としてはどんどん精密になっていたはずなのに、あるとき気づいたらその学問の全体が無用な存在に変わっていたということもありうるのである。
 また、古典文学研究の場合によく生じることだが、その作品の本質を把握するためには、まずその土台を固めなければならないということがあるのだが、しかしいつのまにかその土台作りが自己目的化されて、いつのまにか作品の本質分析のほうは忘れられてしまうことがある。『古事記』など日本古代文学の作品でいえば、これらはすべて漢字だけで書かれているので、その漢字の数、種類分け、日本発音と中国発音の比較、和文と中国語文の比較そのほかの基礎作業的研究がある程度深まっていなければ、本質分析も空疎なものとなる。しかし、それが「ある程度」を超えてそれ自体が最終目的であるかのように錯覚されてくる傾向がある。こうなると、本来は家を建てるためにその土台(基礎)を作っていたはずなのに、いつのまにか、土台しか作らない建築家が大多数になるということになる。土台は徹底的に精密かつ堅固に作るが、その上に建つはずの家屋本体については無関心、あるいは嫌悪するといった現象さえ見えてくる。これは、日本古代文学研究というタコツボの中で、そのタコツボのさらに一部分の作業部門がさらに小さなタコツボになるということであろう。タコツボ状態があまりに長く続くと、学問は土台(基礎)と本質分析の両方がそろって初めて学問になるという当たり前のことが見えなくなり、結果としてその学問の全体が腐る。
 学会に限らず「タコツボ型」社会というものは内向きの目しか持たないため、仮にその学会が“緩慢な死”に向かっていたとしても、自覚することさえできな。しかしそういうときにしばしば、“素人の目”とか“初心者の目”といったものが思いがけない突破口を開くことがある。
 もちろん私は、日本古代文学の領域ではそれなりの専門家である(伝統的な文献至上主義研究の立場からみれば、私を専門家として認めないという人もいるだろうが)。その日本古代文学という専門領域の内側ではどうしても解決できない壁にぶつかり、それを突破する方法を渇望し続けてきたという歴史が私にはあった。その渇望が、同じ少数民族文化に接しても、私に文化人類学者とは別なものを見させてくれたのかもしれない。要するに、専門領域を持ちつつ、一方でその専門領域に欠如感も抱く感性が、異分野に接したときに“素人の目”として新たな視点を切り開くことになるのであろう。


 この文章の中の「タコツボ」という用語は、「タコツボっていうのは文字通りそれぞれ孤立したタコツボが並立している型であります。近代日本の学問とか文化とか、あるいはいろいろな社会の組織形態というものがササラ型でなくてタコツボ型であるということが(略)」(丸山真男『日本の思想』岩波新書、1961年、129ページ)によっています。
 要するに、『古事記』『万葉集』などの日本古代文学研究でいえば、書かれた文字世界の内側という「タコツボ」に閉じこもり、また、その外側の祭式や呪術の世界に触れる場合でも日本列島の内側という「タコツボ」に閉じこもることが、21世紀の現在でさえも大勢なのです。
 逆に、たとえば文化人類学の研究者には、その研究が日本文化論にとって、特に500年代までの、文字文化以前の日本文化にとってどのような意味を持っているのかを考えようとする姿勢がほとんど見られないのです(かつての山口昌男『天皇制の文化人類学』立風書房、1989年、などの諸論を除いて)。
 したがって、本書『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化圏の日本』のように、ワ族文化の文化人類学的調査報告と『古事記』をめぐる日本古代文学論が、一人の研究者の作業の中で同時存在するということは、日本の知識世界においてはほとんど生じない現象なのです。

────────────────────────── 

 工藤隆『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化圏の日本』
   (三弥井書店、2023年10月刊)
(目次)
アジア基層文化からみた記紀天皇系譜──女性・女系天皇と皇位継承 (400字詰め約120枚)       『アジア民族文化研究21』(アジア民族文化学会、2022年3月)     

アジア基層文化と古代日本 (同約85枚)  
山田直巳編『歌・呪術・儀礼の東アジア』(新典社研究叢書344、2021年)

大嘗祭と天皇制 (同約130枚)
『大嘗祭・隠された古層』(工藤隆・岡部隆志・遠藤耕太郎編、勉誠出版、2021年)

アジアの中の伊勢神宮──聖化された穀物倉庫 (同約90枚)
『アジア民族文化研究13』(アジア民族文化学会、2014年3月)
 
中国雲南省ワ(佤)族文化調査報告 (同約140枚)
『アジア民族文化研究4』(アジア民族文化学会、2005年3月)

【補論】
 長江流域文化圏の中のヤマト・オキナワ文化 (ゆまに書房『琉球文学大系』月報4、2023年4月)
 アニミズム系社会の言語表現文化が〈文学大系〉にまで上昇した (書評『琉球文学大系』、図書新聞、2022年8月6日)
 琉球独立論をめぐって ( 『日本文学』2017年2月号)
 天皇論の再構築を  ( 『日本文学』2022年5月号)

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“土台(生産関係・下部構造)が上部構造を決定する”

2023年10月01日 | 日本論
●長江流域少数民族社会の、原型性の強い文化が、2000年代初頭を過ぎたころから、大幅に変質・消滅し始めました。中国政府の改革開放政策が高度経済成長をもたらし、その経済成長の波が急激に辺境にも及んだのです。
 辺境の集落にも電気が通じ、ラジオ・テレビなどの電気製品が当たり前になり、電話・インターネットなどで外部との通信手段が得られるようになりました。自動車用道路も作られ、水道も引かれました。そして、村人の多くが携帯電話を使うようになったことで、外部から遮断された生活という“生きた化石”の前提条件が大きく崩れたのです。
 自動車用道路が整備されたことで、移動手段の閉鎖性も大きく失われました。以前は主流だった無文字の音声言語表現も、漢族(漢民族)文化主体の学校教育が持ち込まれ、漢字文化および中国共産党的思想の浸透が加速化することによって、確実に衰退しています。以前は多くの少数民族に見られた“歌う神話や歌を掛け合う風習”なども、民族文化村や歌舞団に観光用の芸能ショーとして吸収され、ムラの現実生活との接点は急激に失われています。したがって、2020年代においては、長江流域少数民族社会の文化を調査しても、そこで得られた資料は、学問的には第一次資料として用いることはできなくなりました
 それに加えて、2014年には、中国共産党政府が「反スパイ法」を制定しました。さらに2023年には、その「反スパイ法」を改正して、「国家の安全と利益に関わる文書やデータ、資料、物品」の取得などを違反行為として明示したので、辺境の少数民族集落の調査は、中国の「国家の安全」を脅かす行為として拘束の理由にされかねず、結果として懲役刑が科される可能性が出てきました。改革開放政策の進行によって原型生存型文化のほとんどは消失・変質しているので、第一次資料としての価値はすでにいちじるしく減衰しているだけでなく、それでも集落に入れば過去の記憶の聞き書きくらいはできると思われるのですが、共産党中国の「反スパイ法」のもたらす制約によって、今や集落への接近自体が危険なものになりつつあります。
 私が積極的に現地調査をしていた1990年代後半から2010年くらいまでも、共産党中国の専制的体質は今と同じでしたが、当時は何か辺境文化調査で問題が生じたとしても、国外追放を覚悟しておけばよかったのです。しかし、「反スパイ法」制定の2014年以後は、中国での懲役刑を覚悟しなければなりません。

●それにしても、共産党中国の、改革開放政策の進行とともに、その進行とは逆方向の専制主義政治(ファシズム型政治)へののめり込みが目立ちます。
 中国共産党は、もともとはマルクスの理論を尊重していたはずなのですが、近年はマルクス理論軽視の姿勢が目立ちます。その典型は、“土台(生産関係・下部構造)が上部構造を決定する”というマルクス理論を完全に無視している点です。
 私は、経済学部出身ですので、我が家の書庫にある古い本を探し出して、マルクスの「経済学批判」を読み直してみました。

この経済的構造は、法律的ならびに政治的上部構造がよって立つ現実的な土台であって、特定の社会的意識諸形態もこの経済的構造に対応するのである。物質的生活の生産様式によって、社会的、政治的および精神的生活過程一般がどうなるかがきまる。(マルクス『経済学批判』マルクス・エンゲルス選集7、大内兵衛・向坂逸郎監修、新潮社、1959年、原本1859年、54ページ)


 すなわち、「物質的生活の生産様式」つまり経済構造のあり方が「法律的ならびに政治的上部構造」のあり方を決定するということです。わかりやすくいえば、経済のあり方が自由主義であれば、政治体制も自由主義になるということなのです。
 1990年代に改革開放政策に大きく舵(かじ)を切った共産党中国は、経済構造においては国際的な自由主義経済システムを徹底的に活用しました。欧米・日本など自由主義諸国は、その中国の動きに合わせて中国に膨大な投資を行ない、中国経済を、GDP世界2位になるまで成長させました。
 この流れの背景には、経済が自由化されれば、それがいずれ政治体制(上部構造)にも反映されて、中国の政治体制の自由化・民主化が進むであろうという、欧米・日本など自由主義諸国の楽観的な予測もあったのでしょう。
 それでは、マルクスの“土台(生産関係・下部構造)が上部構造を決定する”という理論が間違っていたのでしょうか。
 私は、そうは思いません。ただし、土台(生産関係・下部構造)の自由化が直ちに政治体制(上部構造)に反映されるということではなく、そこには時間差があるということなのでしょう。特に中国のような巨大国家の場合には、いくつかの紆余曲折を経て、数十年あるいは百年くらいの時間を経て、やっとのことで土台の自由化が上部構造にまで及ぶということなのではないでしょうか。
 それにしても、小さな変化は、欧米・日本など自由主義諸国の側に生じ始めたようです。新型コロナの行き過ぎたゼロコロナ対策や、ロシアによるウクライナ侵攻に対する親和的態度、また、2014年の「反スパイ法」の制定以後特に顕著になった言論・表現・報道の自由に対する抑圧・弾圧などを見た自由主義諸国が、中国市場への新規投資の抑制や、すでに投資したものの引き上げなどに動き始めました。国際的な自由主義経済システムの恩恵を最大限に受けて急成長を遂げた中国経済が“土台(生産関係・下部構造)が上部構造を決定する”というマルクス理論に反する行動を強めた結果、もはや一本調子で上昇し続けることができなくなったのです。
 北朝鮮は、市場経済導入(土台の変更)は、キム一族専制国家(上部構造)の存続を危うくすると判断して(マルクスの理論を正しく受け止めたことになります)、経済成長は諦めたのです。しかし、最小限の外貨は必要なので、それは、密貿易や暗号資産の乗っ取りといった国際的泥棒行為や、また核兵器による脅しで金を奪う国際的強盗行為などで獲得すると、覚悟を決めたようです。
 ソ連(1917~1991)も、計画経済という統制経済システム(自由な競争がない)を「土台」とし、「上部構造」は専制政治体制(ファシズム)だったので、土台が上部構造を決定するというマルクス理論と矛盾はありませんでした。ただし、自由な競争を欠いた統制経済では、世界的な経済成長から取り残されることになります。しかし、北朝鮮のように極貧国家でもかまわないとまで覚悟を決めることができなかったので、74年後についに、ソ連邦崩壊に至りました。
 しかし共産党中国は、自由主義経済システムによる経済利益追求を放棄する気はありません。そこで、現在の共産党中国は、自由主義経済システムの維持と、それに反する専制主義政治体制(ファシズム型政治)の強化とのあいだで、 “股裂き”状態になりつつあるのです。この“股裂き”状態に共産党中国は、これからどれだけの年月耐え続けるのでしょうか。不幸なことに、いつかついに股が裂けて、その矛盾のエネルギーを、国際的な場で悲惨な武力暴走に向かわせることにならないことを祈るばかりです。

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「おびえる露国境の町」

2023年08月03日 | 日本論
●猛暑が続いているなかで、単行本『アジアの中の伊勢神宮』の校正に追われています。ついさっき、郵便局に行って再校ゲラを送り返したところで、このブログに心が戻りました。

●昨日(2023年8月2日)の毎日新聞夕刊の一面には、「「熊(ロシア)を起こすな」限界」という主見出しのあとに、「「侵攻 次はフィンランド」おびえる露国境の町」という副見出しが付いていました。その記事の中で、ロシアのウクライナ侵攻を知ったときの住民たちの心境が、一人の住民によって次のように語られていました。

「ヨーロッパ、特にフィンランドにとって、ウクライナは対ロシアの最前線になりました。ロシアがウクライナを完全に併合すれば、次はフィンランドになるだろうと多くの人が感じていました」
「友人は私に、こう言いました。『熊を起こさないように』。(略)ロシアを刺激せず、平和に暮らす。それがここの人々の生き方でした」


●ロシアとの関係で中立性を維持してきたそのフィンランドが、ついにロシアの「熊」としての本質に改善の可能性は無いと見限って、NATO加盟を決断しました。フィンランドと同じ環境にあったスエーデンもNATO加盟に向かっています。
 実は日本も、ロシアと国境を接する国なのです。ロシアに武力支配されている北方四島を目の前にしている北海道の町は、やはり「露国境の町」なのです。
 しかし、日本国および日本国民は、フィンランドの「露国境の町」が感じている「おびえ」を、自国の北海道の町の問題として受け止めているのでしょうか。

●2022年4月19日のこの欄で、「ロシアによる北海道侵攻の可能性浮上と憲法9条問題」と題して、次のように書きました(その冒頭部のみ)。

 2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻を開始し、4月19日の現在も激戦が続いています。
 仮にロシアがこの侵略にやすやすと成功した場合、ロシアは次の照準をいずれかの時期に日本の北海道に合わせる可能性が出てきました。そのときに日本人及び日本軍(自衛隊)は、今現在、悲惨な状況の中でも抵抗を続けているウクライナ軍・ウクライナ国民のように、粘り強い戦いを継続できるのでしょうか。そもそも、“自衛権”を明記せず、「国の交戦権は、これを認めない」、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とまで規定している憲法9条のもとでは、厳密には自衛隊の存在自体が憲法違反だし、ロシア侵略軍に対して抵抗のために「交戦」することさえ許されないのです。
 私は今、私が12年前に刊行した『21世紀・日本像の哲学』(勉誠出版、2010年)の一節を思い出しています。以下に引用するような私の指摘は、12年前にはほとんど注目されなかったようです。しかし、ウクライナでのロシアの残虐な戦争犯罪が進行中の2022年4月の現在なら、可能性として浮上してきたロシア軍の北海道侵攻にどのように備えるのか、および憲法9条問題について、今こそ、リアリズムの視点で、真剣に、急いで、考えを深めなければならないことが理解されやすくなってきたと思われます。今度こそ、日本社会の「最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」と「こうあって欲しい願望」に身を委ねてしまう資質に、少しでも現実直視の思考が加わることを祈っています。 
 『マッカーサー大戦回顧録』(中公文庫、2003年)に、「ソ連は、占領当初から問題を起こしはじめた。ソ連軍に北海道を占領させて、けっきょく日本を二つに分けろという要求を持出したのだ。(略)私は真正面からそれを拒否した」とあるように、敗戦時の1945年には、ソ連軍の日本進駐の可能性は充分に存在していたのです。現ロシアの大統領(プーチン)の意識には、帝政ロシア、旧ソ連以来の領土拡張への病的な固執が巣くっています。プーチンの意識の中では、1945年ごろの北海道占領への思いは、むしろ、2022年の現在にこそ、いっそう生々しく燃えさかり始めている可能性があります。


●また、2022年6月4日のこの欄に、「異世界同士の交流に〈歌ことばのワザ〉の競い合い──長江流域少数民族ミャオ族の文化」と題して、次のように書きました。

 今まで、私が何冊かの本で書いてきましたように、日本の、縄文・弥生・古墳時代の文化、つまりは日本の基層文化は、長江流域少数民族と共通の文化圏に属していました。その共通文化圏の代表的なものが「歌垣文化圏」です(工藤『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』勉誠出版、2015年、参照)。日本文化の基層部分には、異世界との交流に、武力に頼らない、〈歌ことばのワザ〉の競い合いを用いるような感性が流れているはずなのです。
 日本国憲法の「第二章」(戦争の放棄)の第九条には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあります。この条文は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の意思によるものですが、当時の日本国の法律専門家のあいだでも、ある程度納得できる内容のものであったのでしょう。
 ウクライナに侵攻した今回のプーチン・ロシア軍の残虐行動を見ていると、その精神世界が、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するのとは正反対のところに位置していることがわかります。
 にもかかわらず、日本社会の精神世界の基層には、この日本国憲法「第二章」の精神がプーチン・ロシア軍などのような、領土拡張に狂った国家の侵略行動を「遮る」力があると感じる呪術的感性が根づいています。
 この「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する精神自体は、ミャオ族の、異世界との交流に、武力に頼らないで、〈歌ことばのワザ〉の競い合いを用いるような感性と同じく、素晴らしいものです。しかし、文化的手続きをいっさい無視して「侵略」「侵攻」「襲撃」に走る国家が日本国に迫ってきたときには、殉教者のように滅びの道に進むことを受け入れねばなりません。その覚悟が現代日本人にあるのかどうか、プーチン・ロシア軍のウクライナ侵攻が続いている現在、一人ひとりが考えてみる必要があります



●また2022年5月15日のこの欄では、「『日本文学』5月号に、「天皇論の再構築を」が掲載されました」と題して、次のように書きました。

 前回のこの欄で、「仮にロシアがこの侵略にやすやすと成功した場合、ロシアは次の照準をいずれかの時期に日本の北海道に合わせる可能性が出てきました」と書きました。しかし、2022年5月15日の現在では、ロシア軍の苦戦という戦況が報じられ始めましたので、ロシアの侵略が「やすやすと成功」することはなさそうだということになってきました。したがって、ロシアによる「いずれかの時期」の北海道侵攻は、さしあたりはかなり後の時期になりそうです(この可能性が無くなったということではなく、一時、休火山化したということです)。日本には、ロシアによる「いずれかの時期」の北海道侵攻に備えて、防衛策を練り上げる時間を与えられたことになります
 日本社会の「最後の破綻への想像力を欠き、破滅的結末を迎えてしまう思考形態」と「こうあって欲しい願望」に身を委ねてしまう資質に、少しでも現実直視の思考を加えて、「いずれかの時期」に必ずやってくるロシア軍の北海道侵攻に備えることが重要です。

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「長江流域文化圏の中のヤマト・オキナワ文化」が活字化されました

2023年06月03日 | 日本論
●私の「長江流域文化圏の中のヤマト・オキナワ文化」が活字化されました(ゆまに書房『琉球文学大系』月報4、2023年4月)。その全文を以下に引用します。

──────────────────────

   長江流域文化圏の中のヤマト・オキナワ文化
     工藤 隆

 私の研究歴は普通の国文学研究者とはまったく違う道筋だった。そもそも、大学では経済学部経済学科を卒業したのだし、そのうえ大学院では文学研究科の芸術学専攻(演劇専修)であった。この大学院では演劇や祭りの研究に没頭し、特に演劇の源を探るために、近代から、近世(主として歌舞伎・浄瑠璃)、中世(主として能楽)、そして平安・奈良時代へと遡るなかで、日本最古の本格的書記物である『古事記』に出会うことになった。
 経済学(当時の経済学部ではマルクス経済学が主流)を学んだことで、社会の仕組みや経済の動き、そして〈国家〉のあり方などを把握する、社会科学的視点が身についた。ムラ段階社会のヤマトの言語表現文化が、『古事記』『万葉集』の中に継承されるには〈国家〉の成立が必要だったという結論に私が至るのには、この社会科学的視点が作用した。
 一方、演劇研究から学んだことは、人間の文化世界には、文字言語で綴られた文章世界以外に、現に生きている生身(なまみ)の身体行動が生み出す〈動きつつある観念〉とも呼ぶべき観念世界があり、それは集団的行動として〈場の共同性〉を実現している世界だという認識である(工藤隆『演劇とはなにか──演ずる人間・演技する文学』三一書房、一九八九年)。この視点が、『古事記』以前の、無文字文化時代の言語表現文化への遡及に挑むという、私の研究行動に作用した。 
 『古事記』は七一二年の成立である。〈古代〉には、縄文・弥生・古墳時代までの一万数千年間の〈古代の古代〉と、それ以後の、〈古代なりの近代化〉が進行した六〇〇年代、七〇〇年代の〈古代の近代〉とがある。後者の〈古代の近代〉を特徴づけるものは、大陸先進国家、特に唐の文化の急激な流入である。これは、西欧文化が流入した明治の文明開化の激動にも匹敵するものだったので、私はこれを〈第一の文明開化〉と呼んでいる。この〈第一の文明開化〉では、ムラ段階の〈クニ〉より高度に整備された〈国家〉が成立し、上層社会への漢字文化の浸透、法律(律令など)による支配の進行、宮廷文化・都市文化の成立、徴税制度・軍隊制度の整備、擬似科学としての道教の導入などが実現した。
 『古事記』は、〈古代の近代〉の、日本古代国家の成立に伴って誕生した。オキナワの『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』(一六五〇年)、『琉球国由来記』(一七一三年)も、琉球国の成立(十四あるいは十五世紀ごろ)に伴って誕生した。
 『古事記』以前の〈古代の古代〉のヤマトの言語表現文化については、無文字文化時代だったので、援用すべき日本列島民族自前の文献史料が無い。その結果、伝統的な国文学研究の大勢は、基本的には、『古事記』以前にまでは踏み込まないという立場に立った。
 『古事記』以前に迫るには、漢字表記の『古事記』の内側にとどまる態度を修正し、縄文・弥生・古墳時代の、無文字が基本だった時代の文化を視野に入れなければならない。
 そこで私は、日本全国の祭りや民俗芸能を見て歩いた。一九八〇年前後からは、さらに原型性を残すものとして、沖縄県の祭り・民俗芸能を見る機会が多くなった。私を含めて古代文学研究者のあいだに生まれていたオキナワ文化を視界に入れようとする動きは、古橋信孝(ふるはしのぶよし)編『日本文芸史第一巻・古代Ⅰ』(河出書房新社、一九八六年)として結晶した。同書は、オキナワ民族およびアイヌ民族の「文芸」(文学)を「日本文芸」の発生の想定のためのモデルとして位置づけた。
 しかし、この動きのほとんどは、オキナワ文化までで止まってしまった。『古事記』研究の大勢は、本居宣長『古事記伝』(一七九八年完成)以来の、日本国の国境の内側に籠もる国内主義的思考と、文字世界の内側に籠もる閉鎖性から脱出できなかった。『古事記伝』は、訓詁注釈的には高度な精密度に達していたが、国境の外の世界を知らぬがゆえに、「(日本国は)先祖の神である天照大御神から発している国なので、最も優れた国なのである。(世界中の)国で、天照大御神の恵みを受けていない国はないのである」(現代語訳)と述べて、その誇大妄想的思想を表現している。
 しかし私は、オキナワ文化までで止まることに飽きたらなかったので、一九九四年から本格的に、中国雲南省を中心とする長江流域少数民族社会の文化探索に足を踏み入れた。
 国文学研究の大先達の中に、おそらくはこのような行動をとりたかったにちがいないと推測される人がいた。それは折口信夫(おりくちしのぶ、一八八七~一九五三年)である。折口は、『かぶき讃』(創元社、一九五三年)でも知られるように、演劇・芸能の世界に通じていた。また、新野(にいの)の雪まつり、三河・信濃・遠江(とおとうみ)の花祭りそのほか、本土の民俗芸能・民俗行事探訪も続けた。彼は、〈動きつつある観念〉の世界にもなじんでいた。さらに彼は、本土の演劇・民俗芸能・祭り以上のものを求めて、一九二一(大正十)年、一九二三(大正十二)年、一九三五(昭和十)年の計三回、オキナワ調査を行なった。一九二三年のオキナワ調査の際には台湾(当時は日本領)にも行った。
 折口は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩書房、一九六五年)と述べている。日本古代文学を発生・源流の側から把握するには「エスノロジー」(民族学、文化人類学)との交流が不可欠だと認識していたのである。しかし、一九九〇年代後半から私を含む何人かの古代文学研究者が推進しているような長江流域少数民族社会の現地調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約ゆえに、折口には実現できなかった。しかし、これらの制約から解放されたはずの折口以後の古代文学研究者の多くが、折口理論の、国境を越えられなかったがゆえの弱点の克服に踏み出せないでいるのは、知的停滞といわれても仕方あるまい。
 『古事記』には、神話の書、文学の書、神道の教典の書、天皇神格化のための政治の書という四つの顔がある(工藤隆『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』中公新書、二〇〇六年)。このうちの特に天皇神格化のための政治の書の側面を相対化するには、国境の外側からの視線と、無文字文化時代からの視線が不可欠である。日本的なるものの起源を、研究方法自体が国粋主義的な伝統的国文学の『古事記』像に求めているかぎり、『古事記』の天皇神格化思想から脱しきれない。〈古代の古代〉の日本列島文化は、自然との共生と節度ある欲望に特徴づけられるアニミズム系文化主体の長江流域文化圏に属していた。『古事記』『日本書紀』の初期天皇系譜は、そのムラ段階の神話的系譜が、歴史的事実を装って〈国家〉段階にまで継承されたものなのである。
 長江流域少数民族文化と同質の文化は、長江流域から日本本土の少なくとも関東圏まで及んでいる。その共通性は、まず照葉樹林として現われる。照葉樹とは、カシ、シイ、クスノキ、タブ、ツバキ、サザンカ、サカキ、ヒイラギなど、葉に厚みとつやがある濃い常緑の樹木のことである。またその地域の民俗・風習・植生などには多くの共通性がある。茶、絹、ウルシ、柑橘類、シソ、ワラビ、コンニャク、ヤマノイモ、カイコ、ムクロジ、ヤマモモ、ビワ、ほかにも、焼き畑、水田稲作、もち米、麹酒、納豆、なれずし、高床式建築、身体尺、鵜飼い、独楽(こま)回し、闘牛、相撲、下駄など、日本とも共通の多くの文化習俗が見られる。
 さらに近年、照葉樹林の共通性を上回る重要な視点として、長江流域少数民族文化には、歌垣(うたがき)文化圏(工藤隆『歌垣の世界──歌垣文化圏の中の日本』勉誠出版、二〇一五年)や兄妹(けいまい)始祖神話圏が重なり合っていたことが明らかになってきた。配偶者を求めて即興の歌を交わし合う歌垣の文化と、洪水などから生き残った実の兄と妹が結婚して集落が存続していく兄妹始祖神話は、『古事記』『万葉集』などの基層をなしている文化資質である。この文化資質は、オキナワ地域にも濃厚である。
 発生論的立場に立つときには、長江流域アニミズム系文化圏の中のヤマト文化・オキナワ文化という視点を持つことが、『古事記』論や琉球文学論を、国内主義そしてその延長線上に現れる国粋主義的思考から解放し、国際的普遍性のなかに位置づけ直す有力な手段となる。ヤマト文化・オキナワ文化の地域性を、偏狭なナショナリズムの方向に向かわせずに、普遍性へと解き放つことが重要なのである。                 

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“丸山眞男の敗北”は“現代日本のほとんどの知識人の敗北”でもある

2023年04月12日 | 日本論
●2021年12月23日のこの欄に、次のように書きました。

 この二つの論文「アジア基層文化と古代日本」と「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜」を元にして、400字詰め300枚くらいに膨らまして、新書版を書き下ろそうと考え始めました。書名は、『日本像を作り直す──アジア基層文化と古代日本』(仮題)といったものが頭に浮かんできました。新年に入ったら、書き始めようと思います。

 ところが、その後、この二つの論文「アジア基層文化と古代日本」と「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜」を含む計5本の論文を収録して、論文集の単行本『アジアの中の伊勢神宮──聖化された穀物倉庫』として刊行する話が進行し始めました。いま、その本の「まえがき」と「あとがき」を書いているところです。

●その書きかけの「あとがき」(未完)の一部分を、以下に引用します。伊東裕吏(ゆうじ)『丸山眞男の敗北』(講談社選書メチエ、2016年)を読んで、思うところがありましたので。

───────────────────────── 
  あとがき

    1

 日本とは何かを源から論じるときには、『古事記』にまでさかのぼれば、参照すべき文献は押さえたと感じる人が多いようです。
 しかし、問題はそれほど単純なものではありません。『古事記』には、神話の書、文学の書、神道の教典の書、天皇神格化のための政治の書という四つの顔があります(工藤『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』中公新書、二〇〇六年)。このうちの、文学の書としての『古事記』の基礎作業的な研究は、本居宣長(もとおりのりなが)『古事記伝』(一七九八年完成、引用は『本居宣長全集』筑摩書房、一九六八年、による)に代表される江戸期の国学の訓詁注釈的な伝統を継承して、すでに敗戦前までにかなりの水準に達していて、敗戦後現在にいたる『古事記』研究も基本的にその延長線上にあります。
 しかし、神話の書としての側面では、宣長の時代には、生きている神話の実態を示す資料がほとんど得られなかったので、残された文字文献資料だけではたどり着けない領域が手つかずで残されたのです。
 また、天皇神格化のための政治の書という側面については、それを相対化する視点を『古事記伝』はまったく持つことができませんでした。宣長は、『古事記』に〝純粋無垢なヤマト心〟を見ると同時に、次のようにも述べています。

 (略)

 高天の原もアマテラスもすべて物語の中の存在でしかないのにそれを実在だと信じる人々のいる国、すなわち日本国の、その内側でしか通用しない論理を根拠にして、日本国を世界中で最も優れた国だとする、ほとんど誇大妄想の論理です。
 もちろん、鎖国時代の日本の内側しか知らない宣長の場合には、これはこれで仕方ない面もありました。しかし、明治期にすでにそれなりの近代化を導入していたはずの一九〇〇年代の日本社会が、皇国史観のような誇大妄想の物語を心の糧(かて)にして他国に軍事侵攻して行ったのは、日本とは何かの認識に、大きな欠落が存在していたからだと思われます。
 それは、『古事記』が発する情念・情緒の部分の、反リアリズム的性質にありました。神話世界的観念の特徴は、視野が内向きに固定されていることです。神話は、自分が暮らす領域の外を知らぬがゆえに作り出された物語世界です。
 本居宣長によって描かれた『古事記』像の欠陥は、簡潔にいえば、国境の内側に自閉していること、そして、文字文献登場以前の日本列島文化への想像力の欠如、この二つです。そして、この二つの欠陥は、敗戦後の国文学の世界の、日本古代文学の研究方法にほとんどそのままに継承されました。『古事記』への接近が、国境の内側主義と、無文字文化時代の言語表現への接近の忌避に特徴づけられるのが、敗戦以後現在までの古代文学研究学界の大勢です。言い換えれば、二十一世紀の現在でも、『古事記』研究は、研究方法自体が国粋主義的なので、『古事記』の天皇神格化のための政治の書の側面から派生する国粋主義的性格を相対化できないのです。

    2

 一般知識人が日本とは何かを源から把握しようとするとき、日本最古の本格的書記物である『古事記』に依拠するのは仕方ないことです。しかし、そのときに古代研究者から提示される『古事記』像は、国境の内側に閉じた思考と、無文字文化時代のヤマトの言語表現文化への接近の欠如が生み出した歪んだ像なのです。
伊東裕吏『丸山眞男の敗北』(講談社選書メチエ、二〇一六年)が、丸山真男という、最も冷静に日本とは何かを分析した知識人でさえもが、日本文化の「古層」に迫ろうとすると、「国粋主義者たち」と同じ日本像になってしまったことを指摘して、次のように述べています。

実は、【丸山真男の】古層論文が指摘した、記紀神話に見られる「なる」に規定された発想や、宣命(せんみょう、天皇の命令を和文で記した文書)の「中今(なかいま)」という言葉にあらわれた日本特有の「永遠の今」という無窮性の観念は、なにも丸山が発見したものではない。それどころか、それらはまさに、大東亜戦争の最中に、国粋主義者たちによって日本精神の本質として謳(うた)われていたものであった。
(略)
 つまり、この点について言えば、丸山の「古層」論と、戦中の皇国史観に基づいた日本精神論とは、内容自体にまったく変わりない  (( )内、原文)


 しかし、これは丸山真男ひとりに限ったことではなく、現在でも、知識人を含む日本人の多くが、日本とは何かについて抱いている歪みの共通像だと私は考えています。「丸山眞男の敗北」は、実は“現代日本のほとんどの知識人の敗北”でもあるのです。
 現代日本の多くの知識人たちよ、あなたたちは日本文化の「古層」について、丸山真男以上のことを述べることができますか? あなたが日本人であることの最も深い根拠を、丸山以上の思索で述べようと努力していますか? 実は、日本文化の「古層」について考えること自体を棚上げにして、思考停止しているのではありませんか?
 現代日本社会は、明治の文明開化以来流入してきた欧米の合理主義的な近代文明の表層と、江戸時代までにできあがっていた縄文・弥生時代にまでさかのぼる、反(あるいは非)リアリズム的なアニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性を主成分とする、基層文化との、同時存在によって形成されています(工藤隆『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』新潮新書、二〇一九年)。これらアニミズム系文化とムラ社会性・島国文化性の基層部分は、プラス面とマイナス面を両方備えたうえで、日本人の潜在意識の部分に深く食い込んで、現代日本人の行動を「空気」(山本七平『「空気」の研究』文藝春秋、一九七七年)のようになって動かしているのです。
 ところが、日本の知識人の多くは、表層の欧米的な合理主義の部分は積極的に学習するが、日本文化の基層の部分に対する認識がいちじるしく弱いだけでなく、軽視さえしているのです。
 日本の知識人一般のこのような傾向は、日本の明治以後の近代化のあり方にその源があると考えられます。そのわかりやすい事例として、渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房、一九九八年)が紹介している、明治六年(一八七三)に来日したイギリス人チェンバレン(一八五〇~一九三五)の「日本知識人」についての論を以下に引用します(チェンバレンの言葉の部分は、チェンバレン『日本事物誌1』平凡社東洋文庫、一九六九年、英文原著は一八九〇年、による)。

 チェンバレンによれば、欧米人にとって「古い日本は妖精の住む小さくてかわいらしい不思議の国であった」。今日の日本知識人はこういうことばを聞くと、反射的に憤激するか冷笑するように条件付けられている。なぜなら、それは古い日本への誤った賛美であって、事実として誤っているばかりか、それ以前に反動的役割を果しかねないからである。チェンバレン自身、そのような日本人の心的機制についてはよく知っていた。彼は書いている。「新しい教育を受けた日本人のいるところで、諸君に心から感嘆の念を起させるような、古い奇妙な、美しい事物について、詳しく説いてはいけない。……一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている」。
 彼はその好例として、英国の詩人エドウィン・アーノルド(Edwin Arnold 1832~1904)が一八八九(明治二十二)年に来日したとき、歓迎晩餐会で行ったスピーチが、日本の主要新聞の論説でこっぴどく叩かれた話を紹介している。アーノルドは日本を「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と賞賛し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べたのだが、翌朝の各紙の論説は、アーノルドが産業、政治、軍備における日本の進歩にいささかも触れず、もっぱら美術、風景、人々のやさしさと礼儀などを賞めあげたのは、日本に対する一種の軽視であり侮蔑であると憤慨したのである。(( )内、原文)


 このうちの、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、(略)、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」 という部分は、私が先に述べた日本文化の「アニミズム系文化およびムラ社会性・島国文化性を主成分とする、基層文化」に発する部分のプラス面に当たる資質であり、その貴重な資質の痕跡は、二十一世紀の現在でも、日本人の潜在意識や民間習俗の中に、弱まったとはいえまだ残存しています。 
 一方で、「一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている」(チェンバレン)という部分の「彼らの過去」とは、明治の近代化で取り入れている西欧文化とは逆方向の、古代以来の日本文化の伝統のことであり、私の言葉では日本文化の「基層部分」、丸山真男の用語でいえば「古層」に発する文化現象のことです。この「基層部分」「古層」に対する認識の弱さ、軽視は、明治維新から百五十年以上を経た現代日本の知識人においても、基本的には変わっていないのです。
 それだけではなく、日本の知識人の多くは、大学教育で欧米的な近代合理主義の知性をたっぷりと身につける過程で、日本社会の合理的でないところを、ただ“遅れている”“劣っている”と感じるようになりがちです。
 精神分析学の岸田秀は、次のように述べています。

 また、ヨーロッパが経済的、工業的、軍事的に格段の進歩を遂げてその勢力を他大陸へと拡大していったこともヨーロッパ人の人種差別的優越感を高めた。それとともにというか、それにつられてというか、人種差別を正当化する思想家が続々と現れた。ジョン・ロック、デイビッド・ヒューム、モンテスキュー、ルソー、マルクス、マックス・ウェーバー、など。それぞれが同じことを言ったわけではないが、アフリカやアメリカの原住民は土地を耕さず、活用していないから、奪っていいのだとか、アフリカは文明が成立し得ない暗黒大陸だとか、アジア人は倫理を欠き信用できないとか、アジアは停滞しているとか、いろいろヨーロッパ中心主義的なことを言い始めた。彼らの説く基本的人権、自由、平等、民主などの近代思想は白人以外は対象外で、どこかで人種差別思想とつながっていた。進歩史観が広く信じられ、ヨーロッパ人の抱く世界像のなかでは、つねに先端を切って進歩するヨーロッパ人と未開にとどまる非ヨーロッパ人とが鮮やかな対比を成していた。(岸田秀『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』新書館、二〇〇七年)


 ここに挙げられた「ジョン・ロック、デイビッド・ヒューム、モンテスキュー、ルソー、マルクス、マックス・ウェーバー、など」の著書からは、私たち日本人は、近代化に必要な理論・思想の多くを学ぶことができました。しかし同時に、彼らの理論・思想に根づく、アジア・アフリカ・アメリカ大陸などは植民地化されても仕方がない〝劣等人種〟の居住地域だとする姿勢もまた、日本の知識人の意識の中に滑り込んだのです。

    3

 とはいいながら、日本とは何かを考えるときには、どうしても日本の過去像の把握が必要になりますので、そのとき、考古学資料とは別に、文字で書かれた最古の本格的書記物にも手がかりを求めようとして、『古事記』にたどり着きます。ところが、古代文学研究者の多くが提示する『古事記』像は、国境の内側に自閉し、無文字文化時代の日本列島文化への想像力の欠如によってできあがった像です。したがって、丸山真男のように、移入した近代文明的な表層には人一倍詳しい人でも、「古層」を論じようとすると、基層部分の、縄文時代にまで届く数千年の反(あるいは非)リアリズム的なアニミズム系文化などの分厚い伝統に迫る手段を持っていないので、〈古代なりの近代化〉の中で形成された、古代としてはかなり新しい日本像を「古層」だと誤認してしまうのです。たとえば、皇位継承の男系重視への著しい傾斜は、六〇〇、七〇〇年代に、唐の皇帝制度の男系男子絶対主義のうちの男系部分だけの模倣が強化されたことによって始まったものでしかないのに、それを「古層」以来の伝統だと誤認するように。
 ではどうすればよいのか。それは、『古事記』を相対化できる新たな分析手法を取り入れることです。
 『古事記』を月に喩えれば、地球上から肉眼や望遠鏡で見た月面の模様を、地上にとどまったままでさまざまに解釈して論理を組み立ててきたのが、宣長以来現在までの『古事記』論の大勢なのです。しかし、私が提唱するモデル理論では、これを逆転させて、宇宙船で月に降り立って月の現実を観察しながら月の実態を把握するのです。もちろん『古事記』研究の場合、『古事記』の深層にある無文字文化時代の縄文・弥生・古墳時代の文化そのものに着陸することはできませんが、モデル理論としてはある程度可能でしょう。特に縄文・弥生時代の日本列島文化と共通性の多い、中国大陸長江流域を中心としたアジア全域の、アニミズム系文化の社会の実態をモデルとして、いわば『古事記』以前からの視線で、古事記を読み直すのです。この方法を、私はモデル理論と称しています。
 このモデル理論を用いて、旧来の『古事記』像と旧来の日本像から抜け出し始めたと私自身が感じられるようになったのは、前出『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(二〇〇六年)を執筆したころからです。また、その延長線上で、前出『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』(二〇一九年)も執筆しました。「目利き45人が選ぶ2019年私のオススメ新書」(「中央公論」二〇二〇年三月号)で、日本思想史の先﨑彰容(せんざきあきなか)がこの『深層日本論』を「オススメ」第一位に推し、「(略)文化人類学を導入した斬新な古代古典学を確立してきた著者が、これまでの工藤古代学をわかりやすく、ダイジェストにした古代史入門書。天皇等をめぐり変に思想的偏向がないのが、清々しく読みやすい。」と評しました。日本の現代知識人の中に、少数とはいえ、「文化人類学を導入した斬新な古代古典学」を許容すれば等身大の日本像に迫れるかもしれないと感じる人たちが、登場しつつあると感じました。
 話を元に戻せば、このモデル理論を使えば、『古事記』を、ある程度までは相対化できるのです(完全には無理ですが)。そうすれば、『古事記』の天皇神格化のための政治の書の側面を、ムラ段階社会の神話的要素と、国家段階の天皇権力美化の要素とに分別して論じることができるようになるでしょう。
 従来の訓詁注釈的研究手法以外のものを認めようとしない人たちは、このモデル理論を導入すると、自分たちの閉じた共同体が崩れるように感じて、排除するか、黙殺するか、知らないふりをするか、とにかく関わらないようにするのが安全無難だと思っているのかもしれません。しかし、本居『古事記伝』以来蓄積されてきた訓詁注釈的研究手法の成果はそれはそれとして貴重な知的財産なのですから、それらを継承したうえで、このモデル理論的手法を組み合わせればよいのです。二〇〇〇年代に入ってようやく、日本の古代文学研究が、伝統的な訓詁注釈的研究手法と新たなモデル理論的研究方法の両方を組み合わせて、より高度なレベルで研究水準を高められる段階に進化したのです。
 しかし、現在のように、『古事記』研究の主流が、天皇神格化のための政治の書の側面を相対化できぬままで停滞しているかぎり、『古事記』の皇国史観的匂いを制御できないでいるということになりますので、『古事記』が学校教育の中に正当な地位を与えられることは難しいでしょう。しかし『古事記』には、縄文・弥生時代に発する、自然との共生と節度ある欲望、および、国家を目指さないがゆえの領土への執着の希薄さ、垂直的支配被支配関係を好まない気質などに特徴づけられるアニミズム系文化の精神が塗り込められています。そして、そのアニミズム系文化の精神こそが、西欧的近代化思想に対して日本的なるものに独自の位置を与える根源のものなのです。
 長江流域を中心とするアジア全域のアニミズム系文化圏の中の古代日本という視点を持つことが、『古事記』像や日本像を、偏狭な国粋主義的思考から解放し、国際的普遍性の中に位置づけ直す有力な手段となるのです。
(未完)

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祭り=超一級の無形民俗文化財=現代天皇制

2023年02月16日 | 日本論
●前回のこの欄(2022年12月31日)で、RISES第7回コロキウムでの「講義」の案内をしました。この催しは一般公開されませんが、講義内容、討論記録は活字化されるようです。現在、そのための校正をしています。
 私の講義「アニミズム系文化と近代文明の融合」のうちの、「Ⅴ 秘儀(源・本質)+風流(ふりゅう:パレード・仮装行列など)+酒食を伴う宴(宴会・直会:なおらい)=祭り……秘儀の部分を失えば風流・宴のみの肥大化あるいは祭り自体の消滅に向かう」の資料だけを、以下に引用しておきます。

●現在の、特に都市型の祭りのほとんどは、「風流(ふりゅう:パレード・仮装行列など)」が肥大化したものです。また、縄文・弥生的な古代社会では、酒を飲むのは神々との交流という「秘儀(源・本質)」と直結していたと思われますが、現代では、「酒食を伴う宴(宴会・直会:なおらい)」だけを楽しむことが、ごく一般的になっているでしょう。
 この視点を、天皇制に当てはめてみます。1945年の敗戦後の象徴天皇制は、「行政王・武力王・財政王など現実社会的威力の面」を失って、「神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面」だけに特化した存在です。ということは、現代天皇制の本質は、その存在自体が「祭り」だということにあります。これは、私が、現代天皇制は超一級の無形民俗文化財だと言っていることとも一致しています。
それでは、祭り=超一級の無形民俗文化財=現代天皇制の、何が失われれば「祭り(天皇制)自体の消滅に向かう」ことになるのか。それを、令和の天皇の大嘗祭の中に見いだしたのが、工藤隆・岡部隆志・遠藤耕太郎編『大嘗祭・隠された古層』(勉誠出版、2021年)p214~219の、私の発言です。以下に、工藤隆「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜──女性・女系天皇と皇位継承」(『アジア民族文化研究21』一般社団法人アジア民族文化学会、2022年3月)の冒頭部と合わせて、引用します。

────────────────── 
◆工藤隆「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜──女性・女系天皇と皇位継承」(『アジア民族文化研究21』一般社団法人アジア民族文化学会、2022年3月)の冒頭部

  Ⅰ 天皇論、記紀天皇系譜論、皇位継承論の前提
 天皇制、また天皇系譜、皇位継承について客観的に論じるには、まず天皇の歴史の、どの時代の、どのような性格を根拠にしているのかを明示する必要がある。まず、「時代」については、簡潔にいえば、次の①~⑦のようになる。

①縄文・弥生時代など非常に古い段階の〈源流〉としてのあり方
②まだ「天皇」という名称はなく、〈国家〉体制の整備も進んでいなかった「大王(族長)」  時代のあり方
③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、公式に「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期のあり方
④藤原氏が政治的実権を握っていた時代のあり方(平安時代)
⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方
⑥明治の近代国家成立時に、近代化と反する古代天皇制へ復帰したあり方
⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方

 ①縄文・弥生時代、②大王(族長)時代(古墳時代)までの日本列島文化は、基本的に無文字文化だったので、金石文などを除いて、まとまった文字記載系譜や諸記録は無い。したがって、無文字文化時代の系譜のあり方については、考古学資料や中国古典籍の記載などを参考にしながらも、後述するように、最終的には文化人類学的資料によるモデル理論的想定に頼る以外にない。
 また、③天武・持統天皇期には、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の編纂が進み、これらが完成した後は、文字記載された記紀の天皇系譜が権威化され、かつ固定化されることになった。この権威化・固定化は、①縄文・弥生時代、②大王(族長)時代までに比べると、はるかに高まったと思われる。したがって、文字で記載されて、かつ国家事業として固定化・権威化された記紀の天皇系譜を、①縄文・弥生時代、②大王(族長)時代(古墳時代)までの無文字文化時代の系譜(初代神武から500年代の天皇までの系譜)の分析にまで適用することはできない。
 次に、天皇制とはなにかを考えるにあたっては、次のA~Cのように、本質の部分とそれ以外の部分とを分けることが重要になる。

A これを失うと天皇ではなくなるという部分(最も本質的な部分なので変わってはならない部分)
B その時代の社会体制に合わせて変わってもかまわない部分
C その時代の社会体制に合わせて変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分

 「A 最も本質的な部分なので変わってはならない部分」については、さまざまな考え方があるが、旧来からの代表的なものは天皇系譜が「万(ばん)世(せい)一(いつ)系(けい)」だという点である。その根拠には、大日本帝国憲法(明治22年〔1889〕2月11日公布)の「第一章 天皇」の第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」がある。
 ただし、この「万世一系」は、『古事記』『日本書紀』の高天の原神話の神々の系譜までを含むとする立場や、神話段階の部分は除いて初代神武天皇からの系譜とする立場や、私のように、500年代くらいから男系継承に傾斜して、初代神武にまでさかのぼって男系にまとめられたのが記紀天皇系譜だとする立場があり、議論の分かれるところである。
 ただし、私は、天皇の最も本質的な部分は、系譜とは別の次元にあると考えている。以下に、工藤隆『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、2021年)に述べた考えを、そのまま引用する。

 私は、天皇存在は、「縄文・弥生時代以来の、アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった特性を、神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」すなわち「超一級の無形民俗文化財」であることに、根源的な根拠があると述べた。自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化は、自然の生態系重視のエコロジー思想と基盤を共有しているのであり、世界的普遍性を持っている。そのようなアニミズム系文化を体現している超一級の無形民俗文化財としてこそ、天皇は存在の根拠を持つという風に、日本国民は意識を切り替えるべきなのである。


 「B 変わってもかまわない部分」は、たとえば、江戸時代までは、天皇は、眉を剃り、白(おし)粉(ろい)・お歯黒を付けていたが、明治天皇からはそれらをいっさい廃止して、服装も西洋風に改めた。しかし、これらは「A 最も本質的な部分なので変わってはならない部分」ではないので問題ないのである。
 しかし、「C 変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分」の場合は、天皇制消滅を想定しなければならない局面なので、放置しておけば深刻な状況に陥る。参考までに、以下に、君塚直隆『エリザベス女王』(中公新書、2020年)から、ヨーロッパの王室について述べた一節を引用する。

 イギリスには一七〇一年に制定された王位継承法があった。そこには「男子優先の長子相続」と「カトリックとの婚姻禁止」が盛り込まれていた。
 しかしヨーロッパ大陸の他の王室の趨勢を見る限り、もはや「男子優先」は時代に即しているとは言えなくなっていた。スウェーデンの王室(一九七九年)を先頭に、オランダ(八三年)、ノルウェー(九〇年)、ベルギー(九一年)、デンマーク(二〇〇九年)、ルクセンブルク(一一年)といった具合に、各国王室は男女を問わず第一子が王位継承で優先される「絶対的長子相続制」を採用するようになっていたのである。


 その結果、イギリス王室でも、2013年に、「絶対的長子相続制」と「カトリックとの婚姻容認」の新しい王位継承法が成立した。続けて君塚同書は、次のように述べている。

 「ヨーロッパの君主制の多くは、その最も中核に位置する、熱心な支持者たちによってまさに滅ぼされたのである。彼らは最も反動的な人々であり、何の改革や変革も行わずに、ただただ体制を維持しようとする連中だった」
これは、本書の主人公エリザベス女王を七〇年にわたって支え続けてきた、エディンバラ老公の言葉である。(略)
 この老公の言葉の裏返しと言えようか、時代に即した改革を進める現実主義と柔軟性を備えている限り、女王と王室はこれからも国民と手を取り合っていくことができるはずだ。


 日本では、21世紀に入って皇位継承が薄氷を踏む状況になっているにもかかわらず、政権を握っている側の行動はまことに鈍い。日本の政権側には、天皇制について、「時代に即した改革を進める現実主義と柔軟性」を欠いた「熱心な支持者たち」が多いがゆえに、近代天皇制は、皇位継承問題に限らず、全体として、これから加速度的に“滅び”の道を進んでいくのではないか。
このことについて私は、『大嘗祭──天皇制と日本文化の源流』(中公新書、2017年)で次のように述べた。

 贔屓(ひいき)の引き倒しという言い方があるが、戦前の右翼・国粋主義勢力は、天皇制を愛しすぎたあまりに、敗戦(一九四五年)で終わることになる軍国主義ファシズムに天皇制を巻き込み、日本国の消滅、そして天皇制消滅の一歩手前にまで行ってしまった。それと同じように、二十一世紀の現在では、皇位継承が不可能になる天皇制消滅の危機を放置している。つまり、戦前の右翼・国粋主義勢力はもちろん、現在の保守系(女系天皇反対グループ)の人たちも、「終章 日本的心性の深層」で述べた、日本文化のアニミズム・シャーマニズム・神話世界性および島国文化・ムラ社会性の伝統のうちのマイナス面、すなわち肝心なときに、願望と空想と目先の利害で重大決断をしてしまう弱点に溺れていることになる。要するに、皇位継承問題でも、今や、天皇制の、時代に合わせて変わらねば存続できなくなるという事態への目配りが求められ始めたのに、彼らの意識は戦前の指導層と同じく、“神国日本幻想”の中にとどまっていて、現実を冷静に見つめることができないのであろう。
逆に、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制を極度に忌み嫌う旧左翼系の人たち(天皇文化と政治としての天皇制を区別する視点を持たない人たち)にもまた同じような発想が存在している。つまり、かつてのように“天皇制打倒”と明確な形で叫ばなくても、現状の綱渡りの皇位継承状態を放置すれば、いずれ天皇制は維持できなくなって結局は打倒されたのと同じことになるという考え方である。
となれば、現在の日本では、保守系(女系天皇反対グループ)、旧左翼系のどちらもが、本音では、象徴天皇制の自然消滅を待っているということになるのではないか。


 私は、先に引用したように(『女系天皇──天皇系譜の源流』)、天皇文化の価値は、「自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化」を、「神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」点にあるのであり、それはエコロジー思想と基盤を共有しているという意味で世界的普遍性を持っていると考えている。したがって、天皇存在は、世界にも通用する「超一級の無形民俗文化財」として今後とも存続させていくことが望ましい(その消滅は、日本にとっても世界にとってもあまりにも“もったいない”)。すなわち、皇位継承問題は「C 変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分」にあたるのだから、それを「時代に即した改革を進める現実主義と柔軟性」によって、乗り越えていくべきなのである。
 このように、「今後とも存続させていくことが望ましい」と述べると、1945年の敗戦で終わった、軍国主義と結びついた天皇制ファシズムを思い出して、不快になる人もいるだろう。そこで私は、天皇制を、以下のように、政治体制の面と文化継承者の面とに分解して把握することを提案している。

  甲 行政王・武力王・財政王など現実社会的威力の面
  乙 神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面

 このように、天皇制を、現実社会的威力の面(甲)と文化・精神的威力の面(乙)とに分解して把握するのである。甲は、古今東西、あらゆる権力機構に備わっている要素である。しかし、乙は、古代天皇制国家以来の天皇存在に特に顕著な要素である。ヨーロッパ王室の場合、その権威の源は行政王・武力王・財政王だった過去にあるだけである。日本皇室のように、神話世界の神々から継続する天皇系譜を語り、それらと結びついているアニミズム・シャーマニズム系統の呪術や祭祀と現実社会的威力の面(甲)とがセットになっていて、しかもそのうちの文化・精神的威力の面(乙)を継承して現代にまで実践している例はヨーロッパ王室には無い。
 このように、現実社会的威力の面(甲)と文化・精神的威力の面(乙)とに分解する視点を持つと、③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、公式に「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期に創出された天皇制のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制だったことがわかる。⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方は、行政王・武力王・財政王の側面を失った時代である。そして、⑥明治維新による近代国家成立後の、近代化と反する王政復古がなされた時代のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制の復活であったことになる。
 大日本帝国憲法は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)という神聖性の規定のあとに、「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(実際の具体的な統治行為は内閣などが行なうことになっていたにしても)を加えたことによって、〈国家〉の最高統括者が、神話王・呪術王であると同時に行政王・武力王・財政王でもあることになり、ここに、天皇制ファシズム国家が近代法の裏付けを持って成立することになったのである。
 最後の、⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方は、行政王・武力王・財政王の面を除去されて、神話王・呪術王など文化・精神的威力の面に特化した存在である。これによって、軍国主義と結びついた過去の天皇制ファシズムの性格の部分が除去されたことになるので、私のように、天皇存在の「超一級の無形民俗文化財」としての価値を再評価して、国家次元で積極的にその存続をはかるべきだという立場が登場することになった
 これら①~⑦の、時代による違いと、A~Cの、本質からの近さ遠さ、および甲・乙の、現実社会的威力の面と文化・精神的威力の面の有る無しを見極めながら、現代の天皇論は進められなければならない。

◆工藤隆・岡部隆志・遠藤耕太郎編『大嘗祭・隠された古層』(勉誠出版、2021年)p214~219

工藤:岡田荘司氏は、天皇が大嘗宮(きゆう)の中の八重畳で何かをするということはないということを言っただけです。ですから、岡田氏は、衾(ふすま)を用いるとかの具体的所作がないということは言ったのだが、しかし八重畳があることで何かが表現される、つまりは新天皇が何かを継承するという問題についてはきちんと論じていません。私は、本書所収の「大嘗祭と天皇制」に書きましたように、その八重畳で前の天皇の亡骸と一緒になるんだとか、そういうようなことはありえないにしても、これは山田さんも言うように、天皇霊という言葉に象徴される何かを継承したと考えています。天皇以外の周りの者全員が、何かがそこで皇太子に継承されたことによって、それまでとは別の新たな天皇という存在に変わったという風に感じるわけで、それが大嘗祭というのが一世一代の最重要の祭祀だと位置づけられたことの意味なんですね。実際には、私もすでに『大嘗祭の始原』(三一書房、一九九〇年)に書きましたように、おそらく天武・持統期の初期大嘗祭の段階でも、伊勢神宮の神主と大差ないことを行なっていた。けれども、そこで何かが獲得され、その獲得されたことによって新天皇が超越性を得るということになります。そのように超越性を得たと、中央の役人も含めて、民間の人々が感じ取るということがとても大事で、人々の幻の思いの中に天皇の超越性というのが定着するのです。
鳥越憲三郎氏の「大嘗会の歴史と意義」(『大嘗祭史料──鈴鹿家文書』柏書房、一九九〇年)が、剣・勾玉・鏡という「剣壐」が継承される儀礼が大嘗祭の当日から前の方に移動したりというようなことがあって、本質的な意味は失われてるのだから、いずれ大嘗祭というのは存在意義がなくなるだろうというようなことを書いています。しかし、剣とか鏡とかいうのは、これは王権を装飾する、特に唐の皇帝の儀礼類を日本風にアレンジして作ったものですから、いわば舶来品で権威づけをしてるんですね。法制度的には践祚および即位の礼そして「剣壐」の儀で新天皇登場になるということです。
しかし、この大嘗祭がもしなくなったら、天皇が特別な存在であり、他の人では絶対に天皇になれないという今の憲法の条件を支えられないと思います。天皇が超越的な存在になるというのは、狭く言えば高天原神話と接続すると言ってもいいですが、広く言えば岡部さんも言っているアニミズム系文化ですね、天皇は、アニミズム系文化を結晶させた祭祀すなわち大嘗祭を行なっている存在だと人々が感じるということに重要性があると考えています。
大嘗祭には、飾り物が色々付いて、平安の大嘗祭では山車(だし)がたくさん出たり、四〇〇〇人を超えて五〇〇〇人になるかもしれない大行列が、北野から大嘗宮に向けて進み、それを人々が見物するとか、都市型の大ページェントになっていったわけですが、そういう飾り部分を一つずつ取り除いていって最後に何が残るか、ですね。
タマネギに譬えて言えば、タマネギの皮を剥いていくと、タマネギには最後に残る芯とか種とかがないんですね。しかし、大嘗祭の場合はそうじゃなくて、その飾り部分を取り除いた時に最後に残る部分があって、それが大嘗宮という素朴な建物の中で素朴に行なわれるあの行為なんです。その行為自体が天武・持統期にはすでに神主が行なうような所作になっていた可能性は高いんですが、しかし精神としてはどうしても中央に置かれる八重畳を排除することができなかった。実際は折口信夫が言うような、具体的にそこに入って寝たりとかそういうことはもうなかったと思いますが、何か起源から継承された絶対に省略できない聖なる呪的なるものとして八重畳が置かれてあって、その同じ空間の中に天皇が入って供物を捧げるとかの所作を行なう、そういうことに意味があったんだろうと思います。
そうしますと、結局そこで何が継承されたかと言えば、法制度的にはすでに践祚あるいは即位の礼のレベルで天皇になってるんです。にもかかわらず、あえてその数ヶ月後に、あるいは一年先とかに大嘗祭を行なうというのは、大嘗祭によって新たな天皇が縄文・弥生時代に発するアニミズム系文化の結晶をそこで継承した、それを祭祀の形で行なうからだということだという風に考えています。
というわけで、これからの将来の問題で言えば、大嘗祭はこの大嘗宮の儀礼を、できる範囲で、少なくとも平安期までは遡らせるべきだと思っています。しかし、平安期の『儀式』『延喜式』によると、八重畳が地面に直かに接して敷かれているようになってますけど、伊勢神宮の内宮や外宮の正殿の在り方を見ていると、やはり高床式だったはずです。ニイナメ儀礼の源はアジア南部地域の稲作儀礼だったと考えられますが、その地域の建築様式も基本的に高床式です。そういった高床のもので、柳田国男「大嘗祭ニ関スル所感」も書いている「素樸簡古」で、数日間で仕上げて、終わったらすぐそれを壊してしまうというように、大嘗宮の儀礼だけは徹底的に古(いにしえ)を想定して行なう形で継承していけばいいと考えています。
昨年東京新聞(二〇一九年一一月一五日)の取材に応じた文章で、大嘗祭は「天皇位を根拠づけている」ものなのだから基本的には国費でやるべきだと述べたうえで、大嘗祭は宗教以前のアニミズム系の土俗文化を継承している、経費を節減するのなら、大嘗宮の建物は「皮付き掘っ立柱、茅葺き屋根、高床式などで五日間で組み立てて、終了後に直ちに破却できる建築に戻し」と述べました。悠紀殿・主基殿をそのぐらいに素朴な建物に戻して行なえば大嘗祭は継続できるんじゃないか。この大嘗祭こそが天皇が普通の人ではない、普通の一般国民と違うということを実現する重要な祭祀装置である、と私は考えています。

遠藤:ありがとうございました。具体的に、皮付き掘っ立て柱、茅葺き屋根、高床式なんかで五日間で組み立てて、終了後直ちに破却できるような建築に戻せばいいんだとおっしゃいました。これ実はこの間の秋篠宮の発言とも重なってくるところがあるように思います。

工藤:今回の大嘗宮の建物、悠紀(ゆき)殿、主基(すき)殿を造る時に、節約ということで屋根を板葺きにしましたね。そこで、板葺きにしたことでいったい何千万円安くなったのかと考えてみると、前回も話しましたように、平安期の史料に基づいて造っても、材料費だけならおそらく今のお金で一〇〇〇万円もあればできてしまうのではありませんか。宮内庁のどの部署かわかりませんけど、節約しようと色々考える時に、どうして茅葺き屋根を板葺きにすると考えたんでしょう。調達が大変だからとか新聞の報道では知りましたけど、それは奇妙な説明です。白川郷だってあの茅葺き屋根はちゃんと維持してるし、全国に茅葺き屋根文化を維持してるところはいくつかあるんですよ。そういうところの協力を得れば調達は簡単なことですね。それを板葺きにすると考えるのは、本質論を欠いた議論です。大嘗祭の要(かなめ)は大嘗宮で、その建物自体がアニミズム系文化の結晶としてのシンボルで、これは極力素朴でなければならな。出雲大社みたいに檜皮葺(ひわだぶき)では駄目で、やはり茅葺き屋根です。これは伊勢神宮の内宮・外宮が、遷宮で板葺きにしないのと同じ。にもかかわらずどの部署の発案でああいう板葺きになってしまったのか、信じがたいことです。本質論を欠いて、お金の面の節約だけを考えていくと、一番大事な部分が削られてしまうということが今回はっきりと表れたと思いました。高島さんに伺いたいんですけど、板葺きに変わった時の納得のいく説明は、さっき言った調達が大変だからということ以外に何かありましたか?

高島:茅葺きから板葺きへの変更理由は調達が大変だということや、特殊な技術者の不足、コストの抑制などを挙げていました。

遠藤:今の、茅葺きの話は柳田(「大嘗祭ニ関スル所感」)もしていまして、柳田は一日二日で大嘗宮つくれば茅葺きでも十分間に合うんだというようなことも言ってました。
     (以下略)

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「アニミズム系文化と近代文明の融合」という講義をします

2022年12月31日 | 日本論
●2023(令和5)年1月16日(月)、以下のような内容のシンポジウム(コロキウム=討論会)で、「講義」をすることになりました。今回は、久々に、会場に行って、対面形式で話すことにしました。その資料を作成していたら、400字詰め原稿用紙換算で約90枚になっていました。この資料は、過去に執筆した単行本・論文から必要箇所を引用する形式にしました。その出典だけ、以下に列挙します。

・工藤「長江流域アニミズム系文化圏の中のヤマト・オキナワ文化」(ゆまに書房・琉球文学大系・月報4、2023年3月刊行予定)
・工藤『古事記の起源──新しい古代像をもとめて』(中公新書、2006年)p1
・工藤『ヤマト少数民族文化論』(大修館書店、1999年)p10
・工藤『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』(新潮新書、2019年)p19~p21
・工藤『21世紀・日本像の哲学──アニミズム系文化と近代文明の融合』(勉誠出版、2010年)p57~p72
・工藤『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、2021年)p56~p68
・工藤「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜──女性・女系天皇と皇位継承」(『アジア民族文化研究21』一般社団法人アジア民族文化学会、2022年3月)の冒頭部
・工藤隆・岡部隆志・遠藤耕太郎編『大嘗祭・隠された古層』(勉誠出版、2021年)p214~219


●なお、このシンポジウムには、次のような参加規定がありますので、一般公開はされません。
 「参加要件:RISES コロキウムは、先端的な課題についての突っ込んだ議論を研究的に行う 場です。そのため、クローズドで行いますので、自由参加は想定していません。 参加者は、RISES 所員、アドバイザーおよび今回の講師とその紹介者、および、これま でのコロキウム参加者に限定しています。」
●このシンポジウムの主催団体は、東京農工大学のRISES(共生エネルギー社会実装研究所)です。検索してみてください。
●この研究所の関係者は、自然科学系、社会活動系の人が多いようで、私のような古代関係の専門家はいないようです。そういう機構の企画の中に、「日本の形成先史から見る」という視点が登場したことに、新鮮さを感じました。
 以下に、概要だけ引用しておきます。

   ………………………………………………………………
RISES第7回コロキウム
 日本の形成先史から見る地域―脱炭素地方創生への手掛かりを求めて
    2023(令和5)年1月16日(月)13:00-17:00
    東京農工大学小金井キャンパス(予定;オンライン併用)

アニミズム系文化と近代文明の融合 工藤 隆
 (目次)
 Ⅰ 社会科学+演劇学+日本古代文学=⇒新しい日本古代学
 Ⅱ 日本文化の特性……アニミズム・シャーマニズム・神話世界性・ムラ社会性・島国文化性
 Ⅲ 日本社会の反リアリズム文化
  Ⅳ 〈古代の古代〉と〈古代の近代〉に分ける
 Ⅴ 秘儀(源・本質)+風流(ふりゅう:パレード・仮装行列など)+酒食を伴う宴(宴会・直会:なおらい)=祭り……秘儀の部分を失えば風流・宴のみの肥大化あるいは祭り自体の消滅に向かう

【概要】
日本〈古代〉には、縄文・弥生・古墳時代までの一万数千年間の〈古代の古代〉と、それ以後の 600年代、700 年代に〈古代なりの近代化〉が進行した〈古代の近代〉とがある。〈古代の古代〉を特徴づけるアニミズム系文化の上に、〈国家〉段階の唐の文化が急激に流入して二重構造を形成した。これは、 〈第一の文明開化〉と呼ぶべき激動であった。このときに残存したアニミズム系文化は、明治の近代化を経て現代まで、日本文化の基層をなしている。明治の〈第二の文明開化〉によって流入した西欧近代文明と、〈古代の古代〉以来のアニミズム系文化を融合させる知恵が、現代日本には求められている。

13:00
0.参加者紹介 30 分
13:30  
I.問題提起  
 1.堀尾正靱(RISES 所長)(司会)
  「21 世紀の課題:地域の物語と地域の精神性に基づく 自律的な地方の創生」 20 分(含む:質疑 5 分)
2.福井 隆(ブランディング・プロデューサー;東京農工大学客員教授)
 「劣化東京はつくらない(仮題)」 40 分(含む:質疑 10 分)
  (休憩) 10 分
14:40
II.講義
 3. 工藤 隆氏(大東文化大学名誉教授) 「アニミズム系文化と近代文明の融合」 60分
15:40 (どこかで休憩を取ります)
III.討論
 ディスカッサント: 岡部隆志氏(共立女子短期大学名誉教授)
 安田 登師(能楽師;ご都合伺い中)



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『歌・呪術・儀礼の東アジア』の合評会が続いています

2022年11月22日 | 日本論
●2021年12月23日のこの欄で、山田直巳編著『歌・呪術・儀礼の東アジア』が新典社研究叢書344として刊行されたことを報告しました。 
 税込み1万7600円もするこの種の学術書は、時代の審判に委ねられて、普通は、知的世界の奥深いところに静かに沈潜していくだけです。
 しかし、本書は、幸運なことに、「古代の会」という勉強会において、合評会の対象となりました。2022年3月くらいから、月1回のペースで収載論文を1本ずつ取り上げて、毎回約2時間をかけて自由討論をしています。
 その結果として、書きっぱなし、読みっぱなしではなく、10人以上の研究者の討議のなかで各自の論文が咀嚼され、次の論文への展望が見えてくるという体験をしています。

●本書は、私の総論「アジア基層文化と古代日本」に始まって、「第一章 祭祀・儀礼・伝承論」「第二章 表記・歌掛け論」「第三章 比較表象論」というふうに、多方面に展開した17本の論文が揃いました。アジア基層文化を視野に入れることで日本古代文化研究が新しい段階に進んだことを、本書の諸論文が示しています。
 以下に、本書の総目次を再録しておきます。

●なお、2021年12月23日に予告した、新書版の『日本像を作り直す──アジア基層文化と古代日本』の書き下ろしは、ほかの雑用が多すぎて、まだ完成していません。新年に入ったら、執筆のペースを速めようと思います。

………………………………………………………………
山田直巳編著『歌・呪術・儀礼の東アジア』(新典社研究叢書344)の総目次

はしがき(山田 直巳)

序 章 アジア基層文化と古代日本
アジア基層文化と古代日本(工藤 隆)

第一章 祭祀・儀礼・伝承論
1 彝(イ)族の祭司「畢摩(ビモ)」について(張 正軍)
2 ミエン・ヤオの浄化儀礼に関する研究―道教・法教儀礼との比較から―(廣田 律子)
3 「踏喪歌」の社会的背景―雲龍県永香村・青干坪村を軸に―(山田 直巳)
4 白族董氏の系譜と祖先伝承(富田 美智江)
5 トンパ経典『以烏鴉叫声占卜』の歴史的位置―インド・チベット・中国における鴉鳴占卜の伝播と定着―(北條 勝貴)
6 シャーマニズム研究の現在再考―日本と雲南の調査、および欧米の研究を手掛かりとして―(菅原 壽清)

第二章 表記・歌掛け論
1 山と書くな 壮族の古壮字と日本の訓仮名を巡って(手塚 恵子)
2 トン族歌謡の漢字表記とその方法―〈歌〉を文字に書くことについて―(曹 咏梅)
3 プミ族のペー語による歌掛け―雲南省蘭坪県龍潭村プミ族の掛け合い歌「西番調」―(飯島 奨)
4 死者に掛ける歌考(草山 洋平)
5 儀礼と遊戯の掛け合い ラオス北部の掛け合い歌カップ・サムヌアから(梶丸 岳)

第三章 比較表象論
1 『古事記』における二つの始祖神話(岡部 隆志)
2 『万葉集』の独詠的恋歌の生成―歌垣歌からの連続と飛躍―(遠藤 耕太郎)
3 万葉歌への道をめざして―中国西南部少数民族の歌文化を手がかりに―(真下 厚)
4 蝦蟇論―田の神、地の神としてのタニグク―(今井 秀和)
5 映像から見る久高島の祭祀と二、三の事柄(北村 皆雄)

あとがき(山田 直巳)

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安定した王位継承と危機的な天皇位継承

2022年09月22日 | 日本論
●2022年9月8日、イギリスのエリザベス女王が96歳で死去しました。ただちに自動的に皇太子チャールズが即位し、新国王の誕生となりました。ここには王位継承についての、日本皇室の綱渡り的な不安・危機のようなものはありませんでした。イギリス王室では、2013年に、男女を問わず「長子」が王位を継承する、またカトリックとの婚姻も容認するという新しい王位継承法が成立しています。

●この王位継承に触発されてのことだと思われますが、「毎日新聞」(2022年9月11日)が、「皇位継承の国会議論 先送りは政治の無責任だ」と題する社説を掲載しました。次は、その一節。

次世代で継承資格を持つのは、秋篠宮さまの長男悠仁さまだけだ。6日に誕生日を迎えられ、2年後には成年となる。落ち着いて議論できる時間は限られている。

●これを機会に、学会誌『アジア民族文化研究21』(一般社団法人アジア民族文化学会、2022年3月)に掲載した私の論文「アジア基層文化からみた記紀天皇系譜──女性・女系天皇と皇位継承」(400字詰め約83枚)の一節(イギリス王室の王位継承に触れている部分)を、以下に引用しておきます。

──────────────────────── 
 アジア基層文化からみた記紀天皇系譜
         ──女性・女系天皇と皇位継承

【要旨】
 天皇制、天皇系譜、皇位継承について客観的に論じるには、まず縄文・弥生時代の〈源流〉としてのあり方と、まだ〈国家〉体制の整備も進んでいなかった「大王」時代のあり方とに迫る必要がある。この時代は無文字文化だったので、最終的には文化人類学的資料によるモデル理論的想定に頼る以外にない。主として長江流域少数民族社会に残っていたアジア基層文化をモデルとして日本古代をみるのである。次に、天皇存在の、本質の部分とそれ以外の副次的な部分とを分けることが重要になる。さらに、天皇制を、現実社会的威力の面と文化・精神的威力の面とに分解して把握することが重要である。〈源流〉段階の系譜についてまとめれば、日本列島にはもともと男系(父系)と女系(母系)が併存していて、おそらく臨機応変に両者が使い分けられていたと思われる。ときには、男系と女系をない交ぜにするなどの組み合わせ型もあったであろう。少数民族社会には、名前は母の名の一部を継承するが、氏族としては父の姓を名乗るなどの事例がある。サホビコ・サホビメ伝承の中の「一般に子の名は必ず母がつけるものだ」という垂仁天皇の言葉の背景には、この男系・女系ない交ぜの伝統が存在していた可能性がある。

  Ⅰ 天皇論、記紀天皇系譜論、皇位継承論の前提

 天皇制、また天皇系譜、皇位継承について客観的に論じるには、まず天皇の歴史の、どの時代の、どのような性格を根拠にしているのかを明示する必要がある。まず、「時代」については、簡潔にいえば、次の①~⑦のようになる。

① 縄文・弥生時代など非常に古い段階の〈源流〉としてのあり方
②まだ「天皇」という名称はなく、〈国家〉体制の整備も進んでいなかった「大王(族長)」時代のあり方
③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、公式に「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期のあり方
④藤原氏が政治的実権を握っていた時代のあり方(平安時代)
⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方
⑥明治の近代国家成立時に、近代化と反する古代天皇制へ復帰したあり方
⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方


 ①縄文・弥生時代、②大王(族長)時代(古墳時代)までの日本列島文化は、基本的に無文字文化だったので、金石文などを除いて、まとまった文字記載系譜や諸記録は無い。したがって、無文字文化時代の系譜のあり方については、考古学資料や中国古典籍の記載などを参考にしながらも、後述するように、最終的には文化人類学的資料によるモデル理論的想定に頼る以外にない。
 また、③天武・持統天皇期には、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の編纂が進み、これらが完成した後は、文字記載された記紀の天皇系譜が権威化され、かつ固定化されることになった。この権威化・固定化は、①縄文・弥生時代、②大王(族長)時代までに比べると、はるかに高まったと思われる。したがって、文字で記載されて、かつ国家事業として固定化・権威化された記紀の天皇系譜を、①縄文・弥生時代、②大王(族長)時代(古墳時代)までの無文字文化時代の系譜(初代神武から500年代の天皇までの系譜)の分析にまで適用することはできない。
 次に、天皇制とはなにかを考えるにあたっては、次のA~Cのように、本質の部分とそれ以外の部分とを分けることが重要になる。

A これを失うと天皇ではなくなるという部分(最も本質的な部分なので変わってはならない部分)
B その時代の社会体制に合わせて変わってもかまわない部分
C その時代の社会体制に合わせて変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分


 「A 最も本質的な部分なので変わってはならない部分」については、さまざまな考え方があるが、旧来からの代表的なものは天皇系譜が「万世一系(ばんせいいっけい)」だという点である。その根拠には、大日本帝国憲法(明治22年〔1889〕2月11日公布)の「第一章 天皇」の第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」がある。
 ただし、この「万世一系」は、『古事記』『日本書紀』の高天の原神話の神々の系譜までを含むとする立場や、神話段階の部分は除いて初代神武天皇からの系譜とする立場や、私のように、500年代くらいから男系継承に傾斜して、初代神武にまでさかのぼって男系にまとめられたのが記紀天皇系譜だとする立場があり、議論の分かれるところである。
 ただし、私は、天皇の最も本質的な部分は、系譜とは別の次元にあると考えている。以下に、工藤隆『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、2021年)に述べた考えを、そのまま引用する。

 私は、天皇存在は、「縄文・弥生時代以来の、アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった特性を、神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」すなわち「超一級の無形民俗文化財」であることに、根源的な根拠があると述べた。自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化は、自然の生態系重視のエコロジー思想と基盤を共有しているのであり、世界的普遍性を持っている。そのようなアニミズム系文化を体現している超一級の無形民俗文化財としてこそ、天皇は存在の根拠を持つという風に、日本国民は意識を切り替えるべきなのである。


 「B 変わってもかまわない部分」は、たとえば、江戸時代までは、天皇は、眉を剃り、白粉(おしろい)・お歯黒を付けていたが、明治天皇からはそれらをいっさい廃止して、服装も西洋風に改めた。しかし、これらは「A 最も本質的な部分なので変わってはならない部分」ではないので問題ないのである。
 しかし、「C 変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分」の場合は、天皇制消滅を想定しなければならない局面なので、放置しておけば深刻な状況に陥る。参考までに、以下に、君塚直隆『エリザベス女王』(中公新書、2020年)から、ヨーロッパの王室について述べた一節を引用する。

 イギリスには一七〇一年に制定された王位継承法があった。そこには「男子優先の長子相続」と「カトリックとの婚姻禁止」が盛り込まれていた。
 しかしヨーロッパ大陸の他の王室の趨勢を見る限り、もはや「男子優先」は時代に即しているとは言えなくなっていた。スウェーデンの王室(一九七九年)を先頭に、オランダ(八三年)、ノルウェー(九〇年)、ベルギー(九一年)、デンマーク(二〇〇九年)、ルクセンブルク(一一年)といった具合に、各国王室は男女を問わず第一子が王位継承で優先される「絶対的長子相続制」を採用するようになっていたのである。


 その結果、イギリス王室でも、2013年に、「絶対的長子相続制」と「カトリックとの婚姻容認」の新しい王位継承法が成立した。続けて君塚同書は、次のように述べている。

 「ヨーロッパの君主制の多くは、その最も中核に位置する、熱心な支持者たちによってまさに滅ぼされたのである。彼らは最も反動的な人々であり、何の改革や変革も行わずに、ただただ体制を維持しようとする連中だった」
これは、本書の主人公エリザベス女王を七〇年にわたって支え続けてきた、エディンバラ老公の言葉である。(略)
 この老公の言葉の裏返しと言えようか、時代に即した改革を進める現実主義と柔軟性を備えている限り、女王と王室はこれからも国民と手を取り合っていくことができるはずだ。


 日本では、21世紀に入って皇位継承が薄氷を踏む状況になっているにもかかわらず、政権を握っている側の行動はまことに鈍い。日本の政権側には、天皇制について、「時代に即した改革を進める現実主義と柔軟性」を欠いた「熱心な支持者たち」が多いがゆえに、近代天皇制は、皇位継承問題に限らず、全体として、これから加速度的に“滅び”の道を進んでいくのではないか。
 このことについて私は、『大嘗祭──天皇制と日本文化の源流』(中公新書、2017年)で次のように述べた。

 贔屓(ひいき)の引き倒しという言い方があるが、戦前の右翼・国粋主義勢力は、天皇制を愛しすぎたあまりに、敗戦(一九四五年)で終わることになる軍国主義ファシズムに天皇制を巻き込み、日本国の消滅、そして天皇制消滅の一歩手前にまで行ってしまった。それと同じように、二十一世紀の現在では、皇位継承が不可能になる天皇制消滅の危機を放置している。つまり、戦前の右翼・国粋主義勢力はもちろん、現在の保守系(女系天皇反対グループ)の人たちも、「終章 日本的心性の深層」で述べた、日本文化のアニミズム・シャーマニズム・神話世界性および島国文化・ムラ社会性の伝統のうちのマイナス面、すなわち肝心なときに、願望と空想と目先の利害で重大決断をしてしまう弱点に溺れていることになる。要するに、皇位継承問題でも、今や、天皇制の、時代に合わせて変わらねば存続できなくなるという事態への目配りが求められ始めたのに、彼らの意識は戦前の指導層と同じく、“神国日本幻想”の中にとどまっていて、現実を冷静に見つめることができないのであろう。
逆に、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制を極度に忌み嫌う旧左翼系の人たち(天皇文化と政治としての天皇制を区別する視点を持たない人たち)にもまた同じような発想が存在している。つまり、かつてのように“天皇制打倒”と明確な形で叫ばなくても、現状の綱渡りの皇位継承状態を放置すれば、いずれ天皇制は維持できなくなって結局は打倒されたのと同じことになるという考え方である。
となれば、現在の日本では、保守系(女系天皇反対グループ)、旧左翼系のどちらもが、本音では、象徴天皇制の自然消滅を待っているということになるのではないか。

 私は、先に引用したように(『女系天皇──天皇系譜の源流』)、天皇文化の価値は、「自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化」を、「神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」点にあるのであり、それはエコロジー思想と基盤を共有しているという意味で世界的普遍性を持っていると考えている。したがって、天皇存在は、世界にも通用する「超一級の無形民俗文化財」として今後とも存続させていくことが望ましい(その消滅は、日本にとっても世界にとってもあまりにも“もったいない”)。すなわち、皇位継承問題は「C 変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分」にあたるのだから、それを「時代に即した改革を進める現実主義と柔軟性」によって、乗り越えていくべきなのである。
 このように、「今後とも存続させていくことが望ましい」と述べると、1945年の敗戦で終わった、軍国主義と結びついた天皇制ファシズムを思い出して、不快になる人もいるだろう。そこで私は、天皇制を、以下のように、政治体制の面と文化継承者の面とに分解して把握することを提案している。

甲 行政王・武力王・財政王など現実社会的威力の面
乙 神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面


 このように、天皇制を、現実社会的威力の面(甲)と文化・精神的威力の面(乙)とに分解して把握するのである。甲は、古今東西、あらゆる権力機構に備わっている要素である。しかし、乙は、古代天皇制国家以来の天皇存在に特に顕著な要素である。ヨーロッパ王室の場合、その権威の源は行政王・武力王・財政王だった過去にあるだけである。日本皇室のように、神話世界の神々から継続する天皇系譜を語り、それらと結びついているアニミズム・シャーマニズム系統の呪術や祭祀と現実社会的威力の面(甲)とがセットになっていて、しかもそのうちの文化・精神的威力の面(乙)を継承して現代にまで実践している例はヨーロッパ王室には無い。
 このように、現実社会的威力の面(甲)と文化・精神的威力の面(乙)とに分解する視点を持つと、③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、公式に「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期に創出された天皇制のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制だったことがわかる。⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方は、行政王・武力王・財政王の側面を失った時代である。そして、⑥明治維新による近代国家成立後の、近代化と反する王政復古がなされた時代のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制の復活であったことになる。
 大日本帝国憲法は、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)という神聖性の規定のあとに、「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(実際の具体的な統治行為は内閣などが行なうことになっていたにしても)を加えたことによって、〈国家〉の最高統括者が、神話王・呪術王であると同時に行政王・武力王・財政王でもあることになり、ここに、天皇制ファシズム国家が近代法の裏付けを持って成立することになったのである。
 最後の、⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方は、行政王・武力王・財政王の面を除去されて、神話王・呪術王など文化・精神的威力の面に特化した存在である。これによって、軍国主義と結びついた過去の天皇制ファシズムの性格の部分が除去されたことになるので、私のように、天皇存在の「超一級の無形民俗文化財」としての価値を再評価して、国家次元で積極的にその存続をはかるべきだという立場が登場することになった。
 これら①~⑦の、時代による違いと、A~Cの、本質からの近さ遠さ、および甲・乙の、現実社会的威力の面と文化・精神的威力の面の有る無しを見極めながら、現代の天皇論は進められなければならない。

  Ⅱ 〈伝統〉〈源流〉の中身の確認 (以下、目次のみ)
中国皇帝制度模倣の男系かつ男子継承絶対主義の明文化
女性天皇は500年代末から江戸時代までの〈伝統〉であった
大宝律令ではより柔軟であった
男系継承維持には側室制度が必要だった
古代では近親結婚も常態であった
近世までは幼児天皇も許容されていた

  Ⅲ 記紀天皇系譜に残る女性始祖、女系継承の痕跡
  Ⅳ 文献史料以前に迫るモデル理論
  Ⅴ 母系系譜と父系系譜の交錯
  Ⅵ 弥生・古墳時代以来の女性リーダーたち


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「琉球文学大系」の書評の全文です

2022年08月17日 | 日本論
 「図書新聞」(2022年8月6日発行)に掲載した、「琉球文学大系」(ゆまに書房)の書評の全文を、以下に転載します。
 以下は、特に注目してもらいたい部分として、転載に際して下線を引きました。

「古代ヤマト族は、大陸との間の海の障壁という地政学的幸運もあって少数民族国家を形成できて、長期間維持できたのである。」
 「オキナワ民族は、古代ヤマト族と同じく、大陸およびヤマト本土との間の海の障壁という地政学的利益を活用して、琉球国(一四あるいは一五世紀ごろ~一八七九年)という少数民族国家を形成できた。」
 「アニミズム系文化は、自然との共生および節度ある欲望に特徴を持つ。教祖・経典・教義・布教活動などを備え、偏狭かつ排他的な方向に向かいがちな〈宗教〉になる以前の、人間生存の原型性に根づいた、寛容かつ異世界に対する許容度の高い土俗文化の性格が強い。また、歌垣文化を基盤に持つ恋歌文化に示されるように、愛を重んじる優しさと、柔らかな感性に満ちた心性も持つ。」
 「敵国と対抗して国家を存続させるための実利重視のリアリズム的精神性に完全に支配されることがなかったために、」
 「二十一世紀の地球では、自然破壊と、市場経済の節度無き欲望が広がりつつある。自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系社会の言語表現文化が、琉球文学や日本文学として残存できた奇跡の意味を、二十一世紀の世界は深く受け止め直すべきであろう。」

 このうちの「大陸との間の海の障壁という地政学的幸運」は、21世紀の現在においてはあまり頼れないものとなりました。21世紀の戦争では、長距離爆撃機や大陸間弾道ミサイルによる攻撃、また潜水艦からのミサイル攻撃などが主流になっていますので、「海の障壁」は前近代ほどの有効性を持たなくなりました。
「アニミズム系文化」の資質を持つ国家では、〈国家〉を維持するための、「敵国と対抗して国家を存続させるための実利重視のリアリズム的精神性」が淡泊な傾向があるので、国際関係についての見誤りが生じることがあります。21世紀の日本国の近隣の、二つの巨大ファシズム型国家および、一つの、小国とはいえ完全ファシズム国家との関係には、「敵国と対抗して国家を存続させるための実利重視のリアリズム的精神性」がいっそう必要になります。

───────────────────────
「図書新聞」(2022年8月6日発行)

 アニミズム系社会の言語表現文化が〈文学大系〉にまで上昇した
                    工藤 隆

 かつて、古橋信孝(ふるはしのぶよし)編『日本文芸史第一巻・古代Ⅰ』(河出書房新社、一九八六年)は、「オキナワとアイヌの文芸」という独立の章を設けた。これは、「日本文芸」(日本文学)の発生を想定するためのモデルをオキナワ民族およびアイヌ民族の「文芸」(文学)に求めたという意味で、画期的なことであった。
 オキナワという語の初見は、『唐大和上東征伝』(とうだいわじょうとうせいでん、七七九年、淡海三船)にみえる「阿児奈波島」(アコナハ島)とされる。この呼称は、今の沖縄本島を中心とする地域を指しているものと思われ、この地域が地元の発音では「アコナハ」だったのだろう。
 一方で「琉球」は、『隋書』(六〇〇年代)の「東夷列伝」が「琉求国」と表記して以来のものであり、『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス社)によれば、「〈琉球〉とは中国人によって命名された名称であるが、国際的にもその名で知られている」ものである。「国際的」とは、前近代までの極東地域においては、大陸の中国国家から〈国家〉として認められることが前提であった。琉球文学の成立は琉球国の成立と不可分であった。本大系は、〝オキナワ文学大系〟ではなく「琉球文学大系」でなければならなかったのである。
 ところで私は、私の単行本『歌垣と神話をさかのぼる』(新典社、一九九九年)に「少数民族文化としての日本古代文学」という副題を付けた。私の把握では、六〇〇、七〇〇年代の日本列島民族(ヤマト族)は、大陸の先進国家である唐から見れば「蛮夷」、現代の用語でいえば「少数民族」であった。私は、「少数民族」を次のように定義している。
 少数民族とは、中央集権的国家が形成されている状態において、国家権力を掌握している民族の側から見て、①相対的に人口が少なく、②国家権力の中心的な担い手ではなく、③国家の側にくらべて経済や先進文化の摂取という点で遅れている傾向があるが、④国家の側の文化に対して文化的独自性を強く保持していて、⑤もともとはその地域の先住民族であったが、のちに移住して来た他民族が多数あるいは優勢民族となり、結果として劣勢民族に転化したという歴史を持っているものが多く、⑥独自の国家を形成しないか、形成しても弱小国家である。(『深層日本論』新潮新書)

 すなわち、少数民族は一般には国家を作れないし、仮に作っても優勢国家の侵略を受けて早期に滅亡してしまうのだが、古代ヤマト族は、大陸との間の海の障壁という地政学的幸運もあって少数民族国家を形成できて、長期間維持できたのである。唐からの武力侵略なしに、国家運営に必要な実利的技術・方法は唐から移入して、日本古代国家(少数民族国家)を樹立することができた。その日本国が、近世以降にその内部に、アイヌ民族・オキナワ民族という新たな少数民族を持った。ただし、このうちのオキナワ民族は、古代ヤマト族と同じく、大陸およびヤマト本土との間の海の障壁という地政学的利益を活用して、琉球国(一四あるいは一五世紀ごろ~一八七九年)という少数民族国家を形成できた
 古代ヤマト族と地理的・文化的に共通文化圏に属していたと思われ、かつ現在まで存続している中国長江流域少数民族は、独自の言語文化を持っている。実の兄と妹の結婚に共同体の起源を求める兄妹(けいまい)始祖神話や、不特定多数の男女が即興の歌を掛け合って配偶者や恋人を求める歌垣文化はその代表的なものである。しかし、彼らは〈国家〉を形成できなかったので、それらを〈文学〉にまで上昇させることはできなかった。ただし、雲南省のペー(白)族は、七三八年ごろに南詔(なんしょう)国を、九三七年には大理国を建設したが、のちにモンゴル(蒙古)族の元に襲われて一二五三年に滅んだ。現在のペー族には、歌垣など豊富な歌文化が継承されているが、“ペー文学”という段階にまでは進めなかった。
 日本国の場合は、古代国家形成以後、国家成立以前からの無文字文化時代の言語表現文化を、宮廷および都市文化の中で文学(文芸)として成熟させ、ヤマト語文学だけでなく、漢文学を含むさまざまなジャンルの言語作品を登場させて“日本文学大系”を作り上げた。同じように琉球国もまた、オキナワ語にヤマト語と漢語を混在させたさまざまな言語作品を登場させた。その集大成がこの「琉球文学大系」である。
 オキナワ民族は、漢字、中国語文章体に加えて、日本語の平仮名・片仮名も活用できた。「琉球語」は弥生時代末期ごろまでは「日本語」と同根であったとされる(安本美典『新説:日本人の起源』JICC出版局)ので、ヤマト語と語順、単語など共通性が多かったので、日本文学の『古事記』『日本書紀』に対応する散文体では『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん、一六五〇年、漢文体と漢字・片仮名交じり和文体)、『琉球国由来記』(一七一三年、同)などを残し、日本文学の『万葉集』に対応する韻文の歌謡記録としては、主として平仮名でオキナワ語音を表記した歌集『おもろさうし』(一五三一年~一六〇〇年代)を残すことができた。
 ところで、先の「少数民族」の定義で、④「文化的独自性を強く保持」としたその「文化的独自性」の中心部分は、日本文学と「琉球文学」の両者に共通するアニミズム系文化的性格である。自然界のあらゆるものに超越的・霊的なものの存在を感じ取る観念・信仰であるアニミズム文化と、そのアニミズムと神話的観念にもとづく呪術体系であるシャーマニズムとの合体した文化特性である。このアニミズム系文化は、自然との共生および節度ある欲望に特徴を持つ。教祖・経典・教義・布教活動などを備え、偏狭かつ排他的な方向に向かいがちな〈宗教〉になる以前の、人間生存の原型性に根づいた、寛容かつ異世界に対する許容度の高い土俗文化の性格が強い。また、歌垣文化を基盤に持つ恋歌文化に示されるように、愛を重んじる優しさと、柔らかな感性に満ちた心性も持つ
 また、定義の⑥「独自の国家を形成しない」を裏返していえば、敵国と対抗して国家を存続させるための実利重視のリアリズム的精神性に完全に支配されることがなかったために、ムラ段階社会のアニミズム系文化や恋歌文化を、琉球国、日本国ともに、〈国家〉の存続と並行して継承することができたと言えるのである。
  二十一世紀の地球では、自然破壊と、市場経済の節度無き欲望が広がりつつある。自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系社会の言語表現文化が、琉球文学や日本文学として残存できた奇跡の意味を、二十一世紀の世界は深く受け止め直すべきであろう。     (大東文化大学名誉教授/日本古代文学)


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「図書新聞」に「琉球文学大系」の書評を載せました

2022年08月03日 | 日本論
「琉球文学大系」(ゆまに書房)は全35巻で、完結まで約10年かかるようです。その第1巻「おもろさうし(上)」を手にしました。丁寧な註釈・解説が付いているので、内容の把握の助けになります。
 私は、依頼を受けてその書評を書きました。「図書新聞」の2022年8月6日(土)発行で、中規模以上の書店になら置かれています。タイトルは、「アニミズム系社会の言語表現文化が〈文学大系〉にまで上昇した」。400字詰め約7枚、いずれ全文をこの欄に転載します。
 なお、私の文章のほかに、波照間栄吉「「琉球文学大系」の構想──世紀の大事業の完成に向けて心して歩んでいきたい」と遠藤耕太郎「オモロの歌われ方を復元した画期的注釈──沖縄には、男性の姉妹がその男性を霊的に守護するという信仰が息づいている」という、二つの文章が掲載されています。

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