工藤隆のサブルーム

古代文学研究を中心とする、出版、論文、学会講演・発表・シンポジウム、マスコミ出演、一般講演等の活動を紹介します。

講座「女系天皇」がハイブリッド講座に変わりました

2021年09月16日 | 日本論
●朝日カルチャーセンター新宿教室での1回講座「女系天皇--天皇系譜を源流から考え直す」が、対面講座とオンライン講座を組み合わせたハイブリッド講座に変わりました。
 日程には変更ありません。2021年9月29日(水)の午前10:30~12:00(1時間30分)です。詳しくは、「朝日カルチャーセンター新宿教室 女系天皇」でサイトにアクセスしてください。

●7月2日のこのブログでは、次のように書きました。

 ところで、今のところ、この講演は、オンラインではなく、対面講座のかたちで行う予定になっています。
 一般に教養講座の聴講者は、中高年層が多い。それら中高年層のほとんどは、9月29日の10日前くらいまでには、ワクチン接種が終了しているものと思われます(ちなみに、私は5月30日に第1回接種、6月25日に第2回接種が終了しています)。そのうえ、聴講者の人数を減らして教室内を密にせず、ドアと窓を開けて換気を良くするなどすれば、対面形式の講座が可能なのではないかと考えています。できるならば、マスクなしで話したいのですが、さすがにそこまでは無理かもしれませんが。


 しかし、8月には新型コロナウィルスが一都三県で医療崩壊を伴う感染爆発に至り、第5波になりました。そして、東京には緊急事態宣言が発出され、それが講座当日の29日の翌日の9月30日まで延長となったのです。
 その結果、対面だけの形式をあきらめて、教室での対面式とオンライン形式を組み合わせた形に変更することになりました。教室では、聴講者の数を縮小したうえで、教壇の前に遮蔽設備を置くなどして、私はマスクなしで話せることになりました(1時間半をマスクを付けたままで話し続けるのはかなり苦しい)。

●当日に配付する資料を作りました。A4で25枚ですから、400字詰め換算約90枚になりました。以下に、その目次と一部要点だけを引用します。
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女系天皇──天皇系譜を源流から考える (資料)

Ⅰ 天皇論、皇位継承論の前提
 天皇制そのものまた皇位継承について論じる際には、天皇の歴史の、どの時代の、どのような性格を想定しているのかを明示する必要がある。まず、「時代」については、簡潔にいえば、次のようになる。

①縄文・弥生時代など非常に古い段階の〈源流〉としてのあり方
②まだ「天皇」という名称はなく、〈国家〉体制の整備も進んでいなかった「大王(族長)」時代のあり方 (ここまでは基本的に無文字文化だったので、金石文などを除いて、まとまった文字記載系譜や諸記録は無い)
③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期のあり方(『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)が登場。これ以後、文字記載された記紀の天皇系譜が権威化・固定化されることになった)
④藤原氏が政治的実権を握っていた時代のあり方(平安時代)
⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方
⑥明治の近代国家成立時に、近代化と反する古代天皇制へ復帰したあり方
⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方

 次に、天皇制とはなにかを考えるにあたっては、本質とそれ以外とを分けることが重要になる。

A これを失うと天皇ではなくなるという部分(最も本質的な部分なので変わってはならない部分)
B その時代の社会体制に合わせて変わってもかまわない部分
C その時代の社会体制に合わせて変わらなければ天皇制が存続できなくなる部分
 
 これらA・B・Cについては、さらに、天皇のあり方を、

甲 行政王・武力王・財政王など現実社会的威力の面(あらゆる権力機構に備わっている要素)
 乙 神話王(神話世界的神聖性)や呪術王(アニミズム系の呪術・祭祀を主宰する)など文化・精神的威力の面(古代天皇制国家以来の天皇存在に特徴的な要素)

とに分解して把握する必要がある。すると、③600年代後半に〈国家〉体制の整備が進み、「天皇」号が用いられるようになった天武・持統天皇の時期に創出された天皇制のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制だったことがわかる。⑤武士政権(鎌倉・室町・江戸)が登場し、天皇氏族が政治的実権をほぼ完全に失った時代のあり方は、行政王・武力王・財政王の側面を失った時代である。そして、⑥明治維新による近代国家成立後の、近代化と反する王政復古がなされた時代のあり方は、行政王・武力王・財政王と神話王・呪術王を合体させた天皇制の復活であったことになる。
 そして、⑦敗戦後に民主主義社会に転じたあとの象徴天皇としてのあり方は、行政王・武力王・財政王の側面を除去されて、神話王・呪術王など文化・精神的威力の側面に特化した存在である。
 これら①~⑦の時代による違いと、A~Cの、本質からの遠さ近さ、および甲・乙の面の有る無しを見極めながら現代の天皇論は進められなければならない。

Ⅱ 〈伝統〉〈源流〉の中身の確認
◆明治憲法が中国皇帝制度模倣の男系かつ男子継承絶対主義の明文化
◆女性天皇は、推古天皇(三十三代)から後桜町天皇(一一七代)まで、8名10代。
◆大宝律令ではより柔軟であった
◆男系継承維持には側室制度が必要だった
◆古代では近親結婚も常態であった
◆近世までは幼児天皇も許容されていた

Ⅲ 記紀天皇系譜に残る女性始祖、女系継承の痕跡
◆綏靖天皇(二代)と懿徳天皇(四代)の系譜
◆継体天皇(二十六代)系譜の女系継承

Ⅳ 文献史料以前に迫るモデル理論
◆モデル理論で文献史料以前に迫る
◆古事記の四つの顔

Ⅴ 無文字文化の系譜と文字文化の系譜
◆母系民族モソ人の系譜

Ⅵ 弥生・古墳時代以来の女性リーダーたち
◆卑弥呼・アマテラス・ヤマトトトヒモモソヒメ
◆卑弥呼・アマテラス・ヤマトトトヒモモソヒメ
◆神功皇后と託宣
◆「天皇」扱いだったかもしれない神功皇后・イヒトヨノイラツメ

〔まとめ〕簡潔にまとめれば、日本列島にはもともと男系(父系)と女系(母系)が併存していて、おそらく臨機応変に両者が使い分けられていたと思われる。ときには、女系と男系をない交ぜにするなどの組み合わせ型もあったであろう。母系制のワ族の事例や、上野(こうずけ)三碑の金井沢(かないざわ)碑の系譜を参考にすれば、名前は母の名の一部を継承するが、氏族としては父の姓を名乗るなどはその一例であろう。先に引用したサホビコ・サホビメ伝承にあった「一般に子の名は必ず母がつけるものだ」という垂仁天皇の言葉の背景には、このようなない交ぜの伝統が存在していた可能性がある。
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