工藤隆のサブルーム

古代文学研究を中心とする、出版、論文、学会講演・発表・シンポジウム、マスコミ出演、一般講演等の活動を紹介します。

大嘗祭の本質について──女性王・女系王と男性王・男系王の共存が天皇文化の最も深い伝統3(つづく)

2024年08月08日 | 日本論
●前回のこの欄(2024年6月26日)でも述べましたが、天皇存在の最も本質的な部分は、「万世一系」の系譜とは別の次元にあります。以下にもう一度、工藤『女系天皇──天皇系譜の源流』(朝日新書、2021年)に述べた考えを、そのまま引用します。

 私は、天皇存在は、「縄文・弥生時代以来の、アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった特性を、神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」すなわち「超一級の無形民俗文化財」であることに、根源的な根拠があると述べた。自然との共生と節度ある欲望に特徴を持つアニミズム系文化は、自然の生態系重視のエコロジー思想と基盤を共有しているのであり、世界的普遍性を持っている。そのようなアニミズム系文化を体現している超一級の無形民俗文化財としてこそ、天皇は存在の根拠を持つという風に、日本国民は意識を切り替えるべきなのである。

 このうちの、「アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった特性を、神話・祭祀・儀礼などの形で継承し続けている」ものとしての、最も重要な祭祀が大嘗祭(だいじょうさい)なのです。
 この大嘗祭について、私は、工藤『大嘗祭──天皇制と日本文化の源流』(中公新書、2017年、p2)で、以下のように述べました。

『延喜式(えんぎしき)』四時祭(しじさい)条には、「およそ践祚(せんそ)大嘗祭を大祀となし、 祈年(としこい)・月次(つきなみ)・神嘗(かむにえ)・新嘗(にいなめ)・賀茂(かも)等の祭を中祀となし、大忌(おおいみ)・風神(かざかみ)・鎮花(はなしずめ)・三枝(さいぐさ)・相嘗(あいんべ)・鎮魂(おおみたまふり)・鎮火(ひしずめ)・道饗(みちあえ)(略)等の祭を小祀とせよ」とあるように、「第二章 大宝律令に見る天皇祭祀の基本構造」で触れる神祇令(じんぎりょう)祭祀の中でもただ一つ、「践祚大嘗祭」だけが「大祀」として扱われた最重要国家祭祀であった


 新天皇が登場するときには、「践祚(せんそ、簡便な即位儀礼)」⇒即位式(唐の皇帝の即位儀礼を日本風にアレンジして模倣した儀礼であり、国内および国外に新天皇の即位を広く伝える場である)⇒大嘗祭、というのが天皇位継承儀礼の流れです。法制度的には、「践祚(簡便な即位儀礼)」で新天皇は誕生したことになり、「即位式」で新天皇の誕生が内外に披露されます。したがって、「践祚」と「即位式」が終われば、法制度的および政治的な手続きは終了したことになります。
 ところが、600年代末の天武・持統天皇政権は、あえて「大嘗祭」を新天皇誕生の必須条件として加えたのです。
 以下に、工藤『21世紀・日本像の哲学──アニミズム系文化と近代文明の融合』(勉誠出版、2010年、p185)から引用します。 

大嘗祭のない天皇は「半天皇」
 一例として、天皇制にとって最も重要な祭りである「大嘗(だいじょう・おおなめ)祭」について説明しよう。これは、新天皇が即位するときに必ず行なわなければならない儀式である。普通は「即位」といえば、前天皇の死後直ちに宮中で行なわれる継承の儀礼や、それからあいだを置いて行なわれる、外国からの使者も加えた即位披露の儀礼などを思い浮かべるだろう。確かに、近代的な法制度の側から見れば、それらの手続きを経れば新天皇は「即位」したことになるが、しかし、もともと天皇という存在には神話・呪術的世界が内在しているので、その方面からの儀礼を行なわなければ〝完全な天皇〟にはならない。その神話・呪術的な方面からの儀礼が大嘗祭なのである
 大嘗祭を行なわなかった天皇は「半天皇(半帝)」と見なされた。応仁の乱(一四六七~七七)をきっかけに生じた一時中断の時期や一部の例外を除いて、確実なものとしては七〇〇年代からの歴代の天皇は必ず大嘗祭を行なった。これは、明治の近代化以後も変わらず、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、そして現在の平成の天皇も行なった。現在の天皇は、即位自体は一九八九年だったが、大嘗祭を翌九〇年に行なっている。大嘗祭の話は、昔だけではなくまさに現代の問題でもあるのだ。


●天皇位継承は、法制度的および政治的には「践祚」と「即位式」(ここまでは中国国家・唐の皇帝位継承儀礼を模倣したもの)で完了しているのです。しかし、「縄文・弥生時代以来の、アニミズム・シャーマニズム・神話世界性といった特性を、神話・祭祀・儀礼などの形」で凝縮した天皇祭祀の中でも最高峰のものとして、新たに大嘗祭を創出したところに、天武・持統天皇政権の功績があったと私は高く評価しています。
 この時代は、中国大陸の強大な国家(唐)による日本国侵略の危機が迫っていた時期でもありましたので、その唐と対抗できる国家整備が必要だと天皇政権は痛感していました。そのためには、国家運営の技術をその唐から学ばねばならないと判断したのです。
 以下は、工藤『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』(新潮新書、2019年、p31)からの引用部分です。

白村江の敗戦
 第一の文明開化の決定的な契機は、六六三年の朝鮮半島白村江(はくそんこう)での敗戦にあった。六六〇年に百済(くだら)が唐・新羅(しらぎ)連合軍に滅ぼされたので、大和朝廷は大規模な援軍を送り、日本・百済連合軍として白村江で戦ったが、その海戦で完敗した。
 そこで日本側は、次は唐・新羅連合軍が日本列島に攻め込んで来るだろうと考えた。九州からすぐ近くの朝鮮半島まで唐の勢力が伸びて来たのだから、次はいよいよ日本に攻めて来るにちがいないと、危機感を募らせたようである。そこで大和朝廷側は、壱岐・対馬や九州北部沿岸に防人(さきもり、東国を中心に諸国から動員された兵士)を配置したり、敵が攻めて来たときに少しでも速く都に知らせようとして各地に烽(とぶひ=のろし台)を作ったりした。また、百済から亡命して来た技術者の力を借りて、対馬から畿内までの西日本の各地に朝鮮式の山城を築き、また現在の福岡県には水堀を使った水城(みずき)も築いた。福岡県の大野山(おおのやま)山頂部(標高四一〇メートル)には山城の大野城を築き、現在の佐賀県の基山(きやま、標高四〇五メートル)にも山城の基肄(きい)城を築いた。
しかし、朝鮮半島では、唐が六六八年に高句麗を滅ぼしたのを見た新羅は、朝鮮半島を自力で統一しようと政策転換をし、ついに六七六年には唐の勢力を朝鮮半島から追い出した。その結果、新羅は今度は大和朝廷との関係を修復しようとする姿勢を見せ始めたのである。


 また、この時期の支配層は、精神文化の面でも唐文化に強く惹かれました。それを、折口信夫(おりくちしのぶ)が「晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほど享け入れた」「漢文学かぶれ」と表現しています。
 以下に、工藤『深層日本論──ヤマト少数民族という視座』(新潮新書、2019年、p92~)からの引用を示します。

 当然のことながら、漢籍に触れることのできた官僚知識人の多くは、〝唐かぶれ〟の状態にもなったものと思われる。このことについては、折口信夫が小説『死者の書』の中に、リアリティーある表現を残している(折口信夫全集24、中央公論社、一九六七年。初出一九二九年。ふりがな・傍点原文)。

 兵部大輔(ヒャウブタイフ)大伴家持は(略)朱雀大路を南へ、馬をやつて居た。二人ばかりの資人(トネリ)が徒歩(カチ)で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほど享け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなつた癖である。(略)おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。十(トヲ)を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、夙(ハヤ)くから、海の彼方(カナタ)の作り物語りや、唐詩(モロコシウタ)のをかしさを知り初(ソ)めたのが、病みつきになつたのだ。(略)でも、彼の心のふさぎのむしは迹(アト)を潜めて、唯、まるで今歩いてゐるのが、大日本平城京(オホヤマトヘイセイケイ)の土ではなく、大唐(ダイタウ)長安の大道の様な錯覚の起つて来るのが押へきれなかつた。


  ここでは、ヤマトの歌の集積である『万葉集』の主編者である大伴家持(おおとものやかもち、?~七八五)が、同時に晋(しん、西晋二六五~三一六、東晋三一七~四二〇)や唐(六一八~九〇七)の「新しい文学の影響」をたっぷりと受けた文人でもあった姿が描かれている。平城京(現・奈良市)の朱雀大路(すざくおおじ)が、唐の都の長安のようにも感じられるくらいの“唐かぶれ”だったろうと、折口信夫は、当時の知識人の内面の実態を見破っている。
 また折口は「水の女」(折口信夫全集2、中央公論社、一九六五年。初出一九二七年。傍線原文)にも、次のような一節を残している。


 たなばたつめとは、たな(湯河板挙)の機中に居る女と言ふ事である。銀河の織女星は、さながら、たなばたつめである。年に稀におとなふ者を待つ点もそつくりである。かうした暗合は、深く藤原・奈良時代の漢文学かぶれのした詩人、其から出た歌人を喜ばしたに違ひない。彼等は、自分の現実生活をすら、唐代以前の小説の型に入れて表して、得意になつて居た位だから、文学的には早く支那化せられて了うた。


ここでは、「漢文学かぶれのした詩人、其から出た歌人」「文学的には早く支那化せられて了(しま)うた」とまで評している。
 すなわち、唐の先進文化に接することで得た教養の高さゆえに〝唐(中国)かぶれ〟になっている意識(劣等意識の裏返しでもあるが)と、蛮夷(少数民族)としてのヤマト族の文化的独自性に踏みとどまろうとする意識とのあいだで引き裂かれるようにして、『古事記』『万葉集』などは登場したことになる。


●さて、天武・持統天皇政権があえて創出した大嘗祭が、1300余年を経て21世紀の現代にまで継承されていること自体が奇跡に近いことですが、しかし象徴天皇制下の現代の大嘗祭では、「天皇制とはなにか」の「A これを失うと天皇ではなくなるという部分(最も本質的な部分なので変わってはならない部分)」に、変質が生じ始めているようです。このことについて述べた文章を、以下に、工藤「大嘗祭と天皇制」(『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化圏の日本』三弥井書店、2023年、p118)から引用します。

 なお、悠紀(ゆき)・主基(すき)両殿の形態・理念は、伊勢神宮の内宮(ないくう)・外宮(げくう)正殿と基本的に同じである。高床式、茅葺屋根、掘立柱(ほったてばしら)、直線状の破風(はふ)、破風を突き出た千木(ちぎ)、堅魚木(かつおぎ)などに特徴を持つ。一方で、持統天皇時代の大極殿(だいごくでん)・朝堂院は、大陸伝来の寺院建築、宮殿建築などを象徴する瓦屋根、土壁、礎石の上に柱を置く礎石建(た)ち、柱を彩色するなどの建築技術を用いていた。こういった、古代なりの〈近代化〉の流れに背を向けて、内宮・外宮や大嘗宮の悠紀・主基両殿は、あえてヤマト文化の原点に返ろうとしたのである。
 なお、悠紀・主基両殿は、大嘗祭当日の七日前から造営を開始し、五日間で完成させる。すなわち、自然の草木だけで造られる、縄文・弥生時代以来のアニミズム系文化の伝統の結晶である。しかも、主基殿での祭儀が終了した直後の午前五時ごろには早くも大嘗宮を「壊却(えきゃく)」(伝統的には焼却するのがヤマトの祭りのあり方だった)する。まさに、ヤマト文化の伝統そのままの、自然性そのものの仮宮(かりみや)であった。
 したがって、二十一世紀の現代での大嘗祭においては、少なくともその核心部分にあたる悠紀・主基両殿だけは、このアニミズム系文化の伝統の結晶としての、自然性そのものの建築様式を守るべきであろう(高床式で)
 しかし令和の大嘗祭(二〇一九年)では、悠紀・主基両殿の屋根が板葺きになった。これは、伊勢神宮の内宮・外宮正殿の屋根が板葺きになったとしたら、遷宮の根源的な意義がいちじるしく減衰するのと同じように、大嘗祭の根源的な意義の減衰の始まりであり、天皇存在を根源で支える根拠の磨滅の始まりであろう(幄舎〔あくしゃ〕など周辺の建物は、板葺き屋根でもプレハブでもテント張りでもかまわないが)。
 大嘗祭の本質にかかわる核心部分は、真冬の冬至のころに行なわれること、悠紀・主基両殿が自然性そのものの建築様式であること、原型的には稲と〈女〉が主役であったこと、にある。そのほかのいわば副次的な要素の部分は、時代に合わせて変化していくことになっても、また節減・省略されても許容されることである。しかし、アニミズム系文化の核心部分だけは極力維持されねばならない。


 “悠紀・主基両殿の屋根を板葺きにしてもかまわない”という認識が、宮内庁と皇族たちによって共有されているということなのでしょう。これは、かつて、三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)親王が、大嘗祭の本源に「日本文化源流」を見いだそうとした姿勢はほぼ消滅したということなのでしょう。このことについて述べた私の文章を、以下に引用します。出典は、私の論文「大嘗祭と天皇制」(工藤『アジアの中の伊勢神宮──アニミズム系文化の日本』三弥井書店、2023年、所収、p107~)です。

天皇存在の根拠を探る
 ところで、この『新嘗の研究 第一輯』には、三笠宮崇仁親王(二〇一六年没)の、次のような「はしがき」が載せられている。

 このたびにひなめ研究会の講演集が出版されるにあたり、私は同会発足のときから関係した一人としてその経過のあらましを記す必要があると思ふ。
(略)
日本古代史はまったく農業生産を基盤として発展したものであり、しかもその中心をなすものは水稲耕作にほかならない。従って水稲耕作の研究こそは日本古代史解明のカギといふべきである。しかるにその稲が、いつごろ、どこから、だれによって、日本のどこへもたらされたか、そして縄文式および弥生式文化はその稲といかなる関係を持ちつゝ発展していったかといふ問題は、従来から種々の学説はあるが、まだ明確には実証されてゐない。このことは我々日本の学術研究者としてはなはだ遺憾であると言はなければならない。我々はつねに思ひをこゝに致し、各方面の専門的知識を結集してこの日本文化源流の研究といふ重大問題の解明を期してゐる。全国における本問題研究者諸氏の御協力を切望してやまない。(一九五三、七、一〇、記) (( )内原文)


 ここでは、「新嘗」(最終的には大嘗祭)を研究することは「日本文化源流の研究」であるという方向性が示されており、その「源流」は「縄文式および弥生式文化」にまで遡るものと想定されている。その方向性は、『新嘗の研究 第一輯』から『新嘗の研究 第五輯』まで、アジア全域の文化人類学的および民俗学的論考を多数収録することで貫かれた。
  しかし、天皇であることの根拠を保証するニイナメ儀礼(その延長線上にある大嘗祭)を、三笠宮崇仁親王のように「日本文化源流」として追求しようとする姿勢は、現代の天皇氏族の人びとのあいだでは薄れつつあるようである。天皇存在の根拠を明示していない(隠している)現憲法下では、その根拠に触れると、宗教化を目指した国家神道や、非現実的な高天原神話が浮上してきて、現憲法の政教分離規定に違反する可能性が出てくる。おそらくは同じく政教分離違反の可能性を恐れて、大嘗祭は新皇室典範の条文から消されたのだろう。そこで、「日本文化源流」(三笠宮崇仁親王)の問題意識で大嘗祭(およびそれによって根拠づけられる天皇存在)を捉える知的探究心から遠い場合には、現代の天皇氏族の人びとのあいだに、天皇であることへの自信喪失現象が生じるのは当然であろう


●前回のこの欄(2024年6月26日)で、私は次のように述べました。

 象徴天皇制は、私の言葉でいえば「超一級の無形民俗文化財」ではあるが、皇位継承を、大日本帝国憲法(明治22年〔1889〕)第二条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」や、新皇室典範(昭和22年〔1947〕)第一条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」を変えないかぎり、いずれは多くの一般「無形民俗文化財」と同じく、消滅の道を進むことであろう。
 なお、天皇制が消滅すると日本国が滅ぶとまで言う人(自分たちが、実は天皇制消滅の道を頑固に推し進めていることに気づかない男系かつ男子継承絶対主義者に多い)もいるが、そんなことはない。もちろん、日本文化の、縄文・弥生時代以来のアニミズム系文化の超一級の象徴が失われることになるので、日本国の文化伝統にとっては大きな損失になるが、そのときはそのときで、天皇文化ではない新たな文化象徴が生み出されることであろう。


  “悠紀・主基両殿の屋根を板葺きにしてもかまわない”という認識が、宮内庁と皇族たちに一般的になれば、「日本文化の、縄文・弥生時代以来のアニミズム系文化の超一級の象徴」としての役割が失われることになりますので、天皇位継承の行き詰まりと相まって、象徴天皇制は、「いずれは多くの一般『無形民俗文化財』と同じく、消滅の道を進むこと」になるでしょう。

●次回の「女性王・女系王と男性王・男系王の共存が天皇文化の最も深い伝統4」では、日本共産党に対して、女性・女系天皇容認における“過去像からのアイデンティティー”の欠落の指摘や、そのほかいくつかの点での私の「提言」を書きます。(つづく)

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