あまりに今夜は暑いから。二人でそっと抜け出す。ベッドから、部屋から、そして街から。
陸の熱から逃げるように、ゆっくり歩いて海へと向かう。
浜辺の砂は、踏む瞬間足の下でさらりと溶ける。その一瞬に、初めて雲を踏んだ日のことを、思い出す。
無造作に、簡素な服のまま水に入る二人。揺らめく布地が、その揺らめく微かな振動が、鰭でもあるかのような錯覚を与える。
今宵は月明かりすらなく、あるのは星の光だけ。海面に二つの影が浮かぶと、やっと判別できる程度の幽かな灯り。
二つの影は、波に身を委ねて漂う。広大な水の揺りかごに揺られながら二人は、かつての故郷と、仲間たちを見上げる。
「イザヤール様」影の一つが呟く。「こうして水に揺られていたら、思い出しました。かつて、親友から聞いた話を」
「聞かせてくれ」もう一つの影が答える。
「昔、本当に遠い昔、神様は、気まぐれに一頭のクジラを作ったそうです。・・・ガラスの」
「ガラス?」
「はい。身体も、骨も、内臓も、全て、全くの透明なガラスで、できていたそうです。光の加減によって、ごくたまに見えることがあっても・・・ほとんど、見えなかったそうです」
「・・・ほう」
「でも。心臓だけは、青い、蒼い星のように、やわらかな光をゆらりと広げていたそうです。・・・そして、涙も、同じように青い涙だったと」
「・・・クジラは、何故泣いたのだ」
「この海に、世界に、自分と同じ種族がいないことを、時折悲しんで、泣いたそうです。涙も、ガラスの丸い粒となって、無数に海底に散らばっている・・・と」
それから二人は目を閉じて、海底に無数に散らばる涙を思った。揺られる背の遥か遥か下。水よりも透明なクジラが、心臓と同じ色の涙を溢す様も。
「・・・天使だった人間の涙は、ただの涙でした・・・」
影の一つがまたぽつりと呟く。もう一つの影は、そっと手を伸ばし、揺らめく小さな手を握りしめた。
ガラスのクジラには心臓以外色がない。夜の海ならば、闇の底ならば、その色も闇色となるだろう。闇色のまま、蒼い涙を振り撒き続けるのだろう。
遥か遥か下から、ガラスのクジラが、羨望の眼差しを、向けている。何故おまえたちは、同じ元天使と巡り逢えたのだと。
この背の下は、そのクジラが溶け込んでいる、無限に続く闇だ。おまえたちも、溶けてしまえ。この優しい冷たさに溶け込んで、ひとりぼっちの我が慰めとなれ。
背後から見えない手が伸ばされるように。知らない影が、いつまでも追いかけてくるように。毛布からはみ出る足を、引っ張る何かのように。
そんな具体性のない恐怖が、急に背筋を走った。
「イザヤール様・・・」
後の言葉はなかったが、握りしめた手は。・・・怖い。何か怖いの。そう語る。
「・・・帰ろうか」
影の片方は呟いて、仰向けに泳ぐのを止めると、もう一つの影を抱いて、一気に岸に向かって泳ぎ出した。
浅くなると、腕の中の華奢な体を抱えたまま岸までざぶざぶと歩き、波が届かないところまで来てから、振り返った。
逃げられた。今だけ海は、そう語っているようで。水から出た体は重かったが、今はその重さが、安堵を与えた。
「・・・帰ろうか」
もう一度同じ言葉を呟く彼に、彼女は頷く。
「・・・はい」
二人が立ち去った後の波打ち際には、青い蒼い、ガラスの粒が、一つ。〈了〉
陸の熱から逃げるように、ゆっくり歩いて海へと向かう。
浜辺の砂は、踏む瞬間足の下でさらりと溶ける。その一瞬に、初めて雲を踏んだ日のことを、思い出す。
無造作に、簡素な服のまま水に入る二人。揺らめく布地が、その揺らめく微かな振動が、鰭でもあるかのような錯覚を与える。
今宵は月明かりすらなく、あるのは星の光だけ。海面に二つの影が浮かぶと、やっと判別できる程度の幽かな灯り。
二つの影は、波に身を委ねて漂う。広大な水の揺りかごに揺られながら二人は、かつての故郷と、仲間たちを見上げる。
「イザヤール様」影の一つが呟く。「こうして水に揺られていたら、思い出しました。かつて、親友から聞いた話を」
「聞かせてくれ」もう一つの影が答える。
「昔、本当に遠い昔、神様は、気まぐれに一頭のクジラを作ったそうです。・・・ガラスの」
「ガラス?」
「はい。身体も、骨も、内臓も、全て、全くの透明なガラスで、できていたそうです。光の加減によって、ごくたまに見えることがあっても・・・ほとんど、見えなかったそうです」
「・・・ほう」
「でも。心臓だけは、青い、蒼い星のように、やわらかな光をゆらりと広げていたそうです。・・・そして、涙も、同じように青い涙だったと」
「・・・クジラは、何故泣いたのだ」
「この海に、世界に、自分と同じ種族がいないことを、時折悲しんで、泣いたそうです。涙も、ガラスの丸い粒となって、無数に海底に散らばっている・・・と」
それから二人は目を閉じて、海底に無数に散らばる涙を思った。揺られる背の遥か遥か下。水よりも透明なクジラが、心臓と同じ色の涙を溢す様も。
「・・・天使だった人間の涙は、ただの涙でした・・・」
影の一つがまたぽつりと呟く。もう一つの影は、そっと手を伸ばし、揺らめく小さな手を握りしめた。
ガラスのクジラには心臓以外色がない。夜の海ならば、闇の底ならば、その色も闇色となるだろう。闇色のまま、蒼い涙を振り撒き続けるのだろう。
遥か遥か下から、ガラスのクジラが、羨望の眼差しを、向けている。何故おまえたちは、同じ元天使と巡り逢えたのだと。
この背の下は、そのクジラが溶け込んでいる、無限に続く闇だ。おまえたちも、溶けてしまえ。この優しい冷たさに溶け込んで、ひとりぼっちの我が慰めとなれ。
背後から見えない手が伸ばされるように。知らない影が、いつまでも追いかけてくるように。毛布からはみ出る足を、引っ張る何かのように。
そんな具体性のない恐怖が、急に背筋を走った。
「イザヤール様・・・」
後の言葉はなかったが、握りしめた手は。・・・怖い。何か怖いの。そう語る。
「・・・帰ろうか」
影の片方は呟いて、仰向けに泳ぐのを止めると、もう一つの影を抱いて、一気に岸に向かって泳ぎ出した。
浅くなると、腕の中の華奢な体を抱えたまま岸までざぶざぶと歩き、波が届かないところまで来てから、振り返った。
逃げられた。今だけ海は、そう語っているようで。水から出た体は重かったが、今はその重さが、安堵を与えた。
「・・・帰ろうか」
もう一度同じ言葉を呟く彼に、彼女は頷く。
「・・・はい」
二人が立ち去った後の波打ち際には、青い蒼い、ガラスの粒が、一つ。〈了〉
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