須貝英の『イングリッシュ商店』

箱庭円舞曲の俳優・須貝英が、徒然なるままに綴ります。

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幸せ。

2010年07月18日 | 今日の一人
どうも、須貝です。


今幸せかと聞かれたら間髪入れずに幸せですと答えるでしょう。

しかし自分とは違う形の幸せに目を奪われて、自分の幸せを幸せと思えないかもしれない。例えば恋人と共に過ごす幸せ。家庭を持つ幸せ。両親に孝行する幸せ。

僕にとってはそれらの方が分かりやすいんだけど、その幸せが日々遠ざかって行く気がします。

僕が夢に向かえば向かうほど、僕は自分を愛せなくなっていくんじゃないか。

もう諦めたと笑うことも泣くことも出来ず、ただ目の前を通り過ぎていくのを見送っているような。


僕は僕の愛情の薄さで結構得してると思います。おかげで他人の痛みを感じることもないですし。しかし愛情が薄いせいで同じくらい苦しんでいます。結局人を愛せなきゃ愛してはもらえないんだろうなぁと思います。残酷なことに、人を愛せなくても役者はやっていけるらしいです。


自分の本心と感覚(快とか不快とかいったものに近い)が擦れ違っている。大事にしたい気持ちが勝り過ぎて、自分の愛の薄さが腹立たしくなる。足りない、足りない、足りない。なぜもっと愛せないんだ、大事に出来ないんだ、興味を抱けないんだ、突っ込んでいけないんだ、それじゃあ愛がないと思われても仕方がないし、実際そのレベルを「愛」とは呼ばないのだと、誰かに言われている気がする。


僕は僕なりに幸せなのだと、僕は僕なりに愛しているのだと、僕は僕なりにあなたのことが好きなのだと、言えば言うほど虚しくなります。

しかし伝えなければこの気持ちは遥か素早く遠ざかり、化石のように意味を成さない何物かになって、常に目の端にぶら下がり続けてしまいます。伝えたいと思った時に多分もうその人はそこにはいないんだろうと思います。

しかし伝わらないと叶わないと分かっていることを伝えることに何の意味があるんだ?いやぁ、無駄っしょ。伝える自信がなければ伝わらないと、役者をやっていて思うようになりました。じゃあ伝わらないんだろうな、これ。


今幸せかと聞かれたら間髪入れずに幸せですと答えるでしょう。しかし不幸かと聞かれても間髪入れずに不幸ですと答えそうで怖い。「不幸です」なんてほざく自分は許せません。


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